『児童文学の旗』(古田足日 理論社 1970)

K西郷提案と『子どもと文学』
1西郷提案を読んで、ぼくが考えたいと思ったことは何よりも、子どもの日常の小説・童話の読み方と文学教育との関係であった。つまり、西郷提案の「文学理論の学習」が子どもの日常読書のあり方にどう反映していくか、ということである。これがぼくの第一の問題点であり、第二は西郷氏の提示する文学理論そのものの問題である。ぼくの西郷提案についての関心は、もしかしたらほかの人びととは次元がちがうかもしれぬ。ぼくは一般的にいっていまの子どもの読書のあり方をかえたいと思っている。それは同時に、子どもに何がよい本か、その弁別の能力を持たせたい、ということである。この際、西郷提案は力になるのか、ならないのか。いや、子どもの読書のあり方をかえたいと考えているのは、お前ひとりではないといわれそうだ。そこのところをすこしくわしく書かせてもらおう。
※西郷氏は「文学作品の筋とは事件の筋(ファーブラ)ではなく、形象相関の展開の筋(シュジェート)です、意味と像のからみあいとそのうつりうごきくりひろげられていく筋です」という。その論はぼくに反射的に『子どもと文学』の主張を思い出させる。石井桃子、濱田貞二、渡辺茂男、いぬいとみこ、松居直、鈴木晋一の六人によって書かれた、昭和35年4月に発行されたこの本(当時「中央公論社」、現在福音館書店)は、その後の幼児・幼年の文学の発展に大きな影響を与えた。その本の中で「昔話」は子どもの文学として「基本的な要素を含んでいる」ものという位置を与えられ、次のように解説された。「昔話では、一口にいえば、モノレールを走る電車のように、一本の線の上を話の筋が運ばれていきます。(中略)このモノレールは、一つの話の中の、時の流れと考えればよいでしょう。」「だいたいの昔話は、どれをとりあげても、はじまりの部分、展開の部分、しめくくりの部分と、三つの部分に分かれています。」この解説と西郷氏の次の論を対比させてみよう。「ある作品においては、事件の筋(ファーブラ)は(中略)錯綜することがあるが、形象相関の展開の筋(シュジェート)は、いかなる作品にあっても、〈はじめ〉〈なか〉〈おわり〉と必然的な意味と像の展開の綾なす筋をもっている。」『子どもと文学』説はみごとに批判されたのである。『子どもと文学』は「昔話」解説につづいて、北欧民話『三びきのやぎのがらがらどん』を例にとり、「はじまり」「展開」「しめくくり」をこまかく解説し、「満足感にあふれた、すっきりした結末です」といった。「すっきりした結末」とは作品世界の完了のことである。一編の作品はひとつの世界を読者に示すものでなければならぬ。創作者にとっても、読者にとっても、それは経験の完了である。『子どもと文学』はその経験の完了と、事件の筋の完了とをごっちゃにしてしまった。民話や、幼児・幼年の文学はその形式が非常に単純である。ここでは西郷氏のいうファーブラとシュジェートは重なりあう。だが、原理的にはそれは別物である。作品をつらぬく内的緊張が高まり、終末にむかっていく。作品のどの部分を切りとっても等質の、その内的緊張こそがモノレールであり、時の流れは作品の内的緊張とは無関係なのである。西郷説が『子どもと文学』の批判となっている点は、もうひとつある。それは「文学と絵とちがう」といい、「文学形象の現実は、まさしく、これを絵画の形象として置きかえることのできないもの」と考えているところである。『子どもと文学』は次のようにいった。「目にうつる具体性ということは、子どもの文学で、非常にたいせつなことです。どんなにやさしいことばで表現してあっても、それが、目に見える具体性に欠けるのであった場合は、わかりやすくとはいえないのです。すなわち子どもたちの心の目に、はっきりとした絵となってうつらなければなりません。」この主張はすぐれた主張であり、その理論は不正確であった。「目に見える具体性」は過去の日本児童文学がムード的であってイメージに欠けている点をつき、また子どもの成長発達の段階に即した主張である。しかし、文学のイメージは「絵」ではない。ところが、それ以降(と、ぼくは思う)、子どもの心に絵となってうつる、頭の中の映画館で物語がうつされていく、というようないい方が多くなってきた。西郷氏はその理論の不正確さを批判したのである。(ただし『千曲川旅情のうた』をひきあいに出しての西郷氏の論の立て方については、ぼくには疑問がのこる。西郷氏はいう。「見えぬ〈もの〉を見る眼――それが虚構の力です。現在のなかに過去をよびさまし、未来を先取りすることのできる眼です。過去をよみがえらせ、未来をはらむ文学形象の現実は(中略)絵画の形象として置きかえることのできないものとしてあります。」絵画の形象は「過去をよみがえらせ、未来をはらむ」ことができないのだろうか。すぐれた絵を見るとき、ぼくたちの受ける感動はやはり全世界と対しあう感動である。すぐれた絵はすぐれた文学作品と同様に、その創作者の「眼の内なる虚構によってとらえ」られたものである。)むしろ絵画の形象におきかえられないものは、西郷説では次のことばにあらわれている。「〈緑なすはこべ〉〈若草〉ということばを耳にしたとき(中略)読者の意識のなかには、そのことばの意味するものと、それらのものの像とが形成されます。ところが、それにつづいて〈萌えず〉〈藉くによしなし〉という先行することばの意味を否定することばがつづくのですが、そのとき読者の意識のなかでは、意味の上での否定はなされても、一度像として定着されたものは、すっと消え去るわけにはいきません。」ここではふたつの重要なことがいわれている。ひとつはことばが意味を持つことであり、そのことばによって形成されたイメージは意味と複合しあっている。絵画的イメージでは意味がしめる要素は非常に小さい。もうひとつは形象の相関関係のなかで、イメージ喚起のことばと、意味づけのことばがあり、これが時間的展開によって相互に作用しあうことである。一枚の絵では時間的展開はありえない。文学作品における形象の相関関係は書き進み、読み進んでいく過程において成立していくものである。そこで、『子どもと文学』理論のあやまりをもうひとつ指摘しておくと、その著者グループのひとり松居直は『絵画と子ども』(瀬田貞二・中川正文・松居直・渡辺茂男共編・福音館書店)の中で一寸法師の話を例にとり、とちゅうからその話に興味を失った子についていう。「この子は、初めのうち一寸法師も、その他の物語の細部も見えていたのですが、たとえば『みやこ』へ着きましたというところでつまずいてしまいました。『みやこ』ということばがよくわからない、つまり目に見えなくなりますと、一寸法師は活躍する舞台を失ってしまいます。(中略)映画を見ている最中にフィルムが切れたようなものです。」つまり松居氏はその子が話をきかなくなったのは、「見える」「絵にする」という作業ができなくなったからだという。だが、理由はこれだけではない。もうひとつある。それは、それこそ形象の相関関係である。いま都に立っている一寸法師に複合している意味は、じいさんばあさんが神にいのって生まれた子であり、おわんの舟にはしのかいで川をさかのぼってきた等々である。この表面上のすじの展開の下には、現在の一寸法師をかくあらしめた、形象相互の必然的関係がかくされている。ひとつの作品世界を経験していく、そのとちゅうで子どもが興味を失うのは、「絵にならない」からだけではなく、むしろ形象と形象との関係を見失ったからである。2ところで、子どもが日常、小説や童話を読む、そのことと学校内で行なわれる文学教育との関係はどうなっているのか。ここでは当然相互交流があるはずだ。日常の読書の成果が学校内に持ちこまれ、また文学教育は日常の読書のしかたに影響する。そして、文学教育は本来なら子どもの日常読書の頂点に立つべきものだと、ぼくは考えている。そこでは子どもが日常多くの本を読んでいることが前提となり、それと等質の作品が学校でとりあげられ、読み深められる。西郷氏のいう、学校では背のびした作品をとの考えも、やはりその等質性のなかで考えられる。しかし、現在のように少年少女週刊誌の異常なまでのはんらん状態では、学校と家庭の読書の相互交流ということは、なかなか成り立たない。平行線をたどる場合もありえるのだ。ことに文学の理論の学習といった場合には、学校内の読書だけでなく、その背後にかくされた日常読書の量・質がものをいう。文学理論の成果は日常読書の有無とかかわりあっている。日常生活と文学理論の学習との関係は、ある作品を教材とする文学教育の授業と日常読書との関係よりも、もっと密接なのである。そうだとすると、そこから逆に出てくることは文学理論の学習は日常読書のあり方をかえる可能性をはらんでいる、ということだ。そこで、日常読書のことに立ち入って考えてみると、ふつうぼくたちは小説をどのような態度で読むだろうか。別に何かの解決を求めて読むわけでもないし、また読むときに文学理論を考えているわけでもない。ぼくたちはおもしろいから小説を読む。おもしろくなければほうり出す。子どもではその傾向はいっそう強い。おとなではおもしろいということばに複雑な意味がふくまれる。新しい世界の発見、人生の真実等々、小説というものの価値についていわれることがらすべてが、おとなの「おもしろい」の中にははいっている。しかし、子どもの「おもしろい」はもっと単純化されている。おとなの読み方では、娯楽という要素が小説から切り離されていることもある。だが、子どもの場合、娯楽とのむすびつきはおとなよりはるかに強い。戦前の『少年倶楽部』の佐藤紅緑や山中峯太郎の諸作品は、子どものそういう要求にこたえるものであった。もちろん、おとなにも娯楽的読み方はある。おとなも推理小説をたのしみ、空想科学小説をたのしみ、山本周五郎や司馬遼太郎をたのしむ。だが、野間宏や大江健三郎を読む際には、その「たのしむ」という要素は小さくなっている。おとなのすぐれた小説といわれるものは、ときとして読者に忍耐を強要する要素を持っているものだ。一方、子どもはたのしみながら成長していくもので、忍耐強い読書よりたのしむ読書をえらぶ。子どものその性質に応じて、その対象となる本に今日、大ざっぱには二種類の本がある。ひとつは少年少女週刊誌に代表される雑誌郡であり、もうひとつは外国児童文学の作品群である。「娯楽」と「たのしむ」とにはある程度意味のちがいがあり、雑誌群は「娯楽」の対象であり、「たのしむ」の方向は外国児童文学である。学校と家庭の読書の相互交流のなかでは、雑誌群はいまのところ問題外である。いま考える対象は外国児童文学の方になるが、この外国児童文学は『小公子』や『小公女』という古典名作だけではなく、むしろ最近翻訳されている新しい外国作品のことである。そして、ここでまた『子どもと文学』がかかわりあう。その著書グループは新しい外国作品の紹介にもっとも熱心な人びとであり、その人びとの努力が今日の日本の子どもが名作童話ではなく、新しい外国作品を完訳で読める状態をつくり出す原動力となったといってよい。しかし、その前進法は児童文学のすべての分野で前進的であったとはいえない。新しい保守的姿勢が出発当初からその人びとのなかにはある。『子どもと文学』はその「はじめに」のところでこう書いた。「世界の児童文学のなかで、日本の児童文学は、まったく独特・異質なものです。世界児童文学の規準――子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすくということは、ここでは通用しません。」ここでいう「世界児童文学の規準」は実際には欧米児童文学の基準であった。そして、それが生み出されてきた欧米市民社会の精神・思想は抜きにして、「おもしろく、はっきりわかりやすく」という基準が抽出されたのである。一方、日本の現在には広い中間階層の存在があり、この階層は小市民的ムードに包まれている。たとえば「たのしむ」ことは権利であると共に、まだなお多分にムード的である。新しい外国作品が輸入される一方、市民的ムードの日本作品が幼児・幼年層を中心にして生まれ、それが歓迎されている。そして、『子どもと文学』の著書グループのうち、石井・瀬田・渡辺・鈴木の四氏は昨年末『私たちの選んだ子どもの本』というブックリストを出した。同時に矢崎源九郎・神宮輝夫編著のブックリスト『子供に読ませたい本』も出た。また「数千点の本の中から最もすぐれた楽しい本だけを選びだした」という、児童図書の月賦販売である『〈ほるぷ〉のえほんと童話』も出た。これらのブックリストの評価の基準は外国児童文学の偏重と、小市民的ムードへの傾斜という共通性を持っている。もちろん第一級の作品については、多くの人の意見は一致するものであり、第二級のものをどのように選び出すかということでさまざまのブックリストの意味がある。その第二級選択の基準において、三リストともほぼ同一の傾向があり、西郷氏が編者のひとりとして名を連ねている『ほるぷ』における日本作品の選択は「たのしむ」ムードにかたむいている。この状態において文学教育、そのなかの文学理論の学習はどういう役割をはたすのか。その際、ぼくがこの西郷提案を読みながら期待したのは、『子どもと文学』理論をつく西郷理論が子どもになっとくのいったとき、それは新しい評価の基準の重要な一部となりえるということだ。そして、その焦点は『子どもと文学』が見落としたシュジェートの展開である。第二にはそれと関連しての文学のイメージの独自性である。もしもそれが子どもに伝達できたなら、子どもはファーブラの展開による基準のあやまりを知ることができる。だが、その授業がどこまで可能なのか。それについてはぼくにはまだ疑問がのこる。『子どもと文学』の影響下にある人びとが、形態的にはきわめてすぐれていながら文学の本質的なものをなくした作品を書いている現状があるが、それと同様の結果が生まれてきはしないか。そう思うのは、形象の相関関係は最終的に理解されるものではなく体得されるものだからだ。視点人物、視点の遠近法――すべてはたしかに文学作品の構造を理解するにやくだつ。そして、そのことによっていままで文学教育が国語教育と癒着していた部分が切開され、文学教育は前進する。読解的やり方のかわりに視点人物、その転換ということを子どもは知るのである。だが、理解はかならずしも体得ではない。文学理論を理解しえてもそれが創作とはかならずしもむすびつかないように、だ。文学作品の読みも同様である。そこでは問題は教師その人にかえっていく。多くの教師がどこまでその作品を深く読んでいるか、個性的に読んでいるかということだ。それがない場合、文学理論の学習はひとつの形式に墜落してしまう。問題の終末は西郷理論をこえたところにあるのだ。『子どもと文学』の形態的基準と小市民的ムードをこわすのも、ついには教師その人にかかわってくる。(『教育科学国語教育』1967年)
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