B 戦後の創作児童文学についてのメモ=’60の胎動
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文学というものの重要な側面は文学表現がどのように変化・発展してきたかということである。いわゆる内容がその表現を規定していることは事実だが、内容を中心とした場合、表現の歴史は脱落しやすい。
そして、日本の児童文学史を考える時、表現の歴史を検討することは、ことに大切である。日本児童文学はまだなお安定した文体を持たず、発展途上にあるからだ。だからこそ戦後の児童文学論は「児童文学とは何か」をめぐって展開してきたのであった。
ぼくはこのメモのなかで、まず表現の変化について考えたい。
*
「児童文学とは何か」という問が出てきたのは、いわゆる良心的児童雑誌が姿を消したのちのことである。
以前、ぼくは戦後児童文学の時代区分について、こう書いた。
「その第一期はいわゆる良心的雑誌が児童文学運動の主体となった時期であり、敗戦の年からはじまり、昭和二十六年(一九五一)の『少年少女』の廃刊に至るまでである。以後数年間を第二期とし、第三期のはじまりを昭和三十四年(一九五九)八月におく。」
なぜ三十四年八月に第三期のはじまりを設定するか、それはのちに述べることとして、「児童文学とは何か」ということが問われ出したのは、その第二期の時代である。
この第二期は、いわば同人誌時代である。『麦』『馬車』『もんぺの子』『小さい仲間』など、それぞれの同人誌で「児童文学とは何か」ということが追求された。だから、この時期を同人誌時代と考えることができるのであり、ただ同人誌の数が多かったから同人誌時代というのではない。
残念なことには『馬車』はその精力的な活動にもかかわらず、記念碑的な作品を残すことができなかったが、『麦』は『ながいながいペンギンの話』(いぬいとみこ)、『あり子の記』(香山美子・発表当時は『川にさす潮』)を生み、『もんぺの子』は『山が泣いてる』(発表当時は『ヘイタイのいる村』)を同人の共同創作として完成させ、『小さい仲間』は山中恒の『赤毛のポチ』を生んだ。
では、これらの同人誌群はなぜ「児童文学とは何か」をあらためて考えなければならなかったのか。おおまかにいえば「二十年代の後半から三十年代はじめの時期、日本児童文学はマスコミと外国作品の挾撃を受けて、いわば体質改善をせまられ」ていたからである。
しかし、外的状況がすべてを決定したわけではない。むしろ自分自身が満足できる表現を求めて、同人誌の書き手たちは書いた。
『だれも知らない小さな国』の巻末の著者紹介を見ると、作者佐藤暁は「戦後、神戸淳吉・いぬいとみこ・長崎源之助の諸氏と同人誌『豆の木』を発刊、そのときの経験で、力の不足を痛感し、今日までこつこつと研究してきた」となっている。
『豆の木』は戦後第一期の同人誌であり、佐藤暁はこの第二期「こつこつと研究」していたわけだが、「力の不足を痛感し」とは、いったいどういうことであったのか。自ら力の不足を感じるのは、自分の表現に不満を感じることであったはずだ。そこで佐藤は新しい表現を求める。同人誌の書き手たちのなかにもそういう内発的なものが作用していた――と、ぼくは見たい。従来の童話では書き切れないものを同人誌の書き手たちは持っていた。
たとえば『山が泣いてる』。この作品では「この物語は日米行政協定が正式に調印された年(昭和二十七年)の十月からはじまる」と明瞭に時が指定され、「アメリカ軍の砲座は、この最上川のほとりにある。第一砲座はいちばん川下の三ヶの瀬、第二砲座は隼、第三砲座は川上の基点のちかくにある」と場所も指定される。その時、場所はどうしても作者たちが書きたかったことのひとつである。この日本の山形県、最上のほとりの基点にアメリカ軍の第三砲座があったという、抜きさしならぬ事実、それを作者たちは書きたかった。そこに生起するさまざまの事件を作者たちは書きたかった。
それはもはや童話の方法では不可能なことであった。作者たちの関心はある特定の現象そのものに集中されているが、童話はいわばその現象群をこえたところで別の現象をつくりだすという方法をとっているからである。第一期、さかんであった無国籍童話はそうしたものであったのだ。
もっとも生活童話にはある現象を克明にえがきだすものがある。『山が泣いてる』は生活童話とは親近関係を持っている。この作品は「小説としてよりは、一九五〇年代のアメリカ軍の基地下におかれた村のありさまを記録としてのこそうというきもち」から書かれたものだからである。
そして、このことばからもわかるように『山が泣いてる』は作者たちの内発的表現であったのだ。
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さて、戦後児童文学が明瞭な変化を示したのは昭和三十四年のことである。三十五年の前半までの主要作品を年表ふうに並べてみよう。
34年三月 少年の理想主義について(佐藤忠男)『思想の科学』3月号
〃 あめはまちかどをまがります(山元護久)『ぷう』3号
七月 いやいやえん(中川李枝子)『いたどり』3号
八月 だけも知らない小さな国(佐藤暁)
九月 谷間の底から(柴田道子)
〃 現代児童文学論(古田足日)
〃 キューポラのある街(早船ちよ)『母と子』九月号より翌年十月号まで
十月 荒野の魂(斎藤了一)
〃 風と花の輪(塚原健二郎)
十二月 木かげの家の小人たち(いぬいとみこ)
35年四月 子どもと文学(石井桃子ほか)
〃 とべたら本こ(山中恒)
この年表で見ると、ざっと一年間のあいだに反伝統(?)の評論、評論集が三本集中していることがわかる。これは第二期の理論活動の成果であった。
また新しい幼年童話の芽生えもこのころにあることもわかる。同人誌『ぷう』は三十三年二月に創刊された幼年童話研究誌であり、山元護久・小沢正たちが同人であった。
年表にあげた『あめはまちかどをまがります』は、晴天の日、レインコート、長ぐつ、雨ぐつというかっこうで学校に来たタロチンがみんなに笑われるが、おなじようなかっこうの男の人に出あう。その人が自分の「晴天用雨がさ」をさすと、そのかさとタロチンのかさの上にだけ雨がふってくる。ふたりが町かどをまがると、雨もくねりと町かどをまがるという作品であった。
そして、三十六年一月の『ぷう』4号には、のち『目をさませトラゴロウ』にまとめられる『とらごろうのみぎのきば』『はこのなかには』を小沢正が発表することもつけ加えておこう。
次にこの年表にあらわれた創作単行本を見ると、塚原健二郎をのぞいては、ほとんどが新人の作品である。(ただし、数人の旧人の作品をこの年表でははぶいてある。それほど重要な作品とは思えないからである。)
それ以前、同人誌時代にあたる二十年代の後半から三十年代のはじめにかけて、児童文学の不振がさけばれ、創作単行本の出版が自費出版的なものもふくめて年に十数点という時期があった。
この状態から児童文学が脱出するきっかけになった作品は、三十二年末の『コタンの口笛』(石森延男)であった。この本が売れたことで、以後児童文学の創作はふたたび出版されることになる。
だから、戦後児童文学の第三期の起点を『コタンの口笛』におく人もいるだろう。しかし、『コタン』につづく創作単行本の著者は、たとえば山手樹一郎とか新田次郎など、おとなの文学の作家であるか、または宮下正美・小林忠孝のように旧人であった。新人が集中して出てきたのは昭和三十四年以後のことである。
そして、それらの作品群は新人の名にふさわしく、新しいものを多かれ少なかれ持ちあわせていた。その最初の作品『だれも知らない小さな国』をぼくは戦後児童文学の第三期のはじまりと考える。この作品こそ新しい表現を獲得したものであったからだ。
ぼくはこの作品について次のように書いた。
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これらの諸作品(三十四年後半の作品群)は数年前からくりかえされてきた「児童文学とは何か」という問に対する具体的な答であると見ることができる。
とくに『だれも知らない小さな国』と『木かげの家の小人たち』はみごとな答を提出していた。この二作品は共にファンタジィである。石井桃子の言うようにファンタジィは日本では、宮沢賢治の諸作をのぞいてはほとんど見られないものであった。この二作品は新しい領域をひらいたのであった。
日本のいわゆる童話はムード的なものであり、情緒的ふんい気にみちていて、そのイメージはかならずしも明確ではない。しかし、石井の見解ではファンタジィとは目に見えないものを、見えるようにえがきだすことである。さらに、「少年文学宣言」の「童話から小説へ」にはじまる私自身の主張は、ほぼ次のようになっていた。「坪田穣治は『元来、童話は詩に近い』という。読者を酔わせ、読者に呪文をかける童話は詩的なことばで書かれている。こうした童話と訣別し、散文によって興味豊かな作品を創造しなければならない。」
『だれも知らない小さな国』のこびとのすむ泉のそばの小山は、主人公の「ぼく」にとっては、他人がそれをおかすことのならない「ぼく」の心の中の世界でもある。「ぼく」という人間を支えている、その根源の世界が散文により、まさしく目に見えるようにえがき出されたのであった。
この作品は資質の流出にまかせていた過去の童話とはちがって、自分のうちにあるものを、散文によって明確に形成し、追求していったのである。そして、その自分のうちにあるものとは、戦中、戦後を体験することではぐくまれてきた「個人の尊厳」ということの自覚であった。作者が意識すると、しないとにかかわらず、戦中・戦後の体験に深く根をおろした作品がはじめてあらわれたのである。(成瀬正勝編『昭和文学十四講』のうち『昭和の児童文学』)
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そして、おなじくファンタジィである『あめはまちかどをまがります』のなかで、太い日本の柱のように光る雨がくねりと町かどをまがるイメージのなんとあざやかであったことか。
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戦後第一期の作品群と現在の作品群に見られる表現の変化――その変化をぼくはとりあえず「童話から小説へ」と呼んでおきたい。
「とりあえず」というのは、「童話」も「小説」も規定のあいまいなことばであり、したがって「童話から小説へ」ということの意味はかならずしも明瞭ではないからである。
また『だれも知らない小さな国』『ながいながいペンギンの話』などを「小説」として一括することはむりだからでもある。
そこで、この変化の内容を個条書きにしてみると、
1、詩的文体から散文への変化
2、子どもの関心、論理に沿ったフィクションの強化
3、限定されたイメージの論理的なつみあげ
とでもなろうか。まだほかにあるかもしれぬ。これもとりあえずのことだ。
「限定されたイメージ」というのは説明がいるかもしれぬ。これは「目に見えるように」ということとつながっており、あいまいさをゆるさない。
〈山高ぼうしをかぶった人が店にくるなんてめずらしいので、マサオはその人のぼうしを見ているうちに、コーヒーをはこぶとちゅうで、店のいすにけつまずいて、おぼんの上にのせたコーヒー茶わんを三つとも、おとしてこわしてしまいました。コーヒーがよその女の人のきものの上にかかりました。〉(関英雄『ねむい星』の一節)
〈やがて平地をまっすぐに横ぎり、三角のいちばんとがった先へいってみた。木の間をくぐりぬけてみると、目の下に小川の流れがあった。足もとから流れの中に、大きな岩が、石段のようにかさなって出ていた。向こう岸は深い竹やぶで、その間を小川は大きく曲がっていく。ぼくは、木につかまりながら、段々岩の下までおりてみた。水の流れていく方をのぞいてみると、かすかにあかるく見える。〉(『だれも知らない小さな国』の一節)
このふたつの文章の差、これが第一期と第三期のちがいだ。前者のイメージは弱く、後者のイメージははっきりとしている。前者ではどのようにおとし、どのようによごしたのか、あいまいである。後者のイメージは限定されており、前者のイメージは無限定に近いのである。
ところで、変化のうちの第一、散文への移行を見ると両刃の剣のようなものであった。『山が泣いてる』は一種の生活記録であった。『谷間の底から』も同様である。「児童文学とは何か」ということの追求が行なわれてのちに、この二作品が出たことは児童文学のその後の方向を暗示していたとも考えられる。
生活記録は散文で書かれるもので、万人が書き得るものである。童話創作は作家の資質によっていて、だれでもが書けるというものではない。『谷間の底から』は、いまや児童文学の創作がかぎられた童話作家のものではなく、万人のものであることを示した。
『もんぺの子』同人や柴田道子の表現意欲は従来の童話の壁をつき破ったわけだが、しかし児童文学としての完成という点から見ると、『だれも知らない小さな国』には及ばない。
『谷間の底から』は戦争中の疎開学童を書いたものであり、それはだれかがかならず書かなければならないものであった。むしろその体験が彼女に児童文学を選ばせたものと見ることができよう。『山が泣いてる』と共にこの作品の強みは素材の強みであった。
素材がよければ本になる。それは一転しておもしろければ本になる、という方向へかわっていく可能性を持っていた。しかも、その本はいまやだれでもが書けるのである。昭和三十四年以後の児童文学史は、何百の作品と、新しい方法、新しい内容の作品とがいりみだれる歴史となっていった。
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イメージは山中恒の作品においても強烈である。
〈ふりむいた世界博愛平和教団横浜支部長は、あの長い顔が半分にちぢまったようにびっくりすると、のみかけの酒を勘定台においたまま、日のかんかん照りつける表へ鉄ぽう玉のように飛び出していった。〉(『とべたら本こ』)
この文章からは具体的なイメージだけではなく、物語ふうな語り口も読みとることができる。ここには限定されたイメージよりも、講談のようにたたみかけていくイメージがあり、佐藤暁やいぬいとみこが西欧的近代の方法を身につけようとしているなら、山中は日本庶民の語り口を持っている。
だが、西欧的であろうと、日本的であろうと、佐藤にも山中にも共にフィクションの構築がある。物語の発展がある。
こうして三十四年から五年にかけて、西欧的近代の方法によったもの、生活記録によるもの、日本的講談の発展したもの、三種の作品が生まれたのであった。
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ところで、ぼくは以前、次のように書いた。「以上三作品(『だれも知らない小さな国』『谷間の底から』『木かげの家の小人たち』)によって第三期を設定するのは、ここからはじめて戦争体験が考えれようとし、児童文学の戦後がはじまるからである。」
この三作品にぼくは『荒野の魂』を加えなければならないし、またその変化は『とべたら本こ』に至って完成する。
『荒野の魂』を加えるのは、この本がその後、創作児童文学出版の中心になっていく理論社の創作シリーズの第一冊めであったし、またアイヌ対和人の争いのなかで戦争体験が考えられようとしたからである。
しかし、問題は戦争体験だけではなかった。『だれも知らない小さな国』のみごとさは戦後体験もふくんでいると考えられる点であり、『とべたら本こ』は戦後体験に根をおろしている。
それはどのような体験であったのか。それを考えることで、ぼくたちは昭和三十四、五年にあらわれた児童文学の思想の問題につきあたることになり、それはまた第一期の諸作品が持っていた内容とかかわりあう。そのことを次に考えたい。
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山中恒の『とべたら本こ』が出たのは、昭和三十五年四月のことである。おなじ作者の『赤毛のポチ』が単行本となったのは、その年七月のことであったが、この作品が書かれた時期は『とべたら本こ』よりもはやく、二十八年七月、同人誌『小さい仲間』の創刊号から二十二号に至るまで同誌に連載され、三十一年六月に完結している。
また、おなじ山中の『サムライの子』も三十五年(本誌五月号の西本鶏介の『社会状況と児童文学』では一九六二年となっているが、これは西本の誤記であろう)の発行、発行月は八月であった。
そこで、この三作品の執筆順序、発行順序を整理しておくと、次のとおりである。
執筆(雑誌発表)時期 単行本となった年月
『赤毛のポチ』 28・7〜31・6(小さい仲間) 35年7月
『サムライの子』 32年ごろ(未発表) 35年8月
『とべたら本こ』 34年(未発表) 35年4月
山中は『赤毛のポチ』から『サムライの子』を経て『とべたら本こ』に至る。そして、『赤毛のポチ』と『とべたら本こ』にはその思想内容において、非常に大きなちがいがある。
そのちがいをひと口にいうと、『赤毛のポチ』には楽天性と、組合主義(?)とでもいうか、集団による行動がさまざまの問題を解釈する、という考え方があり、『とべたら本こ』にはそれがない。『とべたら本こ』にあるのは、人間のもっとも基本的な欲望――生存への欲求である。
ここには集団への信頼などかけらもない。親子夫婦のあいだにも信頼関係は存在しない。生存のためにはおたがいが、おたがいの敵である。ここでは人間はすべて(第三部をのぞき)知恵と力を働かして自分で生存していかねばならぬ。
人間と人間世界をこう見る考え方はその後の山中の作品の基調となる。『頭のさきと足のさき』(四十年八月)にも『その名はオオカミタケル』(四十年七月)にもそれがあり、短編『弥吉とヤイキプテの半分』(三十九年『きりん』)にもあらわれる。
このように多くの作品に共通性が見られることから、この個人的生存への欲求は山中自身の理想であり、戦後体験とは結びつかないのではないかという考え方も生まれるであろう。
だが、もしそうだとしても、その世界の発見には戦後体験が媒介となっている。現実に『赤毛のポチ』的世界はどれだけ実現され、どれだけの効果をあげたか。生活はやはり楽ではなく、政治は常に望む方向とは逆に動いているではないか。また、たてまえとしては暴力は拒否され、何かといえば「話しあい」ということばが持ち出されるが、現実はやはり生存競争の社会であり、弱い者は敗北しているではないか。
こういう現実論理が一方にはあり、一方には弱者の団結というスローガンへの反撥がある。とかくメダカはむれたがるのであり、また集団とか団結といっても、そこにはどれだけの信頼関係が生まれているのだろうか、という根本的な疑いもある。
山中はそこを通って人間の根源的なところへおりていく。自立できない人間がどうわめこうと、これは自滅する世の中である。ひかれ者の小唄をうたうな、まず生存を――と、山中が考えるとき、山中は過去の日本児童文学のヒューマニズムと完全にえんを切った。
戦後直後のいわゆる民主主義児童文学の諸作品と、『とべたら本こ』とは、表現の面でも内容の点でも決定的に異質である。民主主義児童文学作品のなかで社会と人間のあり方が風刺され、批判されるとき、その作者の立場は常に傍観者的であった。この姿勢は同情的なヒューマニズムとつながりがある。弱者への同情は自らを一段高くおいたところから生まれるものであり、傍観者の批判もやはり自分を高きにおく。
いや、その批判が知的批判にすぎなかったという方が「傍観者的」というより正確であるかもしれない。いわゆる無国籍童話や、岡本良雄の諸作はそうであった。もしも行動が書かれてもその行動は子どもの生活と論理の展開による行動ではなかった。
『とべたら本こ』は、弱者と見られやすい、まずしい少年を主人公として同情をけとばし、観念的社会批判をすてた。『赤毛のポチ』にはまだ民主主義児童文学に通じる要素――ヒューマニズムと団結信仰とがあった。だが、『とべたら本こ』は民主主義児童文学へのあきらかな対立物であり、またそれを乗りこえていた。
もしこの作品につながるものを昭和二十年代に求めるなら、それは平塚武二の『太陽よりも月よりも』であろう。かつて岡本良雄は『太陽よりも月よりも』を評して「ガマの油売り的文体」と、ぼくに語った。(少しちがった表現になっているかもしれないが、ほぼ同様の意味の文章が岡本の平塚作品評としてどこかに記録されているはずである。)
この「ガマの油売り」的文体は『とべたら本こ』にも共通のものである。さらに人間を、まず生きるというところからとらえるやり方にも共通性がある。『太陽よりも月よりも』をぼくは敗戦直後数年間の作品中もっとも戦後的な作品と考えているが、それは大日本帝国の興亡がこの作品に象徴されているというだけの理由ではない。この作品は生存――「うえ」につながっている。人間の根元的な欲望につながっている。
『とべたら本こ』の作品中の時代は現代である。だが、そこにも「うえ」がある。主人公カズオの行動は敗戦直後の浮浪児の行動と同様ではないか。
『とべたら本こ』で山中はあらためて、戦後のもっとも原初的な体験の意味を問おうとした。それには戦後の二次的体験――幻影におわった民主主義や、素朴な団結信仰を通過しなければならなかった。そして、その結果出てきた、人間は強者として生きねばならぬという考え――このいわば自立の思想の芽生えは昭和三十年代のはじめ、あちこちにあった。
のち、まったくの現状肯定、子どもバンザイに転落していく阿部進の「現代っ子論」の芽生えもこの時期であり、彼も子どもを保護されるだけのものと見る考え方に反対し、実行不可能な「話しあい」に反対して、その主張は当時においては有効性を持っていたのである。
しかし、山中と阿部とではまた大きなちがいがあった。山中は『とべたら本こ』の主人公カズオの浮浪児的生き方を無批判に肯定しているわけではない。のちに述べるが、カズオは解体された自我としてもとらえられており、阿部が子どもをトータルな人間像としてとらえたのとはちがって、はるかに深く現代的であった。
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ここでぼくは西本鶏介の意見にふれておこう。西本は『とべたら本こ』を「社会的児童小説」群の一つにあげている。(『社会状況と児童文学』本誌五月号その他)
そして、西本によれば「社会的児童小説」の作者たちは「文学の本質である美とは何か、人間とは何かの追求を忘れて、目に見える現実の矮小な部分にとらわれ、児童文学における政治の有効性を信じ、社会不正にたちあがる労働者や子どもを描きさえすれば、今日の新しい全体的児童文学が書けると思いこんでいた」ということになる。
だが、先にいったように山中はむしろ「児童文学における政治の有効性」に不信を抱いたからこそ『とべたら本こ』を書いた。この作品のどこにも「社会不正にたちあがる労働者や子ども」の姿はない。
ただし、西本は次のようにもいっている。「ここでは(中略)政治的子ども人間を登場させるか、さもなくば、無責任な功利性と動物本能的エネルギーをもった生理的子ども人間を描くかの二面しかなく」と。この「生理的子ども人間」ということばはおそらく『とべたら本こ』の主人公カズオをさすものであろう。
だが、先にいったように山中は無批判にカズオを肯定しているのではない。高橋カズオの父親となった邦夫氏は新聞記者たちにいう。「お互に魂と魂のふれ合いがあるから、そこで強く親子として結ばれるんだ。お互の魂のコミュニケートできない親子なんか、ノライヌのざこねだ。君等は、もっと人間を見なおしてこい!」
西本のいう「無責任な功利性と動物本能的エネギーをもった生理的子ども人間」はすでに作品中において否定されているのである。この否定を作品の必然的発展として見るのには、『とべたら本こ』第三部は一部、二部にくらべてたしかに弱すぎる。
しかし、物語の終り近いところで出てくる、この「ノライヌのざこね」ということばは、物語のはじまりのころの「大きくなったけものが、時には、親とも命をかけてたたかうというのをきいて、なるほどと思った」ということばと照応しあい、後者をうちけした。
人間の欲求はただ生存への欲求だけではない。人間には層々と重なりあう欲求がある。その表現は古めかしく、ありきたりのものであったが、カズオが道子に百円やり、「でかくなったら結婚しような」というのも「功利性と動物本能的エネルギー」にすぎないのだろうか。ここには生存とはまた別の人間的欲求がある。
カズオは東京へ行く。なぜなら「東京は広い。人が大ぜいいる。もちろん、横浜と同じように、だれもが信用出来るわけではない。だが、一人くらいは、彼に同情し彼のために一肌ぬいでくれるような人間がいるにちがいない」からだ。
カズオは他人に同情を求める気の弱い子どもになったわけではない。ここでの「同情」はむしろ人と人の心のつながり――のちに邦夫氏のいう「魂のふれあい」のことだ。もう一度いっておこう。カズオは「功利性と動物的エネルギー」だけの子どもではない。
おおまかなところ、この作品の第一部、二部ではカズオの生存への欲求が書かれ、第三部では動物的生存以上のものを求める人間が書かれる。この第三部にはヒューマニズムへの傾斜があり、「魂と魂のふれあい」という、できあいのことばがとびだしてくる弱さがあるが、しかしそのさいごは美しい。
「おたあめしっ!
とべたらほーんこ!」
病院の外で子どもたちがこう歌う。この「とべたらほんこ」ということばには、子どもたちの願望がこめられている。ゴムとびをして、とべたらほんこであり、とべなければうそこである。遊びに一心になった子どもの気持、いま目の前にあるゴムひもをとびこえたい、という子どもの心がそのままあらわれていることばである。横道にそれるが、このことばの解釈からいっても、本誌六月号の斎藤英男の題名論はまったくの暴論である。
そして、吉川カズオ、山田カズオとかわって高橋カズオにたどりついたカズオ少年の変身が、ここでうち切られるなら、邦夫氏の願いがかなえられるなら、それはほんこであり、またなおカズオの変身が続くなら、それはうそこである。ゴムひもを、いま目の前にある障害をとびこえることができるかどうか、その切ない願いが「とべたら本こ」ということばに結集する。
ここで、ふたたび岡本良雄の意見をきこう。いつのときであったか、明治大学で集会があったとき、岡本さんは、第三部を非難したぼく(たち)にいった。「カズオはいつまでも高橋家にいるだろうか。また出ていくのではないか。」
そうだとすれば、とばなければならないひもはつねに高く、カズオは無限に変身していく。第三部弁護のための岡本さんのことばは逆にこの作品の失敗をついたことになった。邦夫氏のいう「魂と魂のふれあい」を望みながら、カズオは永久に「とべたら本こ」とくりかえさなければならないのである。
人間の心と心のつながりはどのようにして可能なのか。『とべたら本こ』はそれに答えられなかった。しかし、その問題提示の意義はけっして小さくない。人間と人間の信頼関係は古くて新しい問題であるというにとどまらず、山中が提示しようとしたことは、連帯ということばで表現されるものであった。
「魂と魂のふれあい」をかつて新美南吉は地域共同体のまぼろしのなかに再現させようとした。またある人びとは弱者を見おろすヒューマニズムの世界のなかにそれを求め、民主主義児童文学は団結のなかにそれをとらえようとした。
だが、山中の立つ場所は現代である。ひとりの少年が吉川カズオから山田カズオ、高橋カズオに変身していく世界である。自分が自分でなくなっていくこの世界と、動物的生存の世界とが重ねあわせられる。この世界では『だれも知らない小さな国』にあるような人間の尊厳は存在しない。近代的自我も存在しない。そして、これこそ日本の姿である。一方では自我成立の余裕もなく、一方では自我はつねに解体されていく。
『とべたら本こ』はこの前近代と現代との両面をきっかりとらえたというまでには至っていない。ことに両者の相関関係の把握はふたしかである。
にもかかわらず、日本をこの両面においてとらえる可能性がそこにはあり、自我以前、人間以前のところに根ざして、自立の思想の芽生えがある。佐藤暁は近代を通ろうとし、山中は日本の特殊性のなかで生きようとする。
そして、この自立の思想と、変身せざるをえない現代という条件のなかで、人間連帯への欲求はどのようにして可能なのか。これが自立の思想と共に『とべたら本こ』の提出した、もうひとつの問題であった。
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ところで、西本鶏介は彼のいう「社会的児童小説」が「生みだされてきた背景」として、昭和三十五年の安保闘争体験をあげる。西本はいう。「(こうした作品の作者たちは)実際に民衆の結集したエネルギーが権力と有効に戦い得る姿に、現実をつき動かす理想を見い出し、それは、とりもなおさず、今日的児童文学の描くべき真実であり、本格的リアリズムにふさわしいテーマであると認識された。」
この意見は、西本自身もっとも排撃している。社会現象と作品とを一直線に結ぶ論理の上に立てられている。しかし、創作と体験の結びつきはそう簡単なものではない。
だが、とりあえずこの西本理論がなり立つものと仮定してみると、この安保闘争体験ののちに「社会的児童小説」は書かれたことになる。はたしてそうであったか。
西本は『社会状況と児童文学の』のなかで、「当時を代表する」といって八編の作品をあげた。その作品群の書かれた時期は次のとおりである。
まず『もんぺの子』同人の共同創作『山が泣いてる』これは昭和二十七年、その作者たちのひとり鈴木実によって『ヘイタイのいる村』として同人誌『少年文学』に書きはじめられ、二十九年四月から共同創作として『もんぺの子』に連載されはじめる。
香山美子の『あり子の記』は、『川にさす湖』という題名で三十一年五月から同人誌『麦』に連載されはじめる。鈴木喜代春の『北風の子』はそれよりはやく三十年八月から、学級文集『むぎの子』に連載されはじめ、翌年完結する。さらに『サムライの子』は前にしるしたように三十二年ごろの執筆によるものである。
こうして西本説は事実に反する。西本のあげる作品の半数は安保闘争以前の同人誌時代に書かれたものなのだ。歴史的事実に立ってものをいう場合には、その事実そのものをたしかめてもらいたい。
ことのついでに、また斎藤英男にも登場してもらうと、彼は『大衆児童文学の現況』(本誌五月号)のなかで阿部知二の『新聞小僧』をひきあいに出してこういった。「過去に於て、少年クラブ誌上の作品と、赤い鳥誌上の作品を比較し、前者は大衆児童文学作品で、後者は純文学作品だと考えられた」が、「今となると(中略)『新聞小僧』を大衆児童文学作品のジャンルに入れ、稲垣昌子の『マアおばさんは猫がすき』を純文学のジャンルに入れるなんてことは、とてもできないことではなかろうか。」
これもまた事実をたしかめない意見である。『新聞小僧』は斎藤のいうとおり『少年クラブ』にのったが、その時期は昭和二十三年一月号から同年十二月号までである。この時期の『少年クラブ』は、過去の『少年倶楽部』やのちの『少年クラブ』とはちがっている。
その前年一月〜十二月の連載は吉田甲子太郎の『兄弟いとこものがたり』であり、二十三年の後半には那須辰造の『みどりの十字架』が連載されている。そして『日本児童文学大系』第五巻の年表を見ると、二十四年の頃に「周囲の状勢に押されて、従来比較的良心的だった『少年クラブ』『小学○年生』等、俗悪化す」としるされている。
こうして斎藤英男はその結論はさておき、その手続きにおいてふたつのあやまりをおかすことになる。ひとつは『赤い鳥』と『少年倶楽部』(『赤い鳥』と対比する際『少年クラブ』はあやまりである。昭和二十一年四月号から『倶楽部』が『クラブ』になった)をくらべるのに、戦後の作品である『新聞小僧』をひきあいに出してきては、まるきり例証にならないということである。
第二は『日本児童文学大系』の編者たちが、「比較的良心的」と評した時期の『少年クラブ』作品もまた例証にならないということである。
評論の最低の約束として、事実はもう少し尊重してもらいたい。こういう細部のことがその評論そのものの信頼度を低くし、ひいては雑誌『日本児童文学』の信用まにで及ぶ。『少年倶楽部』と『少年クラブ』を混合するようなことは、まったくこまるのである。
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本論に帰ろう。西本のあげる作品のうち、まず四点は除外された。のこり四点のうち『とべたら本こ』と『キューポラのある街』も西本説の裏づけにはならない。西本のいうように「民衆の結集したエネルギーが権力と有効に戦い得る」までに安保闘争が発展していくのは、昭和三十五年になってからである。そして、『とべたら本こ』は昭和三十四年に書かれ、『キューポラのある街』も同年九月から連載がはじまっている。その構想は執筆当初にすでに成立していたと見るべきである。
こうして西本説に該当するのは『少年の海』(『だ・かぽ』三五・九・〜三六・六)と、正確な執筆時期のつかめない『ドブネズミ色の街』だけになる。そして、『ドブネズミ色の街』には「民衆の結集したエネルギー」が権力とたたかう姿は出てこないのである。
しかし、この小論は西本批判を目的とするものではない。『とべたら本こ』に帰ると、この作品は前にもいったように、児童文学における図式的政治の有効性への疑い、反撥から生まれている。
西本が大ざっぱに「社会的児童小説」と一括したもののなかにも二種類の反撥しあう作品があったのであり、その微妙な対立はときにはさざなみを立てながら、表面は一応おだやかに現在に至る。山中恒の『宿題ひきうけ株式会社』評(『日本読売新聞』)はそのさざなみのひとつであったと思う。ただし『宿題ひきうけ株式会社』はいままでの社会批判小説とはことなる面も出していたはずだと、作者のぼく自信は思っている。そして、作者山中はそれぞれの作品がはたす役割について広く見ようとはしないのである。
安保闘争と児童文学の関係はぼくから見れば、意外なほど弱い。『とべたら本こ』はその闘争が盛り上がる以前に書かれた。そして、安保闘争中、従来の団結すれば的考え方と、自立の思想の芽生えは衝突しあう。『とべたら本こ』はそこで自らを理解してくれる時代にぶつかったわけだ。子どもがこの作品を一種の冒険小説、悪漢小説と読もうと、そのなかにふくまれる自立の考えは子どものなかにはいりこんでいく。
だが、『とべたら本こ』ではその思想はかならずしも明確ではなかった。それを明確につかみ、表現したのは小沢正であった。彼の作品こそ安保闘争の体験に根をおろし、その体験から飛翔した作品である。『少年の海』『キューポラのある街』『ドブネズミ色の街』、それぞれ安保を経なくても、あらわれ得る作品であった。
小沢正・山元譲久たちの同人誌『ぷう』は三十六年一月発行の第四号に『昏迷は動き始める』というエッセイを発表した。無署名のこのエッセイは『ぷう』同人全員の考えといってよかろう。そのエッセイは次のようにはじまった。
「三十四年三月に三号を発行して以来、『ぷう』は、二年近くの沈黙を続けた。ぼくたちにとって、この沈黙は、新しい方向を求めての苦悩を意味している。」
この苦悩、二年間の昏迷ののち、『ぷう』は安保闘争のなかに自らをおいた。「そして、安保闘争の夜を徹しての坐り込みや雨の中の唱声は、おくればせながら、ぼくらの目をぼくらをとりまいている外部状況に向かわせ、幼年童話観にも決定的な転機をつくってくれた。」
このエッセイは次のように結ばれる。「ぼくらの昏迷は、つづいている。だが、その昏迷は、すでに動きはじめた。ぼくらは、その心からの誇りをもって、『ぷう』の四号をおおくりする。」
この『ぷう』四号に、のち『目をさませトラゴロウ』におさめられる小沢正のトラゴロウ・シリーズ最初の作品『とらごろうのみぎのきば』(のち『きばをなくすと』と改題)『はこのなかには』が発表されたのである。(『日本児童文学』一九六六年五月、八月)
テキストファイル化鶴田かず美