八月 日
那須正幹から手紙。広島セミナーのぼくの発言に対する反論だった。彼はいう。「結論から言いますと、作者自身どこまでわかって書いているかは不明ですが、あの記述だけをとりあげて、まちがいだと、はいえない、ということです」。
彼はまずぼくの発言を次の二点に整理する。
一、被爆による障害の内、“皮膚がずる剥け”になるのは熱線によるもので、放射能によるものではない。
二、頭ハツの脱毛は、“いっしゅんに抜け落ちたのでてはない”。
そして、これに対して反論していく。これはみごとな反論であった。びんせん14枚に及ぶこの反論の要点を整理することはむずかしいが、なんとかやってみよう。
ただその前に那須整理によると、ぼくの論旨の第一点は「“皮膚がずる剥け”になるのは熱線による」となっている。ここのところ、ぼくは前に書いたように皮膚剥離は熱線、そして爆風としゃべったつもりでいたので、「熱線と爆風」に訂正しておきたい(あとで細谷建治にたしかめてみると、ぼくは熱線だけではなく「熱線と爆風」といったという)。
那須反論の要点は次の三つになる。
一、熱線・爆風・放射線による人体障害の分類はかなりむつかしい。表皮がむけてたれさがった人の場合、熱線のみに起因するのではなく、熱傷部分に吹きつけた爆風によるものもある。また放射線による瞬間的細胞内の水に対する作用がヤケドという表面上の症状にどのような影響を与えたかは、現在でも究明不可能。被爆障害は混合障害であり、これは熱線、これは爆風というように分類できない。
この第一点についてのぼくの考え。この指摘の前半については、ぼくは表皮剥離は熱線と爆風によるといっているので、那須説と大きな差はなかろう。木下連三・小夜子の絵本『ピカドン』(KKダイナミックセラーズ)はこの剥離現象をみごとにとらえた絵本だと思う。
後半の“放射線の細胞内の水に対する瞬間的作用とヤケドの関連”は、ぼくの勉強不足である。全般的には、表皮剥離現象を熱線と爆風の綜合作用と強調したぼくは、放射線がなんらかの作用を及ぼしているだろうことに考え及ばなかった。那須はそれを指摘している。
この第一点を原爆による人体障害の総論とするなら、次の二点は『太陽の子』の叙述についての各論と考えられる。
二、『太陽の子』のどこにも、「この写真は被爆直後の診療風景をうつしたものだ」とは書いていない。仮にこの写真が被爆後1〜2週めのものだとしたら、ケガやヤケド(被爆直後の第一次損傷)が、放射能により化膿したり、壊死して、第一次損傷をうわまわる傷、すなわち“皮膚がずる剥け”の状態になるケースもあったのではないか。すると、『太陽の子』の「放射能で皮膚がずる剥け……」という説もあながちあやまりではない。
三、脱毛について。脱毛現象は被爆後、1・2週間後突然はじまり、それから1・2週間のうちにすっかり抜け落ちる。この1・2週間のうちにまるぼうずになった状態を、三十数年たった時点で、梶山先生が「いっしゅんにして」と形容しても、あながちあやまりとはいえないのではないか。これも、この写真が被爆直後(8月6日〜9日くらいまで)なのか、1・2週間たっているのかが重要なカギになる。
この第二・第三の論点はいささか苦しいのではないか、と思う。第二点の第一次損傷がさらに化膿・壊死していく場合があることはその通りだ、と思う。しかし、それに「放射能で皮膚がずる剥け……」という表現になるものではなかろう。第三点では三十数年たったにせよ、ある時間経過をともなう脱毛現象をいっしゅんにしてというのは、やはりむりなのではないか、と思う。
問題は第一点にある。ぼくは原爆がひきおこした災害は熱線・爆風・放射能の複合作用によるものと考え、『太陽の子』が「放射能」といってしまうこと及び当時の人体障害の把握はまちがっている、といった。そのぼくの発言が熱線・爆風・放射能の複合作用を分離しすぎる印象を与えた点、またその基礎にある勉強不足については反省する。
しかし、それはぼくの問題であり、『太陽の子』の原爆叙述とは関係のないことである。だから、ぼくはぼくの発言をひっこめるつもりはないのだが、那須反論のみごとさはそのあとにあった。那須はしるす。
ここまで書いて、小生自身、なんとなく裁判所の弁護士になっているような気分になりました。実のところ、小生も『太陽の子』のあの部分が、原爆をするどく描いているとは少しも思っていません。ただ古田氏のように「あれはまちがっている」とは、言えない、と、考えているだけです。弁護士的言い方をすれば証拠不充分により、犯罪成立不可能といったところでしょうか。
それにしても、なぜ古田氏が検事席につき、小生が弁護側にまわらなくてはならないのか、少々興味ないこともないですね。
ここまで読んで、ぼくはおもわずびんせんを持つ手をおいた。周防大島で細谷建治のことばを聞いた時、ぼくははっとしたが、それがさらに深くなった。那須のことばはやわらかいが、するどいものを包んでいる。そうか、ぼくは“検事”だったのか、やはり壇の上からものをいったのか、“検事”的ひびきが強かったのか。
『太陽の子』原爆叙述の問題はいわばぼくの怒りといらだちに発した。原爆の炸裂以来35年たって、なおまだ原爆についての科学的認識とでもいうものはぼくたちみんなのものとなっていない。ことにぼくたち物書きの多くは、科学的なものに弱い。思えば子どもを対象とした科学読物も数多い中で、原爆災害をきちんと語った読物がいくつあるのだろうか。そして、灰谷健次郎でさえもが、という思いがある。
しかし、ふりかえればこの件について以前、灰谷と理論社編集部に電話した時、ぼくもこんどの広島発言ほどの自信を持っていなかった。五十歩・百歩の差でしかなかった。
そうか、いらだちのもう一つはぼく自身に対するいらだちだったのか。今までの科学的研究の成果を原爆を書く児童文学の筆者たちは生かしていないとぼくは判断するが、そのぼくにはまだなお解明されていない部分と、おそらく解明不可能なものへの畏れがなかったのだ。
ぼくは沖井千代子『歌よ川をわたれ』(講談社)について、川は広島の川のみならず死者のわたる川であることの重層化ができていないこと(この作品は川にまともにぶつかったよさを持っているのだが、作者は川の意味をどこまで認識していただろうか)と、その死者の鎮魂のためには渡ってふたたび帰ってこなければならぬ死と再生の原理が欠けていることを、こんどしゃべったが、では、ぼく自身はどうなのだろうか、と思う。那須はさらにいう。
ま、それはさしおいて『太陽の子』の記述を再読したとき、一ばんひっかかったのは“皮膚がずる剥けになった人”という描写です。
(中略)そうした体験が知らず知らずの内に“皮膚がずる剥け”という言葉から、被爆直後、大やけどをおって体皮をたれさがらせた、あの人たちの光景だけを想起させられるようになってしまいました。しかし、実のところ“皮膚がずる剥けになった人”という言葉の中には、火傷とか擦傷とかあるいは化膿傷といった原因を示す言葉が含まれていないのです。
そういえば、一時ケロイドといえば被爆火傷あとの専売特許みたいに使用されていたときがありましたが、今回の問題も、そうした言葉のイメージに起因しているような気がします。そして、イメージの固定こそ、危険なんじゃないか、と考えるわけです。
広島の画家・詩人である四国五郎のことばを彼が描いた絵――青いネギの筒の中で蛍が何匹も光る、蛍を入れているゆかたの姉とそれを見ているランニング姿の弟の絵とともに思い出す。
人間が考えることのできるむごたらしさを、はるかに超えるむごたらしい姿で死んでいったひろしまの子を、むごたらしく描かなかったと非難しないでほしい。悲しみや怒りを、筆にふくませた水で薄めてしまったと私をなじらないでほしい。あなたがもし被爆体験者で、自分の可愛い子どもを原爆で失ったお方だったら、このことをわかってもらえるに違いない。あなたが、被爆体験のないしあわせなお方だったら、ほんの隙間でよいから、炸裂する核兵器の下に、あなたの愛する人を立たせてみて下さい。(深川宗俊・四国五郎 詩画集『ひろしまの子
――愛のうた――』春陽出版社
八月 日
日本子どもの本研究会の夏季児童文化大学で、信州別所温泉へ。腰痛あいかわらず。汽車がこたえる。
ぼくがしゃべるのは幼年文学について。6・70年代の幼年文学中、散文によって欠かれた物語、一般に幼年童話といわれるものについて、話すことにする。60年代のおもな作品には、たとえば『ながいながいペンギンの話』(理論社)が好奇心いっぱいのルルをつくり出したように、“幼児の発見”とでもいうものがあった。ところが、「商品の時代」をむかえ、70年代にはいって大量生産されるようになった幼年童話の多くは、個人の小さい消費的欲望の充足を書くようになってしまった。
作品の流れでいうと、70年の山下明生『かいぞくオネション』(偕成社)、神沢利子『はらぺこおなべ』(あかね書房)は60年代の“子どもの発見”に対して、別の方向を提出したのではないか。大まかすぎるいい方だが、子ども・おとなに共通の人間の原理とでもいうか、それが出てくる。これは60年代でも今西祐行、今江祥智の幼年童話にあったもので、60年代には“幼児の発見”の流れとともにもう一つ、この今西・今江的流れを見なければならないだろう。そして、そこには「童話」作家的な資質の問題がある。また人間の原理という点では“根原志向”といったものとどこかでかかわっているのか、いないのか。
一方、“幼児の発見”は70年代ではほとんど姿を消した。もっともぼく自身の『ダンプえんちょうやっつけた』(童心社)はそれをめざしたものである。ただ出版洪水の中での見落しがあるだろうから、これはもっときちんと見なければならないが。さらにまた二つの流れは当然交差するもので、『かいぞくオネション』を簡単に“原理”とだけいってしまったらまちがいだ。
姿を消した“幼児の発見”は70年代は年令があがって、低・中学年の子どもの発見に移行しようとしたのではないか。これは絵本の大量生産と、文字が読めるようになった子には字の大きい、四百字詰原稿用紙せいぜい十数枚の本(『はらぺこおなべ』のシリーズにはじまるところの)という出版システムの定着と関係がある。『ながいながいペンギンの話』や『いやいやえん』(福音館書店)のような本づくりは、ほとんど見あたらなくなったのだ。
低・中学年の“子どもの発見”は宮川ひろに代表されるだろ。しかし、60年代の“幼児の発見”ほどの成果はあがらなかったのではないか。そして、70年代の幼年童話の代表はやはり山下明生なのだろう。
他に考えなければならない問題点いくつか。
一、目につくほどの大きな変化ではなかったが、70年の『かいぞくオネション』『はらぺこおなべ』の方向が、どうしてその後他に波及しなかったのか。それがあれば70年代後半の幼年童話のレベルはあがっていた。
二、それを出版システムのせいにだけはできない。システムに呑みこまれる書き手・編集者の姿勢の問題。しかし、書き手も編集者も手を抜いたわけではなく、主観的には誠実。(これは戦争児童文学にも通じる)。思いの弱さと、社会を見る目の衰弱。
三、70年代の幼年童話は「童話」的資質の書き手によってのみ、支えられてきたとさえ見える。高学年以上とちがって幼年童話の方法は万人のものとなっていない。
四、70年代、オネションをのぞいて、個性的な幼児像は誰のどの作品にあったのかの検討。
五、幼年童話の内容の中心となるのは何なのか。
八月 日
結局、この夏期大学の話は民話再話批判、幼年童話批判となる。あとで増村王子がいった。「67年は日本子どもの本研究会の発足の年でもありました」。そう、善意の読書運動の発展と「商品の時代」は重なりあっている。
帰りの汽車の中、ぼくが最近挑戦的になっていることを思う。挑戦は必要だが、検事になってはならぬ。
八月 日
また汽車に乗って仙台へ。「子どもの文化研究所」の仙台セミナーの講演。テーマは見てびっくりしたが、「80年代の子どもと児童文学」となっている。
当然、子どもの状況もしゃべることになった。70年代後半、あちこちで本の中に逃げこむ子の話が出てくるようになった。この問題は慎重に考えなければならない点がある。子どもはつねに集団にとけこまなければならない、それからはずれた子は問題児というのは画一的にすぎる。本の小部屋にとじこもっていたファージョンの例もある。他の現象(例・登校拒否症)と関連づけて考えると、現在の社会のありようと文化の衰弱がこの現象を惹きおこしている。一足跳びだが地域・家庭の文化の衰弱は、基本的な生活様式さえ身につけていない子どもを出現させた。
上田融がいうように(『子どもの文化』76年8月号)小波以来の運動によってすぐれた児童文学作品は出てくるようになったが、子どもの生活の崩れる時、子どもの受けとめる力は弱くなる。松岡享子は正木健雄のいう背筋力低下その他による子どもの体力からそれを論じた(『図書』79年8月号)。つまり幼年童話がひよわなものになっていく、その原因の一半はここにある。一般的には70年代前半の子どもたちは歯ごたえのある本を好んでいた。それが急速に降下していく。
読書運動の問題点の一つがここにある。戦前もそうだが、戦後も60年代は読書が子どもの人格形成に一つの役割をはたしていた。人格というのは態度や、認識のあり方を含んでのことである。そして、それは少数の子どものものであった。それをみんなのものにしようとして読書運動がはじまった時、同時に子どもの本の出版は「商品の時代」に突入する。商品化が進行する中で、子どもの生活そのものに文庫の関係者たちのある部分は目をむけていき、遊びや、おもちゃの手づくりやキャンプ、ビクニックを文庫活動の中に取り入れた。
しかし、また他の関係者たちの中には読書が生活を変えるという思い込み(だけではないが)をすて切れない人もいた。よっぽど深い、または浅くても子どもを遊びにさそったり、人間・社会を考えるきっかけを提供する作品でなければもう読書は生活に作用しないのに、そうした作品でなくても子どもに歓迎されるものをよしとする傾向があった。にがい思いでぼくはこれを書く。
さらにまた、読書運動関係者の中には不特定多数を読者とする作品の文学性と、特定少数を読者とする作品を区別しない傾きもあった。読書運動も自分を見直さなければならない時期に来ている。いや、運動というのは先取りしなければならないのに、逆におくれていはしないか。
もう一つ、この仙台のセミナーの分科会では、体とわざについての分科会が多かった。体力とわざを自分のものにしていく過程と、社会についての認識を獲得していく過程とは、どこでどう結びあうのか、わざならわざだけでいった場合、乱暴にいえば戦前の子どもとかわりないものになる。民話もそうなのだが、手づくりのオモチャをつくり、野山で遊んだ子が、戦争についての認識は持ちあわせていなかった。あちこちでいってきたことだが、わざならわざだけを基準にして、昔の子ども、今の子どもと単純比較してしまうと、昔はよかった式になりかねない。この単純な受け止め方はもう今の大学生の中におこっている。
九月 日
山口女子大学集中講義1週間。科目は「児童文化概論」。参考資料として、河合隼雄、原ひろ子、祖父江孝男、波多野完治、戸塚廉、菅忠道、色川大吉、上田融、本田和子等の著書の一部をコピーして羽田へ。
「児童文化」とは何か、が山口女子大へ行って以来、ぼくの問題の一つになっている。今までの学生用「児童文化」テキストではもう処理しきれない。それらのテキストで限定された「児童文化」は子どもの生活のほんの一部分を形づくっているにすぎない。いや、テレビという巨大な存在があるが、これはまた子ども番組の域をはるかに超えたひろがりで、子どもに影響を及ぼしている。子どもがどのようにして文化(教養とか、芸術的なものという意味ではなく、生活様式とでもいうもの)を内面化し、また外部のそれを認識していくのか、という大きなわく組の中に、限定された「児童文化」はどう位置づくのか、ということがまだなおわからない。去年からことしにかけて1年間雑誌に連載して、もののみごとに失敗した。この集中講義でどこまでやれるか。
九月 日
集中講義、意外にうまくいった感じ。しかし、この「子どもと文化」「児童文化」について話しあえる仲間が少ない。児童文学論にはぼくなりの積み重ねがあるが、児童文化論にはそれがないので、ぼくの考えの位置がわからない。というより、ぼくの考えがまだ体系化できていないので、なかなか他人に伝えにくい。まだ不定形のものを話しあえる、児童文学でいえば同人誌の仲間がほしいところだ。
九月 日
のばしのばしにしていた『新美南吉全集』(大日本図書)月報の執筆準備で南吉の作品、南吉研究のおもなものを読み直しにかかる。
佐藤通雅の『新美南吉論』(アリス館)にふたたび感動、ちょうど10年前1970年の発行だが、やはりひたひたと迫ってくる。またこの全集の厖大な注、異同表にあきれ、感心する。二つに共通なのはあるものに偏執するいわば狂気には頭が下がる。
佐藤『新美南吉論』と浜野卓也『新美南吉の世界』(新評論)に以前ちらっと感じた疑問が、ふたたび浮かびあがってくる。それは子ども理解ということだ。南吉の「久助君の話」の中に、久助君が兵太郎君と取っ組みあいをやって、しいんとなった時、久助君の耳に荷車の音がきこえてくる、そして立ちあがった兵太郎が一瞬久助君にはまるきり知らない人間に見える、というところがある。
これについて、佐藤は「この全体がネガフィルムのように無彩色で、不気味な静寂をたたえている」と述べたあと、次のようにいう。
なぜこうなったかといえば、久助君が周囲に対してすっかり醒めきっており、自分をも含めた一つ一つの動作を、あたかも“物”でも観察するかのように追っているからだ。少年らしいあたたかみは、いっさい感じられない。それどころか異様なほど老人じみた少年がさえざえと横たわっている。今や久助君は、外界とのつながりをすべて断ち切られ、いかんともしがたいほどさびしい地点(私はこれを寂寥層と名づける。)に落ち込んでしまっている。このさびしさも(中略)、やはり自分の内面でとらえる以外ないのだ。
この「寂寥層」という把握はすばらしい。佐藤はこう名づけることによって、ぼくならぼくが漠然と感じていたものをあきらかにし、取り出してみせたのである。そして、ぼくが漠然と感じていたものとは、ぼくにも久助君と共通の、あるいは相似の体験がある、ということである。無彩色の静まりかえった世界の中でのいいようもない孤立感、これをぼくも少年の時に体験した覚えがある。それはおそらく二十すぎまで続き、その後には消える。
だから、「少年らしいあたたかみは、いっさい感じられない」、「それどころか異様なほど老人じみた少年」という佐藤の発言を、ぼくは違うと思う。むしろ“少年だからこそ”と感じてしまう。同様、浜野卓也が南吉の「生活童話」の特徴の一つとしてあげる「一見、こどもの日常性に取材しながら虚構性が強く、またクライマックスでの主人公の心理描写はおとなのそれに近い」にも首をかしげる。
以前感じたこの疑問(今しるしたほどはっきりしたものではないが)を追ってみることにする。
十月 日
あいかわらずの難行。ぼくの持っている資料がかぎられているせいもあるだろうが、南吉の「生活童話」を論じた評論・研究は少ないようだ。作品としても彼の民話的メルヘンの方がすぐれているせいか。しかし、一方では子どもをどうとらえるかを論じることの少ない児童文学評論・研究のあり方の問題かもしれない。多くの児童文学論は現在はまだ大人の文学論とおなじ方法によっている。
波多野完治の『児童心理と児童文学』(金子書房)を書庫でさがし、10年ぐらい前に誰かに貸したままのことを思い出す。南吉のほか、小林純一、平塚武二について波多野は書いていた。『日本児童文学』別冊の「新美南吉童話の世界」の研究文献目録によると、初出は「最近の新人童話作家」で『文学』昭和19年2月号。アルバイトを頼んで近代文学館と国会図書館に行ってもらう。ともになし。
鳥越信のところへ行けばあるだろう。いや、先日彼の資料の一部は大阪児童文学館へ送り出した。その大阪児童文学館を“育てる会”をつくることで、山口から帰って以来、ぼくの時間のある部分もそれに投入しているが、大体事務的能力のないぼくのところへの仕事の集中はかえって進行をおくらせていはしないか。ま、できた時、関西の研究者、評論家には非常に便利になる。早く全国的サービスを、願う。
ところで、心理学は久助君やぼくの体験をどうとらえるのだろうか。もっともぼくの体験はもはやおぼろげなのだが、ぼくの想定では久助君のいわば寂寥体験はもっと一般的なものであるはずだ。といっても、それは多分生理的なもの(たとえば血圧)にも根を下ろしているようで(ぼくの体験から)、その点ではかならずしも一般化はできない。しかし、それに近い体験まで含めると一般性を持つのではないか。それは心理・生理の複合へ強烈な文化的刺激が与えられる時、おこる――。
山口へ電話。むこうで知り合った若い心理研究者にきいてみる。ぼくの中で幼年期と十才以上との混同があったことがわかる。ただ作品の現物を示さずいきなり聞くのだからむりな話だ。
ふと児童文学の学際的研究ということを思ってしまう。波多野には坪田譲治論もあったが、彼の児童文学への発言も戦中から戦後初期までで以後はなくなる。そのあとには乾孝をのぞいては心理学者たちはほとんど児童文学については発言していないのではないか。この近年、深層心理からの河合隼雄の発言が出てはきたが、もっと多くの発言がほしいし、さらに進んで共同の研究もできないものか。心理学者だけにとどまらずに、だ。
その点では戦中・戦後初期、雑誌『新児童文化』がたとえ数冊にせよ発行されたのは、象徴的なことかもしれない。児童文学評論の歴史はまだあらすじさえもあきらかにされていないが、その誕生の有力な原泉の一つには1930年代の児童文化運動があり、それが『新児童文化』に顕現したのではなかろうか。そして、その後、純化・専門化の道をたどって今日に至るが、今また他分野からの協力が必要となっている。
またそのことと直接のかかわりはないが、戦前の児童文学評論を集めた資料集もほしいものだ。
テキストファイル化古賀ひろ子