現代大衆児童文学の創造
1
未来の児童像、理想的な子どもの姿について、さまざまのことがいわれる。いのちをたいせつにする子、豊かな生活を望む子など。こうした理想像の中核になるものを、積極性とぼくは考える。
積極的な児童像は二本の近代児童文学のなかでは、あまり登場してこない。だからと直接に結びつけるのは飛躍だが、佐藤紅緑や山中峯太郎のほうが、いわゆる児童文学よりずっと幅広い読者を持っていたのは、少なくとも積極性の有無ということが、ひとつの原因になっていたと思う。子どもは一般に冒険ずきで、積極的な面を持っているのだ。
戦争中、宮城県の某温泉に東京の某小学校の六年生が疎開していた。食物が少ないので家が恋しい。東京へ帰る相談をみんなで始めたのだが、鉄道の駅は数キロさきの町にある。その町の医者に通っている子どもに駅の様子を偵察させることにした。数日かかって調べあげた報告では、便所の窓が破れていてそこから構内にもぐりこめるという。金も切符もないのだから、彼らは無料で汽車に乗らなければならないのである。散歩の時間、彼らは隊列堂々、町へ向かう。駅に来て、はたとこまった。便所の窓を抜けるのに、ひとり三十秒かかっても三十数人では二十分近い時間がかかる。そのあいだに汽車は行ってしまう。彼らは駅の向こうがわにまわった。とまっている貨車のかげにかくれた。汽車がはいってくる。それっとばかり、いっせいにとびのった。彼らの計画は慎重であって、東京へ直行すれば、降りたとたんにつかまるかもしれない。宇都宮から東武線に乗りかえようということであったが、なかに落後者がふたりでた。そのふたりの知らせによって宇都宮でとっつかまり、来た道を逆もどりということになって、この脱走は失敗した。
この指導者が今日の佐野美津男だが、彼らの行動性、積極性はすばらしい。積極的な子どもは事実、存在しているのである。だが、残念なことに彼らは失敗した。子どもには、やはり積極性を実現させるちえと経験が足りないのであろうか。ぼくは、かならずしもそうとは思わない。
今昔物語の話だが、季通という小役人がいた。さる高貴なかたに召し使われている女房のもとへ通う。屋敷の侍たちが身分いやしいくせにと季通を憎む。ある夜、季通はまた忍んで来て、連れて来た小舎人童(こどねりわらわ)に、明け方になったら迎えにこいといっておいて、女房のところへいく。それを知った侍たちは、門やついじの破れに立ち、人の出入りをことわった。季通も女房も驚いた。侍たちは踏みこんではこないが帰ることができない。朝になって引き出されては恥をかく。よし、その時は刺しちがえてと季通は心をきめるのだが、気にかかるのは小舎人童だ。何も知らず、迎えに来て、侍たちにつかまったらかわいそうだ。やがて、明け方近く、門のところで声がする。小舎人童の声だ。大声で彼は言っていた。「私は御読経(みどきょう)の僧の童です」と。季通は手をにぎりしめる。第一の関門はごまかしたようだが、自分のいるへやにやって来て声をかけたら、侍たちが気づくだろう。ところが、童は足音高くへやのそばを通りすぎてまた門から出ていってしまう。しばらくすると、道のあたりで隣の女童(めのわらわ)が「どろぼう、ひとごろし」と泣きさけぶ声がした。侍たちが声の方角に集まった。季通はそのあいだに門のかけがねをはずして逃げだした。一丁ばかりいくと童が追いついた。童は女童の衣をはぐと見せて、侍たちの注意をそらしたのである。
この場合、童の行動の積極性、機敏さは主人を信じる連帯性に裏づけられている。童の行動に対する季通の行動は、まるで打ちあわせでもしていたように敏速だ。ふたり以上の多人数、集団のなかで、ひとりが積極性を発揮するには、その集団の成員のあいだに強じんなつながりがあることが前提条件になってくる。疎開学童の集団脱走が失敗したのは、集団としてのつながりがないためであった。
そして、季通と童のつながりの強さは今日のいわゆる集団よりもっと強いようである。こうすればこう動くというような反応は動物的な鋭敏ささえ感じさせる。そして、こうした鋭敏さは絶え間のない訓練によって作りあげられたにちがいない。季通の父はかつて三人の盗賊におそわれ、その三人を切り殺したことがあった、夜とはいえ都大路のまんなかである。地方に武士がぼっ興しようとしているこの時代、季通のような下級貴族はその新興勢力と上流貴族の権威との板ばさみになっていたにちがいない。季通と小舎人童の物語は、その生命の危機の場で展開されているが、この危機はまた時代の危機ともつながっているといえよう。この危機の時代を生きていくには、危機に敏感にならざるを得ないし、行動に機敏にならざるを得ない。
ところで、積極性とひと口にいっても、さまざまの種類がある。「ふしぎの国のアリス」のように、うさぎを追っかけて自ら底知れないうさぎ穴にとびこんでいく積極性もあれば、トム・ソーヤーのように家を飛び出し、川の中の島へ渡る積極性もある。また佐藤紅緑があり、今日の赤胴鈴之助がある。そして、さきにいったように日本の児童文学には積極的な主人公が少なく、積極的なものを選ぼうとすれば、西欧系の作品を選ぶようになっていく。児童文学、最近の収穫である、いぬい・とみこの「ながいながいペンギンの話」は西欧的文体と発想のもほう作品である。いわば、育ちのいい市民の持つ明るい積極性であろう。そして、生活の安定とまがりなりにも今の日本人の人々の政治的理念の中心となっている民主主義にささえられて、明るい子どもたちが現実に生まれてきている。
だが、ぼくは一方、月光仮面や赤胴鈴之助に熱狂する子どもたちを知っている。グレン隊にはいっていく少年たちと、明るい市民精神とはどのような関係になっているのか。限界状況というような設定のなかで人間の暗黒をつつき出そうとする文学作品が迎えられる世の中に、古典的な市民精神は存在できるのだろうか。ぼくはかつて支持したペンギンを否定せざるを得なくなってきた。文学教育でいえば「ヴィーチャと学校友だち」を読ませるのもよいし、「はなのすきなうし」を読ませるのもよかろう。
だが、ぼくは疑うのだ。マスコミ・機械文明のなかで人間が解体しようとしている危機の社会に子どもが出ていった時、守られる社会のなかでできあがった積極性が、はたしてそれに耐えられるかどうか。ぼくの求める積極性は、人工衛星に象徴される人間の無限の可能性というものよりも、すさまじいスピード文明のなかで、どう生きていくかという積極性だ。
つまり、子どもが赤胴鈴之助にひかれ、月光仮面にひかれていくのは、ただ彼らのスーパーマン的性格や、ストーリィの急テンポの展開によるだけでなく、そのふん装や語り口や音楽に現代の危機がムード化されているためではないかと、ぼくは思っているのだ。子どもも危機を感じている。子どもも危機と背中あわせに生きている。その危機のなかから生まれ、危機を乗り越え(実は乗り越えるのではなく子どもの危機感を吸収し、横にそらせ)るのが、赤胴や月光仮面の魅力なのではなかろうか。
子どもの読むものは古典だけではどうにもならない。たとえ二流の作品でも今日の危機に迫ろうとしたものを子どもに与えるべきだと、ぼくは思うのだが、そうかといって、それに近いものとして思いつくのは与田準一のいくつかの作品、筒井敬介の「おしくらまんじゅう」、佐藤義美の「ひゃくまんにんのゆきにんぎょう」ほかなどでしかない。
あるべき児童像というより、ぼくが、今日、ただいま、現実と文学にほしいのは、赤胴鈴之助にかわる児童像である。かつて、子どもは守られる存在であった。しかし、一面、子どもはたくましいエネルギーの持ち主である。このエネルギー発動の新しい形態がほしいのだ。十九世紀的市民の健康さだけではどうにもならない。新しいエネルギー発動の形は、調和のとれた形態ではなく、いびつなものとなって出てくるように思う。
この新しい児童像への道すじとして、ぼくはさきにいった小舎人童を含む数人の少年を考えるのだが、そのひとりを紹介すれば、近松門左衛門の「丹波与作」に出てくる馬子の三吉だ。彼は年は十一、五つの年から馬を追い、おとなのように髪をそりあげ、じねんじょの三吉といわれている。三吉の父、与作もやはり馬方だが、与作も三吉もおたがいに親子とは知らぬ。借金に苦しむ与作に頼まれ、三吉は、関東へ下る大名の姫の宿にしのびこみ、金を盗んでつかまった。与作に金を貸している馬方のボス八蔵は「馬方なかまのはじさらし」と三吉の背骨を踏んでおさえつけ、石にすりつけられた三吉の額からは血が流れる。三吉の実の母は姫のうば、そのうばが助けてやってくれと泣き、母と子のあいだがらを知っている家老はゆるすというのだが、三吉は「この恥かいて助けられ、何と生きていられよう」と開き直る。家老がなおも出ていけというと、三吉はつっ立って「こりゃ、八蔵め。おれはおのれをよう踏んで面にきずをつけたな。元来我は武士の子じゃ。人に踏まれて生きてはいぬ」と、そばの仲間のわきざしを抜き、八蔵の首を打ち落とした。家老もこうなればしかたなく代官所へ渡そうということになるが、三吉はこういうのだ。「悪名もって人には踏まれ、助けられても生きてはいぬ。ひとり死ぬより人きればいにがけのだちんじゃ。父様も母様も誰も一度は死ぬる物、来世でゆるりと逢おうまで。」
この「ひとり死ぬより人きればいにがけのだちんじゃ」ということばは、積極性とか行動的とかいうようなものではない。はやりのことばでいえば、限界状況に追いこまれた人間のあり方のひとつなのだ。
近代・合理精神・科学精神―こうしたものとは無縁と見える土着のエネルギー、危機に即したエネルギーの形態のなかに、人間のもっとも根元的なものがかくされているのではなかろうか。
(原題・危機とエネルギー・「教育科学」所収・一九五八・二月)
2
そのエネルギーの内容、獲得の方法を考える前に、ぼくはまず、まんがや映画を見てみよう。いわゆる児童文学は状況をとらえていない。だが、状況こそエネルギーの質を決定しているものだ。状況を中心に、まんが、映画を見ていこう。
まんが「赤胴鈴之助」に次のような場面がある。赤胴が真空ぎりを会得する。しかし、まだ極意に達せず、刀をふりまわすとあいては気絶するが、死んではいない。ところが、ある時、なんのはずみか、腕が切れた。「アイテテ。やられた」という式のふきだしがあり、赤胴に追いまくられた大ぜいの男のなかのひとりが腕をおさえているひとコマがあるのだ。
その次のコマで、ぼくは思わず目を見はった。赤胴がだいこんを両手でつかんでひざの上に置いているのである。なぜだいこんが登場するのか、思った瞬間、ぼくの目はやはりふきだしを見ている。「きれた!」と赤胴が言っている。ぼくの見たのはだいこんではなく、人間の腕であった。そして、その時の赤胴の目は実に大きかった。
まんがの「赤胴鈴之助」が俗悪であるというのは俗説にちがいない。ラジオの赤胴はまんがにくらべて、はるかに偉大な悪影響力を持っている。ラジオでは、佐野美津男が言っていたが、耳できくことによりイメージの創造がきき手にゆだねられる、ここで俗悪、というより、危機感が消滅する。こでにはもっとくわしい説明がいるのだが、これはあとまわしにして腕をだいこんと見せるまんがの方法には、残こくも何も、そんなものは存在しない。いつだったか、まんがの刀の数を数えたひま人があったが、この人はイメージの持つ力を知らない、したがってまんがなり文学なりの意味を知らない道学社であったのだろう。
もちろん、ぼくは赤胴を子どもに推せんする気はない。しかし、それは、いわゆる児童文学者の童話一般をそれほど子どもに推せんしたくないのと同じ理由でしかない。だが、もし竹内つなよしが、この腕をだいこんとする方法を赤胴全編を通じて駆使していたなら、ぼくはこのまんがを大々的に持ちあげるか、徹底的に排撃するかのどちらかになったろう。
なぜなら、ここには完全に新しい目が存在している。赤胴にとっては切れたことこそ問題であり、切れた腕は一個の証拠物件であって、人間の腕ではない。ここまで徹底すれば、残こくは影をひそめるのは当然である。そして、それによってこそ赤胴の非人間性は描かれるのであり、人切り機械赤胴鈴之助が誕生して、現代文明の批判が行われたかもしれないのである。
この可能性を竹内つなよしは逸してしまった。だから、その時の赤胴の表情は目を輝かせて、人間的なのである。
竹内はこの可能性を逸したが、ぼくたちはこれを生かすべきである。子どもの心の奥深くにも食いこんでいる現代人の分裂症状は、その分裂を徹底的にえぐり出し、その分裂にうちかつエネルギーを与えるよりほか、回復の道はない。現代の人びとの感覚では、腕はだいこんとかわりないのだ。
そして、今日の日本の児童文学者はほとんどこの目を持っていない。人間が解体しているのに、人間的でありすぎる。既成の作家は問わず、ぼくは同人誌による連中がこの目を持とうとしないことが残念なのだが、他人におせっかいするよりも、まず自分のことであろう。
竹内つなよしが偶然、この方法をとったのは、彼の職業意識によるものであろう、というのは、まんが家のように競争はげしい世界では、新しい方法を常に必要とするからだ。そして、この方法が映画のクローズ・アップによっているのは、いうまでもない。
しかし、赤胴の場合、この発見は実に偶然であった。その一か所しか見あたらないからである。だが、これをもっと技術的なものに還元すると、最近のまんがはすべて、意識的に映画の手法のもほうによっている。
山川惣治のころは、まだそれほどはっきりしていなかったこの傾向が一般的になってきたのは、前にも言ったように、まんが家の職業意識によるものと思われ、その新しい技術追求の意志は児童文学者などまったく彼らの足もとにも及ばないようである。はげしい競争のなかでは、次から次へと新しい技術を持ちこまざるを得ないのだ。
少年マガジン所載の「冒険船長」(遠藤政治)第一回は、なん階かの東西デパートの遠景から始まる。次に建物は目の前に近づいて屋上の遊び場全景が見え、その次には屋上の望遠鏡にとりついている子どもを、上から見おろす形になる。
どのようなまんがも、だいたいこのようなはじまり方をするものだが、「冒険船長」の場合、その建物がななめ下から見上げるように書かれているのが特色だ。映画「第三の男」で、ウィーンの町の建物がすべてななめに出てきたことのまねなのだ。児童文学では、いまなお田園に材料を取る、あるいは舞台とする作品が多いのにくらべて、このまんがおよび多くのまんがは、まず高層建築の都会で展開することによって、ひとつの進歩を示している。
しかし、舞台のひろがりは本質的な進歩ではない。ぼくはいま児童文学に田園を材料とするものが多いといったが、事実はどうなのか。正確には、都会を材料にしても田園のふんい気を抜けだしていないということなのだろう。それにくらべて、このまんがはとにもかくにも現代を提出する。
ぼくたちは常に垂直に立っている建物を見ている。この日常感覚をちょっとゆすぶってみる。建物が傾斜して書かれるとき、常には単なる環境でしかない建物がちがう意味をもって現れる。新鮮とはいえないまでもまだ手あかのついていないこの技法によって、建物は現代のメカニズムを示すのだ。
そして、次には望遠鏡にうつる風景。デパートの直線に対して、円が、曲線が提出される。内容よりも何よりも、現代は技法によって提出されているのである。
また児童文学をひきあいに出せば、大井広介は「ちゃんばら芸術史」のなかで次のようにいう。「現代でも、映画を何十年もみなかったという年寄りがたまにいるらしい。そういう人に、映画をみせると、省略がわからず間誤つくという。アパートのドアに手をかける。ドアをあけると勤め先の場面になっていると、アパートの私室の隣室が勤め先のように思込んだりする。といった笑話を一、二きいたが、それからみると、昔の映画の演出法はバカげて忠実なもので、舞台の幕間をチョンぎってつないだようなものだったというほかはない。」
児童文学はむかしの映画とたいしてかわっていないようだ。子どもの心に、くいこんでいる現代のなかでこそ、児童文学は展開しなければならないのだが、その方法はほとんど考えられていない。
そして「冒険船長」が第三回では船員のダンさんが登場する。白ろう紳士と対決する主人公勇少年とダンさん。その時、ダンさんは白ろう紳士にむかっていう。「おっ、やるのか、おもしれえ」「ここんとこ、つづけざまだね、いきがいをかんじるぜ。」拳銃をつきつけられている時のことばである。生命の危険の時に、いきがいを感じる今日の人間――ここではおそらく裕次郎映画などのセリフが下敷きになっており、「今夜も刺激がほしくって」西銀座駅前に出ていくというような歌の子ども版になる――がイミテーションながら出てくるのだ。
こうしたまんががこまるのは、実はこのイミテーションによっている。刀の数とか、殺人場面がどうこうというのは、本質的な問題ではない。イミテーションは危機そのものを伝えず、危機感だけを伝え、心のうちにある危機感を、なぐりあいをやる時にだけ「いきがいをかんじるぜ」という調子に流してしまう。
悪書追放をさけぶ人びとのおそるべき錯覚――たとえば、アカハタ四月十日号に映画「コタンの口笛」の批評がある。「子ども向とすれば、姉妹の内面的苦悩だけでなく、流れるような詩情や幼いなりにゆたかに展開していく夢がもっとえがかれていたいところだ。」
この「流れるような詩情」を子どもに必要と考える人が多いから、こまるのだ。すぐれた児童詩にあるものは詩情などというものではなく、それは神話的未分化の世界を示している。児童文学者が現代をつかんでいないのは、ひとつにはその「詩情」がさまたげとなっている。
危機をとらえることが必要だ。危機を描いた児童文学が一編も存在しないあいだに、危機のイミテーションのまんが(またテレビ物語)がはんらんしている。そして、子どもに危機感などないという人は、すこし子どもの作文でも読んでみたらよかろう。一見、明朗健全に見えるその作文の底にも、どす黒い現代が毒気を吐いている。
そして、危機と共に危機を越えるエネルギーを、それこそ危機を基盤として「ゆたかに展開してゆく夢」を描くべきだ。その可能性もまた、俗悪といわれるものに多く含まれている。
3
松竹の子ども映画「高丸菊丸・疾風篇」の原作は「おもしろブック」連載のまんがであったが、ラジオでは高垣葵脚色でやっていたもの。
あらすじは、天下乱れて万民苦しむ時、博楽王は家に伝わる竜虎の御印によって、かくされた財宝を取り出し、天下を平和にしようとする。しかし、虎の御印は遠く黒姫の山中にかくしてあり、ふたつの印がそろわなければ宝物の所在はしれない。そして、ふたつの印がそろった時、河野朝光のうらぎりにあい、博楽王はのがれて四国石槌の山中にはいる。
これが物語の前提であって、博楽王の二子が高丸菊丸。博楽王の友人なるかみ(?)王のむすめ柱比女は離れ小島に住んで、河野朝光をねらっている。
この柱比女の武器に「くろくじら」という潜水艦が出てくる。一方、朝光のほうには三人のよう術使いがいる。黒蛇法師とどくろ銀之助とガマ使いのばあさん、黒蛇法師は腰のひょうたんの酒を口に含み、ぷっと空中に吹けば、その霧のなかにテレビのように、遠くにいる高丸たちの姿が浮かびだす。また、身をゆすぶって他人に化けることもできるし、しゃくじょうをふりたて、じゅ文をとなえて、人の魂を抜きとることもできる。
どくろ銀之助もテレビのような透視の方法を心得、また怪物に化けることができ、目から殺人光線を出すこともできる。ガマ使いのばあさんは犬ほどの大きさのガマに毒気を吐かせて、あいてをやっつける。
このうち、もっとも科学的なのが「くろくじら」であることはいうまでもない。ガマ使いがもっとも非科学的ということになろうが、黒蛇法師の心を抜きとるさいみん術にしても、どくろ銀之助の殺人光線にしても、多大の精神集中を要すると見えるので、機械を中心とした「くろくじら」とは対しょ的な位置にある。
つまり、高丸菊丸対河野朝光の戦いは科学対よう術の戦いという一側面も持っているわけだ。もし、これを前面におしだした場合、この作品は比類のない児童芸術になりえただろう。どくろの仮面をつけ、あるいはガマの背に乗って登場するよう術は危機に対応し、科学はそれを乗り越えるものに対応する。そして、共に人間の可能性をはてなく展開してゆけばよいのだ。一個の文明批判が成立する。常にぼくたちは次元のちがう発想を組みあわせて行くことが、必要なのかもしれない。
なおつけたせば、三人のよう術使いのうち、もっとも非科学的なガマ使いのばあさんは、菊丸に殺される。石槌の山中から、どくろ銀之助の攻撃をのがれて、きょうだいは別べつの道を松山に向かってくる。それぞれの道で、銀之助とばあさんがきょうだいを待っている。
菊丸は人買い屋敷から、いもうとと知らずに女の子を救いだす。彼女は、高丸が落とした竜の御印を拾って持っている。そして、やはり人買い屋敷から逃げだしてきた大刀の男と三人、とちゅうで追っ手にあい、菊丸は毒矢を受けた。
そういうことを知った(らしい)ばあさんは、ガマにむかってつぶやく。「これサブよ。わしにもそろそろ運がむいてきたようじゃ」
このことばには、よう術使いの悲哀がこめられている。ガマを飼いならしたこの年月、銀髪のこの老婆は安楽な生活を送ったことがないだろうか。彼女は以前、高丸をガマの毒気にあててしまったことがある。その腕前からいえば、彼女は一流ではないにしろ、まず二流の上くらいのよう術使いであろう。そのよう術使いが、髪に霜をおいてのち、やっと運がむいてきたと喜ぶ。悲哀でなくて、なんであろうか。
ここに見られるのは、よう術使いの身分の低さである。彼らは河野朝光の命のままに動く。彼らは単なる技術者でしかない。いつの世でも技術は政治の下に置かれるということの意味、またその技術にふさわしい待遇を受けていない不遇のよう術使いを、このひとことがら感じとることもできるのである。ただし、この作品がそのようにできているということではない。
よう術は小波をさいごとして姿を消し(大正期児童文学では荒とうむけいというようなよう術はもう存在しない)、のち大衆児童文学にだけ受けつがれる。坪田譲治には魔法があるが、その魔法は小さく、よう術の壮大さは存在しない。これはひとつには彼が生成の世界に住み、たとえば「びわの実」はひとりで成長変化していく点にもよっているのだろう。対立物が存在しないのである。
それにくらべて、多くのまんが・読み物はほとんど、よう術対よう術という発想によっている。もちろん、それは悪と正義という対立になっていて、正義のよう術というものはあり得ないのだが、月光仮面とその敵手、たとえば怪獣コングのあいだには本質的な差はないと見てよい。
ぼくはせめてキリシタン・バテレンの魔法を書いてみたいと思った。バテレンの魔法と日本古来の忍術が衝突する。異質のものがぶつかりあう時にこそ、はげしい火花は散る。
だからといって、その火花にだけ目を奪われてはならないだろう。よう術対科学は歴史的現実である。宗教対科学の戦いを経て人間は今日に至ったというだけではなく、現実の断面はよう術対科学の様相を呈している。よう怪変化はぼくたちの目の前を横行しており、彼らを書くことは実にアクチュアルなしごとであるはずだ。
やはり少年マガジン連載のまんが「13号発進せよ」(高野よしてる)に次のような場面があった。恐りゅうが空飛ぶ円盤をくわえてふりまわしているという場面だ。この場面には、恐りゅうという前時代的なものにふりまわされている科学――というものが感じられ、おもしろい。現代日本がここにはその実体を見せている。
このシーンは当然そのまんがの文脈の上で生きるもので、その前には怪盗紅とかげが自分のむすこ研一少年を火星人の円盤に連れ去られたという事件がおこっている。紅とかげは火星人の縮小機と恐りゅうを手に入れている。火星人はその縮小機を返さなければ研一のいのちはないというわけだ。紅とかげは縮小機を返そうとするのだが、子分たちはそれに反対する。なにしろ縮小機というのはすばらしい機械で、彼らはその機械で恐りゅうを小さくして時限ショックトランクのなかに入れ、銀行の地下室にそれをあずけ、数時間後、恐りゅうが百倍の大きさになって銀行を破壊したその混乱のどさくさに宝石を盗みだしたことがある。だから、子分たちは縮小機を返そうとする親分に反対するのだが、ここで紅とかげは大みえを切る。「いくら悪人でもおれはこどもの親だ。」その背景は空とぶロケット13号でありメカニックな建築物であり火星人であるために、この紅とかげの姿は戯画的である。ナニワブシ的セリフが笑いをさそうことにより、ナニワブシ的モラルは宙に浮いてしまおうとする。ここにも現代の矛盾が書かれているのである。映画「高丸菊丸」のさいごは黒蛇法師に魂を抜かれた高丸がうつろな目つきで船のへさきに立っている。小舟でやってきた菊丸が「にいさん」とさけぶ。だが、高丸は弓を取り、菊丸めがけて矢を放つ。これと同様な場面が東映映画「遊星王子・第一部」のなかにある。サンフランシスコではたしかに飛行機に乗った真木研究所の所員が羽田では姿を見せない。やがて彼は半病人となって研究所に現れる。深夜、彼は病床で目を開く。彼は悪魔的な容相になり、ひとけのない研究所の廊下を歩いていく。あとをつけるふたりの少年。彼らには友人の研究所員の行動がぶきみなのだ。彼らはこの友人が銀星からやってきた、まぼろし大使の意のままに動くあやつり人形と化していることは知っていない。
ここでは日常性の仮面をはいだ人間の正体があかるみに出されようとしているので、やはり「遊星王子・大空魔団の巻」(これはまんがだが)では、善と悪の薬を注射された堀田博士が登場する。悪の薬がきいてきた時、堀田博士は「うおーっ」とさけんで自動車の屋根を突き破り、拳銃を乱射しながら飛び出していく。ジェキルとハイドがここに生きているのはいうまでもなく、人間の分裂がとにもかくにもとらえられている。
よう術、よう怪の伝統を考える時、ぼくは近松門左衛門に「化くらべ丑満の鐘」という作品があったことを思いだす。円朝の「牡丹燈籠」、そして秋成の「雨月物語」。日本の文学の豊かな伝統を今日の児童文学は受けついでいない。
「雨月」はぼくにドイツ・ローマン派の諸作品を思い出させる。そして、「雨月」のスリラーに対しょ的な位置を占めるものとして、「ふしぎの国のアリス」を思い出す。いわゆるファンタジー(空想物語)にぼくがなじめないのは、ぼくが日本のよう怪のなかにおい育ったためであろうか。「アリス」とか「ちびくろ・さんぼ」とか「ピーター・パン」――これらはやはり本質的には異国のものであるようだ。
ただ異国のものというだけではない。さきにもいったように、現代は不安と危機と異様な真空状態に満ちている。いったい世の中に自分を信じることのできる人間が幾人いようか。先年、定時制の高校生が女子高校生を殺した。深い理由があったわけではない。ぼくはこの事件にショックを受けた。きょう、ぼくは平穏な生活を送っている。だが、あすは、ぼくも理由なく人を殺すかもしれない。紙一重のところでバランスを保っている精神状態にとっては、「くまのプーさん」も「エミールと少年探偵団」もはるかに遠い。日本、外国をとわず、ぼくたちは近代にわかれを告げるべきなのだ。
4
英国の十四才の少女が書いた「奇妙な悪魔」という本がある。主人公はファッション・モデルのジュディスという少女。彼女のところへまだ会ったことのないいとこドリンダがそのいいなずけザメスといっしょにやってくる。その前後、ジュディスの周囲には微妙な変化がおこる。彼女は町で会う紫色の目をした男の人に魅力を感じる一方、ザメスのそばにいるだけでしびれてしまうほどの刺激を受ける。そして、ザメスはどうもその効果を意識して行動しているらしい。まだドリンダの頭のまわりに、月のかさのような薄いあみの目がかかっているように見えたりする。流しの壁には奇妙なしみが現れる。
ザメスとドリンダは実はよう精であったということになるのだが、それがわかるまでの奇妙な経過は一種のスリラーである。
「影なき声」という日活映画を浅草の二流館で見たことがある。これはおとなむきの映画であり、やはり二流の部類に属する。原作は松本清張。電話交換手が深夜まちがって殺人強盗の現場に電話をつなぎ、犯人の声をきいた。数年後、その交換手は結婚し、夫は失業してこまっている。夫はインチキ会社にやとわれ、彼ら夫婦のアパートの一室を社長たちのマージャンの場所として提供することを命じられる。
妻ははじめその接待にいそいそと働くのだが、連日のマージャンの音と、そのような夫の勤めに疑いを持ち、やがて隣のへやで頭をかかえて苦しむようになる。そのマージャン・グループがかつての殺人犯であったわけだが、その犯罪を切り離して、このアパートの生活はぼくの心に響いた。
市民の平穏な日常生活、それが一度、夫の失職ということに出あうと、たちまちくずれてしまう。また平穏な日常生活と思っていても、知らぬ間に生活がむしばまれているということもある。そして、犯罪は自分とは関係のないところから、突然襲いかかってきて生活をうち砕く。この際、犯罪はいわゆる犯罪であるよりも、たとえば沖縄の小学校にジェット機が落ちたように、もっとひろがりのある大きい政治的、社会的なものを含んでだ。
危機にある現代の生活をこの映画はとらえた。スリラーはただ興味に呼びかけるだけではない。現実がスリラーの様相を呈しているのだ。
松本清張はいう。「建物も、電車も、自動車も、人も、彼の視界にさりげなく映っている。眼にうつっていることが現実なのか。しかし、じっさいの現代の現実は、この視界の具象のかなたにありそうだ。眼はそれを遮蔽した壁を眺めているだけにすぎない。」(眼の壁)
この「眼の壁」――日常性をひきはがした現実を見せつけられた時、ぼくたちはショックを受ける。日常性をひきはがしていく方法、これがスリラーなのだ。結果、なんという奇妙な世界が姿を見せてくることか。ぼくたちは十四才の少女の内面世界を清純と錯覚しがちである。あるいは、ローティーンにも乱行ありという錯覚。
だが、「奇妙な悪魔」の提出する世界は名づけようもなく奇妙である。実にいびつな世界、フェアリィランドは内界と外界にわかれて戦っており、その内界のいわやのなかには内界の守護神である巨大な「赤ん坊」が住んでいる。この「赤ん坊」にジュディスは立ち向かう。ここには少女のセックスに対する不安と期待が現われている。こっけいかつ真剣な世界なのだ。そしてこのいびつな世界はそのまま外部の状況と対応している。
この作品の特徴は内部世界と外的状況を同一次元でとらえている点にある。外形があり心理があるという十九世紀的世界は完全に崩壊してしまっている。いわゆる典型はもはや存在し得ない。
日常性破壊の上に成り立ったこのような作品が読者に与える効果は、感動というより暴力的に読者をひきずって行く。それは荒あらしく生理的なものである。子どもの全身をゆすぶろうとすれば、ぼくたちはこの生理的なものに目を向けざるを得ない。
ここで、今まで見てきたまんがや映画の例を思いおこそう。一種のデフォルメが彼らの特徴である。そして、それはけっして象徴というようなものではない。だからといって、またたしかな実在であるともいえないのだが、ぼくは将来の児童文学を考える時、実に抽象的、それでいて全身に興奮を感じさせるものを想定することがある。将来というより現在必要なものとしてだ。
そして、もうひとつのデフォルメ、沢島忠監督の東映時代劇「片眼の狼」では、冒頭五つの首つり死体の下で堺駿二が進藤英太郎のあば敬にむかってしゃべりまくる。なんとよく口のまわるやつだと見ていると、「おしゃべり伝六でござあい」と結ぶ。そこで観客はどっと笑う。どっと笑うと共に観客は伝六のがわに参加している。単なる同化、感情移入とか共感とかいうよりも、もっと能動的、積極的参加なのであり、その根元にはショックがある。
山崎大助監督の「唄ごよみ出世双六」では里見浩太郎の夢見の長次が、その名のとおり夢見がちな青年である。彼は長屋を荒らす悪侍、悪商人の手元のグレン隊たちを板きれでうちのめしながら、その板きれをまっすぐ立てて、赤城の山の国定忠治、あるいは「こよいのこてつはよく切れるぞう」というスタイルの見えを切ろうとする。そこを子どもに注意されて我にかえり、ふたたびグレン隊と戦うのだが、ここにもショックの変型がある。
常に目の壁をひきはがしていく作業、これこそアクチュアリティであり、読者・観客の作品に対する能動的参加はこのアクチュアリティによってこそ生まれる。そして、目の壁をひきはがした時、ぼくたちの前には危機と共に土着のエネルギーも現われよう。
ぼくは大衆児童文学の創造の可能、不可能を論じようとは思わない。啓もう的なかけ橋として通俗児童文学のひきあげ、また「赤い鳥」以来の児童文学の大衆化をはかろうとも思わない。ぼくはただアクチュアルな作品を求める。文学のはっこうがどうこうということはいっておれない。一編の名作よりも多量のアクチュアルな作品のほうが意味がある。そのためには、もっとも新しいものと、もっとも古いものの結合が必要なのだ。こう考える時、ぼくたちは現代大衆児童文学への第一歩を踏み出している。そして、それこそ現代児童文学なのである。
(未発表・一九五九・八月)
あとがき
最近読んだ本のなかで、いちばんおもしろかったのは、安部公房の「第四間氷期」と西郷信綱の「万葉私記・初期万葉」でした。
おそらくこのあたりに、ぼくの求める児童文学の姿がかくれているような気がします。「第四間氷期」では、現実は奇妙な二重構造を持っており、その表皮をはがしていくと現われてくるのは、水棲動物・水棲人間のオートマチック(と感じられる)な生産組織です。水棲動物を作りあげていく工場のイメージは、巨大で音のない世界です。水中だからあまり音がしないのでしょうが、真空地帯も音のない世界です。そして、この工場の大きさにくらべて、たったひとりで魚をならしたりしている第一号水棲人の少年の姿は、なんともいえずさびしいものでした。
ぼくたちの生活の表皮をはがしてみると、実はぼくたちも水棲人間なのでしょう。このやりきれなさ、というよりたしかな現実を創造する作品が、児童文学にはありません。受胎後三週間以内の胎児が七千円で売買されて水棲人間工場へ送りこまれる、時には父母の意志がどうあろうともいう現代で、児童文学は、ひよわなヒューマニズムの幻を追っているように思います。
人間をとりかえし、新しい時代を作るには、壮大なエネルギーが必要です。「万葉私記」の世界では、愛情も自然に対する態度も、今のようにわい小化されておらず、ことばは創造力に満ちています。ぼくはずっと日本近代童話の呪文的性質の清算を主張してきましたが、今、新しく「呪術よみがえる」日を期待しています。
そして、「第四間氷期」と「万葉私記」との統一物として、チャペクの児童文学が存在しているような感じです。今後の児童文学評論は、ただ児童文学作品だけ対象にしていたのでは成り立たないでしょう。
さて、この本は、一九五四年以来書いてきたぼくの児童文学論のうちから、数編を選び、新しく「さよなら未明――日本近代童話の本質」と「現代大衆児童文学の創造」の一部をつけ足したものです。今までに発表した論文にはいくらか削除訂正の手を加えたものもありますが、当時の考えを残すため、できるだけ原形のままにとどめました。だから、矛盾した部分も出てくるかもしれません。
目次の123の区別は、それぞれ、いわゆる「童話」の本質論、作品論、今後の方向、とでもいうべき区別です。お読みになるかたは、2から始めて3へ行き、さいごに1に返るほうが理解しやすいと思います。
なお、読後感を寄せてくださればさいわいです。
この本ができあがるには多くの人のおせわになりました。さいしょ、本を出すべきだと言いだし、原稿を写してくれた近藤亮さん、佐々木守さん、村田明繁さん、題名のそうだんには山元護久さんたちがのってくれ、それをぴしゃりときめたのが佐野美津男さん、目次の決定はやはり佐々木、佐野の両氏。ぼくに今まで多く原稿を書かせたのは、新しくは江部満さんで、古くは「小さい仲間」の鳥越信編集長、さらに児童文学にぼくをひっぱいこんだ竹本昭(筆名・松井荘也)さん、逸してはならないのが、わが妻文恵の協力と、とにかく多くの人の力でこの本ができました。
さいごに、この危険な、つまりもうけにならないどころか、そんをしかねない出版を引き受けてくださった岡野篤信さん、藤井駿一さんたち「くろしお出版」のかたがたに感謝します。
一九五九年八月 古田足日
テキストファイル化山口雅子