『現代児童文学論』(古田足日 くろしお出版 1959)

近代童話の崩壊

(一)児童文学の近代
「頭のサボタージュを促進するような漫画や童話の多い中で、少しは歯ごたえのあるものが欲しいと思う。」
 これは中島健蔵のことばである。日本児童文学に対する現状批判と要求を含んだ発言として受け取ってよかろう。
 こうした声に対する児童文学者の側からの発言では、寒川道夫のことばが代表的であろう。「出版資本家達は、自分達の領域からこれら民主主義的な作家(児童文学者協会々員)を追い払うことによって、子どもの民主主義的な成長を奪っているものということが出来るのではあるまいか。」
 この発言の内容はいくら強調しても強調し過ぎることはあるまいが、藤田圭雄は、「ジャーナリズムが童話を相手にしないのではない。相手に出来るような作品がないのだ。コドモたちの需要はあるのに……」といい、坪田譲治は、「当面の問題としては、作家自身の努力が足りないのではないだろうか」という。こう見てくれば、児童向け出版物は多いにかかわらず、現在、創作児童文学は不振の状態にあるといえよう。
 この不振の原因を、ぼくは現代児童文学の内部で追求したいのだが、そのために、まず日本の児童文学発展の歴史をふりかえってみよう。ぼくにとって、近代児童文学史の中核は未明童話の変質と崩壊の歴史である。児童文学の現在の不振は、この崩壊が極限に達した現象である。もちろん、それは児童文学の崩壊を意味するものではない。戦後、ぽくたちは「ビルマのたてごと」「ノンちゃん雲にのる」、それから「母のない子と子のない母と」とを初めとする壷井栄らの諸作を持つことができた。
 これらはすぺて、いわゆる児童文学者以外の人々の手になった。未明の伝統にかわる新しいものが、外部から生まれようとしているのである。結果、未明伝統の崩壊は、いっそう促進された。だが、崩壊の原因は、おそらく「君達はどう生きるか」(吉野源三郎)にまでさかのぼることのできる外部の力よりも、かえって未明伝統の内部に存在する。
未明に始まる近代童話が広介によって発展を見たのは大正末期であったが、この時、未明とはかかわりなく宮沢賢治が多量の童話を創作していた。一方では「赤い鳥」の発刊に見られるように、大正の中期から末期に、児童文学の近代は確立されようとしていたのである。この近代を特徴づけるものは、未明、広介、賢治と共に、まずその作品が心象の表現であったということである。事象が発展し、変革されていく過程は、「日本近代童話」の中には存在しない。彼らは人間を社会的存在としてとらえなかった。当然、事象―環境との相互作用において成長していく人間像は描かれない。そして、彼らの心象は賢治の作品の一部をのぞいては、たとえば「ふしぎの国のアリス」に見られるように、外界へ向かって発展する性質のものではなく、社会と絶縁されていた。彼らの関心は外部世界よりも、その世界を映し出す自己の内面世界に向けられていたのである。自我は外へ向かって拡大されようとはせず、内に向かって深化した。こうした不徹底な近代ではあったが、心情の積極的な解放がないかぎり、心象の表現は望めない。中途半端ではあったが、やはりこれは近代である。そして豊かな心象は、おとなより子どものものである。子どもは、科学の法則に制約されず、人魚と語ることもでき、銀河を探険することもできる。偶然から偶然へと飛躍する空想は、「近代童話」を子どもの所有物とした。ことに豊かな空想を、ぽくは未明よりも賢治の一側面に発見できると思う。たとえば、『どんぐりと山猫』の奇妙な物語は、自己の充足と共に拡大であって、その伸び行くところは、外部世界と衝突するに至る性質を持っていたものであった。しかし、後年、彼も「イツモシズカニ笑ッテイル」心境へと傾斜していく。彼の場合は個人の変質であるが、児童文学の流れとして見た場合、この心象からの変質を完成したのは、坪田譲治である。
 善太三平は心境小説にほかならぬ。心象から心境へ―外部世界に関心を持たぬ日本近代童話が当然たどる道であった。そして、未明童話が善太三平に至る変質の過程として、昭和初期の自然主義的童話、千葉省三、酒井朝彦らが存在する。彼らが描く郷愁は、心象でもあり、心境でもある。やはり、この時期に「近代童話」の崩壊も始まった。外部世界の変革をめざす槇本楠郎らのプロレタリア童話は、元来、日本近代童話が持っている、外部世界を内面世界に還元するという方法ではその目的をはたすことができないものであった。
だが、プロレタリア童話が外部世界に関心を示したことは、大きな意味を持っている。内面世界を描くにとどまる日本近代童話は、矛盾を持たざるを得なかった。こうして日本近代童話は崩壊の第一歩を踏み出した。
この崩壊の時期は譲治童話の出現以前である。おとなの近代文学は自然主義から私小説、心境小説への変質の後、崩壊の過程を踏んだといえようが、子どもの近代文学は、一方では変質の歩みを始めると共に、一方では崩壊が始まった。近代の完成以前に近代がくずれようとしたのである。プロレタリア童話運動が児童文学史ではたした役割は、おとなのプロレタリア文学がおとなの近代文学史ではたした役割より、大であったと考えられる。プロレタリア童話の延長である生活童話が児童文学の主流となった時期さえ存在したのであった。だが、プロレタリア童話が方法的には未明童話の裏返しに過ぎなかったように、生活童話もやはり中途半ぱであった。そして、この未明童話崩壊の流れが昭和十年前後の児童文学の主流であったということは、一方の未明から変質してきた近代の完成が非常に貧しいものであったことを意味する。未明、賢治、広介と初期に三人のすぐれた作家を持ちながら、児童文学の近代は、その完成期に坪田譲治ひとりしか持たなかったのであった。
児童文学の現在の弱さは、プロレタリア童話は確立されず、日本的近代の完成は坪田譲治ひとりであったという伝統のこの弱さの結果である。戦いを経て、譲治童話もくずれていく。戦争に対しては、心境も、何の力も持たないのであった。児童文学の近代は、今や、くずれ去ろうとしている。そして、児童文学の近代とは、外界へ働きかけず、内面に閉じこもる「童話」の流れにほかならない。未明に始まる近代童話は、まだ克服されるに至っていない。プロレタリア童話から生活童話に及ぶ弱点は、今なお残存しているのである。
ここに児童文学者以外の人々の作品が、児童文学者の作品よりもすぐれているという奇妙な現象が生まれる理由があった。この人々は従来の日本近代童話のわくにしばられようとはしなかったのである。しかし、児童文学者の意図、あるいは問題意識は、たとえば「ノンチャン雲にのる」の小市民性・私小説性を越えようとしている。にもかかわらず、近代童話に制約されてその意図は実現できない。
 児童文学現在の不振は、古いものは生命を失い、新しいものはまだ生まれるに至らない過渡期の混乱である。その一つの例を次に述ぺよう。

2 文学性の弱さ

 岡本良雄―といえば、わずかでも児童文学に関心を持っている人なら、だれでも知っているにちがいない。彼は現代児童文学の中堅作家である。彼は、昭和二十六年、第一回の児童文学者協会児童文学賞を壺井栄と共に受けた。
 児童文学評論家の船木枳郎によれば、「寂しいことでしたが、当時、戦後派らしい作風を示したのは岡本良雄くらいのもので」、彼は「封建的なものを破壊して、進歩的方向へ向かわせようとしてい」た作家である。彼は、生活童話の本流であり、「社会主義リアリズムの童話とでもいえようか」といわれる作品を書く。おとなの側の民主主義文学者に対応する位置を占めているといえよう。
 この彼に「あすもおかしいか」という作品がある。児童文学賞受賞の対象となった一連の作品のうちのひとつである。「日本児童文学全集」(河出書房)には、おのおの作者のことばが収められているが、その中で、彼は「あすもおかしいか」を例に引いて語っている。彼自身にとっても、愛着のある作品と考えられよう。それだけに、この作品は近代童話崩壊の現象を典型的に現わしている。
「あすもおかしいか」は昭和二十二年、「銀河」の十一月号に発表された。現在の創作ではなく、数年前の作品を取り上げたのは、いま創作されている作品が少ないというだけの理由ではない。児童文学者が発表の場を持っていて、表面的にははなやかに盛り上がった児童文学隆盛の機運が、もろくもくずれて今日の不振に至る原因が、ただ社会的な圧力によるだけではなく、作品の側にも内在していることを確かめたいからである。
「あすもおかしいか」のあらすじを、次にしるす。読者対象は、作者によれば、小学校五六年生である。
 作品は「『きのうはおかしかった』というはなしをきいた時、ほんとうに、おかしかった」と始まる。昔、坂川彦左衛門という侍がいた。ある日、きじ打ちに野原を歩いていると、「もしもし、だんなさま」と、声をかける者がいる。ふりむくと、それは、からだや服装は、すっかり彦左衛門の家の下男だが、顔は毛むくじゃらのきつねのままの男である。彦左衛門は気づかないふりをして連れていく。農家で休む時、きつねの下男は水を飲もうとして、はちにうつる自分の顔を見て驚き、逃げていった。翌日、彦左衛門が歩いていると声がする。「彦左衛門、きのうはおかしかったね。」きのうのきつねの声であった。
こうした話を「ぽくたち」は先生から聞いた。その帰り道、「ぽくたち」は稲荷堂の前に立ちどまる。お堂の前には、小さいせともののきつねが並んでいた。「ぽくたち」はそのきつねをかきまぜる。翌日になってもばちはあたらない。また並んでいるきつねをかきまぜる。これを一週間ばかり続けたある日のこと、「ぽくたち」はいたずらの現場をつかまった。つかまえたのは、戦災で焼け出され、稲荷堂の裏手のへやにすんでいるおじいさんである。「ぽくたち」はおじいさんと仲よくなった。
 それからひと月ばかりして、稲荷堂が焼けた。人々は稲荷堂再建の話をしたが、だれひとり、焼け出されたおじいさんのことをいう者はない。
 やがて前よりりっぱなお堂が建った。だが、そのお堂には人のいいおじいさんの住むへやがない。
 おじいさんはどこかへいってしまったのである。作品は、次のように結ばれる。
「狐が人をばかすと考えていた、きのうというむかしは、たしかに、『おかしかったね』である。
 けれども、今の世の中だって、人間のおじいさんより、せとものの狐をたいせつにするのなら、『きょうもおかしいね』といわねばならぬ。(中略)
『きのうはおかしかったね』
『きょうもおかしいね』
そしたら、あすは、いったい、どうなんだろう。
『あすもおかしいか、おかしくなくするか』
ぽくたちは、いつもオイナリサンのお堂の前を通りながら、こんなことを考えるのである。」

 この作品はわかりやすい。いおうとしていることが一読してわかる。過去から現代に至る世の中の矛盾を批判し、未来はおかしくなくしようということである。未来の建設に向かうこの意図をまず肯定しよう。そして、この意図がすぐに読みとれるところ、一応、作品は成功したとみてよかろう。
 だが、なくさなければならない矛盾―「おかしさ」ということばに一括されるものの正体がわからないかぎり、未来の建設は望めない。ひと口に批判するといっても、表面をなでるだけの批判もあり、人の心の奥底までゆさぶる批判もある。「おかしさ」の正体は、どこまで深く追求されたものであろうか。まず、これを考えたい。
 坂川彦左衛門ときつねの話は鳥取の民話であったように記憶するが、この話だけを切り離してみると、のびのびした健康さのあふれる話である。きつねが彦左衛門をだまそうとする行為にも、人を傷つけ害する心は少しも含まれていない。ただ鉄砲をかついで供をするだけのことである。化けそこねたきつねを平気で連れていく彦左衛門、そしてだましそこねた彦左衛門に向かって「きのうはおかしかったね」と、自分の失敗を笑うきつね―このひとりと一匹の姿には、ぼくたちの祖先の明るさとユーモアが現われている。
 それを「あすもおかしいか」は、この話から、「きのうという昔は狐が人をばかすと考えていた」ということを導き出す。この話が「きのうのおかしさ」として扱われていることばに忠実に従うなら、民話の価値は否定されようとしたとさえいえよう。
 否定されたのではなく、否定されようとしたというのは、作者にはおそらく否定する気持はなかったろうし、作品全体の調子には、この民話を否定する態度はうかがえないからである。この作品が否定したのは、後、稲荷堂の前に並んだきつねをはじき倒してもばちがあたらないということに示されるように、きつねが人をばかすという考え方であった。この民話に付随した考え方のほんの一部が否定されたのであって、この話そのものの本質は微動もしていない。
 だから「きのうのおかしさ」を、「狐」が人をばかすと信じていたおかしさとするかぎり、その裏づけは、まったく存在しない。この話の「おかしさ」は健康な笑いであって、けっして世の中の矛盾を示すものではないのである。つまり「きのうのおかしさ」の正体は少しも見きわめられようとはせず、描かれようともしなかった。「おかしさ」と「狐」―この二つのことばを取り出すために、この民話は利用された。その結果、「きのうのおかしさ」は、実体をもたないことばだけのものとなった。
 そして、作品全体から見れば、「きのうのおかしさ」は、いわぱ話のまくらであり、「きょうのおかしさ」が作品の中心だが、この「おかしさ」の正体もやはり描かれていない。「人間のおじいさんよりせとものの狐をたいせつにする世の中がおかしい」ということは、封建的なものと資本主義的なものとがからみあった日本社会の矛盾を指摘することが、この作品のねらいであったと考えられる。
 当然、古いものと新しいものとが対立して登場する。もったいないと、焼けたきつねを拾いあげ、稲荷のおかげで商売繁盛していると思い、新しくご利益を授かろうとしている欲ばった人々は、一応描かれる。だが、その人々がいったい何をどうしたかということは、ひとつも描かれない。残存する封建制と、それを利用する町のボスたちの正体は、彼らの具体的な動きが描かれないため、読者には少しも通じないのである。
 また、「ぼくたち」はどのような気持でこの人々の動きを見ていたのであろうか。おじいさんを思う気持があれば、人々の行動に、「ぼくたち」は一喜一憂するはずである。おじいさんを慰め、共に怒る「ぽくたち」の姿があり、その慰めに値するおじいさんのいたましさ、町の人々の愚劣な姿が描かれてこそ「おかしさ」は実感となる。しかし、具体的な状況はほとんど描かれなかった。
 ひと口にいえぱ、この作品は「おかしさ」の正体を追求しなかったのである。この作品には、「人間」―生きた個性的な人間は存在しない。社会は人間によって構成され、人間こそ矛盾の焦点である。「おかしさ」の正体を追求しないということは、つまり、人間を追求しないことであり、文学の根本の意義からそれている。
「きのうもおかしかった」
「きょうもおかしいね」
「そしたら、あすは……」
と続く表現は軽妙ではあるが、実は実体を持たないことばの連続にすぎないといえよう。
 この作品は岡本良雄の他の作品、あるいは他の作家の作品とくらぺて、けっして落ちるものではない。にもかかわらず、文学性が弱いというところに、ぽくの問題が存在する。そして、未明童話が高度の文学性をもってそびえていることを考えあわせた時、ぼくは、この作品に代表される今日の児童文学の弱さを日本児童文学崩壊の現象としてとらえるのである。

3 偶然の並列

 なぜ文学性が弱くなったか。その原因を考えてみよう。「きのうのおかしさ」と「きょうのおかしさ」とには質的な差がある。ひとつは健康な笑いであり、ひとつは社会の矛盾である。ふたつの「おかしさ」には何の相関関係もない。ふたつの事がらは、実はおのおの完結し、独立したできごとである。偶然の並列ということができよう。この偶然の並列―人・事が他の人・事に影響を与えないで話が進んでいく―は、作品の細部にわたっても存在する。というより、偶然の並列によって作品は構成されている。この構造が文学性を希薄にしたのである。
 坂川彦左衛門の話をしたのは先生である。だが、先生はその後の「ぽくたち」の行動に関係しない。「ぽくたち」が学校の帰りに稲荷堂のきつねに目を留めるという連想的な関係があるだけで、本質的な関係は持っていない。そして人と人との相関関係がないところには人の性格も描かれない。きつねが人をばかすかという「ぽくたち」の質問に答えて、先生は「さあ、だから『きのうはおかしかったね』というんだよ。むかしの話はきのうのことで、きょうのことではないからね」という。つまり、先生は、坂川彦左衛門の話を「きのうのおかしさ」と意味づける道具にすぎなかった。
 おじいさんは「やさしい」人だが、このやさしさも、やはり道具として利用される。一応おじいさんのやさしさは描かれる。「ぽくたち」はきつねを倒すいたずらをおじいさんにみつけられる。その時、「ぽくは、目をつぶって、どんなゲンコがおちてくるかと首をすくめたが、どんなゲンコもおちてこないで『もうこんないたずらはやめておくれ』とやわらかにいわれたので、ひょうしぬけがした。」だれでもが、やさしいおじいさんと承認できる描き方であろう。
 だが、おじいさんのやさしさが描かれるのは、この部分だけである。おじいさんが去った後の「ぼくたち」の回想には、おじいさんのやさしさ、おじいさんとの交渉は何ひとつ存在しない。やさしいおじいさんであれば、またおじいさんのやさしさが身にしみている「ぼくたち」であれば、おじいさんとのあれこれの交渉を思いだすにちがいないのだが。
 おじいさんの性格は、一度は描かれたが、その役割をはたすと消滅したということになる。その役割というのは、おじいさんと「ぽくたち」を知人として結びつけることであった。そして結びついた後は、もう実質的な関係は存在しなくなる。稲荷堂が焼けた時、おじいさんをさがしたり、慰めのことばをかけようとした「ぽくたち」はひとりもいないのである。
 一度、性格らしいものが描かれて消滅するのは、「ぽくたち」の場合、もっともはっきりしている。けんじがきつねをはじいて倒れそうになると「『おい、よせよせ』と、あわてたのは、しげるである。『ばちがあたるぞ』と、しげるは、おどろいたようにいう。『ばかな』と、けんじは狐をはじき倒すと『あれっ』と、しげるはまっさおな顔になる。『しんねえ、しんねえ、おらしんねえ』と、泣き声で逃げ出しそうにする。『なにが、しんねえだ、おい、しげる』ぽくは、しげるの手をつかんで、まだ立っている狐を、がらがらかきまぜさせた。」
 このようにして描き分けられたおのおのの性格からは、稲荷堂再建に対するおのおのの批判が生まれるのが当然である。そして、その批判はまたおのおのの性格をいっそうめいりょうにする。だが稲荷堂再連が「きのうのおかしさ」として一括される時、おのおのの性格は単一化されてしまったのである。おのおのの性格が単一であるということは、稲荷堂再建という事がらの意味も単一化されてしまったことにほかならない。稲荷堂再建の具体的な意味は、この作品では明らかにされていない。稲荷堂再建という事がらと、「ぽくたち」の間には本質的な相関関係は存在しないのである。
 事がらは、人間にとっての環境と考えられる。ぼくは、今まで主として人間の相関開係、性格が描かれていないことをいってきたが、事がらの相関関係、事がらの意味も描かれていないのである。つまり環境が人間に対して持っている意味は描かれていない。「ぽくたち」の精神的環境である坂川彦左衛門の話も、最初に述ぺたように、継続して起こる事がらと何の関係も持っていないのであった。
 こうして、人間は人間に影響を及ぼさず、先行する事件は後続する事件に影響を与えない。ひとつの事件、ひとりの人間が有機的関連の中で発展し、成長していくという科学的見方はこの作品には見当たらない。
 そして、「おかしさ」は人と人、人と事との相関関係において存在する。作者が「おかしさ」の正体を追求しようとすれば、偶然の並列では「おかしさ」はとらえられない。相関関係とは人間を社会的存在として認識することである。社会の矛盾をつこうとする作者がとった方法は非社会的なものであった。この矛盾が文学性を弱くする。偶然的な関係では、「おかしさ」は現象の一端としてしかとらえられないのである。「おかしさ」は人と人、人と事件とが矛盾しながら変化し発展していく過程でしかとらえることができない。

4 観念の形象

 この偶然の並列という構造はどこから生まれたものであろうか。また、作者は、はたして「おかしさ」の正体を追求しようとしたのだろうか。作者の結論は「あすもおかしいか、おかしくなくするか」
 だが、その前提として「人間のおじいさんより狐をたいせつにする」世の中はおかしいということがある。
 この「おかしさ」は、作品を忠実に見れば、おじいさんがやさしくなくても導き出されるものである。「ぼくたち」はおじいさんと自分たちとの関係から、この「おかしさ」を発見してはいない。さきに述ぺたように「ぽくたち」はおじいさんを回想することもなかったのである。「ぽくたち」の性格も、おじいさんの性格も、ここには少しも現われてはいない。登場人物の性格・事件の相関関係がら生まれる必然的な帰結ではなく、ただ一般的な「おかしさ」が帰結されるのである。
 このことを、もう少しくわしく考えよう。現実では、稲荷堂の再建は、さまざまの側面を持っている。この作品に描かれたのは、そのひとつの側面―住む家をもたないおじいさんに関連する側面である。このひとつの側面もまた「ぽくたち」のひとりひとりとつながるさまざまの側面を持っている。
 だから、「おかしさ」もまた、さまざまの側面によって構成されている。たとえば、けんじは町会議員に出ようとする自転車屋のデブおやじが一万円出したことを耳にすろだろうし、「ぼく」は「ばからしいことだ」といっておじいさんに同情しながら、人の前ではそういえない自分の父親の姿を発見するかもしれない。
 この作品が具体的でないということは、こうした諸側面を描いていないことなのであり、「人間のおじいさんよりせとものの狐をたいせつにする世の中のおかしさ」ということは、こうして諸側面に共通のものである。この作品は、諸側面に共通する「おかしさ」という要素をとらえようとしたのであり、「おかしさ」を構成する諸側面を描いていない。批判を描かず、批判に共通の要素を描こうとしたといえよう。
 「おかしさ」を構成する諸側面は、そのひとつを取ってみても、人間と人間、人間と事件との矛盾によって構成されているから、これを描くことは、人間と人間、人間と事件との相関関係、相互作用を描くことであり、相互作用は、事物の発展過程であり、この場でこそ「おかしさ」の正体が追求される。
 だが「おかしさ」という要素は、相関関係から抽象されたひとつの性質である。ある関係をシンボルする一個の観念であって、その関係をひき起こした人間とは何の関係も持っていない。従って、人間の性格は描かれず、環境の意味は明らかにされない。
 こう見てきた時、この作品は「おかしさ」の正体を追求しようとしたのではなく、世の中はおかしいという観念を表現しようとしたものと考えられる。そして、この観念の形象化こそが、偶然の並列という構造を作りあげたのである。観念は、相互作用という発展過程とはまったく無縁のもので、時間・空間を持たない存在である。因果関係という時間的・空間的法則が無視されるのは当然であった。
 そこで、この作品の文学性の弱さは「おかしさ」の正体追求の弱さにあったというよりも、「おかしい」という観念の弱さ、その形象の度の弱さとしなければならぬ。ここをはっきりさせるために、逆にこの作品の文学性をささえたものを考えよう。
 さきに、ぽくは坂川彦左衛門の話が否定されようとしたが、結果としては微動もしていないといった。これは、作者が、もう動かすことができないほど坂川彦左衛門の話を適確に描き出したことによる。健康なユーモアを作者は再現し得たのであった。この健康さは、「ぽくたち」がきつねをはじき倒す場面にも相通じる。「ばちがあたる」と逃げるしげるの腕をつかんでむりやりにきつねをかきまぜさせる「ぼく」の態度には古いものを破壊していくがむしゃらさがある。そして、それに対置されるけんじのこっけいさ―こうした明るさがこの作品をささえたのであって、人間よりせともののきつねをたいせつにする「おかしさ」の否定がこの作品をささえたのではない。ということは、作品の主要部分、結末に示される作者の意図を形成する部分が文学的でないということにほかならぬ。この作品の、観念の形象の度は非常に弱かったのである。

5 観念世界

 元来、観念の形象化は未明童話に端を発した方法である。これは観念世界の形象化、あるいは心象の表現からはじまった。
 未明の代表作のひとつ「赤いろうそくと人魚」を見よう。北の寂しい海に人魚が住んでいた。人魚は暗い海の中で暮らしてきて、いつも明るい海の面をあこがれていた。人魚は身持ちであった。せめてものこと、生まれる子どもはしあわせに育ててやりたいと思う。ある夜、人魚は海岸の山にある神社のあかりを目ざして泳いでいく。神社のある山の下でろうそくを売っている老夫婦が人魚の子どもを拾う。大きくなった娘は外へ出ないで、ろうそくに絵をかいて暮らしている。香具師がこの娘を見せ物にしようとして老夫婦から買いとった。香具帥が南の国にわたる途中、あらしとなる。娘を乗せた船は沈み、やがで町もほろんでしまった。
 いうまでもなく、この作品は一個の象徴である。象徴されたものは、幸福を願いながら願いはかなえられなかったということと、それに対する怒りとふたつのものの融合であろう。つまり、人魚とその娘をめぐる人々の動きには、かなえられない願いが象徴され、あらしは未明の怒りを象徴する。
 矛盾の存在する世の中、幸福になろうとしてなれないのは普遍的な事象であり、かなえられないことに対する怒りは正当である。その普遍的事象を「かぎりない、ものすごい波が、うねうねと動いている」「暗い、気のめいりそうな海」に住んで、「長い年月のあいだ、話をする相手もなく、いつも明かるい海のおもてをあこがれ」る人魚が子どもにかける願いと個性化し、怒りがあらしという形象に結集したところ、この作品は高度の文学性を獲得した。
 そして、このふたつ、人魚のすがたとあらしとは、もともと異質のものである。前者は外部世界の反映であり、後者は未明の心象である。この異質のものが統合される場は、後者の場、未明の心の中である。人魚をめぐって起こる事件は、人魚、その娘を初めとして、まったく架空の事件である。人魚そのものには意味はなく、人魚の背後の事象にこそ意味がある。そして、その事象は、農村にも、都会にも、小市民にも、労働者にも共通する事象である。あらゆる個別性はすてられ、共通性だけが取り出されたのであった。つまり、形象化されたものは、事象そのものではなく、事象に共通の要素である。
 こうして、作品となって現われたものは、その創造の基礎となった事象とつながりながら異質のものである。これを単純化といえばいえないことはなかろう。そして、この単純化の操作は、もちろん未明の心の中で行なわれる。だが、この単純化は、外部の事象のもつ個別的な条件を切り落として行なわれたのであり、その切り落とされた条件こそ、越えることができない矛盾として人間を苦しめ、あるいは幸福にしているものであって、ひとりの人間は、その条件によって他と関連していたものである。未明童話の単純化は、社会的存在としての人間を規定する条件を捨てることによって行なわれた。これは真の単純化とはいえないものである。未明にとって外部世界の反映とは、外部世界から出発して、別世界を自らの内面に構成することであった。心中の別世界、これが観念世界である。心中
の世界であるために、怒りという心中の気持も統一された場で描かれるのである。
 そして、この怒り―あらし―の底にあるものは、ただ単に因果応報の理とは片づけられない自然力の調和とでもいう世界である。坪田譲治が「もし人類の意志とか、宇宙の生命とかというものがあるとすれば、それに通ずるもの」という、この深さを未明の観念世界は持っている。だからこそ、この作品は人の心を打つが、あらしは自らの心中での解決であって、けっして外部世界の矛盾の解決ではない。外部の事象は内面世界に還元されて解決されたのであり、外部の矛盾解決の方法は示されない。さらに、外部世界―環境が我々に対して持つ意味、矛盾がどこから生まれ、それはどんな矛盾であるかということは、これでは、追求できないのである。つまり、人類の意志とか、宇宙の生命とかいうものにまで達する内面世界の深さを、この作品は持っているが、外界へ拡大していく方向は持っていない。
 ぽくは、観念世界の形成―いわゆる「象徴童話」を不必要なものとは決して思っていない。問題はその方向である。子どもの心が深化し拡大していって、やがて外界の矛盾につきあたる方向に進んでいくものならそれでいい。だが、近代象徴童話にはぼくの望む方向は発見できない。ここには、豊かな伸ぴやかな心象の表現は存在しない。後進社会の重圧は、心情の解放を外界へ拡張することを許さなかったのである。宇宙の生命に達する深さは、人間の社会的連帯性を儀牲にして獲得されたものであった。他人とつながりを持たない孤独の存在が、社会によって自らが孤立させられたことを知らず、その存在の条件を自己の内面に求めた時、自然の神秘に根をおろす象徴童話は生まれたと考えられる。
 この結果、観念世界の形象である作品の主要素となるものは、人物や事件でなく、作品全体の気分、調子にある。ことばの連想性によって、ことぱではとらえられない宇宙の生命を表現するからである。純粋象徴に近ければ近いほど、この点は強調されよう。ここで、「童話」は詩に似るのであり、未明の作品は、多くアンデルセンより象徴的であり、「金の輪」は「赤いろうそくと人魚」より象徴的である。
 象徴に近ければ近いほど、作品中の人間の発展、変革ということは無視されてくる。偶然の並列という構想は、ここに起因する。最初は人魚の娘を神さまからの授かりものとして大切にしながら、やがて鬼のようになってしまう老夫婦の変化は、ちょっと納得できないのだが、これは、他の人間、環境との相関作用がじゅうぶんに描かれていないことを意味し、観念を形象するには相関関係を描く必要はなかったのである。人魚の娘に性格があるとはいえず、老夫婦の性格を個性的なものとして見ることもできないのである。
 にもかかわらず、子どもは筋を追って読んでいく。人と事との相関関係を追って読んでいく。そのストーリィによって、この作品が、他人を愛することを子どもに教える機能を持っていることは考えられる。だが、このプラスの面を打ち消してマイナスの面のほうがより大きい。ことばに表現されたものよりも、象徴的なことばのふんいきのほうが、より大きい働きを占めるからである。
 北海の光景に象徴されるこの暗いものすごいふんいきが、どれだけ子どもの心を養い育てることができようか。あらしには自己慰安の影がある。自己慰安を余儀なくさせられ、抜け出る道を知らない人間の涙が一編を貫いているのである。「まっ黒な、星も見えない」夜、赤いろうそくが波の上をただよっていく風景の恐ろしさ、悲しさを知ることはできても、その恐ろしさに打ち勝つ力を、子どもは発見することができないといえよう。
 そうかといって、ぽくは未明を責めているのではない。当時、まだなお時代は未熟であり、人間のちえは浅かったのである。ぽくはただ、日本近代童話がその成立当初に持った閉鎖性―孤独な者がいっそう孤独になり、宇宙の生命といわれる非社会的、超自然的なものをつかむことによって文学性を獲得したことを指摘すればよい。

6 近代童話の崩壊

 今まで述ぺてきたことによって、未明童話と「あすもおかしいか」の共通性は、ほぼ明らかになったことと思う。
 「おかしさ」は、個性的な事件としては描かれなかった。坂川彦左衛門の話も、稲荷堂再建の話も、共通の要素を抜き出して「おかしさ」とし、そのおのおのの事件のみならず矛盾一般の代表として扱っている点に、ぽくたちは象徴のなごりを発見することができる。
 作品はかならず世の中に対し、人間に対する一個の判断である。「赤いろうそくと人魚」「あすもおかしいか」のふたつの作品は、共に判断の基礎となった事件そのものを描かず、他の多くの事件と共通の要素を描いたのである。そして、そのためには、偶然の並列という構造を持たざるを得ない。「あすもおかしいか」は、方法の上で、未明童話の系列に属するものである。
 ただ「赤いろうそくと人魚」の場合、その判断が宇宙の生命とでもいうものを暗示する個性的なものにまで高められている。「あすもおかしいか」のおかしさは一個の判断ではあるが、ここに描かれた「おかしさ」は一般的「おかしさ」である。一般的「おかしさ」はそれ自身として普遍的なものであり、これを個性的なものとして統一しない以上、「おかしさ」の表現は文学性を持ち得ない。個性的な観念世界は一般的観念へ転落したのである。
 そして、坂川彦左衛門の話が、ただ「おかしさ」ということば、「狐」ということばを取り出すためにだけ利用されたことは、未明童話の方法が、一般的観念の表現に転落したにとどまらず、単なるテクニックに堕落したことを意味しよう。象徴は代替となって、生命を失い、動物、植物に口をきかせれば「童話」となる現象にまで至るのである。
 この崩壊の極限はさておき「あすもおかしいか」の転落の理由は、内面世界より外的世界を重視したことにあると思われる。この作品に描かれようとした世の中の矛盾は、観念世界の中でどう変化させようが、厳として存在する事実である。岡本良雄は、この作品で未明のように別世界を作りあげようとはしなかった。彼は社会の現実の矛盾を指摘し、打ち破ろうとする。
 もちろん、未明も「弱き者のために代弁する」という。彼もやはり社会の矛盾に立ち向かおうとしていた。しかし彼は、そのために別世界を作品において形成した。「何らかの連想によってすでに少年の時代に失われた日を取り返すことができればどんなにか幸福でありましょう」と彼は述ぺた。だがこの子どもの日の再現は弱き者のために代弁することにはならない。彼はよく、幼時に温泉に遊んだことを回顧するが、これはあんまの笛を聞くたびに思い出される。昼間でもあんどんが室の中に置いてあり、そのともし火の下で知らぬ男がはだ脱ぎで将棋をさしている「幽暗な」「うす青い幻想の世界」であった。この世界が、建設ではなく、ペシミズムにいろどられた甘美な世界であることはいうまでもなかろう。
 岡本良雄には、この別世界形成の考えはない。稲荷堂のきつねを「ぽくたち」がはじき落とす場面には、社会の矛盾を、事実によって指摘する考えを認めることができる。彼は、社会を直接作品の中に持ちこもうとしたのである。社会を自分の心中で異質のものと変化させ、別世界を形成する未明童話の方法はその存在理由を失ったのである。
 しかもなお、社会を直接作品の中に持ちこもうとした意図を、ぽくたちは発展の芽ばえとして認めなければならぬ。未明童話の特質を、ぽくは閉鎖的として考えたが、これは人間と環境との相関関係を描かないため閉鎖的であった。きつねをはじき落とす部分には相関関係がめいりょうに現われており、相関関係によって描くことは開放的方法なのてある。
 この相関関係の芽ばえは、この作品に限られた現象ではない。児童文学において、小説的傾向が主流となりつつあるという一般の意見は、まさしくこのことを指摘している。これを、ぼくたちは児童文学におけるリアリズムの芽ばえとして考えることができよう。
 元来、リアリズムは、環境によって人間も植物と同様に変化するというバルザックの見解に代表されるように、近代の科学思想を背景にして生まれたものである。バルザックのいうこの「環境」こそ、エンゲルスの「典型的な情勢」の「情勢」にあたるものであり、一方、個人の解放を背景とする思想は、性格の創造による新しい世界の発見、つまり環境の人間に与える意義の発見となり、事件の中での性格の追求こそが問題となるのである。
簡単にいえば、環境と共に人間を描く方法がリアリズムであり、その意味では、日本児童文学にはまだかつてリアリズムが存在したことはなかった。岡本良雄を社会主義リアリズムといおうとする高山毅のことばはナンセンスである。
 従って、リアリズムは事実を重視する。環境によって変わっていく人間を追求しようとすれば、環境そのものも追求する必要が生まれてくるのである。だが、空想的なものに取材しても人間と環境の相関関係を方法とする作品は、それだけ科学的なものを踏まえており、人間を環境によって変化するもの、社会的存在としてとらえられている。こうした意味においてリアリズムは開放的である。
 リアリズムの基礎にあったものは、環境の重視であり、個性の重視であるが、この環境がどうしても動かないものと考えた時、個性が外界へ拡張されない時、閉じられた別世界の形成は行なわれる。
 だが、外界を、動かしうるものと見た時、作品はふたたび読者の行動に生きて外界へはね返るリアリズムヘ進む。
 日本児童文学に、この環境は変化させうるという思想がもちこまれたのは、まずプロレタリア童話の時代であり、次にはアメリカ民主主義が主潮となった戦後である。だが、このふたつは共に輪入された思想であり、近代童話を変革するこは至らない。リアリズムヘの方向は輸入思想によるものだけではなく、児童文学の本質に根ざしている。
 なぜなら児童文学は、かならず子どもという読者を予定し、つまり他人を通じて自己探究する使命を負わされているのであり、たとえば、ルソーの「ざんげ録」にみられるように、自己探究を中心として始まったおとなの近代文学とは、ある程度、質の差を要求されるものである。おとなのことばでおとなの作者が自分を探究した結果は、おとなの文学とはなっても、その方法は児童文学には適用できない。児童文学は、もし自己探究から出発しても、ただちに読者をたえず念頭に置かねばならぬものとして変質する運命を持っているものである。
 だが、おとなの文学にしても、自己を社会的存在として見る以上、他人を考えないことは許されない。おとなの文学も、やはり他人を通じて自己をたずねる方向へ進んでいく。こう考えてくれば、児童文学は新しい文学として現代の先駆をなすものといわねばならぬ。
 児童文学の本質は、常に子どもに向かって働きかけようとし、未明童話の閉鎖性に反抗する。だから、児童文学の内的な発展はどうしてもリアリズムヘ進んでいくのである。
 だが、日本近代童話はまだ閉鎖性を脱していない。「おかしさ」ということの正体は「あすもおかしいか」では少しも明らかにされていないのである。ソヴェトの「チムール」、アメリカの「トム・ソーヤー」というような典型的性格を日本近代童話は持っていない。この原因は、ひと口にいえば日本社会の閉鎖性であり、譲治童話は、開放的であるぺきはずの近代社会と、この閉鎖性との微妙な調和の上に成り立っていて、善太、三平は外界へ働きかける個性ではないのである。
 そして、この日本人の心の奥底に食い入っている閉鎖性は、輸入思想を日本的社会に適用させることを知らない。共産主義的なものであれ、アメリカ的なものであれ、変革の論理は、科学思想と人間の驚くべき力への信頼によって裏打ちされる。ただ表面的な風潮に従い、輸入思想をうのみにしたところでよい社会は生まれない。
 だが、事実をしっかり観察した時、ぽくたちは、常に伸びようとしている新しい力の存在をはあくすることができる。開放的に進んでいく近代童話の方向は、一方では輸入された変革の思想が日本的風土に適用されようとする努力であり、一方では、この伸ぴようとする力の現われである。変革の思想は、この力の存在を明らかにし、その正しい発展の方向と方法を指示する役割を持っている。だが、輸入思想はじゅうぶんにその役割をはたしたとはいえない。思想は一般的観念あるいは公式にとどまるほうが多かった。「あすもおかしいか」は、社会の矛盾をつこうとしたすぐれた意図を持ちながら、その方法をあやまったのである。思想は自らを具体化する方法を知らず、その思想ならびに時代の発展からすれば、存在の理由を失った古い方法によって変革を述ぺようとしたところに、近代童
話崩壊の原因があった。その崩壊の極限が、中島健蔵のいう「頭のサボタージュを促進させる童話」となって現われる。未明童話の、さらに譲治童話の方法は、生命を失いテクニックと化してしまったのである。
 死物と化したテクニックを払い落とし、ぽくたちは新しいものを建設しなければならない。未明童話が共通の要素によって事物をとらえたということは、児童ではなく、児童性を描いたことを意味する。未明童話が象徴したものは児童性であった。近代童話は児童性によって子どもとつながりを持ったのだが、児童性は時間・空間を越えた静止的存在である。環境―社会を切りすてたこの世界が閉鎖的であることは、未明童話が子どもそのものとは絶縁された場所で創造されたことにほかならない。ぽくたちは、異質のもの―子どもそのものとつながるものを創造しようとしているのである。
 だが、異質だということは、従来の伝統を清算してしまうことではない。新しい基盤の上で、否定すぺきものを否定し、継承すぺき伝統を発展させることである。そして、継承しなければならないものは、古いものを打ち破ろうとしてきた力である。
 環境と共に人間を描くこと、人間と人間、人間と事件、事件と事件の相関性の中で、人間を描くこと―「典型的な情勢の中で、典型的な人間を描く」方法へと、ぽくたちは進んでいかなくてはならない。

近代童話の崩壊〈補遺〉

「赤いろうそくと人魚」について、菅忠道が「児童文化の現代史」(現代児童文化講座・下巻)で述ぺたことが、塚原亮一によって「日本児童文学」第十号に引用され、それをまた高山毅が「教育」十月号(一九五四)に引くという事例があり、この作品についての評価は、菅忠道のその説が動かしがたいものとされているょうである。しかし、ぽくの見方は、彼の見方と必ずしも同じではない。この作品が日本児童文学での近代の成立を代表する典型的作品であることについては、ぽくは彼に同意する。従って、「少年文学宣言」の
表現の不十分さということを条件にして、塚原亮一が児童文学の近代をこの作品に見ることにも賛成する。
 だが、ぽくにとって、この作品の限界は、単に塚原亮一の指示する「あらしという超自然的な力によって解決を見た」という点にだけあるのではなく、作品全体の気分にある。ことばそのものの意義よりも、ことばのふんい気によってかもし出されるこの気分の独自性によって、ぼくは、「赤いろうそくと人魚」に近代の成立を見るのである。
 文学史の近代は、社会史の近代と同一ではない。文学史は社会史と関連しながら、文学史としての自律的発展をもつ。そして文学作品が、言語による形象化として存在するという特殊性を見れば、文学作品の評価は形象そのものに向かってなされねばならない。
 菅忠道はいう。娘が描いた「ろうそくをお宮に供えた燃えさしは、海の災難よけのお守りになるという世評が高くなり、人びとは、神さまのあらたかさを讃えるけれど、娘の労働については、無関心でいる。年より夫婦も家業の忙しさにかまけて、娘のことを考える余裕がないし、商品の売れ行きにまかせて、娘の労働はますます加重される。ここには『少年労働』の一つの典型が描き出されている」と。
 はたして「少年労働」が描かれているのかどうか。ぽくは、この点に関して疑いを持つ。娘はたしかに働いている。しかも過重な働きである。だがここでいう「少年労働」は、菅忠道のいう「明治維新では、不徹底のまま残され」て、「大工場から下請けの町工場、さらには家庭の内職に至るまでの、
 さまざまの少年労働とともに、日本の子どもをめぐる現実にほかならぬ。」とすれば、この「少年労働」は社会的な関連においてのみとらえられる。
日本の前近代的な社会―たとえば、彼のいう「農民から高額の地租や小作料を吸いあげて、資本を蓄積し、そのことで貧窮をきわめている農民の生活水準に労働者の賃金を釘づけ、それがまた家計補助的に少年労働を増加させる」社会が、この作品のどこに描かれていようか。社会を描かないで、社会的事象を描くことはできないのである。
 しかも児童文学の場合、読者である子どもの生活経験も知識も浅く狭い。おとなであれば、この作品から、当時の日本の現実を読みとることができよう。だが、子どもがこの作品から社会的な意味での少年労働を読みとることは不可能である。子どもには、その心理・経験に即しながら、社会そのもののすがたを描いてやらなければならないのである。
 「赤いろうそくと人魚」のこの問題を「あすもおかしいか」は、やはり解決していない。「あすもおかしいか」の発表されたのは昭和二十二年であったが、この年は二・一ストが禁止され、片山社会党内閣が生まれた年である。一、八〇〇円ペースにくぎづけされ、配給で食っていた検事が餓死した年である。民主主義の仮面をかぶって植民地化が急速に進んでいる時であった。この現実を「あすもおかしいか」は書いていない。
 稲荷堂再建と、戦災で焼け出されたおじいさんという明確な時間を持った社会的事件が一般的「おかしさ」では、とらえられようはずはない。たとえ、迷信否定にしたところで、きつねを信じるその不合理性と、戦後日本経済が、表面的には復興したように見えながら、実はこまっている人がかえりみられないという底の浅さと、政治の貧困とが一体となって結ぴついている結節点として、稲荷堂再建をとらえ、批判しなければ、表面的合理主義を抜けることはできないのである。稲荷堂の再建には一、八〇〇円ペースが分かちがたく結びついている。ことわるまでもなく、ぽくは一、八〇〇円ぺースを描けというのではなく、戦後社会の矛盾は、戦後社会を描くことによってはじめて明らかになるということをいっているのである。
 そして、もうひと言をつけ加えるなら、「赤いろうそくと人魚」では現実の反映はきぴしかったが、
 「あすもおかしいか」ではその反映の度も非常に弱い。
「赤いろうそくと人魚」に帰ろう。菅忠道がいう「少年労働」は「赤いろうそくと人魚」には描かれていない。ただし、彼がこの作品は日本の現実を反映しているということについては異論はない。
 少年労働、人身売買等、こうした現実を反映して、この作品の気分は独自なものとなっている。しかし現実を反映していることと、現実を描いていることとは別のものである。少年労働、人身売買は、この作品が生み出される歴史的・社会的条件ではあったが、作品の内容ではない。
 ぽくは、菅忠道の考えをこの補遺で攻撃した。しかし、じつは、彼はこの作品から児童問題の歴史的・社会的条件を発見しようとする立場に立っている。そのかぎりにおいては、彼を攻撃するのはあやまりである。
 だが、塚原亮一、高山毅のふたりが彼のこの立場を児童文学に持ちこむのはあやまりといわざるを得ない。以前、ぽくは「象徴童話への疑い」」で、関英雄の「皇帝のあたらしいきもの」に対する評価が、作品周辺の問題を作品内容として取り扱っていると述ぺたことがあった。作品を歴史的・社会的関連から見ることと、作品内容を混同されてはこまるのだが、この傾向は、どうも児童文学評論の一般的傾向であるらしい。
(小さい仲間・第五号・一九五四・三月)
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