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仮に、現在出版されている児童文学の本をアトランダムに百冊選んで外国語に翻訳し、その国の読者に選んでもらったとしたら、日本の子どもたちはことごとく都会で生活していると思うのではないだろうか。ことほどさように、作品の舞台は都市およびその近郊に集中している。日本の社会全体の都市化という現象は確かにあるとはいえ、「田舎」が登場するのはたいていの場合、夏休みや冬休みに都市の子どもが祖父母を訪ねてというパターンに限られて、農村の子どもが主役としてはめったに登場しない。今は農村の子どもたちの方がかえって外遊びをしないという調査もあるし、「自然の中でたくましく」などというイメージを押しつけられるのは迷惑だろうが、やはり農村ならではの舞台設定というのはもっと書かれてほしいし、今回はそうした舞台の中で生きる等身大の子どもたちの姿が描かれている作品を紹介したい。 『コアラが来た日』近藤伯雄・作、田中皓也・絵(けやき書房、一六○○円) この作品は、今から十数年前にコアラがオーストラリアから初めてやってきた時のことにもとづいている。最初のコアラの受け入れ先は三つの動物園で、その一つが鹿児島の平川動物公園だった。というわけで、作品の舞台は鹿児島、主人公は農家の長男である四年生の強一である。強一の家では農協からの働きかけで、コアラが食べるユーカリを栽培することになる。とはいえ、そのユーカリをコアラが食べるかどうかは、できてみなければわからないという、多分にかけというかボランティア的な仕事である。ところが父親が交通事故で長期入院という事態になり、ユーカリ畑を世話できる人がいなくなる。ということで、強一が周囲の人たちの支えや励ましの中で、なんとかユーカリを育てるのだが、周囲の人物配置も巧みで、そうした展開が無理なく進行していく。米や野菜というのでは、今の子ども読者に農家というものの存在感がなかなか伝わりにくいと思うが、その点でこの作品は格好の素材に注目したといえるだろう。 『尺アマゴを釣りあげろ』守屋一利・作、佐野真隆・絵(学研、一二○○円) こちらの作品の舞台は農村というより山村、全校で五人の小学校で、主人公の一(はじめ)はただ一人の六年生である。彼は釣りのことしか頭にない典型的釣り少年なのだが、他の子たちは釣りはせず、一にしても母親からは「釣りよりも勉強」とやかましく言われるなど、釣り少年の居心地も無条件にいいものでない様子もしっかりと描かれている。 一はもっぱら川魚のアマゴを狙うが、これまでの最高記録が体長二十五センチで、一尺にはあと一歩、小学校最後の夏休みになんとしても「尺アマゴ」を釣ることを目標にしている。一の師匠であり、渓流監視員でもある久じいの口を通して、昨今の「釣りブーム」の陰で、川や魚が被害を受けている状況も語られており、釣りそのものへの興味とは別に、一の像は現代に生きる一人の小学生の姿として読者の共感を誘うだろう。 (ふじた・のぼる=児童文学評論家)(東京新聞1998.12.27) テキストファイル化山地寿恵 |
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