『児童文学の旗』(古田足日 理論社 1970)

P.149 子どもと児童文学

H 文学教材の特質と道徳指導



文学教材の特質と道徳指導ということだが、この文学教材ということばを、ぼくは文学作品と考えたい。文学教材ということばは、おそらく、教師が教育の材料として使うという条件ののとにおかれた文学作品のことを指しているにちがいないし、その際教育の材料として使うという条件はべつに特質として考える必要はないからである。この条件は、材料の質があきらかになったところで、それをどう生かすかという、第二の問題にかかわりあってくる。
文学作品は直接、道徳指導にやくだつものではない。これをはっきりさせておかないとまちがいがおこる。
ぼくたちは一遍の小説に感動する。子どもの文学でいえば、坪田譲治の善太三平物――たとえば『魔法』という作品である。ケシの花が咲いている庭で、善太と三平が魔法ごっこして遊んでいる。ただそれだけの話にぼくはひきいれられる。
いや、もう善太三平は古い、読んでもさっばりおもしろくないという人がいるかもしれない。では、石井桃子の『ノンちゃん雲にのる』はどうだろう。その書きだしの部分は母親が、ねているノンちゃんをおいて東京へ行ったので、ノンちゃんがわあわあ泣くところである。どの家庭にもおこる、この日常的なできごとにぼくたちは感動する。
これはなぜだろう。その理由は、一遍の文学作品はつねにある基調によって統一されているからである。誤解のないようにつけくわえるが、この基調というものは主題のことではない。作者が対象にはたらきかけ、その対象をことばによって制服していく際の強い緊張がその基調なのである。この基調によって、文学作品は美的なものとなる。美的ということばが不適当とするなら、統一性、集中制とでもいえばよかろうか。これを作者の創作行為、読者の鑑賞行為から見れば、美的経験、あるいは統一的経験ということになる。
つまり、読者に統一的経験をおこなわせるのが文学作品の第一のはたらきであると、ぼくは考えている。ぼくたちが日常、経験する事件には基調は存在していない。日常の生活のなかには、種々雑多なものが統一されないまま、雑然と並んでいる。だから、統一的経験はごくまれにしかおこらない。
石井桃子著『子どもと文学』によれば、昔話が子どもの文学の基本である。なぜ昔話が基本なのか、そのひとつの理由は、昔話はつねに「目に見える具体的できごと」を出しているからだが、その特ちょうはいまのところ、この小論の論旨と関係がない。重要なのは次にのべるもうひとつの特ちょうである。
「昔話では、一口にいえば、モノレールを走る電車のように、一本の線の上を話の筋が運ばれていきます。(中略)だいたいの昔話は、どれをとりあげても。はじまりの部分、展開の部分、しめくくりの部分と、三つの部分に分かれています。モノレールに終点がなければ、子どもたちは疲れるし、途方にくれてしまいます。」
昔話の特ちょうをのべるこの文章は、一面、統一的経験についてのべているものと見ることができる。「このモノレールは、一つの話の中の、時の流れと考えればよいでしょう。時の流れに沿ってできごとが連続していて」という昔話では、時の流れが作品の基調と重なりあっているのである。
そひて、統一的経験というものにははじまりがあり、おわりがある――これは、悪評されることも多いプラグマティズムの親玉のジョン・デューイのことばだが、このことばも石井桃子たちのいう昔話の特ちょうと重なりあう。
つまり、石井桃子説によっても、文学作品は道徳指導とは直接にはむすびつかない。ノルウェーの昔話『三びきのやぎのがらがらどん』を例にひいて、そのしめくくりの部分を「満足感にあふれた、すっきりした結末です」というところ、話をたのしむことをもっとも大切だと見る考えはあっても、話は道徳とはまったく無縁のものだということになる。



だが、統一的経験を読者に経験させるはたらきをもっているということだけでは、文学作品の特質を説明したことにはならない。音楽をきく場合にも、絵を見る場合にも、統一的経験はおこる。ぼくたちは文学と他の芸術のちがいを考えなければならない。
音楽の材料は音であり、絵の材料は色や線である。文学作品の材料はことばである。音や色には、それ自身、意味がない。だが、ことばには意味がある。ことばはつねに人間と社会にかかわりあっている。
だから、文学作品(というより、小説)は人間と社会にかかわりあう。美的・統一的経験よりも、その人生的意味がはるかに重視される場合が生まれてくるのである。もっとも、ことばというよりも、伊藤整のいうように「言葉は現はされた現実の諸因子を手段として制作される芸術」として考えることの方が、もっとよくなっとくがいくかもしれない。
ただし伊藤整のことばは次のように続く。「言ひ直せば現実の功利性の中に含まれる政治、倫理、道徳、実践的価値といふやうなものが、散文芸術の中では手段といふ資格をしか持たないといふことなのだ。」
伊藤整は文学作品(散文芸術)が直接、人生(ひいては道徳)とはかかわりをもっていないことをいうために、以上のようにいったのだが、そのことばはかえって文学作品が人生と社会にかかわりあうことを、そのかかわりあいのしかたもふくめて、正確に示している。
文学作品を読むことによって、ぼくたちは美的・統一的経験を経験すると同時に、「現実の諸因子」を認識する。手段、材料が吟味され、みがきあげられ、ある意図のもとに並べられることで、文学作品の中の現実は、強化された現実となるからだ。この認識のはたらきを、ぼくは文学作品の第二のはたらきと考えたい。
文学作品と道徳指導がかかわりあうのは、この認識作用においてである。さきにいった石井桃子説では、認識のことは問題にされていない。それは大きなあやまりではないかと思うが、しかし、文学作品の人生的意義をだけ強調しようとする立場とはちがった説があることは知っておいてもらいたい。文学作品をせっかちに人生と結びつけてしまうことは、そのひとつのはたらきである統一的経験を無視してしまうことなのだ。まして、人生の一部にすぎない道徳と直接結びつけることは、教材としてとりあげる文学作品を非常にせまい範囲に限定し、また文学作品のはたらきを、かえって弱めることになってしまう。



石井桃子を紹介したのは、子どもの文学といえばすぐに教育性(過剰な生き方意識や道徳教育意識をそのうちにふくむ)を、前面に押し出す押し出さないにしても無意識のうちにそれを前提としがちな考え方があるからだ。石井桃子は子どもの文学の中心を教育におく論へのはっきりしたアンチテーゼになっている。
そして、子どもの文学のさまざまな作品を考えてみると人生論では律し切れないものが多い。とりあえず、昔話を考えてみたところで、ここにどういう道徳的意味があろうか。おじさんは正直でしたから、よいむくいがありました、というように解説をつける話が、子どもへの観念的強制にはなっても、内から人間を形成させるモラルにはならないことは、いうまでもない。
外国の創作児童文学を考えてみれば、直接的な人生論――生き方や道徳とはまるでかけはなれたものが、古典となって残り、多くの子どもに愛読されている。たとえば『ふしぎの国のアリス』や『ピーターパン』から、ぼくたち、子どもたちは道徳をどのようにして学びとることができるだろうか。あるいは『床下の小人たち』や『風にのってきたメアリー・ポピンズ』。
もしかしたら、ぼくは道徳というものをせまく考えすぎているのかもしれない。アリスの物語の中にあるめちゃくちゃな裁判――ハートのジャックがハートの女王のまんじゅうをぬすんだという事件の裁判だが、刑の宣告がさきにあって、陪審の答申はあとだという女王に抗議するアリスの姿に、正義の主張を見ることができるかもしれない。
また、『床下の小人たち』では、ほろびていこうとしている<借り暮らしの小人たち>に同情する少女ケイトの姿に、なにがしかの道徳的意味を発見することもできるかもしれない。
だが、ぼくはまた伊藤整を思いだす。めちゃくちゃ裁判は<現実の諸因子>にすぎない。それを材料としてつくりあげられたアリスの世界は、背がのびたりちぢんだり、自分の涙の池におぼれかかったりする、ふしぎな世界なのだ。この世界から、正義の主張をだけとりだすことは不可能である。このアリスの例、また子どもたちが見たとき、何もはいってなかったバッグの中からねまきや靴や、折りたたみ式の寝台までとりだす『風にのってきたメアリー・ポピンズ』の物語から、ぼくは文学作品と道徳指導の関係について、ふたつの結論をひきだしたい。
ひとつは文学作品から道徳的主張をだけ分離するのは不可能だということである。もうひとつは道徳指導との関係というより、子どもの文学の重要な特質というか、空想そのものを材料とした作品が存在するということである。
この結論の第一である分離不可能ということ、これはあとまわしにする。第二の結論(結論ということばは不適当のようでもあるが)のことももっと深く考えてみよう。
『ふしぎの国のアリス』はナンセンスというジャンルのものとして定義され、『風にのってきたメアリー・ポピンズ』はファンタジィといわれる。子どもの文学にこういうジャンルが存在していることは、空想的諸作品の量も多く、質もすぐれていることのあらわれである。
このナンセンス、ファンタジィは空想的展開をとって、子どもに何かを教えようとするものではない。現在、幼稚園の子どもや小学校低学年むけの雑誌に多い、そうした童話(たとえばクリスマスのおくりもの。ネコはアキコちゃんにケーキをあげた。ニワトリはタマゴをプレゼントした。イヌはあげるものがないので、古い長ぐつの中におくりものを入れていったというような話)とは、完全に質がちがう。
ファンタジィの問題はここで幼稚園、低学年の文学材料による道徳指導の問題とかかわりあう。ファンタジィには空想を素材として空想的世界を形成しようとする傾向があり、クリスマス・プレゼント式童話はその心理からいうとじつはリアルな教訓話にすぎないのである。
だから、もし子どもの全面発達を考え、全面発達の内容には、子どもの想像力をのばすこともはいるなら、低学年の場合、その読物の選択には十分注意しなければなるまい。道徳的読物をだけもちこむことは、全面発達をじゃますることにもなりかねない。低学年ではもっともっと子どもをたのしませてやりたいものだ。
いや、低学年だけではないかもしれない。ファンタジィが道徳指導にむかって提出している問題の中心は、自分たちをどうしてくれるかということかもしれない。これはあるいは作品そのものの内容によるかもしれない。石井桃子たちは次のようにいっている。
「ファンタジィでは、善と悪との問題、愛情とにくしみの問題、人は何のために生きるのかという問題、つまり人間のとりくむさまざまな問題を自由にとりあげることができます。」
とすれば、ファンタジィはもっとも人生的な子どもの文学ということになる。ただそれが、いままでの人生論的読み方ではとらえられない場合が多い。
ぼくは伝記や美談など、もっとも道徳的と見られる作品よりも、かえってファンタジィのようなものが、教材としてとりあげられることを望む。伝記や美談では素材となっている<現実の諸因子>が非常に人生的・倫理的なものであるために、文学性のひくいものでも容易に道徳指導に利用することができる。
だが、それ自身としては倫理や道徳とは縁遠い空想を材料としたファンタジィの中にある倫理性や道徳性は、一般的にいって、伝記や美談より、はるかに深いものとなっている。 そうした意味でぼくはファンタジィがとりあげられることを望むのだ。



ファンタジィについて、ながながと書いたのは、ファンタジィを読む際に文学のはたらきの基本的なものがもっともよく出てくるからである。
だから、また『風にのってきたメアリー・ポピンズ』を例にしてみると、読者は階段のてすりをすべりあがるメアリー・ポピンズの姿をイメージしなければならない。道にかかれた絵の中にとびこむ彼女の動きをイメージにしなければならない。
ただし、文学的イメージを「子どもたちの心の目に、はっきりとした絵となってうつらなければなりません」(『子どもと文学』)という、いい方に出ているように「絵」でまにあわせることは誤解をまねく。文学的イメージは、絵や、テレビや映画の映像ともちがう質のものである。
そのちがいのことはさておき、メアリー・ポピンズの非現実的な行動をイメージにすることができるのは、想像力がはたらくからである。
冒険小説を読む場合、読者はたとえば旧式の鉄砲をかつぎ、毛皮の服をきたりかりうどが見わたすかぎりの草原で野牛のむれとむかいあっている姿を思いうかべなければならない。
これを現実の場にかえしてみると、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』のなかの有名な一場面――コペル君がビルの屋上から街路をうずめる自動車のむれと、そのあいだを自転車で行くひとりの少年を見て、自分は大海の水の一滴だと考えるところ――ここでも、読者は自分が経験していないことを想像しなければならぬ。似た経験はしていても、細部はちがうので、そのちがいはやはり想像力でおぎなわなければならぬ。
だから、文学的認識の特ちょうはイメージをともなう想像的認識だと、ぼくは思う。文学と科学を一応対比させてみるとき、科学を進めていく上にも想像力は大きなはたらきをする。しかし、それが事実、実験によって証明されないかぎり、仮説の段階にとどめられる。だが、文学の場合、そのイメージがりくつぬきに事実を表現する。
そして、イメージは前にもいったように「絵」ではない。吹きわたる風のかすかな音もきこえ、さわやかな緑の葉のにおいもするのがイメージである。アラビアンナイトを読めば、見たこともたべたこともない豪華な料理が目の前にうかびあがり、そのうまさが知覚できるのがイメージである。これらのイメージはときには映像よりはるかに鮮明に、ときにはぼんやりとかすみながら、連続しあって、作品のイメージ、作中人物のイメージをつくりあげる。
映像より鮮明というのは、映像の場合、その具体性が強烈であるため、かえって想像力の発展がさまたげられることがあるからだ。また文学ではその基調になるものによって、影絵のような調子も出せるし、ぎらつく太陽のムードで押し通すこともできる。
その意味で、散文芸術はいまでもまだもっとも自由な芸術だが、それを享受するのには、映像を享受するより深い想像力がなければならぬ。
イメージをともなう自由な想像力の発展――想像的認識の発展が道徳指導の基礎になる。中野重治のことばをかりよう。
「ありもしないものをさながら在ることのように思いうかべる力、これなしには、人はほんとうに人らしくあることが出来ない。反対の証拠は毎日のように悪い意味で役人根性の人びとに見られる。窓口にいくら行列が長く続いても、ひとりひとりの事情をわがことのように感じることができないため、つまりひとりひとりがどんな風に時間のやりくりをつけてやってきているか、今日の間に合わせなければどれほどそれぞれの家族が明日も明後日も困るか、その手のことが感覚的にわからぬため、時刻が来ればぴしゃりと窓を閉じて心が痛まない。ぴしゃりと閉じても痛くも痒くもない。(中略)これは公僕精神にかけているということでもあるだろうが、むしろそれの手前に問題はある。相手のことが感覚的にわからない。(中略)上司から責任を問われまいとして条文にかじりつく精神と、自由で人間的な空想、そのため、時には法律条文をはみ出ることになっても相手のために計ろうとする精神とは両立しない。しかし後の方こそ、条文を持ち出すとしてもそれを真実に扱うことでもあるだろう。」
ずいぶん長い引用になったが、想像的認識と道徳指導との関係はここにいいつくされているように思う。つまり文学的作品を読むことと道徳指導との基本的関係はここなのだ。



ただし、中野重治の以上のことばを結論とすることは、文学的作品を読むことが道徳指導になると誤解されかねない危険性をもっている。中野重治のことばは第一歩を示しているのであり、この上に立って文学教材による道徳指導は進められるべきだろう。
その際、文学作品から道徳的行為だけを分離することは不可能だということも、もう一度考えなければならぬ。桑原武夫は文学作品のおもしろさをインタレストから説明した。ここでいうインタレストは、とりあえずは人間に対する関心のことだが、すぐれた文学作品には複数のインタレストがふくまれているという。
ツワイクのマジェラン伝は「はじめは胡椒ありき」ということばではじまったはずだ。マジェランの世界一周という、勇気にみちた高貴な行為はもともと、その胡椒を求める欲望に裏うちされていた。マジェランがフィリピンで死んだのち、その船隊はモルッカ諸島で狂気のように胡椒をつみこんだのである。人間のひとつの行動は単独なインタレストからは生まれない。伝記や美談はときとして、表面にあらわされたそのもっとも美しい行為だけを表現するくせがある。ということもやはり出発点というべきか。
(『道徳教育』1964年2月)
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