『現代児童文学論』(古田足日 くろしお出版 1959)

文学的統一と映像的統一

 映画「エミールと少年探偵団」でもっとも印象深いシーンは、少年たちのどろぼう追跡のところである。その少年たちの数の多さである。
 どろぼうのうしろにくっついて少年たちの一隊が歩いて行く。ちがう町かどで自転車に乗った機動部隊が出発のあいずを待っている。アパート団地のようなところにも一隊が集まっている。またローラー・スケート部隊。
 どろぼうは最初へんだなという顔つきで、うしろの少年たちをふりかえる。少年たちはなんともいわない。その数が増す。
 どろぼうは走りだす。少年たちも走りだす。最初おとなたちはこの奇妙な一隊をふしぎそうに見ている。だが、少年たちが走りだすと、そういうぐあいにはいかない。おとなたちは街路を横断することができず、自動車はとめられる。
 「エミールと少年探偵団」の性格とできるだけ簡明にいうと、中流家庭のお子様用保守的娯楽映画一級品である。こうした性格はもちろん好ましくない。この性格を抜けようとするところが、この追跡場面にはあった。
 少年たちはたいてい親に保護されている。彼らは弱者である。ところが、ここでは無能なのはおとなである。少年たちは数によっておとなを圧倒した。といっても、百姓一揆のようなものではない。
 もちろん類似点はある。自転車が機動部隊の主力であって、この少年探偵団はオートバイに乗るまぼろし探偵や、乱歩原作の少年探偵団には及びもつかず(乱歩の少年探偵団は明智小五郎の車を使い、その事務所には無線装置も持っている)、その点、くわやかまの百姓一揆と似ている。
 だが、本質的な差は少年たちにとって、どろぼう追跡はスポーツである点だ。このスポーツ意識は全作品をつらぬいている。エミールは海賊団にはいるためにさかな屋からオットセイを盗みだして、海に放す。ガラスの水槽のなかでのオットセイとの格闘、そのオットセイを郵便局の小包運搬車に積みこんでエミールと海賊団は夜の町と砂浜を走る。完全なスポーツであり、だから映画の最後は警察のスポーツ大会で終わっている。
 警察がどろぼうを追う時、彼の目は責任感に満ちているだろう。正義感、また群集心理でもよい。集団がひとりの人間を追う時、彼らはののしり、さわぎ、目が血走っているにちがいない。だが、この映画の少年たちは彼らの遊びのひとつとして犬を追うようにどろぼうを追う。
 彼らはラッパによって遊び場から集められた。新しい遊びに参加した。個々ばらばらの遊びは集団スポーツに変化し、ここに示されたのは子どもがいかに新しい遊びに熱中するかということである。この集団的熱中はこの映画の保守的ふんい気を変質させるものをはらんでいたと思う。
 だが、それにはおそらく新しい方法が必要だったろう。集団的熱中に目もくれず家で本を読んでいる少年、道ばたで彼らを見送るくつみがきの少年―こうした少年を視界に入れてみると、彼ら少年探偵たちはめぐまれているのだ。
 しかし、監督はそのようなことは考えてもいなかったろう。なぜなら、この映画はおとなの子どもに対するサービスだからだ。どんな少年たちも夢を持っている。一度どろぼうをつかまえてみたいという夢を。この夢をかなえてやろう。そして子どもを楽しませてやろうというような意図。
 このような意図と、子どもをスポーツ好き、遊び好きの存在としてとらえる目とは切り離せない。子どもの夢を実現させてやろうという愛情―その愛情の感じられる豊かな画面にぼくは不満であった。出てくる少年は常に愛情で見守られており、このように見守られているかぎり彼らは安全だが、事実をさらけだすにもいくまい。子どもをスポーツ好きと見るのは、おとなの愛情だ。

 「アルプスの少女」はなんともひどい映画である。テレビ映画を見ている感じがしたのは、黒白、標準型の大きさ、声のふきかえというようなことだけではない。第一、アルプスの風景が全然出てこない。いや出てくるには出てくるが、そのあたりの山のようなものだ。
 主人公ハイジは村人とけんかして、村を離れて住んでいるじいさんのいわば生きがいのようなものだ。原作の天真らんまん、子どもは天使である式のおもかげはいくらか残っているが、この映画では人間としてのハイジの像がまったく結集しない。ただ収穫はハイジによってすべてがよくなっていくというようなとらえ方は、いかにもばかげているということの再認識である。 
  
 以上二編はなんの用意もなしにみたが、「コタンの口笛」では、ここを見たいという準備があった。ただし、それは積極的に見たいというのではなく、「文芸映画」と名づけられるものは、何か心がまえをしないかぎりは腰があがらぬからである。
 見ようとしたところは二か所あった。ひとつはユタカがゴンに決闘を申しこむところである。原作では第一部「あらしの歌」の最後にあたり、もっとも迫力があった。
 映画に出てこないが、ユタカの心のなかには火の玉が住んでいる。
 「不安がつのってきたとき、悲しみにたえかねているとき、怒りに満ちたとき、―そんなときには、火の玉がからだじゅうをかけめぐり、耳もとでささやいてくれる。からだのどこかに住んでいる火のかたまり。(略)今ではこの心の生きものを信じており『コロツポ』という名をかってにつけました。」
 心のなかの火のかたまりに名をつけることは、実にアイヌ的といってよかろう。というのは、偏在するカムイ―クマもカムイであり、フクロウもカムイである―の一種としてコロッポは存在し、汎神論的な世界に住むアイヌの姿がこのことばには、はっきり現わされている。そして、このコロッポが身ぶるいして、いったい、いつまでそうなんだ。おまえは、中途はんぱにしているから、だめなんだとユタカを責めるとき、ユタカは決闘を決心した。ただ原作もこれ以上このコロッポを追求してはいない。
 しかし、このコロッポ的世界はシナリオにも出ていなかった。が、監督があるいはこの世界を作るかもしれぬと思ったとき、ぼくはもうひとつの可能性もこの映画にはあると思った。
 この映画のシナリオは、テレビ・ドラマ「私は貝になりたい」の橋本忍である。このシナリオはコタン道路にはじまり、コタン道路に終わる。コタン道路は原作によれば「一本道で、定規でひいたように、東西へのびていました。」シナリオでは、タイトル・バックが北海道勇払原野の大ふかんからはじまり、やがて千歳の飛行場、千歳の町、そして町外れのコタンの道路となる。
 この千歳飛行場とつながるコタン道路を見たかった。一直線のコタン道路と飛行場、原作にはジェット機のごう音も出てくるが、この文明世界のなかに住んで、コロッポを信じる原始心性を持ち、しかも頭脳優秀というアイヌの少年をとらえる可能性が、原作およびシナリオにないではなかったのである。
 この千分の一の期待をもって、映画を見、映画はそれにこたえなかった。コタン道路は印象に残らず、川が残った。ユタカ一家の家の前を流れる川は奇妙におだやかであり、荒れ狂う火のかたまりのコロッポとは縁遠い。久保賢のユタカ少年も原作のイメージに近く、ぼくのいだくイメージとは遠い。しかし、彼はたしかに好演なのであって、幸田良子のマサがなんのイメージもよびおこさないのとはちがう。
 原作でもマサのイメージははっきりしない。ユタカ少年がアイヌ人としての自分の生き方を模索しているのにくらべて、マサにはアイヌ人だからといっていじめられることに身をふるわす程度の考えしかない。
 必要だと思うのは、このふたりの考え方を描きわけることである。きょうだいの父イヨンが死に、おじの金二とそのむすこの幸次がやってくる。金二はきょうだいの家を自分の家だといい、翌日になるとふたりを町へ連れて行かねばならぬという。ふたりを町の知人の家で働かせようというわけだ。とすれば、この家はどうなるというきょうだいの質問に対して、金二はこの家は自分の家だと答える。事実かどうかとユタカがつめより、金二は「うそだと思ったら登記所へ行ってこい」とどなりつける。
「よしっ、調べてくる」というユタカは金二になぐられ、金二は土地家屋の権利書をたたきつける。名義人は畑中金二となっている。こうした事件のあと、幸次がユタカに言う。
 幸次「白老の海岸で、ぼくは君にシャモにはなんでもかんでも抵抗しろと言ったな・・・・・・覚えている?」
 ユタカ「ああ」
 幸次「しかしアイヌにもぼくのおやじのように血も涙もないヤツがいる」
 ユタカ「・・・・・・」
 幸次「結局、アイヌも和人もない。ようするに世の中にはいろんな人間がいるんだ」
 以上シナリオによったが、映画もかわりなかった。そして、この幸次の「アイヌも和人もない」という考えを、だれかが何かでほめていたが、ぼくはこのことばにうんざりし、憎おさえ感じる。
 そして、このだれかがほめたことに現われているように、この個所は迫力のある個所なのだ。一般的なヒューマニズムという線がここに強調されてくる。「ようするに世の中にはいろんな人間がいるんだ」というのは、アイヌをいじめるのは悪いという考え方となんの差もない。
 しかし、現にユタカの心のなかにコロッポが生きている。カムイの世界と体系がユタカの心の奥深く食いこんでいるのであり、その点ユタカはアイヌなのである。アイヌにも血も涙もないやつがいるから、和人もアイヌも区別がないというのは、この事実を無視し、あるいはすりかえた論理である。
 マサのイメージが原作でも映画でも明確に出てこないのは、作者の立場が一般的ヒューマニズムの上に立ち、マサもまたその立場にしか立っていない、その混同から来たものと思う。
 だから、この映画はいじめっ子の物語とさほど差はない。生かされるべき部分も、この全体の流れのなかに埋没してしまう。生かされるべき部分というのは、イカンテばあさんをめぐる話だ。ばあさんは自分の孫のフエを田沢先生のむすこの嫁にもらってくれと、先生に頼みにいく、田沢先生は差別をしないカムイのような人だ。その人はばあさんの願いをことわり、フエは家出し、ばあさんは病気になって死ぬ。
 このイカンテばあさんの行動は突飛である。アイヌであろうがなかろうが、突然、結婚申しこみに行けば、あいてがあわてるのは当然だ。だから「おばあさんの早とちりね」というフエのことばが出てくるし、清―久保明、田沢先生のむすこの「ぼくに関することはぼくにもそうだんしてください。ぼくももうそろそろ自分の問題は自分でしまつしていきたいんです」という、父へのことばに続く「イカンテばあさんだってそうなんだ。フエちゃんにひとことそうだんしてくれたらよかったんだ」ということばも出てくる。
 これらのことばは、イカンテばあさんの行動に対するごくひかえめの批判である。彼女のとっぴょうしもない行動はもっと批判されてよいのであって、フエの家出はばあさんの責任である。田沢先生のほうでは、むすこにそうだんしなかった点だけが悪いので、そのほかとやかく言われるすじあいはない。ところが、ばあさんは見舞いに来ていた田沢先生を発見すると「先生・・・・・・フエを返して・・・・・・」と迫っていく。
 この不自然さがそれほど不自然に見えないのは、三好栄子の演技力によるのだろうが、田沢先生がまたばあさんのようとおり自分の責任だというようなかっこうで、ばあさんの墓の前をいつまでも動かない点にもよる。田沢先生はばあさんに屈服しているのであり、対決しているのではない。
 水野久美、久保明になると、彼らのことばはそれなりにいい。つまり無理解なばあさん、父を批判しているので、たしかにここではアイヌも和人もないのである。だが、ばあさんの無理解、非常識のなかみは何なのか。アイヌ的体系だと、ぼくは思う。
 田沢先生もカムイである。カムイは食物を与え、すまいを与えてくれる。カムイに願えば和人との結婚も成立するというのが、ばあさんを動かした力である。ばあさんの行動はその論理にささえられていて、すこしも突飛なところはないのである。
 ここには、ひとりのアイヌ人がいきいきと描かれる可能性があった。そして、次にはこの事件についてのマサとユタカとの対話。マサが、田沢先生は「まさか、清さんのお嫁さんに、フエちゃんをもらってくれなんて・・・・・・そんな話を切り出されるなんて夢にも想像できなかったのよ」というと、ユタカは「どうして夢にも思わないの」と言う。マサが答えずにいると、もう一度くりかえす。ふたり、まくらを並べたふとんのなかだ。雨と風の音がしている。マサはカッとなって言う。「それをねえさんに言えって言うの。」
 ユタカはマサに対決を迫ったのである。ふたりの生き方の相違が出ていれば、この場面はもっとちがった意味を持ったにちがいない。言えないマサと、はっきりさせようとするユタカのアイヌ人としての自覚が出てきたはずなのだ。しかし、一般的ヒューマニズムという文脈のなかでは、このシーンも生きてこない。

 「コタンの口笛」のユタカは深刻である。子どもむき映画ではなかったせいかユタカは他のおとなと同じ次元でとらえられている。「エミールと少年探偵団」の、たとえば小包運搬車がなくなった時の警官の動きが子どもむき動きを感じさせることと、同じなのかもしれない。だが、ユタカにももっとエミール的要素、いたずらとかスポーツとかがあるはずだと思うのだが、それが出てこない。子どもに特有の行動の型にとぼしいのだ。「キクとイサム」はその点、子どもの外形だけはとらえている。
 だが「キクとイサム」も「コタンの口笛」も、ぼくは子どものもっとかんじんな部分を抜かしているような気がしてしかたがない。偶然(かどうか)児童文学(それも名作)を原作にした映画三本にぶつかったわけだが、児童文学に影響を及ぼす児童映画が生まれていないこととも関係があろう。
 ここまで書いて、やっとぼくは気がついた。「エミール」でもっとも気にかかっているショット、銀行へ逃げこんだどろぼうが紙幣を両替しようとする。追跡してきた少年たちはなかへはいれない。エミールと教授君がはいる。ふたりはどろぼうのそばに立ち、銀行員のおじさん(たしかにおじさんという印象だ)に「こいつはどろぼうです」という。
 この時、ふたりの少年の顔は興奮している。その表情、口調、おじさんにいいつける以外の何ものでもない。ここで、それまでの集団スポーツの力はがくっとくずれた。
 原作ではどうであったか、集団追跡の場ではエミールは集団のなかに解消されている。そのためにこそ少年群の力が出ているのだが、このショットでのふたりはその力の持ち主とはどうしても思えない。
 子どものエネルギーは彼らの主観的なものであり、彼らは弱者である。このふたつの真実の落差を統一した文学が児童文学の名作として残っているような感じを、ぼくは最近持っている。文学のなかの子どもは子ども以上の何ものかを賦与されているように思うのだ。
 「エミール」の集団追跡の場合、この文学的統一を打ち破ろうとする契機があったのではなかろうか。しかし、その根底にはスポーツという、しかも市民的スポーツという文学的統一があった。
 そして、「コタン」のように文学的統一が完全にできていない作品がそのまま映画化されると、いっそうその分裂ははなはだしい。原作によりかかりすぎているのは、この三本の映画の共通の傾向である。
 少年俳優の問題もからんでいるが、映像的統一は、いったいどのようにしてできるものなのだろうか。必要なのは、文学とはちがう目だ。(記録映画・一九五九・六月)

テキストファイル化山本京子