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絵本をあえて二つに大別すると、「ストーリー絵本」と「イメージ絵本」ということになるだろうか。ただ、最近はストーリー絵本にしても、文章はなるべく省略して、絵や場面の展開で「見せる」タイプの絵本が多くなってきている。そして、そうした表現こそが絵本というジャンルのオリジナリティーを高める道だとする考え方が主流になっているように思える。それは確かに絵本の一つの「進化」の方向ではあろうが、半面、物語の魅力をじっくりと味わえる絵本が少なくなっているのではないか。絵本における絵の役割が「従」なのかといえば決してそうではなくて、読者は、いわば絵と対話しながら、物語のイメージをふくらませていくのだ。だから、こうした絵本は、画家にとっては自らの技量を試されるこわい仕事と言えるかもしれない。まして、物語が古典的な作品であればなおさら。今回は、日本と外国のそうした絵本を二つ並べてみた。 『狐』 新美南吉・作、長野ヒデ子・絵 (偕成社、一六〇〇円) 新美南吉の「狐」の初めての絵本化である。ただし、この作品は同作者の「ごんぎつね」や「手ぶくろを買いに」のようなメルヘン的な作品ではなく、むしろ小説的な味わいの作品であり、それだけにこの世界をどう絵にするかは難しいと言わなければならない。 祭りの夜、村の子どもたちが町を目指している。その中に文六に下駄(げた)を買ってやるよう大きい子たちは言いつかっている。ところが町の下駄屋で、居合わせたおばあさんが「晩に下駄をおろすと狐がつくぞ」と言う。帰りの夜道、子どもたちは文六の様子をうかがい、だれも話しかけない。物語は、本当に狐になったらどうしようと心配する文六に語りかける母との会話で結ばれる。 長野の絵は、まずはこの物語の舞台装置を見事に描いて読者をひきつける。そして、柔らかな影と光の中で少年たちの心の動きを追い、読者とこの物語の感情を共有しようとしているようだ。 なお、愛知県半田市の新美南吉記念館では、七月からこの絵本の原画展を開く。 『鼻のこびと』 ヴィルヘルム=ハウフ・作、リスベート=ツヴェルガー・絵、池内紀・訳 (太平社、二四〇〇円) こちらはドイツのハウフ童話の絵本化で、「こびとのハナスケ」などのタイトルでご記憶の方もいるかもしれない。魔法使いに連れ去られ、鼻の長いこびとに姿を変えられて七年間働かされた少年が、最後には立派な若者として両親のもとに帰るこの物語は、あしき魔法に対する勝利の物語と片付けるには含意が豊かすぎる。僕にはこの物語は、魔法の世界と現実世界の近しさ、そしてその裏腹の二つの世界のあまりの隔絶、といったことがテーマのように読めた。 人は時に、ほんのちょっとしたふるまいや言葉で一線を踏み越えてしまうことの怖さ、不条理とでも言うか。しかし、この印象は物語からというより、割合オーソドックスなタッチでいながら、その構図や全体的な印象においてシュールな感じのする絵から主に受けたものかもしれない。 いずれにせよ、昨今の児童文学作品ではなかなか味わえない「毒」を備えた絵本である。 (ふじた・のぼる=児童文学評論家) (東京新聞1999・06・27) テキストファイル化日巻尚子 |
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