『児童文学の旗』(古田足日 理論社 1970)

E 未来と現実 新しい児童文学創造の一試論

1.信州児童文学会の機関誌「とうげの旗」一月号に、和田茂氏の「死と夢と、その他」というエッセイがのっています。ぼくはこのエッセイに興味を感じました。すこし長くなりますが、ぼくが興味を感じた部分を書き抜いてみます。
 <児童文学は現在リアリズムの大道を歩いているわけである。好む好まざるとにかかわらずそのように移り変わっているのであろうが、今にして気になるのは、われわれがイマジネーションという力を失いつつあるのではないかという危惧である。むしろイマジネーションを警戒し拒否しようとする知らず知らずの心の動きを感じざるを得ない。賢治が最も文学的な世界の中で創造し、示したものを、われわれは最も日常的な現実世界の中で日常的な方法で創造し、示さねばならぬ。採るべき手法は限られている。イマジネーションを拒み、日常の小事件を取捨選択して何からの文学性を形作らねばならない。気の重い事である。しかし一旦リアリズムの大道に踏み出したのであるから、この道の上に確かな文学性を見出さねばならぬであろう。このことは過去の児童文学の持った比喩と象徴の時代が去って、写実と批評の時代が来たということであろう。イマジネーションに背を向けることは児童文学が大人の文学と紙一枚の危険な位置に身を置くことであろうが、このようなリアリズム童話に必要とされるものは、やはり批評精神であり、技術的には確実な写実であろう。ノーマルなモラルと広範な常識とも云い換えてもよいであろう。ともあれイマジネーションは自然淘汰のように減退しつつあるようだ。
リアリズムに徹するほかはない。>
この文章には、追求の足りない点がいつくか含まれていると思います。リアリズムでいくと、なぜ児童文学がおとなの文学と紙一重の差になるのか、その理由は説明されていません。またイマジネーションということばも安易に用いられています。リアリズムといったところで、現実の模写ではなく、フィクションがはいってきます。ここにはやはり強力なイマジネーションが参加しています。
だが、ぼくが興味を感じたのは、リアリズムと想像力を対置させて、リアリズムに徹するほかないとする結論です。ぼくはこれとは違って、いわゆるリアリズムを抜け出さなければならないと思っています。和田氏のいう「日常的な現実世界の中での日常的な方法」による児童文学作品は、生活童話的なものと考えられます。「イマジネーションを拒み、日常の小事件を取捨選択」していくのはリアリズムの矮小化です。しかし、リアリズムがそのような外形を呈していることも事実です。
リアリズムの根本理念のひとつは「連続」という考え方があるようです。原因があり、その原因によって結果が出てきます。非常に科学的あるいは合理的です。それは読者の心のなかに、土に吸い込まれる水のようにゆるやかにしみとおっていきます。
 だが、人生は常に連続しているものではありません。突然変異がぼくたちの上におこります。ある朝、目が覚めてみると、見なれた風景が突然新鮮なものに変化しているということは、だれもが持っている経験です。リアリズムは、この経験をやはり連続的にとらえます。驚いている自分の気持ちと同時に、その外界が描かれます。読者のがわからみれば、驚くのが当然だという書き方です。
ここで、もし読者も驚きに参加するという方法を考えたらどうでしょうか。
水が土にしみとおっていくやり方ではなく、岩石をダイナマイトで爆破するようなやり方も存在するはずです。リアリズムの考え方からすると、現在は過去の結果です。未来は現在の結果ということになります。だが、交通事故にあった人のことを考えてみましょう。彼の前に突然、死という未来が現われたのです。八月十五日という日は、ぼくの前に突如として出現しました。和田氏の前提には、日常生活がかわりなくくりかえされるという考えがひそんでいます。しかし、ぼくたちは突然変異こそをとらえなければならないでしょう。なぜなら、その時、ぼくたちはぼくたちがそれまで持っていた知識・考え方のもろさを知り、あるいは自分の全力をあげてその突然変異に対抗するからです。人間と社会の実体が明白に現われるのが、その時だからです。

2.石川淳に「鷹」という小説があります。専売公社をくびになった国助という男が主人公です。しごとをさがしている国助の前にKという男が現われます。Kに紹介されて国助は運河のそばの家をたずねていきました。そこで彼が与えられたしごとは、たばこを、町のたばこ屋へ運んでいくことでした。
 ところが、そのたばこの名は、何とも判断できないアルファベットでつづられています。市販の国産品でもなく、そうかといって現在輸入されている外国製品でもありません。出所不明のこのたばこを、たばこ屋で売ることができるのだろうかと、国助がふしぎに思っていると、店員が国助の運んできたばかりのたばこを、ガラスびんの中に入れかえているのが見えました。国助が近づいてみると、どうしたことか、びんのなかのたばこはピースになっています。国助はそのピースをひとつ買いました。
 彼が喫茶店にはいると、またKが現われ、彼に二冊の本をわたします。一冊は「明日語文法」という題、もう一冊は「明日語辞書」です。開けてみると、今まで見たことのない文字が並んでいます。夕方、国助は運河のそばの家に帰り、その三階の部屋で寝ることになります。国助はそこでたばこに火をつけて、あっとさけびました。そのたばこはピースではありません。ピースなどとはくらべものにならない上等のたばこでした。
 翌日の夜、窓の月光があたります。窓には新聞紙がはられました。朝見た時、
その新聞の活字は、明日語のアルファベットが乱雑にちらばっているだけの紙面で、単語にも文章にもなっていなかったものです。それが月光を受けると、たちまち一斉に運動をおこして、一行となり、一段となり、記事を組みたてました。朝、空白であった四角い部分には、有名な政治家の写真が出ていました。国助は辞書をひいて写真の下の記事を読みました。きょう午後二時三十五分、政治家変死、自動車事故、原因不明、あるいは暗殺か、背後関係捜査中、思想犯・・・・とういあらましがやっとわかります。
 その翌日、しごとの帰りのバスのなかで、人びとが出たばかりの夕刊を見て興奮しています。国助がとなりの人の夕刊をのぞきこむと、きょう午後二時三十五分、政治家変死、自動車事故・・・・という活字が目にはいりました。何も今ごろ驚くことはない、一日おくれではないかと国助は思って、あっと驚きました。夕刊は今日の夕刊です。が、国助がその記事を読んだのは昨夜のことでした。きょうどこにも存在しないことばで書かれた新聞は、あすの新聞であったのです。
 以下は略しますが、この作品がリアリズムではない奇妙なものであることは、以上の部分だけでもはっきりしています。また和田氏は、イマジネーションの例として宮沢賢治を出しましたが、「鷹」は賢治ともちがいます。これはデフォルメです。国助は運河のそばの家に住む人びとのことを考えました。「かれらの肥えた目はもっと遠くを、明後日を、そのまたさきまで深く読んでいるかも知れない。明日のことばを解し明日の事件を知っているというのは、今日の秩序にとって、あきらかに治安を破壊するものである。(略)げんに、かの家では今日のピースではないピースをつくって市中にばらまいているではないか。たしかに明日のピースにちがいない。しかも、その明日のピースのほうが格段に上等の品物なのだから、もしすべての市民がいつかはこの比類なき香と味とをまちがいなく感得するような日が来たとしたらば、いかなる事件がおこるか。たばこについての国助の穏健な思想からいえば、たばこの質が上等であるだけ多くの市民の幸福が約束されるということになる。逆に今日の秩序にとっては、それだけ多く謀叛は悪質になるだろう。」
 未来と現実の関係について、ぼくたちは現在の時間的延長の上に未来があると錯覚しがちです。しかし、前にも云ったように、八月十五日はぼくにとっては突然の出現でした。そして、その日がやってくるためには、毎日毎日、未来の要素がつみたてられていたはずでした。とすれば、現実のなかには、未来と現在が共存しています。あすのピースを作る人びとを未来と見る見方、このデフォルメされた見方のほうが、リアリズムよりも現実を立体的につかんでいるのではないでしょうか。
 児童劇「森は生きている」の最後の場面で、いじわるの継母とそのむすめが犬にされてしまします。人間の皮をかぶったけだものだということばがありますが、このことばは、表面はどうであれ、その実体をさそうとしていることばです。「森は生きている」の最後は継母が実体そのものとなったと解していいわけです。ぼくたちは、表面洋服を着てくつをはいて人間のかっこうをしていますが、その実体はロボットかもしれないし、食物をあさるけだものと同じかもしれません。
 安部公房の小説「第四間氷期」では、現実が二重構造となっています。来るべき陸地の沈下にそなえて、ある組織が水棲人を作りあげています。その組織は、受胎後二週間以内の人間の胎児を買って水棲人にしあげていきます。ここにも、未来と現実の関係が見られるだけでなく、現実がその表皮 ―きょうの生活あすも続くという錯覚― を破って姿を現わしています。このことばが作り出す世界の方が、ぼくたちの目の前に見えている世界よりも真実であるとしか思えない世界なのです。ここに強いイマジネーションが働いていることはいうまでもありません。現実を立体的に見ていくためにも、イマジネーションは不可欠なものです。

3.児童文学の世界でふしぎなことのひとつは、児童文学を児童文学のなかだけで考えようとすることです。外国児童文学の方法を取り入れようという主張はありますが、日本の現代文学から何を取り入れるかということは、ほとんど話しにのぼりません。また、児童文化のほかのジャンルから何かを取り入れるということも、あまり問題になりません。
 だが、デフォルメということを考えれば、ぼくたちはマンガの問題にぶつからざるを得ません。正義の味方月光仮面に対して、悪人はどくろの仮面をかぶって登場します。ぼくが少年時代に読み、いままたマンガ化されている少年時代小説「まぼろし城」でも、やはり悪人はどくろの仮面をつけていました。何も、わざわざ広告するようにどくろの仮面などつけなくてもいいわけですが、これは彼らの実体が悪人であることを示しているものです。
 これはおとなの大衆文学とも関係があります。たとえば、角田喜久雄の「妖棋伝」では、幕府に反抗する男「繩いたち」がでてきますが、彼は醜怪な容貌と野獣のような行動の男です。反体制派は醜怪な容貌を持たざるを得ないのです。ところが、この繩いたちは、実は八丁堀の与力です。昼の間はちゃんと勤めており、この時、容貌は端正です。夜になると仮面をかぶってみにくい顔となるのですが、ここではひとりの人間の二重構造が描かれています。ジェキルとハイドがこの原型とも考えられますが、「第四間氷期」では、研究所の助手である頼木が、また水棲人組織の研究所支部の責任者です。
 祝十郎はイコール月光仮面ですし、「怪傑黒頭巾」はヘボ易者の天源堂でした。ぼくたちは、マンガや大衆小説が、意外に石川淳や安部公房に近いことを意識すべきでしょう。つまり、ここには、児童文学が選ばれた人数の子どもたちのものだけでなく、多数の子どもの心をとらえ、しかも文学性を失わないという道が示されています。
 和田氏がなぜイマジネーションを拒むのでしょうか。リアリズムは現実の再認識に終わりがちです。だが、マンガや「鷹」「第四間氷期」の示す方向は、現実の破壊と創造です。マンガの場合は、新しい現実はまだ姿を現わすには至っていません。しかし、「鷹」「第四間氷期」の場合、現実は創造されています。そして、マンガでも部分的には新しい現実が姿を見せます。
 たとえば、週刊誌「少年サンデー」連載の「0マン」(手塚治虫)のなかに怪人エンマ大王にあやつられる首相が出てきます。真実を探求する科学者が、にせ者の首相にむかって拳銃を発射します。穴だらけになった首相は、それでも平気でにやにやしています。そして、エンマ大王は言うのです。「せっかくの首相がボロボロになった。新しい首相を作らなければならない。」
 この際、問題となるのは読者の方の立場です。ただ単純な意味でおもしろがるか、それともこのマンガに何かを発見するかは、読み方によるでしょう。自由な連想とでも云いますか、読者のがわにもイマジネーションの働きが要求されるのです。手塚治虫のマンガには、まだ童心主義のなごりが感じられますが、マンガ一般の傾向として、その大胆な構図に、ぼくたちは思わず驚かされることがあります。
 ただマンガの場合は、問題の一つは ―ふつうにいわれる残酷だとか、殺人場面が多いとかいうことではなく― それと表面的な現実との関連がはっきりしないというところにあるのではないかと思います。ぼくは以前、映画の「高丸菊丸」について、妖術使いに対して、くろくじらという潜水艦が出てくるところに、現実の実体を発見することが出きる、ということを書いたことがあります(小著「現代児童文学論」のうち「現代大衆児童文学の創造」を参照して下さい。くろしお出版刊)。妖術対科学は、たとえば創価学会の存在に象徴的に見られるように、今日の日本の姿のひとつです。だが、「高丸菊丸」が、あるいは恐竜などの登場するマンガが、この現実の断面図として出ているかといえば、そうではありません。これはひとつの思いつきにすぎず、その思いつきがたまたま現実の実体にふれたということです。ぼくたちは現実の表面と関連した立場で実体をとらえる方法を考えなければならないでしょう。悪はどくろ仮面の姿をしているにしても、その表面は、人間の顔をしているのです。
 ぼくたちは、もともと未来のことを考えなければならないでしょう。そしてその未来と同時に、未来を考えている自分自身も作品の中に書きこむのです。その時新しい現実が姿を現わします
 信州に小泉小太郎という民話があります。犀竜のおとしごが川を流れて婆さまにひろいあげられました。一杯くえば一杯だけ、二杯くえば二杯だけ育っていくこの小太郎は、のち母の犀竜にまたがって、山々にぶつかっていき、大きな湖水の水を落として、いまの松本、安曇の両平野を作ったそうです。ぼくたちの先祖は、自然改造の願いを持っていました。ぼくたちは新しい犀竜を書くべきです。そして、信州なら信州の自然をどうしていくかという未来の計画と、その未来の人間の行動とを、いま目の前にいる人間とを対比させてみることが必要なのではないでしょうか。
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 以上は、最近ぼくの模索している新しい児童文学の序論のようなものです。近ごろの児童文学の問題としては、他にいくつもの問題があります。たとえば、小川未明否定という名で呼ばれている問題、これは、単純に未明がどうこうというだけでなく、児童文学の概念を変えよ、児童文学の本質・条件をあきらかにせよという問題や、童話は詩であるという信仰・発想を砕いて、散文による児童文学を確立しなければならないという主張を含んだ複雑な問題です。
 また、去年は、比較的多くの長篇創作が出ました。その作品中に含まれている問題 ―たとえば、戦争体験をもとにした数篇の作品が、なんの関連もなくばらばらに存在しているという現象があります。なお、児童マスコミをどうみるかという問題も、見のがしてはならないことです。
 しかし、これらの問題は、いわば基礎的な問題です。創作の方法を考えていくとき、これらの諸問題(外国児童文学から学べという主張を考えにいれても)からは答が出てきません。ただ、マスコミ作品の問題は、創作の方法・読者の問題・児童文学の概念の問題など、さまざまの領域にわたって興味深いものです。ぼくは、あるいは「良書はなぜ読まれないか」ということを書くべきだったかもしれません。この小論では、いわゆる児童文学には全然ふれていなので、児童文学論を期待したかたを失望させたかもしれないからです。が、ぼくの心をもっと強くつかんでいるのは、新しい児童文学をどのようにして創造するかという方法の問題であり、その方法は、従来の児童文学から出てくるとは思えません。ぼくは「鷹」「第四間氷期」のほかにもう一つチェコの作家カレル・チャペクの小説「山椒魚戦争」についても述べたいと思っていました。この三編のおとなの小説の路線の上に、未来の児童文学のひとつの方向が示されています。
 そして、「水滸伝」「西遊記」こうした小説にあるエネルギーと想像力 ―これもまた未来をさしていると、ぼくは思います。これと「鷹」の方向は全然別のものではないでしょう。現在の奥にかくれている未来は、実はエネルギーの一形態ではないでしょうか。壮大な想像力とエネルギーの統一に、ぼくは理想の児童文学の姿を発見するのです。(「信濃教育」1960年3月)
テキストファイル化山本裕子