12月 日
 ぼくは子どものそれぞれの発達段階に根ざした児童文学、それもことに小学生以下のところだが、そうした児童文学の出現を願い、また書き手が自覚的にそうした作品を生み出すことが必要だ、と思っている。それはある発達段階の子どもを主要な読者とする児童文学、という面を持つ。
 現在の児童文学の多くはそれであり、そうしたあり方が今日の堕落を招いたのではないか、という意見も当然出るだろう。しかし、ぼくはやはり子どもにむかって自分を表現することが児童文学の中心なのだ、と思っている。
 少年時代、『トム・ソーヤーの冒険』を読んだ時、トムたちのジャクソン島の家出のところで、ぼくは足の裏に焼けつく砂を感じ、目の前に緑の林を見、朝飯のうまさがのどを通っていくのを感じた。坪田譲治『魔法』に目のくるめくような変幻を感じ、佐藤紅緑の演説に心臓が高く鳴った。ぼくはこれらの感動は、ぼくが子どもだったからこそ強烈だったのだと考えている。児童文学(その中心部分)とはやはりこういうものだ、と思う。
 大人と子どもとの児童文学の共有はふつう何歳以上と表現される。しかし、この下限の年齢の持つ意味はほとんど語られなかった。じつはその下限の年齢こそ、その作品をもっとも強く受け取る年代なのではなかろうか。幼年だからこそもっとも生き生きとその作品世界に生きる−読むことのできる作品が幼年の文学なのである。それは結果として幼年を始期とする文学ともなる。(もっともメルヘンといわれるものは、今いったいわば下ぶくらみの受け取り方とはちがって、最初からオールエイジのものになっている場合が多いのではなかろうか。)
 ぼくは読者がその発達段階の可能性を十分に生きる、とでもいう文学を主張しているわけで、ある発達段階対象の作品は数多くあっても、その多くはそのようにはなっていない。その最大原因は書き手の内的要求とあまりかかわらないところで書いているからではないか。
 ぼくはそこで書き手自身がたどってきた“発達段階に根ざす”ことを考えたいのである。「根ざす」ことは、先にしるした「自分の内にある幼児・幼年を堀りおこしていく」ことと同じ意味であり、外がわの子どもを媒介にして自分の内の原風景に降りていって、その意味をさぐることである。あるいは逆に原風景を手がかりに今の子どもを知ろうとすることである。たとえばぼくたちの「原っぱ体験」はどういう意味を持っていたのか。原っぱの夕暮どきのさびしさや、原っぱにつくった自分の「巣」のやすらぎはどういう意味を持ち、今の子にとってはそれはどうなっているのか、そうたずね返す時、“発達段階に根ざす”ことは内的要求に転化しているのではないか。念のためだが、これは体験を語ることではなく、体験の意味をさぐることである。『だれも知らない小さな国』(講談社)はそうした作品であった。
 さらに一つつけ加えておこう。現代日本の幼児・幼年の文学の歩みをふりかえってみると、60年代には幼い子の発見と、幼い子がたのしむ物語の方法の発見があった。この幼い子の発見にはいわば心理学的傾斜がありはしなかったか。『いやいやん』中の「くじらつり」はその代表である。それはぼくの『ロボットカミイ』(福音館書店)にも及んでいるが、それでもその歩みの中で幼い子の持つ一般的性格とでもいうものはすこしずつあきらかになった。
 一方、67年の斎藤隆介復活以降、大人・子どもを問わず人間に共通のものをさぐる、という方向が児童文学全体の中に生まれ、幼児・幼年の文学にもそれはあらわれてくる。ぼく自身の作品を引きあいに出すと、田畑精一との共著『おしいれのぼうけん』が人間の共通の深層意識に根の一つをおろそうとしたものであったことの意味に、今さらのように気づくのである。
 このあらっぽいスケッチを参考にしてのことだが、今後ぼくが発達段階に根ざした幼児・幼年の文学を書こうとした際、この二つの遺産−幼い子の成長発達の一般的性格と、人間に共通のものの探求を踏まえることになるだろう。そして、このことは幼児・幼年の文学にかぎらず、発達段階に根ざす児童文学一般に、その中でもことに子どもを主人公とする作品については、遺産の有無は別にして、通じることである。
 幼児・幼年の文学にかぎっていえば、60年代にあった心理学的傾斜をともなう幼い子の一般的性格は、生活全体の中でとらえ直さなければなるまい。そして、原風景をとらえる作業は時には遠まわりも必要とする。神沢利子『いないいないばあや』はそうした作品であり、ここにはみごとに幼児の原不安とでもいうものがとらえられている。
 遺産といえば60年代の小学生を書いた作品からはじまって、長崎源之助『向こう横丁のおいなりさん』(偕成社)、後藤竜二『歌はみんなでうたう歌』(新日本出版社)、『ぼくらは海へ』に至る那須正幹の諸作、さらに宮川ひろ、木暮正夫、皿海達哉たちが開拓してきたもの、吉本直志郎『青葉学園物語』シリーズ(ポプラ社)等について検討しなければならないのだが、これらはここではすべて略ということになる。
 ただ発達段階という面からもぼくは『太陽の子』のふうちゃんに関心を持っている。ふうちゃんは小学校6年生、知的好奇心が姿を現わしてくる時期の子どもとして設定されている。ふうちゃんは沖縄を知るという一点において、その発達段階の可能性のぎりぎりまで生きる。『太陽の子』の一般的読者層はもっと年齢が高いか、発達段階を十分に生きる子どもの姿がここで示されようとしたのであった。

12月 日
 自民党の機関紙『自由新報』がこの春『いま教科書は』というキャンペーンをやった。そのコピーを「教科書検定訴訟を支援する全国連絡会」が送ってきて、反論があったら書くようにという。
 一読あきれて吹き出し、再読怒りを覚え、三読危険を感じた。今西裕行「一つの花」について『いま教科書は』は次のようにいう。

   これは日教組などによって、平和教材の代表作とされているようだ。が、これを読んだある母親は次のような疑問を提出している。
   「この物語では、出征する父の見送りが娘を背負った母親だけになっているが、これはウソだ。あのころの出征兵士の見送りといえば、隣近所をあげての行事だったはずだ。この作品は、戦争を否定し平和を強調しようとして事実をねじ曲げ、人間の心の分析をあやまっている」
   この傾向は今西の「一つの花」だけでない。すべての平和教材は、不当な誇張と省略により、反戦平和をたくみに党派的な主張につなげているのだ。(『いま教科書は』第14回)

 「一つの花」は日本の町々が焼き払われていった戦争末期のことを書いている。その時期、ぼくの記憶の中にも田舎の駅のプラットホームでわずか一人二人に見送られていた人がいたことが焼きついている。町に疎開してきていた人だった。
 木下順二「夕づる」、いぬいとみこ「川とノリオ」、大川悦生「おかあさんの木」等、すべてなでぎりであり、斎藤隆介「ベロ出しチョンマ」については次のようにいう。

   多くの教師たちは、特に『ベロ出しチョンマ』のような「いかがわしい作品」が、堂々と国語教科書に顔を出したことに驚きと怒りをかくさない。(中略)「その発想といい文章といい、とてもこどもたちに読ませられたシロモノではない(尾崎健二郎・小学教諭)」というのが教師たちの一致した評価だ。(第11回)
   さすがにこの作品を載せていたのは一社(日本書籍)だけだった。(第14回)

 また岩崎京子「かさこじぞう」は「ひどく暗い貧乏物語」であり、「日本書籍の教科書には『かさこじぞう』よりもっとひどい『おこりじぞう』(山口勇子作)が出ていた」(第13回)と述べる。
 ぼくの教科書収録作品はこの批判? を受ける光栄に浴さなかったが、ぼく自身はやはり名をあげて攻撃されている。ぼくは「『ベロ出しチョンマ』のような『いかがわしい作品』」や、「『かさこじぞう』よりもっとひどい『おこりじぞう』」をのせている日本書籍の小学国語編者の一人である。反論というか、思ったことを書く。五百字。

   (前略)「かさこじぞう」を暗いといい、「おこりじぞう」がさらにひどいという。日本人の心に流れるお地蔵様のやさしさを彼は読みとれない。そのお地蔵様さえ怒る原爆の惨苦−人類絶滅の武器の出現がまったく読みとれない。「ベロ出しチョンマ」の発想も文体もひどい、それが教師たちの一致した意見だとは、主人公長松のやさしさも見えず、この作品に感動した無数の人々の存在をも無視している。
   読まずの上に、「一つの花」のコスモスのイメージも読めないかわき切った感受性、さらにその上に故意の曲解を積み重ねて「いま教科書は」の記事はできている。これこそ党派性であり、政権党の機関紙にこういう記事が堂々とのることに深い深い危険を感じる。(『教科書が危ない』日教組/日高教組/全国マスコミ・文化労働組合共闘会議/教科書検定訴訟を支援する全国連絡会 編集・発行)

 運動論というのか。運動の進め方とでもいうのか、そうしたことを考える。今回の自由新報のキャンペーンは小学国語については、主として戦争児童文学と数編の民話再話・民話的なものに標的を定めた。そのキャンペーンで展開されたものは文学的、国語教育的批判ではなく、政治的アジテーションである。この行きつく先は目に見えている。
 だから、この動きとはたたかわなければならないのだが、一方ぼくは前にしるしたように現在の民話再話・戦争児童文学についてさまざまな批判を持っている。こうした時、敵を利するような論争、批判はやめよという声がときどききこえてくる。しかし、これまた言論の封殺につながる。教科書の編者たちはぼくも含めて、現在の戦争児童文学なら戦争児童文学、またその教育実践の到達点の上でその仕事をしている。その到達点をさらに高めるためには批評は不可欠のものであることを、はっきりいっておきたい。

12月 日
 ほかに書きたかったことの項目
 ○『兎の目』『太陽の子』の児童文学的アイデンティティ
 ○人物像 その造型のあり方と、その人物像にこめられた思想
 ○「変革の意志」と70年代
  現代日本児童文学の出発点の一つに、社会の変革に寄与する児童文学を求めて、という意志・欲求・雰囲気があった。70年代、これが「変革から自衛へ」(砂田弘)、外部への働きかけから根原・内面思考へ変化する。この原因は? 商品化との関係は?
  この評論集は作品の思想・内容に言及することが少なかった。「変革の意志」を軸にして70年代児童文学の思想・内容を考えたい。
テキストファイル化上久保一志