『児童文学の旗』(古田足日 理論社 1970)

D 現代のファンタジィを=児童文学時評'68



 この六月、日本子どもの本研究会が武蔵野市で「子どもの本の選び方、与え方」の講座をひらいた。そのプログラムの中に、子どもの読書会の実演があり、四年生の子どもが十人あまり、ずらりと壇の上に並んだ。
 このとき、材料となった本は『車の色は空の色』(あまんきみこ・ポプラ社)。その第一話を教師が読み、子どもに感想をきいた。
 ある子がいった。
「みんな、いいところにきたと思うと、おわるみたい。」
「そうだ、そうだ。」
 ほかの子もいっせいに声をあげた。「みんな」というのは、この連作短編集を子どもたちは、その前に読んでいたからであり、この本の全作品を指している。
 この子どものたちの発言が、私には実に印象深かった。その数日前、私は作者のあまんさんにある会合で出あったとき、あの本の作品はすべて長編の出だしだと思った、と話していたからである。また、これほどみごとに、子どもたちが、それもほとんど全員がそのことを指摘するとは思っていなかった。そのおどろきが非常に大きかった。
 だが、いまおどろきのことは問題ではない。私があの本の作品を長編の出だしだと思い、子どもたちが、いいところにきたらおわると思ったのは、どういうことか、そのことを考えたい。

 私があまんきみこの作品をはじめて読んだのは、『びわの実学校』十三号(昭和四十年十月発行)にのっていた『くましんし』である。
 人間の世界に山からくまがおりて来てくらしている、というこの物語には新鮮な感覚があった。そのくまは、しんしである。彼の奥さんは「緑地の着物に、白地の帯をきっちりむすん」でいる。くまのイメージは明確であった。
 だが、新鮮さの一方、古さも感じた。「葉のすっかり落ちたイチョウの並木が、まるでつめたい冬の空を、カチッととめ金でおさえているように、遠くまでならんでいます。」この文章には新しさと古さとが同居している。「冬の空を、カチッととめ金でおさえ」るイメージはすばらしい。だが、その前後はいままでの童話と同様のイメージなのだ。
 細部に古さ、新しさが同居しているように、作品全体にも古さ、新しさが同居している。くましんしのイメージは新鮮だが、タクシー運転手がそのくまと出あう、という創作方法はどうなのか。連続する人生の一部を切り取り、人生の一断面をのぞかせる、というこの方法は、過去の童話の方法であった。「過去の童話」というものを完全に規定することはむずかしいが、ここでは、いぬいとみこが、かつて、小川未明の幼年童話『なんでもはいります』について述べたことばを思い出せばよい。
 正ちゃんのポケットには石ころもはいる。広告のビラもはいる。大きいミカンもいくつにもわけて入れた。「このかわいらしいポケットに、なんでもはいらないものはありません」という、この作品について、いぬいとみこは、こういった。「もし、この同じテーマをつかって、子どものお話を書くとしたら、主人公の子どもが、ポケットにはなんでもはいります、という『発見』をしたところから、何か事件がはじまるべきなのです。」
 このことばはぴたりと『くましんし』にあてはまる。くましんしに出あうのは物語の発端であり、そこから「何か事件がはじまるべき」なのである。そして、その物語の展開の中で、くましんしのイメージはより豊かに、よりあきらかになっていくはずだ。
 このように考えると、『くましんし』はおなじ空想的な物語であっても、『だれも知らない小さな国』とは質的にまったくちがうのである。
 だが、この作品――『車の色は空の色』は、最近出た数冊の中級対象の空想的物語の中で、私にはもっとも好感の持てるものであった。他の作品は技術的には向上したが、内容は非常に小さい。作者には失礼だが、切りすてごめんふうにいうと、私は『赤いチョッキをきたキツネ』にも、『せんにんのひみつ』にも失望した。『トン子ちゃんのアフリカぼうけん』では、これでよいのかと思った。アフリカということばのひびきは、私には、新興諸国の苦悩と誇りとを連想させる。アフリカはもはや動物の国ではない。作品中にアフリカが出てくるなら、そのアフリカは、やはり今日のアフリカと相通じるものを持つべきであろう。かえって、まるっきり架空の国であった方がまだしも救われる、というものだ。
 これらの諸作品では、現実と切り結ぼうとする態度がきわめて弱い。それにくらべると、『くましんし』=『車の色は空の色』は、人間世界の中にクマがおり、ヤマネコがいるという、現実をつかもうとしているのである。
 そして、『ふしぎなつむじ風』はある部分で現実とふれあったのち、通俗的物語へ傾斜していった。この物語は『子ゾウのブローくん』とともに、今日の児童文学作法の典型を示している。一方では、つむじ風がおこり、一方では、だれもいないとき、ゾウから電話がかかるという事件があって、それが発端となるのである。
 日本民話を下じきにした『じんじろべえ』では、支配者と被支配者とが書かれる。こういうテーマは私自身、好きなテーマなのだが、これがどうして現代の中で書かれないのだろうか。あるいはまったくの架空の物語として出てこないのだろうか。かみなりや、カッパという既成のイメージにもたれかかる面を、この作品は持っている。
 こう、いってみても、それぞれの作品のそれぞれの作者の苦労は、私なりにある程度はわかる。金や時間、日常の雑事に制約されながら作者は書く。そして、書きおわったあと、書きたいと思っていたことは実はこれではなかった、と作者は嘆息したりする。私のように、批評と実作との二足のわらじをはく者は、他人の作品への批評が自作への批評ともなることを、身にしみて知っている。自ら願う理想どおりの作品は、自分自身にも書けないのである。だからといって、批評をやめるわけにはいかない。批評も実作と同様に作品である。表現形態のちがいにすぎない。ただ今日、批評と実作と、もうひとつ児童文学普及のしごとの、三者の関係は複雑であり、この矛盾の中で、批評する者はしばしばにがい思いを味わわせられる。
 横道にそれた。私のいいたいことは、まずひとつは、中級対象の作品内容はどうあるべきか、ということである。これはまだ手さぐりの状態であり、その迷いが、ことに『ふしぎなつむじ風』にはあらわれているのではないかと思う。
 ただ、それにはもっともっと作品が多量に積み重ねられ、子どもの反応がたしかめられていかねばなるまい。
 そして、その作品創作の際、技術を先行させてはならぬ。中級むきという規定から、多くの作品はいま見るような内容をとってきたのではなかろうか。子どもの現実感覚は、意識されているもの、無意識のもの、両方にまたがって、今日の作品より広く、するどいものだと思う。
 もうひとつの問題は、それが中級であるか、どうかはさておき、現代日本のファンタジィを、ということである。そして、それは次の鳥越信のことばとかかわりあう。
「僕は、たとえば基地問題にしても、進学問題にしても、ダム問題にしてもつまり何も十年後、五十年後という時間的未来まで引き延ばして書くということじゃなくて、時間的な意味では現在ということで、しかし、物語としてそこまで完結できるものが書けるはずだと信じているわけです。自分は作家でないから書かないけれども、書けるんじゃないかと思っているのです。なぜ作家がそれを書かないのか、僕は非常に不思議だ。」
 これはことし二月発行の西郷竹彦編『シリーズ・文学と教育』の1『国民教育としての文学教育』中の座談会の発言である。もともと児童文学のリアリズムをめぐっての発言だが、ファンタジィとおおいに関係がある。
 ファンタジィということばを私なりに解釈すると、小川未明の『赤いろうそくと人魚』はファンタジィではない。レンガを積むように、明確にイメージで構築された想像的な世界がファンタジィの世界であり、その世界の論理も、そこに住む人びとにとってはきわめて日常的なもので、べつに飛躍しているわけではない。
 この創作方法は、たとえばアーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』その他のリアリズム諸作品の創作方法と、根本的にかわりはない。ともにイメージを積み上げて、フィクションの世界がつくられ、作中人物たちは彼らの性格にもとづく論理で行動し、その行動のぶつかりあいによって物語は展開していく。そして、その物語の発端はつねに事件である。
 だから、もし一つの法則(これはおそらく自然科学・社会科学の方法と重なりあう)に伴うイメージと論理の展開による創作方法をリアリズムとするなら、リアリズムにつらぬかれた作品にはふたつの形態がある。ひとつは日常的世界で展開する物語であり、もうひとつは空想的な世界で展開する物語である。この後者を私はファンタジィと考え、その日本における代表作は『だれも知らない小さな国』である。
 以上を前提にして前記鳥越発言について考えたい。ただ結論を先にいっておくと私は彼の発言にはほとんど全面的に賛成できない。にもかかわらず、それは日本の今後の児童文学を考える重要な手がかりとなる。



 前回しるした鳥越発言を要約すると、「基地問題にしても、進学問題にしても、ダム問題にしても、(中略)物語としてそこまで完結できるものが書けるはずだ」ということである。
 おなじ座談会の中で鳥越は次のようにもいっている。「基地を取り払いたいと思っても、取り払えない。ダムを撤去したいと思ってもできない。高等学校に進学したいと思っても行けない。これが現実です。しかし、リアリズムというものは、果たして、その段階でとどまっていいかということに、僕は根本的に疑問がある。(中略)つまり作家というものは、いつでも現実のあとばかり追っかけていくのが作家じゃないのだから、未来を先取りするという、そういう作家の権利というか、作家の作家たるゆえんをもって活用することはできないのか、(中略)ということをいま考えているわけです。」
 ここで鳥越のいっている「リアリズム」は、前回、私の解釈したリアリズムとはちがう。日常的世界で展開する物語を彼はリアリズムと考えている。それは次のことばにもうかがわれる。「僕が問題意識として持っているのは、(中略)いわゆる日本のリアリスティックな児童文学が、とりわけ社会的なテーマを持った場合に、いつでも現実が進行したところまでしか書けないという問題があるのです。」
 その例として、彼は『山が泣いている』、『水つき学校』、『キューポラのある街』、『あり子の記』をあげる。どの作品もいわゆるリアリズムで、日常的世界で展開する物語である。
 これらの作品に対して鳥越は疑問を出す。「なぜこれだけの要求を登場人物たちが持っているにもかかわらず、物語が、その要求を満たしたところで終わらないか。」つまり、鳥越にとって、こういう作品のあるべきかたちは未来を先取りしたもの――基地なら基地が撤去され、ダムならダムが撤去される作品である。これは日常的次元で展開する作品についての鳥越意見だが、それは同時に彼の考える児童文学の本質とつながっている。「児童文学は物語の完結性を持たなければならない、(中略)つまり、物語の発端において生じた要求は、結末で完全に満たされるべきだというのが僕の考えだから」と、彼はいうのである。
 いわゆるリアリズム――日常的次元での作品のあり方について、なんらかの意見が出てくるのは、当然のことである。昨年の『ヒョコタンの山羊』(長崎源之助・理論社)、ことしの『出かせぎ村のゾロ』(須藤克三・理論社)、この二作には創作方法の進展があるが、この二作が出てくるまでの、この種の作品はたしかに現実の模写に近い。それも六〇年(昭35)の『山が泣いている』から六五年(昭40)の『水つき学校』に至るまで、五年間、足踏みの状態にあるのだから、それを発展させようとする意見が生まれなければ、おかしい。
 すでに数年前、西本鶏介は“社会的リアリズム(社会問題を取り扱った日常的次元での作品)”の作品群批判を行ない、この種の作品への不信を表明したことがある。この西本説は、“社会的リアリズム”の作品群すべての否定であった。その種の作品の発展を考えようとする鳥越説が、そのとき出なかったことは残念である。「出なかった」とはいっても、研究会の席上では出ている。それも鳥越ひとりではなく、神宮輝夫や私自身からも出ているのだが、それが神宮の評論の一部にあらわれたほかは活字化されていない。
 批評の停滞がここに見られる。いまいった研究会は六四年(昭39)に埼玉県飯能で開かれた、日本児童文学者協会主催の合宿研究会であった。そのときの鳥越説がやっと活字化されたのが、いままで引いてきた座談会の記録である。
 そして、今日では、考えなければならない作品が出てきている。前記、長崎・須藤の作品がそうであり、また『もう犬を飼ってよろしい』(国分一太郎・小峰書店)も、“社会的リアリズム”発展の重要な作品である。また自作をあげて恐縮だが、私の『宿題ひきうけ株式会社』にもこの種の作品を発展させる要素がふくまれているものと思う。
 だが、いまのところ、こうした作品群をまとめて、あるいはこうした作品群に限定して、創作方法の発展を考えようとする批評は、ほとんどない。空想的作品群についてもそうであり、私見では今日、批評活動はないにひとしい。あるのは、評論のかたちをとった普及活動でしかない。または、児童文学史研究である。これは普及や研究をおとしめることではない。普及のための紹介、評論や、過去の児童文学発展の道すじをつかもうとする研究の進展にくらべて、創作発展のための批評が停滞していることをいいたいのである。
 本論にかえろう。
 私も鳥越と同様に、鳥越が例にあげた諸作品に不満を持つ。ただし、それらがある役割をはたしたことは十分に認め、拍手をおくっての上のことだが。
 私の不満もまた鳥越と似ているところがある。それは前回いったように、私は、「子どもがポケットになんでもはいることを発見したところから、作品ははじまる」という、立場に立っているからである。
 つまり、発見以後はフィクションの世界であり、現実模写の世界ではない。鳥越もほぼ同様の立場に立つと考えられる。
 だが、それからさきがちがう。鳥越のいう「未来の先取り」は実際の社会の未来のことである。作品が先行し、実際社会がその作品に示されたように動いてくる。こうしたことを彼は考えているらしい。
 それが可能なら、作者は神である。あるいは、実際社会の諸条件がそれだけちゃんと計算でき、未来が予測できるなら、その作者はむしろ政治家となる方がよいのではないか。鳥越のいう「未来の先取り」は、実は政治家にこそ要求される「未来の先取り」である。
 さらにまた、児童文学は要求充足(これについても私は疑問を持つが)、したがって、日常的次元の作品中でも基地撤去の要求は充足されなければならぬ、という鳥越説は機械的ではないか。逆に実際社会の未来に至る過程が、作品中に示されるなら、その作品は、実際にその未来実現の力を持つおとなたちの指導者にこそなるべきものであろう。
 この鳥越説には、実際社会と作品の関係について根本的な考えちがいがあるのではないか、と私は考えているが、時評では、そこまでふみこむことはできない。ただ彼のこの説が重要なのは、日常的次元での作品の創作方法にある示唆を与えたことと、その座談会で次の発言を引き出したことである。それは、この座談会の出席者のひとり、杉山康彦が鳥越発言をめぐる論議の中でこういったことである。「日本のどこそこのどういう基地だということになれば、どうしたってしゃべるときにしばられてきますけれども、ガリバーみたいな小人の国の基地問題ということになれば、そんなもの、すぐ突破できるわけだ。」
 実は私自身、鳥越におなじようなことをいったことがある。それは「ファンタジィの世界でなら、すぐ実現できることなんじゃないか」といういい方であった。
 たとえば、基地撤去なら基地撤去ということは、私たちの、少なくとも私の願いである。そこに立ちはだかる現実の壁を突破するのには、ファンタジィという形態がもっともふさわしいのではないか。いや、「人が一瞬にして氷雪の上を飛躍することのできる」ファンタジィでこそ、可能なのではないか。杉山康彦も「ガリバーの小人の国」という表現で、そのことをいったのである。
 しかし、鳥越にそういってのち、私は、私及び杉山のことばにふくまれる、二つのあやまりに気がついた。その一つは、そういう種類のファンタジィがどれだけ書かれているか、ということである。それこそ皆無ではないか。基地だけにしばられず、その範囲をいわゆる“社会的リアリズム”の作品群のテーマにまで拡大してみても、一編も書かれていない。
『竜の子太郎』には社会的なものとふれあう面がある。『じんじろべえ』にもある。また最近の民話再話を見わたせば、そういうものがいくつかある。だが、現代的なファンタジィにそれがないというのは、どういうことなのか。民話や、民話的作品にまかせておけばそれでよい、というものではなかろう。
 現代的といえば、『目をさませトラゴロウ』。これは日常的次元ではないところで展開する現代的な作品である。また、えんりょなく自作をひきあいに出させてもらうと、『ぬすまれた町』も日常的次元のものではない。しかし、非日常的ということは、すなわち、ファンタジィということではない。
 私がファンタジィというとき、それはリアリズムに支えられたファンタジィである。しかし、それが量的に一編もないということは、私と杉山に共通する、より重大な第二のあやまりがあることを示している。それは、「すぐ」できるものではないのである。
 私が望んでいるのは、ガリバーの世界ではない。民話でもなく、SFでもなく、風刺でもなく、非日常的な作品でもない。それはファンタジィの名にふさわしい、イメージをつみ上げて構築した世界で展開する、社会批判と新しい社会をつくる物語である。
 この世界には、その世界をつらぬく日常的法則がある。だから出発は、日本の現実の沖縄と重なりあう問題であっても、その空想の世界独自の問題として発展する。それがフィクションであり、そのファンタジィの世界と、その社会の矛盾が明確に示されることで、日本の現実にひそむ問題を照らし出す。しかし、それは「未来の先取り」ではない。今日の私たちの願いと、子どもたちがぶつかっている矛盾をあきらかにすることなのである。



 最近読んで私の印象に残った、日常生活的ではない作品は次の三点である。佐藤さとる『海へいった赤んぼ大将』(あかね書房)、北川幸比古『宇平くんの大発明』(岩崎書店)、ルーシー・M・ボストン作・瀬田貞二訳『まぼろしの子どもたち』(学研)。
 この三作から受けた私の印象をひと口にいうと、『まぼろしの子どもたち』は古典的であり、『宇平くんの大発明』はいちじるしく現代的である。『海へいった赤んぼ大将』には古典と現代の融合がある。
 この際、“古典”“古典的”というのは、物語の世界が、ひとつひとつ明確なイメージで構築され、物語の発展は、この構築された世界の法則によっている、とでもいうことになるだろうか。
 もっとも“古典的”というのはそれだけではない。素材のちがいもある。『まぼろしの子どもたち』では現代の少年が、数百年前の子どもたちと会う。その物語展開の場所は、城を思わせるイギリスの古い館。そこに大おばあさんがひとり住んでいて、その家系は古い昔にさかのぼることができる。
 一方『海へいった赤んぼ大将』では、恐竜のたましいが、パワー・ショベルにもぐりこむ。赤んぼタッチュンは動物と機械、両方のことばがわかる赤んぼである。赤んぼはふつう動物のことばはわかるが、タッチュンのように両方のことばがわかり、しゃべることができるのはめずらしい。
 このように素材・設定がちがう。パワー・ショベルという現代の機械と、イギリスのいなかの古めかしい館とでは、大きなちがいが生まれてくるのである。もちろん、これらが物語の中の単なる風俗だったら、そのちがいには別に意味はない。しかし、グリン・ノウ館も、パワー・ショベルも、それぞれの作品の中でのっぴきならぬ位置をしめている。
 そして『海へいった赤んぼ大将』は現代的ファンタジィ成立の、ひとつの可能性を示している、といってよかろう。作者佐藤さとるのコロボックル小国三部作の第三部『星から落ちた小さな人』には、コロボックルが自分の体にあわせて飛行機をつくる、というところがあった。コロボックルは、人間に比較するとはるかに強い足の力を利用して、羽ばたき式飛行機をつくる。ここにはすでに現代のファンタジィが生まれる可能性があった。
 小人や動物や巨人、そうした素材の多かったファンタジィの世界に「機械」というものが主要な登場人物としてあらわれたところに『海へいった赤んぼ大将』の意味がある。そして、おそらく、より重要なのは、機械のことばもわかる赤んぼタッチュンの出現で、変化していく現代が、この赤んぼタッチュンによって、とらえられるかもしれない。
 現在のところでは、このタッチュンの意味は問いつめられていない。恐竜のたましいがはいったパワー・ショベルが、海に落ちたタッチュンをすくい上げる、そこにある甘さは、タッチュンとは何かをまだ問いつめていないことと、関係があるように私は思う。
 しかし、現代にはさまざまの問題がある。ここで前回いったことをふり返ってみよう。基地撤去なら基地撤去という、日本の現代社会の問題がある。たとえば、そういう問題――つまり社会的なものをテーマにしたファンタジィがないと私はいった。『海へいった赤んぼ大将』の方向が発展していっても、その方向にはやはり、そういう社会的ファンタジィが生まれる可能性はない。
 そこで『宇平くんの大発明』だが、これはファンタジィではない。「SFえどうわ」シリーズの一冊だから、とりあえずSFと考えよう。前にいったように、もっとも現代的な作品で、内容は天才少年宇平君とその発明品をめぐる物語。五つの短編から成り立っていると見ることもでき、全編を通してひとつの物語と見ることもできる。
 その第一話『なんでもながもち機<フメツ>』では、宇平君は物がいつまでも長持ちするように加工する機械<フメツ>をつくる。大発明だから売れてお金がもうかると宇平君は思いこんでいるが、どこからも注文がこない。そのわけは大会社重役と総理大臣の次のような会話で説明される。
「フメツ、ありゃあ だめだよ。ようふくは りゅうこうで きてもらうんだ。それでなきゃもうかるものか。」
「りゅうこうする、しなものじゃなくても、こわれないテレビや、電気せんたく機なんか作ったら、つぎにつかう人が、いなくなって会社がつぶれるよ。」
 このように資本主義社会の原理とでもいうものを『なんでもながもち機<フメツ>』は端的に提出した。
 そして、第五話『とうめいとりょう<ナイパー>』では、宇平君は物を見えなくする塗料<ナイパー>を発明する。そのころ国民は、ミサイルや潜水艦にばかり金を使うのはけしからん、といってさわいでいる。そこで大臣はナイパーを没収し、ジェット機やミサイル、潜水艦にかけて見えなくしてしまう。おこった国民たちはデモをおこし、大臣は自分にナイパーをかけて、にげていくという話。
 実におもしろいが、欲をいえば、より強烈なリアリティがほしい。そのためにはもっと単純化していくこと――骨組みだけにしてしまうことが必要だろう。同時に、たとえば、<フメツ>の売れない理由は、大臣と重役の会話で示されるより、事件で表現されるべきだろう。資本主義社会における耐久性加工機<フメツ>の発明は、さまざまの事件をひきおこすはずである。その事件の中でこの社会の原理と、それに対する批判はもっとも明確にあらわれる。作者のすばらしいアイデアが、物語として十分にふくらまなかったことを、かえすがえすも残念に思う。
 では『宇平くんの大発明』は私の考えている社会的ファンタジィなのか、どうか。それを検討する前に、前々回から、引用してきた「未来の先取り」ということばの出た座談会での鳥越発言に、もう一度目をむけよう。こんどはSFについての発言である。
 「最近SF童話というのが非常にはやっています。(中略)SF童話というのは、たいていの場合千年後、二千年後の世界を描いている。だから、僕はちょっと皮肉を言ったわけです。千年後、二千年後の世界が描けるのだったら、百年後、五十年後の世界が描けるはずじゃないか。二千年後だったら、おそらく日本にアメリカの軍事基地なんてないんじゃないか。だれだって、高等学校に進学できているんじゃないか。そうすると、なぜそこへのプロセスを、作家がリアリティをもって把握できないか、築きあげられないか。」
『宇平くんの大発明』は千年後の世界ではなさそうである。むしろ現在であろう。だから、鳥越発言にそのまま照応はしないが、SFの基本的姿勢は、物語の中の時代を過去、現在、未来、どこに取ろうと、かわりはない。SFが書くのは『宇平くんの大発明』のように現代でしかない。ただその物語展開の場所が千年後なら千年後、と設定されるだけのことである。もちろん千年後の世界を設定すれば、その世界にはそれだけのリアリティがなければならぬ。だが、その世界に軍事基地がないときめてしまうことはできない。ある種の試験はいっそう高い競争率になっているかもしれないのである。
 作者がリアリティをもって、つかまなければならないのは、そこに至るプロセスではない。その世界そのものなのである。ナルニア国がナルニア国としてリアリティを持っているように、である。そして、リアリティをもってつかむためには、作者にはその世界の社会・経済の構造がある程度までわかっていなければならない。
『宇平くんの大発明』はこういう別世界をつくり出してはいない。私の考えるリアリズムに支えられたSFではないのである。そして、子どものSF、ファンタジィは子どものものであるからこそ、一度は別世界を創造しなければならないのではなかろうか。
 おとなは社会や人間を風刺した作品を喜ぶ。おとなは子どもにくらべて社会や人間についての知識・経験が広く、深い。風刺はその知識・経験に訴える。だが、子どもはそういう知識を拡大し、経験を積み重ねなければならないのである。
 作者によってつくり出されたひとつの別世界を、子どもは経験する。その別世界は現実の縮図ではない。フィクションとはもともとそういう性質のものである。日常的事実に取材した作品を書いたところで、それは現実の縮写ではない。SF・ファンタジィでの別世界の創造はそれを極限におしつめたものとも考えられるのであり、その世界を経験することによって、現実は新しい姿を読者の前にあらわすのである。
『まぼろしの子どもたち』は古典的なファンタジィであった。『海へいった赤んぼ大将』は古典・現代的なファンタジィであった。その古典ということばにもうひとつ、共通しているのは、個人的なファンタジィということである。
 私が望むのは、社会的なファンタジィである。空想の国にも社会的ななやみはあり、主人公は何かを要求している。それはたとえば日本の現実の沖縄と重なりあう問題でありながら、その国独自の問題である。『宇平くんの大発明』で国民はデモをおこす。デモはどのようにして可能となったのか。そこのプロセスをふくむ作品――要求実現の過程がリアリティをもって書かれるファンタジィ、そういうファンタジィをだれか書かないものか。日常的次元の社会批判の作品より、もっと自由にもっと豊かな可能性を持っている世界をつくり出すことができるのだが。
(『学校図書館』一九六八年七月号〜九月号)
テキストファイル化小林弓子