『児童文学の旗』(古田足日 理論社 1970)

作家論から

P 新美南吉論

1 その時代と背景

この本におさめた新美南吉の作品の大部分は、日中戦争から大平洋戦争のあいだに書かれたものです。
太平洋戦争のあいだ、日本の学問や芸術はさびれました。学問や芸術は直接戦争には役にたたない上、そのもとになっているのは真実を知ろうとする人間の精神なので、それを自由にさせておくと、戦争はいやだという学者や芸術家が出てくるかもしれません。そこで、そのころの日本の政府は学問や芸術を圧迫し、小説家たちには戦争に協力する作品を書かせるようにしました。
ところが、この時代、ちょっと見ると、奇妙なことには、児童文学が盛んになりました。その盛んになった年は、昭和十年から二十年までのあいだに二度あります。一度は昭和十二、三年のことで、奈街三郎、塚原健二郎、川崎大治たちの単行本が出版され、山本有三の『路傍の石』や坪田譲治の『子供の四季』が新聞に連載になるというころです。
二度めはこの新美南吉の最初の単行本『おじいさんのランプ』が出版された昭和十七年のころです。平塚武二『風と花びら』、関英雄『北国の犬』、下畑卓『煉瓦の煙突』などが出版され、翌年には岡本良雄『八号館』壺井栄『タ顔の言葉』などが出ています。新美南吉は昭和十七、八年組のひとりでした。
 この昭和十七、八年組の作品は、みんなすこしずつ共通のものを持っています。新美南吉を宮沢賢治とくらぺる人がいますが、南吉は賢治のようにひとりとびはなれて、すぐれた作品を書いたという作家ではありません。
 その同時代作家と共通のものはまず第一に庶民性です。庶民というのは、金持ちでもなく、教育程度も高くなく、一日一日をはたらいてすごしている根は善良な人びと、とでも考えておいてください。南吉の作品中の人物でいえば、『和太郎さんと牛』の和太郎さん、『牛をつないだつぱきの木』の海蔵さんなどです。南吉はこういう人たちをごくしたしい目で見ています。
 庶民性は大人の小説家で児童文学も書いてきた壺井栄の作品の特徴のひとつです。『あばらやの星』や『港の少女』など、彼女の戦争中の作品には、小豆島の庶民たちが顔を出します。
 さきほど名まえの出た、下畑卓に『人力車と飛行機』という作品があります。この作品に出てくる人力車ひきのおじいさんも、主人公の「ぽく」をかわいがる庶民です。このおじいさんは乗物が好きで、そのむすこもやはり乗物が好きで、家出して欧州航路の船に乗ってしまいました。時代は大正のはじめごろで、このおじいさんにつれられて飛行機の曲芸飛行を見た「ぽく」は、飛行機乗りになろうと決心します。
 人力車と欧州航路の船と飛行機―この三つを並ぺたことは、新美南吉の『おじいさんのランプ』に似ています。人力車ひきのおじいさんは、飛行機乗りになるといった「ぽく」のことばをきいて、目になみだを浮かぺます。だが、それでもおじいさんは「ぼく」の決心をききいれます。ランプを割った巳之助のように、古いものはすてて、人力車ひきのおじいさんも、前進していくのです。
 この人間と社会を進ませた原動力のようなもの―これをとらえようとしているのも、この時期の作品群の第二の共通性です。壺井栄の作品にも、やはりその原動力はあらわれています。
 その壷井栄の作品が展開される場所は、前にもいったように、小豆島です。じぷんの故郷を作品展開の場所にする―これが戦中児童文学の第三の共通性です。南吉は愛知県半田に住んで、半田のことを書きました。
 しかし、かれらが作品の舞台として故郷をえらんだのは、ただふるさとをなつかしがるという郷愁からではなく、じぷんの知っている土地を書いてこそ、真実感が出ると考えたからであり、かれらと切っても切りはなせない庶民性というものは、土地に根ざしたものだからです。
 以上の三つの特長は、それ以前の日本の児童文学にはなかったもの、または少なかったものです。そして、こういう特長を持つようになったのは、児童文学の進歩でした。たとえぱ庶民性が出てくるためには、その作品の中に、庶民的な人物が書かれていなければなりません。だが、それまでの児童文学では宮沢賢治や坪田譲治を例外にして、作中人物の姿はあまりはっきりしていません。戦争中のこの時代になって、作中人物の姿をはっきりさせようとする動きが出てきたのです。
 では、戦争中、ほかの学問や芸術がおとろえたのに、なぜ児童文学だけが進歩したのでしょうか。
それにはふたつの理由が考えられます。そのひとつは児童文学が政府に保護されたからであり、もうひとつは児童文学者たちが、すぐれた作品を書こうとした努力がみのったからです。
 昭和十三年十月に内務省(日本国内の行政をやっていた省)警保局図書課は、「児童読物改善に関する指示要綱」というのを出して、質の悪い漫画や読物を禁止しました。この出版統制の相談を受けた学者たちは、漫画や娯楽読物のかわりにいままで陽の目を見なかった“芸術的児童文学”を前面におし出しました。昭和十五年十二月には、本に使う紙の割当をきめる日本出版文化協会というのがつくられて、漫画や娯楽読物に割当てられる紙は少なくなりました。
 一方、昭和十年ごろから児童文学の新しいあり方を考えようとする動きが、児童文学者たちのなかにおこっていました。さきにいった庶民性+地域性はこの動きの結果です。こうして昭和十七年は日本の児童文学史の上で、創作単行本が一ぱん多く出版された年になりました。
 権力による保護と、児童文学者たちの努力と、そのふたつで戦中児童文学が成立したのですが、この権力による保護は不幸なことでした。さしでがましい保護なしに、〈芸術的児童文学〉が自由に発展していれば、それが苦難の道だったとしても、あらわれてくる作品は、もっと力強いものとなっていたのではないかと思います。
 力強さというものは日本の芸術的児童文学全体にわたって不足しているもので、たとえばのちのちまでのこるすぐれた冒険小説は日本にはありません。ぼくはさきに南吉もふくめての戦中児童文学の共通性として、人間の原動力ということをあげましたが、この原動力もざんねんなことには力強さに満ち満ちているというほどのものではありません。
 『おじいさんのランプ』で、もっとも印象にのこるところとして、多くの人が、巳之助がランプを池の岸の木にともして、それを割っていく場面をあげています。
 ここは非常に美しい場面なので印象にのこるのは当然のことですが、もし人間の原動力がもっと力強く書かれるなら、この美しさを圧倒する、力にあふれた美しさが巳之助のその後の行動として出てくるはずのものです。
 それが書かれなかったところに、新美南吉も越えることができなかった、時代の壁というものがあります。
 そのころの児童文学者たちは、積極的に戦争に協力するというような作品はあまり書いていません。ときには戦争が作品の素材になっていても、その主題はまったく別のところにあるという作品や、戦争がちょっと顔を出すという程度の作品が、昭利十七、八年組の児童文学者には多いのです。
 極端にいうと、この人たちは戦争にはあまり関心を持っていなかったのです。それはよいことでもあり、また悪いことでもありました。戦争に積極的に協力せず、そうかといって抵抗もしなかった―ということになるからです。
 新美南吉もまた、こういう『赤い鳥』以来の日本の芸術的児童文学の伝続が生み出した作家たちのひとりでした。ときどき南吉の特長として、ストーリー性―作品中にちゃんと話のすじがあり、それがおもしろく展開していくこと―ということがあげられますが、これも南吉ひとりのものではなく、平塚武二その他の人びとにも見ることができるもので、この時期、ストーリー性が重視されたということも、芸術的児童文学全体の動きのひとつでした。
 ただ南吉のストーリー性は日本民話に近いような展開を示しているのが特長といえるでしょう。それに近いものには壺井栄があります。このふたりの物語ふうな語りくちには、似かよったところがあると思います。
 つぎに個々の作品にふれて、そのことを考えていきたいと思います。

2 近代的自我

 愛知県の地図をひらいて見ましょう。名古屋の南に伊勢湾に突きだした知多半島があります。その知多半島の東海岸に南吉の生まれた半田市(南吉が生まれたころは半田町、昭和十二年半田市になる)があります。
 半田には港があり、その港から徳川家康も船に乗ったと伝えられ、また幕末に近いころ、この町の出身の船頭重吉が乗っていた船「督乗丸」は太平洋で難破し、外国船に救われて重吉はメキシコからアラスカ、ロシアの都のペテルブルグまでゆき、日本に帰ってきたことがあります。
 だが、南吉の生まれた岩滑新田は海岸から離れていて、もう知多半島の中央部に近く、昭和のはじめごろまではきつねが裏山で死んでいた、という農村です。その部落を通る道を西へ進むと、しんたのむねがあり、とうげをこえると、西海岸の大野(いまの常滑市内)の町です。
 しんたのむねにはいまも水飲み場があり、学校帰りの子どもたちが水を飲んでいきますが、だれがいつ、どのようにしてつくった、というようなものではありません。もとは泉からわいた、たんぼの落水が自然に飲めるようになっているものです。
 この水飲み場を見て、南吉は海蔵さんという人物をつくりあげました。この海蔵さんという人物に井戸を掘らせたもの―その原動力はいったい何だったのでしょうか。
 三十円はいまでは安いチョコレート一枚のねだんですが、当時は大金です。大正五年、半田町役場がつくって同盟書林(『いぽ』に出てくる本屋)から発行された『半田町』という本を見ると、大正四年末の調査で半田には三十八名の人力車ひきがいます。その人力車の賃金は、一日やとい(十二時間)で一円三十銭以内、半日やとい(六時間)では七十八銭以内となっています。三十円という金は大正のはじめの人力車夫が飲まず食わずではたらいて、ひと月かかってやっとためることのできる金です。「牛をつないだつばきの木」の時代である明治では、三十円はよりいっそうの大金でした。
 海蔵さんはただ人のためになる、ということで、おかしをたぺるのもやめ、その三十円をためて、井戸を掘ろうとしたのでしょうか。多くの人のためなら、じぷんはぎせいになってもよいと思ったのでしょうか。そうではありません。
 この作品のさいごは「清水は今もこんこんとわき、道につかれた人びとは、のどをうるおして元気をとりもどし、また道を進んでいくのであります」となっています。この「道」はただ人の歩く道ではなく、人間と人間社会が発展してきた道です。『おじいさんのランプ』の巳之助が進んできた道とおなじ道です。
 巳之助は別に他人のためにランプを売ったわけではなく、じぷんの「身を立てる」ためにランプに目をつけました。「子守をしたり、米をついたりして一生を送るとするなら、男とうまれたかいがない」のです。
 海蔵さんには巳之助のようにたかぶった気もちはありません。だが、人間は金になる、ならないは別にして、ねうちのあるしごとをやりたいものです。巳之助を動かしたものも、海蔵さんを動かしたものも、この欲望です。
 こうした欲望は近代になって、多くの人の心にはっきりと目覚めました。だが、作品中の海蔵さんにはそういう近代的自覚はありません。「身を立てる」という古いところで、いっしょうけんめいになっている巳之助にしてもそうです。目覚めたのは作者の南吉でした。では、目覚めた南吉は、なぜはっきりした近代的自覚を持つ人物を書かなかったのでしょうか。
 「近代」という言葉が出てくる作品は『屁』です。春吉君は新しくきた藤井先生を「都会ふうの、近代的な先生」だと思って「いきづまるほどすき」になります。だが、これは見せかけの近代です。春吉君自身、修身(いまでいえば道徳)教科書で身につけていたメッキが、自分の屁によってはげ落ちていきます。見せかけの近代も、修身もなくなった春吉君は、じぶんひとりで問題を処理しなければなりません。
 つまり、いままでたよっていた近代や、修身という借物の権威をすてて、自分自身がじぶんをさしずするものにならなければならないので、こういう権威否定、じぶんの価値の確立が近代的自我のめざめです。
 だが、春吉君はじぶんの価値を確立することはできません。なぜなら外部の世界が近代以前のものでいっぱいだからです。藤井先生も石太郎も近代以前の人間です。だから、春吉君の考えは「こういう種類のことが、人の生きていくためには、肯定されるのだ」という方向へ流れていきます。
 しかし、作者も春吉君自身もそういう考えに無条件にさんせいしているわけではありません。
「しかたがない」というつぶやきが行間からきこえてくるようなさんせいのしかたです。そして、春吉君はその後、屁そうどうがおこっても、いままでのように単純に石太郎の屁とは信じなくなります。うわさという権威は否定されました。このように出口のはっきりしない近代的自我に南吉は目ざめていました。そして、これが南吉とほかの戦中児童文学者とを区別する、最大の点だと、ぼくは思います。ほかの作家にまるきり近代性がなかったというのではなく、南吉がもっとも深くこの問題を考えたということです。
『屁』にも町と農村の対立がありましたが、その対立は『いぼ』にもっとはっきり出てきます。そして、力を持つものは「よいとまァけ」という農村のことばであり、「どかァん」という「ばかみてな」ことばです。
このふたつのことぱのはたらきはちがいます。「よいとまァけ」は町の子の克巳もいれて三人で力をあわせたときのことばで、「どかァん」はじぷんのやりきれなさをなぐさめることばです。南吉は松吉きょうだいが、「だんだん心をあかるくして、家の方へ帰って」いったと書いていますが、ぎゃくにその「どかァん」によって松吉きょうだいのさむざむとした気もちがいっそうよくつたわってくるという読み方もできます。またこの「どかァん」を通してきょうだいの心のむすびつきが、ゆくときよりもはるかに強くなっていることがわかります。南吉はこの心のむすびつき、かよいあいを非常に大切にした作家です。だが、見せかけの近代=町と南吉はむすびつくことができません。半田は港町なのに、また大正四年の調査で四千人の人がはたらく東洋紡績の工場があったのに、そういう半田の町は南吉の作品にはあらわれてきません。

3 民話と共同体

『屁』の藤井先生がたちまち農村に同化してしまったように、見せかけの近代はひと皮はげば農村です。南吉にとって根本的な問題は町にあるのではなく、農村にありました。だから、南吉は半田の町を書かなかったのてはないかと、ぼくは思います。そして、その農村では「おとなたちが、せちがらい世の中で、表面はすずしい顔をしながら、きたないことを平気でして生きていく」ので、春吉君つまり南吉は、現在の農村にも満足できません。
しかし、「よいとまァけ」に見られるように力の根源は農村にあるので、そこで南吉は岩滑新田をなぞってすこし昔の農村をつくりあげます。『花のき村と盗人たち』の花のき村は、そういう農村で、ここには心のよい人たちぱかりが住んでいます。そこに地蔵さまがあらわれるということになると、これは民話の世界に似かよっています。そして、民話はもともと共同体―その村や部落をつくっている人びとが強いむすびつきを持っている社会―の産物です。
壺井栄と新美南吉が似ているのはここのところです。壺井栄の作品では小豆島共同体のことが書かれ、そのなかから古い日本のよさがあらわれてきます。ただ小豆島は海にかこまれて昔ながらの風習ものこる土地であり、半田はひらけた土地でした。半田では共同体的なものは、かすかにあとをとどめるという程度になっていたのではないでしょうか。だから壺井栄の作風はリアルになり、新美南吉の方では実在性が弱くなります。しかし、実在性が弱いということは作品価値とは関係がなく、むしろ南吉のなつかしさを感じさせる文体は、二度と手に入れることのできない共同体へのなつかしさがもとになっていたかもしれません。壺井栄と新美南吉。おたがいに会うこともなかったふたりが、よく似た内容のしごとをしていたことは、時代の共通性といえるでしょう。坪田譲治が民話に関心を持ちはじめて、その民話集『鶴の恩がへし』を出したのは、昭和十八年のことでした。戦争のなかで、古い日本のよさがさぐられたのです。戦争をひきおこした日本の見せかけの近代のあてにならなさを、その人たちは心の底で知っていたのだと思います。
鈴木晋一(1)は南吉の作品を心理型とストーリー型に分類しました。この本のなかでは心理型は『いぼ』と『屁』、のこりはストーリー型になりますが、このストーリー型のうち大半をしめる民話ふうの物語は、古い日本の共同体意識に根をおろしています。『花のき村と盗人たち』『牛をつないだつばきの木』『百姓の足、坊さんの足』『和太郎さんと牛』『ごんぎつね』の五編です。この五編はみんな、時代をすこし昔にとり、おとなたちを主人公とし、その主人公たちはみんな善人であり、作中世界のなかでいくらかふしぎなことがおこるという、共通の特長を持っています。またどの作品もあかるい平和な農村風景のなかで語られています。この世界では、人びとはすベてのびのびと行動していて、牛も酔い、和太郎さんも酔う世界が展開します◇『百姓の足、坊さんの足』の悪人である雲華寺の和尚さんも、いやな悪人としては書かれていません。すべて、ゆとりを持って書かれているので、ユーモアが生まれてきます。和太郎さんをさがすところなどに、そのユーモアは一ばんよく出ています。だが、この民話的世界の裏には新見南吉の近代的自覚があります。ごんぎつねは死ぬまぎわでなければ、兵十と心をかよいあわせることはできません。おたがいの心がかよいあうことは、この世界でもそう簡単にいくものではないことを、南吉は知っていました。だから南吉の作品の多くにはかなしさが流れています。ごんのいたずらは、計画的なものではありません。自己主張の単純なかたちです。もともといた
ずらというものはそういうものです。それがあいだに後悔をはさんで、兵十にクリやマツタケを持っていくことにかわりますが、これもやはり自己主張・自己の表現なので、だからごんは加助がそれは「神さまのしわざだ」「神さまにおれいをいうがいい」といったのをきいて「ひきあわないな」と思います。このごんの自己主張は海蔵さんの井戸掘りにつながっていくもので、南吉の近代性がなければ、こういうごんは生まれなかったでしょう。そして、それと同時にきつねと人間の関係のさまざまが、ごんと兵十の関係の背後にはかくされています。ごんはもと城があった中山の近くに住んでいるきつねです。中山は戦国時代、中山刑部大輔勝長という殿様がいたところで、この殿様は織田家の家来になっていて、本能寺の変のとき、二条城で討死しました。もっとも殿様のことはどうでもよいのですが、城ときつねとは関係の深いもので、城に住んでいたきつねの話は日本の各地に伝わっています。そして、きつねは人間をだまし、ばかすものでもあり、また赤い鳥居のお稲荷さんでわかるように、そのふしぎな力を使って人間のためになることをやるものでもありました。柳田国男はその著作『狐飛脚の話』のなかで「上代の狐が、人に対して一般に今よりも多くの好意をもち、もっと平和な交渉を保って居た」といっています。南吉には『ごんぎつね』『てぷくろを買いに』『きつね』のほか幼年童話にもきつねの出てくるものがたくさんあります。なぜ南吉にこのようにきつねが多いかということは、ただ岩滑新田附近に昭和はじめまできつねがあらわれていたということだけでは説明がつかないように思われます。与田準一は南吉について「生けるものおたがいの、しかし生存所属を異にしたものの、たましいの流通共鳴(2)」が南吉の作品の主題であったといいます。そして、南吉の作品中その「生存所属を異にしたもの」としては、きつねと牛とが重要な役割をはたしています。また柳田国男のことばですが、「人が相互の間にまだ十分の信用を持てなかった時代に、むしろ日ごろ目なれたる鳥獣草木を友として」というのがあります。「たましいの流通共鳴」を主題にした作家が共同体のことを考えたとき、共同体のなかまであったきつねや牛が作品のなかにあらわれたのではないでしょうか。こうして南吉の民話ふうな諸作品には日本人の歴史がかくされており、それが読者の心をうつことになります。その歴史はいうまでもなく庶民の歴史で壺井栄とおなじく〈民俗〉の歴史です。『百姓の足、坊さんの足』にそれはもっともいきいきと出ています。ただここでひとつ残念なのは、南吉がどのようにして民話の勉強をしたかということがわからないことです。『ごんぎつね』は「村の茂平というおじいさんからきいたお話」となっていますが、これもほんとうかどうかわかりません。しかし、きつねにだまされたという話はいくらもきいたことでしょうし、またきかなければ南吉の語りくちも生まれなかったのではないてしょうか。附近のきつね伝説がわかれば、その事情ももうすこしはっきりしてくるでしょうが。

4 作品の背景と出口のない現実

なお、半田在住の南吉研究家大石源三氏の話によると、兵十のモデルとして岩滑新田に、はりきりあみの名人の江端兵十という人がいたそうです。半田のことをここでもう少ししるしておきますと、大正四年ごろ、牛は半田に百頭あまりいました。農耕、運ぱんに使われ、また愛養舎というところでは乳牛を数十頭飼っていました。また半田は江戸時代から酒造業の盛んな町で、『和太郎さんと牛』の背景にはそういう事情があります。『おじいさんのランプ』の背景になっている電灯のことでは、明治四十三年、知多瓦斯電灯株式会社というのができて、大正三年から半田の中心地に電灯がつき、翌年またその範囲はひろ
がります。(3)岩滑新田に電灯がついた年ははっきりしませんが、大正七、八年ごろだそうです。南吉は大正二年生まれですから、電灯がついたころの記憶は、おとなになってものこっていたのではないでしょうか。南吉の生家の職業は畳屋兼雑貨屋で、げたがその雑貨屋の方のおもな商品だったようです。その職業と、かれの複雑なおいたちと、夜、げたをおろすときつねがつくといういいつたえが『きつね』の背後にあります。もちろん作品を読む場合、そんな事情を知る必要はありません。純粋にその作品にある、母と子の心のつながりあいだけを読めぱいいものですが、南吉が日常自分の目にふれ、耳にしたものから、ひとつの美しい空想をつくりあげていることは、しるしておかなければならないと思いました。『てぷくろを買いに』について、ある子どもはおもしろいことを言っていました。ぼくがおかあさんだったら両手とも人間の手にしてやるんだが、なぜかたっぽだけ人間の手にしたのかわからない、と言うのです。このことばはこの作品の欠点をついているとともに、作品をおもしろく読むことのできない不幸さをぼくに感じさせました。この子はここでひっかかってしまって「ほんとうににんげんはいいものかしら」という、かあさんぎつねのつぷやきを読みとれなかったからです。『うた時計』にも心と心のかよいあいが見られます。どのような人間にも美しい心がある、ということでしょうか。
『鳥山鳥右ェ門』はいきもののいのちを平気で奪うものと、それに対する良心とを書いていますが、表面に出てきたこの対立よりももっと根深いものがあるようです。平次は良心でもあり、同時に観察者、批判者でもあります。だから、鳥右ェ門は自分をつねにみつめるその自を射つぷさなければなりません。
 いままで見てきたところ、南吉は自分自身に批判をあびせつづけています。みせかけの近代が好きな春吉君は南吉自身のことであり、そのメッキがはげおちたあとのいやらしい春吉君もやはり南吉のことです。自分の中に批判者をともなっているのは近代人の特長ですが、その一方の行動する自分は当時の日本の社会では、批判者にけいぺつされる存在になってしまいます。春吉君が考える「せちがらい世の中をすずしい顔できたないことをしていく人間」にならなければ生きていけません。そういう分裂を、病気がちであったかれが死の床で考えたとき、この作品は生まれたのではないでしょうか。考えつめたせいか、南吉の作品にはめずらしくイメージが、ともなわない作品になっています。南吉は、たとえば「げんこつのようにかたい決心」(『牛をつないだつばきの木』)というように、ふつうなら「かたい決心」ですますところを、「げんこつ」というイメージを出す人です。ところが、この作品では「平次の目は」「秋の日ぐれの沼のようにつめたくすむ」というように意外に弱いイメーシです。ただこのさいご、見えもしない鐘の音につきまとわれて、つむじ風のように走るところは、ぼくの心にいたましくひびいてきます。考えてみれぱ、西欧の近代的自我のめざめは古いものをうちたおす動きのなかから出てきました。ところが、春吉君=南吉の自我のめざめは古いものを否定する力強さから生まれたものではなく、じぶんの「屁」のはずかしさという弱いところから生まれています。鳥右ェ門もそういう気の弱さを持った男です。古いものをうちたおす原動力は自己主張・自分の欲望の発展ですが、鳥右ェ門にはそれがありません。    
 こういう弱さから生まれ、見る者と見られる者とに分裂していった近代的自我―これを乗りこえようとして、南吉の諸作品は生み出されてきたようにぼくは思います。だが、時代はちょうど戦争でした。どこにも出口はありません。鳥右ェ門は東に走り、西に走るほか、道はないのでした。

(1)石井桃子他著『子どもと文学』(福音館書店)に、鈴木晋一の『新美南吉』がある。
(2)『新美南吉童話全集』(大日本図書)第一巻解説。
(3)半田町役場編『半田町史』。

(『おじいさんのランプ』一九六五年、岩波書店)
テキストファイル化小田美也子