『児童文学の旗』(古田足日 理論社 1970)

0 <『あかつき戦闘隊』大懸賞>問題

<『あかつき戦闘隊』大懸賞>問題、というのは、本誌前号の各団体声明書その他に見られるように、小学館発行の少年週刊誌『少年サンデー』三月二十四日号の懸賞募集賞品の撤回を、日本児童文学者協会ほかの団体・有志が求めたことである。
 この問題の進行中、ぽくは菅忠道氏からしばしば「火つけ役の古田君」と呼ばれた。火つけ役ということばの当否はさておき、ぼくはのちに述べるように、最初の問題提起者のひとりであった。
 だから、ぼくはこの問題の経過をふりかえり、あわせて、感じたことを書いておきたい。それは問題提起老の義務とでもいうべきものであろう。ただし、いわゆる客観的報告はぼくにはできない。この報告は、問題の報告ではなく、「ぽくの見た問題」の報告となるだろう。



 三月十二日の夕方、ぽくはふたりの友人といっしょに新宿の喫茶店にはいった。三人とも、日本児童文学者協会の合宿研究会の帰りだった。
 十一、十二両日のこの研究会は、来宮にある早稲田大学の寮、坪内逍遥の旧宅双柿舎でひらかれた。参加者は十数名だったが、意外なほど実り多い会だった。
 テーマは「読書運動の発展の中で日本児童文学者協会は何をなすべきか」であった。報告者のひとり代田昇は、日本の子どものうち、読書人口といえるものは五%にしかすぎないと述べ、その率を高めていく方法について語った。鳥越信は児童文学老の社会的責任について語った。
 鳥越のいう社会的責任は、名作再話と完訳の問題にからみあっていた。名作再話は敵対的矛盾であり、完訳本・創作についての評価のくいちがいは内部矛盾である、と彼は説明した。
 いずれ彼のこの論は本誌上にもくわしく書かれるだろうが、ぼくも数年前、子どもの読物を書く者の社会的責任ということばを使った論を書いたことがある。それは再話のことではなく、戦記物・戦争児童文学についてのことであった。戦争の虚像を書くことも多い、雑誌の戦記に対して、ぼくたちもまた真実をつたえる戦記を書くべきだ、ということであった。
 この「真実」ということは非常にむずかしいが、ここで論じる問題ではない。ただ、子どもの読物を書く者の社会的責任ということが、この合宿に参加した人びとの胸には沈んでいったにちがいない。少なくともぼくの心は、以前書いた自分の論と重なりあう作用で、かき立てられていた。こういう状態でぼくたちは喫茶店にいた。三人の話題はあちこちかけめぐり、そのうちひとりがいった。
「こんどのサンデーの懸賞知ってるか。一等が海兵の制服で、ナチスも出てくるんだ。」
 それがほんとうなら、そのままだまっていることはできない、とぽくは思った。ぽくは少年少女雑誌すべてに目を通してはいない。少年週刊誌を買うのは、月に一、二度である。ただ去年は三、四か月のあいだ、少年誌ほとんどを買いこみ、雑誌評をやった。その前年にも一、二か月分、全誌を見たことがある。つまり、年に一度ぐらい全誌をかためて見、そのあいだにはときどき読む、というのが少年少女誌とぼくとのかかわり方である。
 そして、期間をおいて見るためか、年ごとに少年少女誌が刺激的になり、荒廃していくのがわかる。いや、もっとも見ている自分も流されていて、この原稿を書いている今日も、自分のうちにある頽廃をいやおうなしに感じざるをえないのだが……。たたかうあいては自分の外にもあり、内にもある。
 この内外がどのように交叉しあっているのか、ぽくにはわからないが、自分の内にある頽廃も、この懸賞への憤激もともに真実であった。ひとりが喫茶店を出て行って、その雑誌をひと山買いこんで帰り、その懸賞のページをあけたとき、ぼくはその賞品写真のむこうに白骨が浮かび上がるのを見た。
 ほくは一度少年小説「神風特攻隊」を書いてみたいと思っている。その発端はほぼわかっている。「ぽく」がある日、古本屋で買った本、「神風特別攻撃隊」の巻末に組まれた死者の名簿を、深夜ひとりで見ているとき、その行間から一体の白骨が立ち上がり、飛行服をつけるのである。
 その白骨のイメージが思いがけなく、「あかつき戦闘隊」懸賞賞品のむこうに立ちあらわれた。ひとりがいった。
「小学館に抗議しよう。ハガキ一枚、電話一本でもいいんだ。」
 これは自己満足であったかもしれない。しかし、大手をふってナチスの鉄十字章が通用する。それにストップをかける者がひとりぐらいいたってよいではないか。何もしないことはつねにあいてをみとめることになる。優勢ながわにくみすることになる。
「みんなに電話してみよう。知りあいのおかあさんたちにも話してみよう。」
 話はそうきまった。帰って妻にこの話をすると、妻はいった。
「また電話代が三千円ふえるわね。」
 これも年に一度ぐらい、ぼくは子どもの読物とはあまり関係がなく、金にはならないしごとに頭をつっこむ。以前、近くの幼稚園教師がくび切られたとき、そうだったし、ベトナムの子どもを支援する会の発足のときにも、電話代はピンとはね上がったものだった。

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 三月十三日水曜。
 これはと思う人にかたっぱしから電話していく。意外なほど反応があるのにおどろいた。
 ぼくは、この懸賞問題で抗議することが”政治的”といわれはしないかと、おそれていた。政府がやる政治は”政治的”ではなく、それに反対した場合は”政治的”といわれることが、実に多いからである。ところが、そんなことを思った自分がはずかしくなるはど、だれもがおこり、抗議ハガキを出すことに賛成した。
 第二のおそれは、あいてが小学館であることであった。かつて坪田譲治先生がいわれたことがある。「児童文学者は政府や文部省には強いが、出版社には弱いんです。」これはもう十年近くも前になるかもしれないが、たとえば声明その他で政府のやり方に反対の意見をあらわす。それはあっても直接、収入の問題にひびく印税や原稿料の問題では出版社には弱いことを、先生はいわれたのであった。
 いまはちがうはずだと、ぼくは思っていた。来宮合宿で鳥越は報告した。かつては児童文学者は再話でなけれは生活できなかった。しかし、現在では本来のしごとで生活できるようになりつつある。出版状況とからんだ報告であった。しかし、やはり不安は残る。小学館からたとえわずかでも収入を得ている人は、やはり参加しづらいのではなかろうか。
 もちろん、参加しづらい人に強制するつもりは、すこしもない。小学館ににらまれるとこまるから、という答が出てきた場合は、事情を知らなかったことをあやまってひっこむつもりでいた。
 だが、ほかの理由があげられたときにはどうしよう。出てきそうな理由には、企業の自由ということがある。企業が自由に懸賞を募集するのに、それに文句をいう権利はなかろう、という理由だ。これは<政治的>ということと同様の論理である。企業の自由はみとめ、こちらが文句をいう自由はみとめない論理になるとぽくは思った(のち四月二日の小学館との交渉席上で、出版労協の橋本氏は企業の社会的責任ということを強調し、なるほどと思った)。
 だが、あいてが小学館だから、抗議はちょっと、という人は、ぼくの電話した範囲ではほとんどいなかった。あるいは、その人びとのおもな収入源が小学館ではなかったこともあるかもしれない。いずれにしろ、巨視的に見れば、児童文学の発展、読書運動の進展、それにともなうマーケットの拡大−こうしたものが底辺にあって、『あかつき戦闘隊』懸賞問題を児童文学者−子どもの読物書きたちはたたかうことができたのであった。
 そして、一方には危機感があったのではないか、とぼくは思う。原子力空母エンタープライズの佐世保寄港の記憶はまだ明瞭であるし、国防意識強化の大臣発言もあった。教科書から太平洋戦争批判の文章が消えていくことについての報道もしばしばであった。(当時ジョンソン声明はまだ出ていない)。
 さらに戦争児童文学を書いてきた人の反応が、実にみごとであったこともぼくは忘れない。ぼくは無意識のうちに電話をかけるあいてを選んでいた。ひとこと、ふたことで、「よし、やろう」というへんじが来るにきまっている人びとには、ぼくはほとんど電話しなかった。ただあちこちにこの話をひろげてくれる友人たちは別にして、だが。
 ところが、電話は一度ではすまなかった。ひとまわりすると、電話を受けたあいてがいろんな知恵を出してくるのて、話がエスカレートしていく。最初はふたり、三人でもよい、小学館に抗議ハガキを出そう、それがわれわれ子どもあいてのしごとをしている者の子どもに対する責任ではないか、ということであったのが、連名の文書をつくろう、新聞にも投書しよう、ということになっていく。
 新聞投書は十三日の三人の集まりでも、考えないではなかった。そのときは、おかあさんたちの方から投書してもらおうという話になっていた。それが十三日には、ぽくたちの連名投書の線となった。それも一紙ではなく、各紙にということになる。
 また記者会見もやれ、ということも教えられる。連名の文書はそのためにも必要なのであった。こうしてわが家の電話は終日話し中。数日その状態が続き、うちに電話してきたある編集者はいった。「九日めにやっとかかりました。」
 こうして、けっしていわゆる進歩派でない人びとを多数ふくんだ連名は、翌十四日にかけて成立しつつあった。画家へのよびかけもはじまった。
 このときのことをふりかえると、自然発生的に運動はひろがり、単純素朴な抗議ハガキにかわって、新しい作戦が用意されようとしていた。
 このとき、運動の指導部のようなものがちゃんとつくられたらよかったのではなかったろうか。また連絡の中心及び分担もちゃんとしなければならなかったのだ。しごとの分担がはっきりしなかったため、のち小人数の連中がさまぎまの会合に出て行かなければならなくなり、連絡もとだえがちになる。
 そして、この十三日はチェコの『ズラティ・マーイ』誌編集長スラビイ氏が横浜につく日であった。以後、スラビイ氏の日程と入り組んで『あかつき戦闘隊』懸賞問題の行動は展開し、鳥越信や横谷輝にかかる負担は実に大きかった。

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 事態が急速に転換したのは、十五日朝、朝日新聞の社会面にこの問題が写真入りでのったときからである。「少年週刊誌の懸賞品に軍国調がいっぱい ドギツ過ぎると批判も」という見出しのこの記事は、社会面左のトップになっていた(東京二十三区は朝刊、市郡部は夕刊。全国的な記事であったかどうかはあきらかでないが、名古屋で見た人がいたことは確認されている)。
 もともと各紙に投書の予定が、このように転換した事情は、いままだここではいわない方がよかろう。投書は毎日新聞一紙となる。ただし毎日への投書は、こちらで制限字数にあわせたので、字数をあまり考えなかった最初の原稿を次にしるしておく。
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(略−『あかつき戦闘隊』大懸賞の賞品をまず書きしるしていった・古田)四・五等は、ドイツ軍コレクションでナチスの軍旗・鉄十字章など、以下九等までの賞品はソ連軍ピストル、ドイツかアメリカの鉄カブトなどです。
 海兵生徒の正装に身をかためた少年の写真のほか、賞品の写真を見て、私たちは少年時代のことを思い出しました。私たちの少年時代、少年雑誌はこうした写真や絵でいっぱいでした。それが、知らず知らずのあいだに少年たちを軍国主義へと導いていく役割のひとつをはたしました。
 この懸賞のあおり文句には「どれも実物そっくりのモデル!! かっこいい!!」とあります。私たちの友人のなかには、海兵や予科練に行き、ついに帰ってこなかった人びとがいますが、この人びとを死にさそいこんだ入口のひとつは、その制服のかっこよさでもありました。私たちは海兵の正装に身を切られる痛みを感じます。ナチスの軍旗、鉄十字章に至っては、人類の悪夢の歴史の象徴です。
 これらを”かっこいい”といって、子どもに与えることは、ふたたび戦争へと進んで行くあやまりをおかすことになります。もしもこれを与えるなら、人類の痛苦の記念として与えるべきです。懸賞という特殊の価値のある賞品として与えるべきではありません。
 私たちのいうことを、考えすぎだ、おとなの感傷だという人もいるかもしれません。だが、教科書から太平洋戦争批判の文章が消えていく時代です。武器や、血に汚れたナチスの軍旗のモデルを堂どうと賞品に出すことは、子どもに侵略戦争を罪悪と感じさせない気持をうえつけていきます。こうした気分がひろがり、養われたとき、戦争の火はつきます。そのときになってあわてても、もぅおそいのです。
 少年誌がここまで来たことをみなさんにおしらせし、あわせて小学館及び賞品提供者の中田商店にこの懸賞の撤回を求めます。
                              今江祥智 神宮輝夫
                              古田足日 前川康男
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 この十五日、日本子どもを守る会は箱根で合宿研究会をやることになっていた。参加者は電車の中で新聞を読み、会議の席でこの懸賞撤回行動に立ち上がることを申しあわせた。
 なおこの記事未見の人びとのために書きそえておくと、その内容は、児童文学者たちがこの懸賞について近ぢか小学館に申し入れようとして、古田が鳥越やいぬいとみこに相談しているということであり、サンデー編集長高柳義也氏の談話が同時にのっていた。
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 十六日、土曜。六、七名の連中が集まり、この問題について討議した。この懸賞が少年誌の軍国主義化の氷山の一角、象徴的事件であることを、この六、七名は確認した。
 また抗議という最初の発想は運動の進展とはあわないし、抗議しっぱなしというのも責任のないことなので、まず「要請」からはじまるのではないかという意見が出、全員一致で要請ときまった。
 その要請書の文案の筆者もきまり、それを小学館に持っていくのは十八日月曜、ということもきまった。
 翌十七日日曜。あいかわらずわが家の電話は鳴りっぱなし。その中にまったく未知の人から、この運動に参加したいという申し入れがあった。この玩具デザイナーの電話は、この運動の進行中、もっとも感激したことのひとつであった。
 彼は、てつだうことがあるならいますぐにもかけつける、といってくれた。そして、彼の運動参加の理由は、他の人びととちがっていた。他の人びとは、とりあえずは”軍国主義化”に反対、それでなくても戦争讃美につながるものはこまる、という線でほぼ一致していた、とぼくは思う。だが、彼はいった。
「私は軍国主義的風潮というより、こうしたおもちゃがすこしも子どもの創造性を開発しないという点で、この懸賞に反対です。」
 こうした観点は、運動の内容を、より豊かにしていくためにも大いに必要であろう。”軍国主義化”ということの内容には、子どもの創造性を殺すこともふくまれているのではなかろうか。”軍国主義化”ということばを、ただ単に軍国思想宣伝とだけ受け取ってはならないのであった。
 翌日の文案検討の集まりに彼は出て釆て、そのガリ切り、印刷をやってくれた。友人をひとり動員して、だ。この日であったか、そののちの集まりであったか、彼はまた次のようにいった。
「いまの児童文化には、メーカーの文化と、児童文学を中心とした芸術的な児童文化とのふたつがあると思うんです。」
 軍国主義ということで考えても、この彼の意見は、過去の軍国主義との差を明瞭に指摘している。現代における企業の発達、資本主義社会の商品としての文化財の位置、それを彼はいっている。商業主義、金もうけ主義というとらえ方だけでは、過去と現在とのちがいが無視されやすい。彼は今日の社会機構にふれる発言をしているのであった。
 ただ寺内氏のこの見方は、運動の中で十分生かされたとは思えない。そのことと関連して思い出すのは菅忠道氏のことばである。菅さんほこの十八日夜、ぼくをシッタゲキレイしてくれた。菅さんはその中でいった。
「きみ、きみ。そんなことでは大衆運動の指導者になれないよ。」
 ぽくはもともと大衆運動の指導者になるつもりはないが、菅さんのこのことばには一面の真実があった。いい出しっペであったためか、不幸なことには、ぼくはいつのまにか、この運動の指導的存在のひとりのようになっていたらしい。おそらくこの時期、情報はもっとも多くぼくのところに集まったのではなかろうか。だが、ぼくにはその情報を分析し、活用する能力はないのであった。
 前にもいった、指導部を確立すべきであったということは、その点もふくむ。そして、その指導部が運動の内容を豊かにしていく、新しいイメージと方法を出してくれれほ、いっそうよいのだが。
 もっとも、連名全員が指導部であるという考えも、ぼくにはあった。そして、何よりもいそがしさの問題があった。その後、数回くりかえされる小学館との交渉や、こちらの会議に、ぽくたちはあわただしく集まり、あわただしく散っていった。鳥越がある日、「慢性的睡眠不足だ」といったが、この運動の渦中にいて、鳥越やぼくと同様に睡眠不足であった人を、すくなくともふたり、ぼくは知っている。
 今後、こうした問題はもっともっとおこってくることが予想される。そのときにはどういう態勢で立ちむかえはよいのか。それを考えておく必要があるだろう。
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 十八日朝、斎藤了一、鳥越信、那須田稔、横谷輝の諸氏と、玩具デザイナーの寺内定夫氏、それにぼくとの六人は、最初この問題がはじまった新宿の喫茶店に集合した。
 前日の話では、この日、日本子どもを守る会が小学館へ行くことになっている。要請書の原案検討、声明書の原稿づくり、それに名をつらねる人びとの確認などをやって、ぼくたちは教育会館の日本子どもを守る会の事務局へ行った。事務局の話では、菅忠道、宮原喜美子氏の両副会長ほかの人びとが、いま小学館に行っているところだという。
 この日の午後三時、日本子どもを守る会とぼくたちは記者会見をやることになっていた。横谷氏、守る会事務局の金田氏はその連絡に大汗をかいた。やがて、子どもを守る会の人たちは帰って来、ぼくたちは小学館へ出かけた。とちゆうでいぬいとみこさんが合流する。
 小学館受付で待っているあいだに日本テレビがやって来た。サンデー編集長高柳義也氏があらわれ、ぽくたちと話しはじめたとき、日本テレビはライトを高柳氏にあびせた。
 高柳氏はさけぶようにいった。
「あなたたちは何ですか。」
 高柳氏は相当興奮していた。午前中、彼は社長・部長と共に、子どもを守る会の人びとにあって、懸賞についてのぼくたちの要請を受けたのだ。ほくたちはいわは第二波なのだから、興奮するのもむりはなかった。
 高柳氏は少年サンデーの編集方針はまちがっていない、あの懸賞は歴史的コレクションなのだと、ぼくたちに答えた。このときの会見でもっとも印象に残っているのは、鳥越がサンデーの三月十七日号であったか、『べトコンはなぜ強い』(というタイトルであったと思う!)の文章を読み上げ、このとらえ方ではぼくたちの少年時代の戦争物とおなじではないか、という意味のことをいったとき、高柳氏が答えたことだった。
「そう思いますか。いまの子どもはこれをおもしろがります。」
 これは高柳氏のことはの正確な復原ではない。高柳氏は「いまの子どもを知らないんじァないんですか」といったかもしれないのである。ぼくは強く残った印象というのは<子どもが歓迎するものはこれだ。いわゆる児童文学者はそれを知らない>という態度を強く高柳氏が示したことであった。この懸賞問題の全期間を通じて、小学館がわのこの態度はかわらなかった。
 そして、それに対してぼくは高柳氏こそいまの子どもを知らないのだ、と思った。子どもを知る、知らない、ということは、実は大変なことであり、子どもの読物を書くというしごとは、子どもとは何かを追求する側面をつねに持っている。子どもの読物のこうしたあり方をすててしまったところから、高柳氏は出発している。
 そして、そのことは寺内氏のいうメーカーの文化と、そうではない文化とのちがいでもある。今日の社会機構の中で、最初から大量の商品をつくるというしごとをやっていることに高柳氏は忘れているようだった。大きな資本がなければ週刊誌は成り立たないことに高柳氏は目をつむっている。
 もちろん商品を売るには消費者の気持をつかまなければならぬ。今日たしかに多数の子どもは単行本より雑誌に魅力を感じている。だが、そこにはもう、週刊誌は安いという値段の計算さえはいっているのであり、読書運動の進展の中からは、単行本の魅力を知りはじめた子どもが生まれつつある。少年週刊誌の少年読者だけが子どもではない。
 そして、単行本に魅力を感じている子はエリートなのではない。子どもすべてがそういう可能性を持っているのだ。ただし、いわゆる児童文学のがわが、現在のままでよいとは思ってはいないが。さらにここで単行本といったのは、完訳、創作のことであり、名作再話などはふくまない。

 高柳氏に要請書を渡し、ぼくたちは教育会館に帰った。その会議室は人でいっぱいだった。報道各社の記者が集まっていたのである。
 ぼくはしばらくあっけにとられた。こんなに報道陣が集まるとは、思ってもみなかった。そして、日本子どもを守る会に加盟している各団体の人びともここにいる。抗議ハガキ一枚の決意をしてから一週間、あっというまに運動はひろがったのだ。そして、これはそれだけ、人びとに少年誌への関心があったということだ。また戦争への危機感があったからではなかろうか。

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 この三月十八日の記者会見のようすは、その夜、いくつかのテレビで簡単に報道され、翌日の新聞何紙かにものった。ただし、そのあつかいは、一紙を例外にして、他の新聞は小さかった。もっとも、その後、追跡記事もあったそうだし(東京新聞・未確認)また本誌先月号の『児童文化ジャーナル』に見られる通り、団体機関誌などはこの問題を大きく報道した。
 何をいまごろと笑われるかもしれないが、ぼくはいまになって、『あかつき戦闘隊』大懸賞問題が社会的事件であったことに、やっと気がついている。新聞といえば、ぼくたちのしごとは文化らんか家庭らんにしか縁がない。それが、この懸賞問題では社会面であつかわれたことをぼくはあらためて考えたい。
 要請・抗議をするか、しないかは個人の問題であり、ぼくはこの運動の全期間を通じて、それ以上の自覚はついに持たなかったようである。そのことのよしあしは別にして、三月十八日、記者会見の日に日本子どもを守る会・出版労協・新日本婦人の会・マスコミ共闘・母親連絡会その他の団体代表が集まっているのを見たときに、ぼくはこの問題が社会的事件となっていることに気がつくべきであったはずだ。
 いや、うすうすとは気がついていたのかもしれない。日本児童文学者協会が団体として、この運動に参加することを決議したのは、二十二日のことである。おそらく理事全員に電話すれば、その前にこの決議はでき上がっていただろう。しかし、それをしなかったのは、参加・不参加は何よりも個人の問題であると考えていたからだ。個人による社会とのかかわりあいを、ぼくはめざしていたように思う。
 そして、児童文学や、子どもの読物を書いているぼくたちの場合、個人というのは職業人としての側面をふくむ。子どもの読物を書くことでメシを食っている、また子どもの読物を書くことによって生きている意味を発見する−ぼくたちはこういう個人なので、そのしごとは子どもに対して責任がある。このあたりから、最初の数人の話は出発したのであって、文学的次元と社会的次元とは切り離されていない。
 だが、各団体と共闘していく際、ぼくたちのしごとから生まれる特殊性−個性をどのように生かし得たか。この答は残念ながら否定的である。ぼくたちよりも、むしろ母親団体の方が個性を生かしていたのではなかろうか。
 十八日以後、運動の局面はかわっていた。新日本婦人の会その他の団体が、連日のように小学館をおとずれ、『あかつき戦闘隊』大懸賞の賞品撤回を要請している。確認していないが、地域の婦人団体も小学館へ出かけたそうであり、電話やハガキによる要請も行われた。運動は社会的次元で展開されていたのである。
 この際、子どもの読物書きの方も、社会的次元での戦線に結集すべきであったのかもしれない。もともと子どもの読物書きはこの運動の火つけ役であったが、運動の第二段階であるこの時期には、あまりカを発揮していない。
 だが、そういう結集−具体的行動としては、連名に参加するだけではなく、小学館へ要請に出かける、という行動−ができたかどうか。連絡その他の事務のめんどうさを棚上げして考えても、その結集はむりであったのかもしれない。しかし、この十八日の日に、いままでの個人参加の方式をやめて、児文協として参加し、会員全員に連絡することは、やるべきであったのかもしれないのだ。
 そして、この運動への参加は何かをかならず、その参加者にもたらしたにちがいない。ぼくは社会的運動への参加が、かならず作品を豊かにする、などとは考えていないが、『あかつき戦闘隊』大懸賞問題にかぎっては、得るものがあったと思う。それは最低、子どもの読物書きの社会的責任の自覚である。
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 次へ進もう。
 三月二十一日、ぼくはスラビー氏の案内係りであった。その日の帰り、また『少年サンデー』を買う。この日は木曜で都内では午後になると、少年週刊誌が店先に出てくるからだ。喫茶店にすわりこんで見ていると、またあった。こんどは木口小平であった。
 これは、正式の名前は非常に長いもので、まず「明治一〇〇年記念・少年サンデ−創刊一〇年突入記念とくべつ企画」とあり、次に「伊藤彦造先生/日清・日露名画集」となり、「陸の大激戦」という大きい活字が以下七頁の総タイトルである。その第一頁にある「日清戦争牙山の戦い」が木口小平のことである。
 戦後に小学校教育を受けた人は、木口小平といってもピンとこないかもしれない。しかし、この名は戦前の小学校へ行ったぼくたちには、教育勅語と共に、忘れられない名前である。彼は「シンデモラッパヲハナシマセンデシタ」という兵士で、その話は小学校一・二年の教科書にのっていた。
 この木口小平の解説を読んで、ぼくはひとりで笑った。横道にそれるが、敗戦後しばらくのころ、木口小平がラッパをはなさなかったのは死後硬直であるという説があった。この説を山本和夫氏に話すと、氏が教えてくれたのは、またちがった考えであった。弾丸を体に受けたときのショックは大変なもので、したがって銃やラッパを取り落とす。つまり死後硬直以前にラッパは取り落とすものであり、木口小平がラッパをはなさなかったのは、やはりその気力ではなかったろうか、と。
 ぽくはこの山本説に敬服した。死後硬直説はエセ合理主義の感じがした。そして、この『少年サンデー』四月七日号に復活した木口小平は、次のように紹介された。
「明治27年7月25日 日清戦争開始。そして29日、朝鮮の牙山で、日本軍は最初の勝利をえた。そのとき木口一等兵は、のどをつらぬかれても”進め進め!!”と、ラッパをふきつづけた。」
 戦前、「死んでもラッパをはなさなかった」木口小平は、死後硬直説を経過して、今日、「のどをつらぬかれてもラッパをふきつづけた」兵士となったのである。これでは、戦前の方がまだしも合理的なのではなかろうか。
 この「日清・日露名画集」は木口小平のほか、玄武門破りの原田一等卒、遼陽の戦いの橘中佐、二〇三高地の白ダスキ隊であった。
 翌二十二日、午後は各団体の協議。ここでやはり「日清・日露名画集」は問題となり、これもあらためて小学館に申し入れることになった。さらに各団体による児童雑誌問題懇談会が、この日から発足することになった。
 この夜は来栖良夫氏の『くろ助』出版記念会。閉会後、児文協の緊急理事会が開かれ、『あかつき戦闘隊大懸賞』の賞品撤回要請運動に、児文協も加わることになった。
 次の日二十三日は、二十四日と共に、児文協主催の「幼児教育者のための児童文学セミナー」であった。ここで児文協の組織のことになるが、わが協会の理事会は各専門部担当の理事によって構成されており、各部に委員数人がおり、各部の活動は理事会決定に従いながら独自である。去年、ことしと法政大学でひらかれた「児童文学セミナー」、夏の「幼児童話と言語教育講習会」、そしてこの「幼児教育者のための児童文学セミナー」、これらはすべて協会事業部の企画・実行てある。ぽくはこの事業部担当の理事であった。
 連日の睡眠不足で起きるのがおそく、会場の早稲田大学にかけつけると、もう数人の受講者が待っている。ところが、会場設営をひきうけてくれていた鳥越信があらわれない。彼も『あかつき戦闘隊』とスラビー氏の日程にはさまれて睡眠不足であり、その上、この日はNHKが『あかつき戦闘隊』の件で、彼の自宅へ取材に来ているはずであった。
 会場がうまくできないことには、受講者にめいわくをかけ、児文協の信用まるつぶれとなる。電話をかけにいくと、もう出たという。待つほどに彼はあらわれ、大いそぎで会場設営がはじまった。
 受講者の受付になって、受講票を用意していなかったことに気がつく。こういうことにはなれている横谷事務局長も、連日のいそがしさで、つい忘れたらしい。けっして健康ではない横谷氏が倒れなかったのが、ふしぎなほどのいそがしさであった。その上、彼は法政大学まで講師の乾孝氏をむかえに行っている。
 ヮラ半紙を切り、鳥越のハンコをおして、受講票のかわりとする。このとき、ぼくは思ったものだ。なぜわれわれはこういそがしく、こう金にならないことにいっしょうけんめいになるのだろうか、と。
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 二十七日、各団体代表が小学館へ行き、申し入れ書を渡す。この日の申し入れは、いままで小学館に要請してきた各団体の連名によるもので、あらたに「日清・日露名画集」の問題を加え、文書による回答をもらいたい、という趣旨のものであった。
 この日、ぼくは欠席。原稿はのびのびとなり、体はつかれていた。

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 文書回答の出る日は二十九日ということになった。
 この日、小学館との会見時間は午後一時ということであったが、遅刻の常習犯であるぼくが、とちゅう、日本子どもを守る会に聞くと、会見はのびているという。集合場所の教育会館に行くと、回答書はもう出ていて、集まった人びとはそれを検討していた。正確には覚えていないが、組合のストであったか、そのために会見は延期されている、という。さらに、小学館広瀬部長のことばとして、「口頭による回答もふくめて正式回答としたい」という旨の連絡があったそうだ。
 しばらく話しあったのち、小学館へ行く。こちらはざっと十数人、小学館がわからは広瀬部長と高柳編集長が出席。相賀社長はいま用事があるので、あとからとのことであった。
 話がはじまる。こちらからはまず回答文書に社長名がないことをいい、小学館がわも社長名を入れることに同意する。               ・
 話の進行順序には関係なく記していくと、回答文書中には次のようなことばがある。「あかつき戦闘隊懸賞賞品に対する申し入れに対しては、この賞品が、戦争推進の材料とならないように十分な配慮をもって処理したいと考えます。」
 この文章中の「十分な配慮」とは、具体的にはどのようなことか、ということについての広瀬部長の答は、こうであった。
 一、懸賞当選者発表に際して、賞品名は出さない。
 二、当選者に賞品を送るとき、その賞品についての解説をつけて送る。
 しかし、ぼくたちが望んでいるのは、賞品の全面的撤回、取りかえである。当選者はわずか二百四十名であり、雑誌は公称八十万の発行部数である。この八十万部の読者の目にふれた賞品だからこそ、ぼくたちは撤回、取りかえを望む。
 この具体的処理をめぐってのやりとりのほか、回答書にあらわれた小学館の姿勢・考え方に対する反論もまた多かった。
 たとえば、小学館はいう。「この懸賞賞品がもっているミリタリールック的な興味がただちに戦争推進ということはにつながるということは、その問に、かなりの論理の飛躍があると思います。」
 しかし、ぼくたちは「ただちに戦争推進につながる」といういい方はしていない。のち、四月二日の会見のとき、鳥越は「これは微量の毒であり、微量ではあっても毒であることにはかわりない。積み重ねて致死量に至る過程のひとつとして、われわれはこれを問題にする」という意味の発言をしたが、この鳥越発言は、ぼくたちの考えのほぼ公約数といってよかろう。
 最初の児童文学者・画家・玩具デザイナー有志の要請書は、この賞品と戦争との関係を次のように書いている。「われわれもまた、幼少年時代において、これらに類似するものに親しみ、もてあそぶことによって、軍国思想ないし、戦争というものを、正義とし、美化し、それらをおびることのできる者を、人間としてすぐれたものとして、疑わなかった体験を思い起こすからであります。」
 どこにも「戦争推進とただちにつながる」とはいっていないのであって、これは小学館がわの論理の飛躍なのであった。
 さらにまた、回答書はいう。「私は、この賞品のバックになった第二次世界大戦の歴史を、子どもたちが正しく把握していることを信じていますし、この賞品もまた歴史的なコレクションとして受けとめていただけると思います。」
 この日の朝であった、と思う。NHKのカメラリポートはこの問題を報道していた。そこに出てくる子どもの発言に、こういう賞品をカッコよいと思っても、戦争は否定する、とあったのが、小学館がわの「子どもたちの歴史把握の正しさ」主張の材料のひとつとなった。
 ところが、ぼくたちはだれもこのカメラリポートを見ていなかった。取材された鳥越も、である。そして、ぼくは正確にはうかんでこない子どもの詩を思い出そうとしていた。それは靖国神社のことにふれ、戦争を肯定する詩であった。
 現在だからこそ、平和の教育がまだなお力を持っているからこそ、子どもは戦争を否定することができるのであって、教育課程の改変その他の動きが強化されていった際、子どもはもう戦争を否定しなくなる。その第一歩は、児文協要請書のいう通り、戦争及び、職業軍人の「美化」である。それはすでにはじまり、その中から戦争肯定の少年たちもあらわれてきている。これが、もう一歩進めばどのようになるか。
 そして、四月二日の会見のとき、日本作文の会の後藤彦十郎氏は、昨年八月の小学館発行の『教育技術』が『戦争をどう教えるか』という特集をやっていることを、その現物で示していった。
「子どもたちが第二次世界文戦の歴史を正しく把握しているのなら、こんな特集をやることないでしょう。われわれおとなにもその歴史を正しくつかむことはむずかしいし、学者のあいだでも論争があるというのに、子どもがどうして正しく把握しているといえますか。」
 のち、小学校五年生の教室をおとずれる機会があって、ぼくは「ナチスを知っているか」と子どもたちにたずねた。彼らは一瞬、とまどった表情をする。彼らの半数はナチスということはさえ知らない。それで歴史的コレクションとは、よくいえたものだ。子どもたちがナチスの内容を知れば、彼らはもはやナチスの鉄カブトをカッコよいとは思わなくなるだろう。この懸賞は小学館の回答書とはまるきりちがって、子どもの無知の上に成立しているのである。
 この日の会見中、もっとも深く印象に残ったことは、広瀬部長がくりかえし「今後、誤解を招くようなことはやりたくない」といったことであった。
 この発言からぼくはふたつのことを感じた。ひとつはこんどの要請運動がある程度、効果があったということである。おそらく、この問題のはじめ、小学館はわずかひとにぎりの児童文学者があれこれいう、と思っていたにちがいない。それが二十に近い団体となり、連日のようにやってくるのだから、しまったという気持が生まれてきたものであろう。
 しかし、小学館はこの懸賞そのものをけっしてよくないとは思っていない。それがぼくのもうひとつの感じであった。だからこそ、「誤解を招く」といういい方であり、小学館がわから見れば、さわぎ立てているぼくたちは、小学館の「戦争否定・平和尊重」の編集方針を「誤解」しているのである。
 この日、社長はついに姿を見せず、ぼくたちはもう一度の会見を約束することになった。教育会館に帰ると、おっかけてすぐ電話がきた。四月二日に会うというのである。
 その四月二日までのあいだに、またいくつかの団体代表が小学館へ行っている。日本作文の会・日本子どもの本研究会などである。
 その当日、例によって、おくればせにかけつける。受付でたずねると、会見場所の小講堂(?)へ行くため、みんなが階段をのぼっていくところであった。
 この日、ぼくははじめて小学館社長相賀徹夫氏の顔を見た。小学館がわは相賀社長、広瀬部長、高柳編集長の三人。こちらはざっと十団体、二十数名であったかと思う。
 社長の最初の発言は、この件に関して和光大学学長の梅根悟氏から手紙、家永三郎氏からは電報(電話であったか?)をいただいた、ということであった。両氏は共に懸賞賞品撤回を望んだのである。続けて社長はいった。「賞品を取りかえるとすると、なぜ取りかえるかを『少年サンデー』誌上に発表しなければなりません。しかし、それはどうも技術的にむずかしい。」
 これは<技術的に可能なら取りかえてもよい>というように取れる発言である。ところが、それをただしていくうち、「二十九日回答の線から動かない」という答が出てきた。つまり、この社長発言は、取りかえる意志はない、という発言だったのである。それが明瞭になったとき、ぼくたちは憤然とし、社長はあいかわらずにこにこしていた。
 このときの社長のことばで印象に残っているのが、もうひとつある。それは、過去の小学館の栄誉や伝統がどうあろうと、いまの子どものために出版を大切にする、という意味の発言であった。これは、ぼくたちが「いままで子どもと教育のためにつくしてきた小学館」という意味のことをいった、それへの答である。ぼくはこの社長のことばを、「過去の小学館の栄誉や伝統がどうあろうと、そんなものはかなぐりすてて営利を追求する」と聞いた。
 二時間に近い会見時間であった、と思う。
 ぼくたちは教育会館に帰り、あたらしく声明書を出すことにきめ、この声明書は四月六日付で出た(本誌五月号参照)。
 こうして『あかつき戦闘隊』大懸賞問題は次の段階−長期戦にはいり、そのうち、ある朝、ぼくは女房におこされた。
「電話代の請求が来てるわ。見たら、日がさめるわ。」
 見て、たしかに目がさめた。一万三千五百円。いつもの月を一万円近く上まわる金額であった。

                   6

 この運動を通して、ぼくは児童雑誌をつねに見ていなければならないことを痛感した。そして、それぞれの作品批評及び、懸賞や付録の批評も行わなければならぬ。たとえば、月刊誌『少年ブック』(集英社)七月号の付録のひとつには、「第七艦隊模型」があり、エンタープライズ号の完全図解がついている。完全といっても、チャチなものだが、「エンタープライズ号の勇姿!」というようなあおり文句つきで、この付録は、あれだけ日本をさわがせたこの原子力空母を美化しているのである。
 これはたまたまぼくの目についた一例であり、現在の児童雑誌は無批判、おとなの目のとどかないところにいる。そのままにしてはおけないのであり、そうかといって月刊誌、週刊誌のすべてを買い入れる金も、すべてに目を通す時間もない。また置き場所がない。
 みんなで手分けして、児童雑誌の研究・調査をやっていく−その委員会が必要である。別項の「児童雑誌研究・調査の会」はそういう意味あいのものである。多数の参加を望みたい。
 さらにもうひとつ痛感することは、読書運動の拡大である。子どもたちが児童雑誌のとりことなるのは、児童文学作品のおもしろさを知らないからである。児童文学作品のおもしろさを知った子は、児童雑誌の漫画批判などもやるようになる。そして、親子読書のサークルが各地にできれば、こんどのような問題がおきたとき、より強力な戦いができるのだ。
 三つめには、ぽくたちの作品そのものの問題がある。これは戦記と、そうでないものとにわけて考えられよう。ぼくたちは子どもに対する責任からいって、どうしても戦記を書かねはならぬ。太平洋戦争の真実を子どもに伝える必要がある。
 戦記以外では、たとえは冒険小説。そうしたものがないから子どもたちは児童雑誌の作品にひかれていくのでもあり、ここで現代児童文学の課題と『あかつき戦闘隊』大懸賞問題は重なりあう。ぼくたちの力はまだまだ弱い。          
(『日本児童文学』一九六八年六月、八月)
 テキストファイル化熊木寛子