『児童文学の旗』(古田足日 理論社 1970)

 M 子どものための自己表現か

 児童文学を作者のがわから考えるとき、それは作者の自己表現なのか、それとも子どものために書くものなのか、ということが、いぜんはときどき問題になった。鳥越信がその評論『児童文学とは何か』の中で、「大学の児童文学サークルなどで<自分は自分のために書くので、子どものために書いているのではない>と公言する人たちはあとをたたない」と、言ったほどであった。最近、ぼくの耳には、その問題が論じられていることははいってこない。ぼくがなまけているせいか、それとも、もう問題ではなくなってきたためなのか。
 しかし、この問題は児童文学の根本的問題なので、考えなおしてみることは、児童文学を前進させるために、大いに必要なことである。
 さきにぼくの結論をいっておこう。子どものためか、自己表現か、という二者択一的な問題の立て方そのものが、まちがっている。児童文学作品はその両者が統一されたとき、生まれてくるものだ。
 つまり、ごくあたりまえの結論なのだが、そのあたりまえのことが、なぜいままで問題にされることが多かったのか。それは、いままでの児童文学理論(というものが、どの程度あったかは別にして)では、作者の内面分析が足りなかったことが大きな原因になっていると思う。
 この二者択一の問が出てくるのは、児童文学を書きはじめた人びとのあいだに多い。それはおそらく次のような理由によるだろう。
 児童文学を書こうとする人びとの内的動機はさまざまある。その動機は大別すると、二つになる。一つは教師などによくあるもので、子どもにこのことを語りたい、というところから出発する。ここでは現実の子どもが先行し、書き手と子どもは直結しやすい。
 だが、児童文学をこころざす人の多くは、じつはそうではない。その人びとはむしろ、児童文学という表現に魅力を感じたところから出発する。この際、読者としての子どもは、まだはるかかなたにかすんでいる状態である。
 ところが、児童文学を書きはじめた自分をふくむ世間一般の常識では、児童文学は子どものための文学である。世の人びとが児童文学について発言する際、「子どものために、このような文学を」といういい方が非常に多いのである。
 一方、書きはじめた自分自身の立場は、子どもとはるかに遠い。そのギャップをギャップとして見ないで、一足とびに、観念的に、解決しようとするとき、子どものためか、自己表現か、という問いが生まれていることになる。
 このギャップをうずめるには、動機を深めていくよりほかない。つまり児童文学表現の魅力を体得していくよりほかない。それが子どものものを書くという作業だが、その作業の過程には、一定のわく組がはめられている。それは、子どもを読者とするというわく組だ。このわく組を単なる制約と見るか、それともそのわく組の中だからこそ、より強力、より自由な表現・内容をつかむことができるか。そこにわかれ道がある。
 そして、児童文学表現の魅力というものは、子どもを読者とすることと、わかちがたく結びついている。もともと児童文学表現の中にある空想的なイメージと展開、人間と社会のもっとも根源的なものをつかむ、というしごとは、子どもという読者を明瞭に意識し、そのあり方をはかっていくことで、いっそう強くきたえられていくものである。
 一方、いうまでもなく、そのわく組の中に作者の自己は存在している。すでに、何に関心を持ち、何を材料として書くか、ということも、作者の自己のあらわれなのだ。だが、それはそのままでは多くの場合、底次の自己としてとどまっている。
 さきにいった、直接子どもに語ろうとするところからはじまるもの、これは一番悪い場合には、幼児に対するしつけの話となってあらわれる。ここには、子どもと作者との相互作用はない。ただ一方的に、作者が子どもにおしつける。それほどでなくても、作者が一方的伝達の高みにたっていることは、こういう出発の作品によく感じられることだ。
 こうした態度の作品が成功するのは、作者が豊かな知識・経験の持ち主であり、子どもを対等の人格として見ている場合である。吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』に、ぼくはもっとも強くそれを感じる。
 だが、子どもを対等の人格と見ないで、子ども、子どもというとき、それは見るもむざんなものにおわる。色つきの砂糖菓子のような作品が生まれてくるのだ。そして、この人びとは、子どもという読者のあり方をはかることを最初からすてているので、じつは子どものことを考えていないことになる。
 一方、自己表現が表現にならず、単なる自己満足におわっている作品も、やはり見かけることがある。
 もっともちかごろは、いまいったような極端なものは創作単行本からまったく姿を消した。
 そこで、さっきの『君たちはどう生きるか』的なやり方だが、ぼくはそれよりももっと子どもと格闘したいと思う。どう生きるか自体、こちらにはわからないからこそ児童文学にはいってきた、とぼくはぼく自身のことを思っている。
そして、今日、トータルな世界像というものはくずれている。自己表現といっても、主張すべき自己の内にすでに虚像がはいりこんでいる。しかし、この世界の中で、子どもは日々成長する。この人間の原型を通すことで、ぼくは自分を再発見したい。自己表現の<自己>か、近代的な個我にとどまっていては、今日の児童文学の発展はないだろう。だが、そこへ行く前にもう一つ、ことばの問題がある。ことばはもともと社会的なものだ。自分にしかわからないいい方をするとき、それは自己表現ではなく、ただの自己満足にしかすぎない。
読者に対して伝達可能、かつ読者の中に一定の反響をおこさせる、ということばになったとき、自己およびことがらの追求は、はじめてなしとげられる。
読者と相互作用を持つ、この散文の文体は、少数の作者は別として、児童文学全体の中ではまだ確立されていない。           (『週刊読書人』1969年4月)
テキストファイル化神崎彩