『児童文学の旗』(古田足日 理論社 1970)

Q 北川千代論



 北川千代は大作家ではない。しかし、かの女はまぎれもない日本の児童文学者であった。ぼくはちかごろ翻訳されるかたちととのった外国作品よりも、かの女の作品にはるかに強い愛着を覚える。
 かの女の作品に後世に残るほどの作品があるとは、ぼくは思わぬ。にもかかわらず、古典・名作といわれるものと同様に、いや、ものによってはそれより以上に、かの女の作品はぼくの心に働きかける。
 これはいったいなぜなのか。ぼくの読み方が特殊なのかもしれない。ぼくは北川千代に日本の児童文学者のかなしさ、または宿命とでもいうものを見てしまうのである。
 では、ぼくの感じる日本の児童文学者のかなしさ、または宿命とは何なのか。それはまた、ぼくがかの女の作品に後世に残るものなしと断定しながら、この本の編集に進んで参加したこととかかわりあっている。
 ぼくは先にぼくの読み方が特殊なのかもしれないといった。たとえば、『世界同盟』――大正八年三月の『赤い鳥』に発表され、童話作家としてのかの女の出発点とされているこの作品は、八百屋の小僧の三吉も、魚屋の小僧の佐平も、かわいい窈ちゃんも、きれいな祥子さんも、「すべて同じ権利」で参加する同盟の物語である。彼らはひとりずつ世界の国々の名をつける。
 この観念的な、主張むきだしの作品が、今日の子どもに訴えかける力は弱いと、ぼくは思う。だが、八百屋の小僧と、窈ちゃんたちに厳然たる身分の差別があったことを知っているおとなは、やはりこれに心うたれる。しかも発表時期の大正八年は第一次世界大戦終結の翌年であった。
 さらになお、この本ではじめてあきらかにされることだが、かの女の最初の原稿では、その国々の中に朝鮮がはいっていた。『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉の手によって、この「朝鮮」はけずられる(北川千代年譜参照)。
 いうまでもなく、当時朝鮮は日本の植民地であった。その植民地である朝鮮を世界同盟の一国として入れたこの作品を想像するとき、この作品はいっそう意味深いものとして、ぼくの前にあらわれる。
 もしかしたらかの女は、軽い気持で朝鮮を入れたのかもしれない。それはその後、もとどおりに訂正する機会もあり、そのことについて述べる機会もあったのに、ついに朝鮮はけずられたままになったことから推察できる。だが、かの女が朝鮮に意味をこめようと、こめまいと、植民地朝鮮と日本とを対等の国として出してきた作品は、その結果において大きな意味をもつ。それは当時の読者に対して、日本と朝鮮の正常な関係を示すものとなるからである。
 このようにおとなは、ぼくは、時代をさかのぼり、その当時に身をおいてこの作品に心うたれる。いや、それを当時よくも書いた作者のことをもひっくるめて、心うたれる。作品を作品としてだけうけとる権利をもつ子どもたちとはちがう読み方になるのである。
 そして、こういう、時代に強く制限され、その当時においてはある役割をはたしても、のちになっては消えていく作品を書かざるをえないのが、日本の児童文学者のひとつの姿であった。
 そうかといって、ぼくはこの本が、かの女の作品が一九六七年の日本の子どもに対してはたす役割がないとは思わない。もしこの本を読む子が少数であっても、かれらは差別ある社会への抗議をこの本の中から読みとるであろう。



 大正十年、北川千代は赤瀾会に加入した。赤瀾会についての一般的解説は次のとおりである。
「山川菊栄・境真柄・久津見房子らの社会主義者たちは、婦人問題を資本主義社会の矛盾の一環としてとらえ、これを社会主義運動とむすびつけようとして赤瀾会をつくった。」(『大正デモクラシー』日本の歴史23巻、中央公論社)
 この会の綱領は別項「北川千代年譜」に紹介されているが、その中の「わたくしたちの兄弟姉妹を窮乏と無知と隷属とに沈倫せしめたるいっさいの圧制」ということばには、たしかに婦人の発言を感じとることができる。婦人は社会と家庭と、二重の圧制を受けているのであり、これは子どももまた同様であった。女・子どもの知ったことか、というようなことばがあるとおり、婦人と子どもは不可分に結びついている。
 巨視的に見れば、人間としての女性の発見と、子どもの発見とは重なりあう。かつて若松賤子が『小公子』をはじめて日本に翻訳したときにも、その重なりあう二つのものの発見があったと思うが、大正期の児童文学でそれを代表するものは北川千代であろう。
 ここでかの女の作品群を表現形式によってわけてみると、初期の戯曲をのぞいては、三つに大別することができる。一つは童話、もう一つは少女小説、三つめは雑誌『令女界』を中心に発表された、いまでいえばハイティーンを読者対象とする小説である。ただし、それぞれの境界はそれほど明確に区別されるものではないが。
 この三つの領域にひろがる作品群は、かの女の生涯のあらゆる時期につねに同時に書かれていたわけではない。大正十年代から昭和初年に至るまでは三者平行して書かれているが、やがてハイティーン小説はしだいに少なくなり、太平洋戦争中からは少女小説もごくわずかとなり、戦後はほとんど童話だけになっていく。
 そしておそらく、三者平行の時期、かの女はもっとも筆力旺盛であったのではなかろうか。この時代の作品にぼくはもっとも魅力を感じる。
 そのころ『令女界』に発表されたものには、『名を護る』『らっきょう』『赤い海水着』などがある。これらはいずれもまずしい少女や子どもを主人公としたすぐれた作品であり、社会への抗議となっている。その抗議がもっとも明瞭なのは『赤い海水着』であり、主人公志摩の無知は赤瀾会綱領にあった「無知」を思い出させる。この抗議のはげしさは告発に近い。一方『名を護る』では社会の矛盾とわかちがたくむすびついた少女の心理がみごとにとらえられる。まずしい事務員熈江は自分を堂上貴族の令嬢六条広子につくりあげることによって、現実に耐えるのである。また『らっきょう』(この本におさめた『らっきょう』はのち、子どもを読者対象として改作されたもの)にはマンジュシャゲの球根をらっきょうと思った、まずしい姉妹の姿が描かれる。
この三つの作品に見られる下層の人々に対する北川千代のかぎりない同情――それは上から見下す慈善的同情ではなく、作者自身、そこに身をおいて社会をとらえようとしているのだが、広く見れば下づみの人々に対する同情・共感こそ、日本の児童文学をおし進めてきた原動力であった。
 小川未明が「子どもは虐待に黙従す」といい「弱い者は、常に強い者に苛じめられて来た、婦人がそうであり、子どもがそうであり、無産者がそうであった」と書いたのは、やはり大正末期のことである。いわゆるヒューマニズム、弱者に対する同情をぬきにして日本の児童文学は考えられないのであり、それはまたつねに社会批判とむすびつく可能性をもっている。
 今日、児童文学史の研究は部分的に精密化しつつあるが、大まかな仮説もまた必要であろう。それは日本の児童文学者がなぜ自らを児童文学にかりたてていったか、という課題に対する答としての仮説である。児童文学を作者の表現としてとらえてみると、その作者にはおとなの小説ではなく、児童文学を選ぶ内的必然性があったと、考えられる。
 その内的必然性及び表現方法が日本の児童文学の質・形態を決定した――このように見れば、作者がなぜ自らを児童文学にかりたてていったか、ということの追求は重要な意味をもつ。
 そのことへの答、仮説の一つは作者の資質であり、もう一つはその資質とからみあうヒューマニズムである。もちろんこの二つがすべてではなく、千葉省三のように子ども・子ども時代に対する関心から出発する作家もあるが、その千葉省三にも、『けんか』『井戸』のように、差別に対する怒りをこめた作品がある。日本の多数の児童文学者の内的必然性とヒューマニズムとは深くかかわりあっている。そして、それがおそらく現在に至ってもなお解決されない、日本児童文学最大の矛盾である。日本の今日の社会や、原爆や、太平洋戦争を書いて、これこそ記念碑的作品であるという傑出した作品をわれわれはまだもっていない。
 その根本的原因はこれもおそらくだが、大正十年代のヒューマニズム諸作品の矛盾と共通している。児童文学は子どもが読者であるという特質上、明るく、強健なものであるはずだ。だが、ヒューマニズム諸作品はひと口にいって暗い。ヒューマニズムは圧迫された婦人・子ども・働く人々への関心を深め、その関心と作者の資質とがあいまって、日本の近代児童文学がつくられる。だが、ここにおける子どもの発見は好奇心・冒険欲・探求欲に満ちた子どもの発見ではなく、しいたげられ、愛にうえ、やせ細った子どもの発見であった。 もちろん大正期児童文学すべてがそうであったわけではない。白秋童謡に代表される健康さが一方にはある。そして、それは『赤い鳥』の運動がそうであったように、中産階級的健康さであった。
 この市民的運動と関連、平行しながら社会主義的運動も進むのであり、その社会主義的運動の進行の中に小川未明も、北川千代もいた。いままでいってきたヒューマニズムは、あいまい、かつ幅広い概念で、微温的な浜田広介から、怒りにいろどられた未明までをふくむが、怒りと社会主義的色彩とにおいて北川千代は未明に似ている。また前期社会主義的とでもいうか、コミュニズム以前の人々である点においてもである。
 ところで、北川千代はしいたげられ、やせ細った子どもたちを発見した。『らっきょう』『赤い海水着』以外にも『星の下』『卵一つ』『新谷みよの話』などの諸作品に、ぼくたちはそれを見ることができる。
 これらの諸作の中には、『母います』のように通俗的なものもあり、『星の下』のようにうわずったものもあるが、それらをふくんでやはり感動的である。
 しかし、これらは今日、どのように生きるのか。ある社会現象をとらえた作品は、その現象が消減したのち、生き続けることはむずかしい。ことに子どものものにおいてはいっそうむずかしい。にもかかわらず、日本の児童文学者は、北川千代はその現象に執着せざるを得なかった。それこそがかれらを作品にかりたてていく必然性であったのだから。
 北川千代は、やがては消滅していく作品に忠実であったのだ。そして、今日の多数の児童文学者たちも。しかし、その諸作品は社会の進歩につねにある役割をはたしている。



大正十二年、北川は雑誌『女学生』に『路代の夏休み日記』を発表した。のち『夏休み日記』と題名があらためられるこの作品は、ぼくにはじつに印象深い。もしもこの作品や、『寄宿舎の出来事』の延長線上にかの女の作品が完成していたら、その後の日本児童文学の様相はかわっていたのではなかろうか。
 この作品発表の二十数年後、かつてのプロレタリア児童文学の批評家槇本楠郎は、この作品もおさめた少女小説集『杏子のロマンス』をほめる。だが、二十数年後では認められるのがいかにもおそすぎたのであり、しかもそれは当時病床にあった槇本の私信にすぎなかった。
 この主人公路代の心理は今日の少女にも通じるものがある。避暑に出かけた友だちのことを思うと、「なにをしてもばかばかしくって、そしてしゃくにさわる」かと思うと、利ちゃんのたのしみのため、朝顔のつぼみの数を三つだけつみ、「あさがおにはきのどくだったけれど」と、つけくわえるのを忘れないのである。また「いっぺんでいいから、すいせんの花の中にねころんで、海のなる音がきいてみたい」など。
 そして、主人公の成長のあとが日記にじつにすっきりと出てくる。避暑にいった友だち、二間きりしかない長屋にいる友だち――それを通して彼女は社会の矛盾に目をひらいていき、八月二十七日に出あった荷馬車のことで、決定的に矛盾を知る。「この石さ夕がたまでにはこんでかねえと、おれもめしがくえなくなるだ」という馬方のひとばには重量感がある。人もつかれ、馬もつかれているのに、いそぎもしない庭石をはこばなければならないのである。
 こうして目をひらいた路代がその後、どのように生きたか。その物語が書かれていたら、それは日本児童文学にとって記念すべき作品となったであろう。ここには健康な少女小説――いや、そのわくを越えるものの芽生えがあった。
 少女小説といえば北川千代の吉屋信子に対する批判はきびしい。そして、『名を護る』は少女小説批判の側面ももっているが、『寄宿舎の出来事』もまたそうである。
 たかがクローバーに大さわぎする少女たちがおり、そのために同年輩のおてつだい、お花さんはクローバーをつみに、置き手紙をのこしていなかへいく。軽い小さい物語だが、善良なお花さんを出すことで、クローバーさわぎそのものが批判されている。作者にそういう意図があったかどうかは別にしてのことだが。
 だが、『夏休み日記』も『寄宿舎の出来事』も児童文学史にはしるされていない。『寄宿舎の出来事』はともかく『夏休み日記』は児童文学史が落としてはならぬ作品だと、ほくは思うのだが。
 では、なぜ児童文学史にしるされなかったのか。その原因はまだ児童文学史研究が進んでいない、そのことにつきると思うが、それはまた『夏休み日記』の方向の作品がその後、なぜ成長しなかったか、ということともかかわりがあるだろう。
 児童文学史はいわゆる童話を中心としており、そのほかに芽生えてきた可能性に、まだ広くは目をむけていない。そして、そういう児童文学史成立の根拠には、童話中心の考え方が当時からあった、ということができよう。それはまた児童文学における文壇的なものの成立とからみあい、その文壇の外にあるものは無意識的にはずされたのではなかろうか。児童文学史は活字になる前に、その時代を生きてきた人々のほぼ共通理解のもとに成立していたはずなのである。
 その共通理解の中から北川千代、あるいは『夏休み日記』ほかいままであげてきた作品が欠落する――そのことにぼくはまた、なんともいえぬ悲しみを感じる。昭和三年十月「反資本主義的社会認識を有する児童文学作家」(菅忠道『日本の児童文学』)より成る新興童話作家連盟が結成され、これは「リベラリスト・アナーキスト・コミュニストにわたる反資本主義的傾向の作家を集結した」(同上)ものであったが北川千代はこれに加入していない。さそいを受けなかったらしいのである。
 そして、その後数年間、プロレタリア児童文学運動が展開されるが、この運動と北川千代はあまり関係が深くないらしい。だが、かの女は昭和九年、『幼年倶楽部』に『山上の赤旗』(のち『山上の旗』と改題)を書く。この「赤旗」にはなんの意味もなかったのだろうか。そして、この年、かの女はやっと槙本楠郎と知りあうのである。
 しかし、児童文学史におけるかの女の位置は研究が進むにつれ訂正されるにちがいない。むしろ問題はなぜ『夏休み日記』が発展しなかったのだろうか、ということのほうである。この作品中、路代が『ハイジ』を読んだことが出てくるが、この作品の発展はおそらく日本の『ハイジ』を生み出したであろう。
 その可能性が実を結ばなかった。大正十四年の『お母さんを売る店』にあった空想もまた実を結ばない。それは当時の児童文学観のせいであったかもしれない。少女小説は児童文学とは考えられず、ロボットの空想は新しすぎたのではなかったろうか。だが、雑誌『女学生』に発表された作品が編集者や愛読者以外から批評を受けることもまずなかっただろう。北川千代はひとりで自分の世界を切り開いていかねばならなかった、と考えられる。
 そして、大正十三年十二月、これもまた当時認められなかった『注文の多い料理店』を出した宮沢賢治は、その後もひき続き自らの世界を築いていくのである。



 江口渙との離婚は大正十一年九月のことであった。その後かの女は新しい夫、高野松太郎とともに三河島・尾久のあたりに住み、吉原その他の娼妓解放の運動をやっていた、という。
 この実際運動の初期『夏休み日記』は書かれ、後期『名を護る』は書かれたのであろう。そして、推察でしかないが、この長屋暮しや、運動の中で、下づみの人々の実際を見たことが『夏休み日記』の方向を、くずしていったのではなかろうか。『名を護る』『らっきょう』ともに大正十五年の作であり、『赤い海水着』は昭和二年、そして『夏休み日記』は前に述べたように大正十二年なのであった。  実際の下づみの人々はかの女の想像より、もっとみじめで、もっときたなく、もっと無知であったにちがいない。『卵一つ』や『星の下』にその姿の一端が紹介されている。ここには『夏休み日記』のような中産市民の生活はありえない。生きることこそすべてなのであり、生きるためには『名を護る』のように屈折しなければならなかった。
『夏休み日記』には健全な中産階級の姿がある。路代ののびやかな感受性がそのまま成長すれば、かの女は近代的市民になったのではなかろうか。女・子どもに代表される圧迫されたものの発見は動物の発見につながり、ヨーロッパではそれは『黒馬物語』となり、『フランダースの犬』となってあらわれている。動物愛護の精神はもともとは圧迫され、しいたげられたものの立場に立つことで生まれてきた精神であった。
 だが、『黒馬物語』も『フランダースの犬』も圧迫されるものが、そのことによって他を圧迫せざるをえない、という関係はとらえていない。『夏休み日記』ではこの関係は明瞭である。この認識こそ、日本の近代市民の精神形成の基礎となるはずのものであった。
 しかし、『名を護る』の屈折――ここには市民的ふんいきはない。「いままでの尊敬、いままでのあこがれ」それを弘江は失いたくないために名を守る。しかし、それは正体がわかればたちまち消滅するものである。幻影でしかないのであった。
 その幻影を守りとおそうとする弘江は、あわれである。これは庶民の意地にちかい。それは誇り高いものに見えても前近代的な生き方である。にもかかわらず、それが生きがいであるばあい、他にどのような生き方があるのか。
 そこでぼくはこの作品にいまもなお感動するのだが、幻影を守る弘江に対する批判があったなら、この作品はよりいっそう高いものになったろう。
 いずれにしろ、のびやかな感受性を通して、いくつかの矛盾にめぐりあい、決定的な矛盾に至るという『夏休み日記』の方向は見失われた。市民の文学の可能性は消えた。社会主義的、あるいは、社会的ヒューマニズムが市民の文学の芽生えを殺したのではなかろうか。本来ならともに発展すべきはずのものが、日本児童文学では矛盾としてあらわれてくるのである。 
 女・子どもの発見が児童文学をつくり、発見された女・子どもの現実の苛酷さが、児童文学の成長をはばむ――少なくとも日本児童文学の初期にはこういう矛盾があり、それは現在にも尾を引いている。
 この矛盾は具体的には貧困・圧制、こうしたものからの出口のなさとしてあらわれる。赤い海水着をすてることが出口ではなかったように、名を守ることも出口ではない。
 その出口のなさをあきらかにつかんでいるのは、大正十二年の童話『ロッキー』である。
 三吉は昭二をはずかしがらせてやりたいため、自分の大すきなロッキーを昭二の家に返しに行く。ここにも金持ちに対する貧乏人の意地があり、そのことによって三吉は昭二と対等の立場に立つ。しかし、ロッキーを返しに走る「三吉のほおには、しらないまになみだがつめたくながれ」る。三吉はロッキーを飼うことはできないのであり、この二千円のいぬの存在は貧富の矛盾を読者に知らせる。
 出口がないなら、出口をむりに書く必要はない。まずは矛盾を書くことであり、下づみの人々の存在と、それへの同情を書くことであった。
『<汽車の婆>』は下って昭和十二年の作品だが、『<新谷みよ>の話』とともに読者の心にしみとおるのである。
 だが、この二編の作品とも話のすじの発展という面から見れば、『夏休み日記』や『名を護る』にくらべて落ちる。児童文学の形態としては、この大正年代の二作が北川千代の全作品中、もっともすぐれているのではなかろうか。
 この二作が形態としてすぐれているということは、北川千代を童話作家としてではなく、児童文学者として見ることになる。いままで部分的に北川千代について書かれたものは、かの女の童話のしごとを認めるが、少女小説にはふれないのである。
『名を護る』には、はっきりとした結末があった。ほんものの出口ではないにしろ、弘江は弘江のおかれた現実からいちだんと高く飛躍する。この物語世界の形成は、当時から後年に至る童話にはほとんど見られない。
『キクの正義』『鳩』。この二編は一方は母、一方は父に対する子どもの疑いを書く。こういうテーマは児童文学にはめずらしい。だが、これを北川千代はやってのけた。『鳩』はしかも警官批判である。佩剣をガチャガチャいわせていた、当時の警官を批判するのはよっぽど勇気がいるしごとであったにちがいない。
 はとに石をなげようとした百姓の子をしかり、空気銃でうとうとした地主の子のきげんをとる。この父の姿が「小さくみすぼらしく」見るところで、この作品はおわる。
 一方、『キクの正義』のキクは、ごまかししごとをする母を疑い、そのようにして金を取って自分に着物を買ってくれようとする母をかなしく思う。そして、この作品は「かあちゃんとおらと、気持ちよく、なかよく、くらしていける仕事がほしいなあ」とつぶやくところでおわる。
 この二編はともに昭和戦前の北川千代のしごととして記憶されるべき作品であり、ことに『キクの正義』をぼくは高く評価したいが、その結末にはやはり出口がない。キクはつぶやくよりほかないのであり、『鳩』の純一は父をみすぼらしく感じたのち、どのように生きたのだろうか。『鳩』のこの結末は実は物語の発端にほかならないのである。
 だが、作者は父の警官が地主の子のきげんをとり、純一の気持ちが変化するところでペンをとめた。おそらく警官の本質をあきらかにすることが、この作品の目的だったのだろう。
 こうして社会批判が行なわれる。そして、純一の自覚、キクのつぶやき、それが一遍をしめくくる。
 これは『名を護る』で弘江が名を秘して去っていく、そのこととは質がちがう。純一の自覚、キクのつぶやきはかれらが住む現実を集約的に表現したものであり、弘江の行動は新しい現実を創造している。
 北川千代はいちど到達した物語の形態からむしろ後退していったのではないか。かの女の短編少女小説は大正十年代に花をひらき、そのまま結実せず、しぼんでいった。
『鳩』も『キクの正義』も童話である。おなじく出口がないにしても『名を護る』のほうが強烈なのであった。だが、出口のない世界を書き、社会批判を続ける、そのことにぼくは共感する。現在のぼくたちにもやはり出口はわかっていないのである。



 しかし、出口が全然ないわけではなかった。『美しき大地』はすぐれた作品とはいえないが、ここには母性の発見がある。同様に『お母さんを売る店』にもそれがある。母性はひとつの手がかりになるかもしれなかった。
 ただし、それが『キクの正義』の母親のようになっていく際、母性はエゴイズムと重なりあい、ここで手がかリは断ち切られるのである。
 こうして『明るい空』のような作品も出現することになる。この作品について「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」ことを書きたかったという、作者のことばは昭和十年代における作者のひとつのカムフラージュとしてぼくは受けとりたい。これは平等が実現した物語である。
 だが、その平等を実現させたものは火事であった。人間の力ではない。ぼくはこの作品に未明の『赤い蝋燭と人魚』を連想する。『赤い蝋燭と人魚』の怒りに満ちたあらしの強烈さはこの火事にはないが、災難がおこるという点において、まずこの二作品は共通性を持っている。そして、あれはてた地上とつながっている空が「青々と明るくこころよくミナの目にはうつ」るという、そのこともまた『赤い蝋燭と人魚』につながるものをもっている、とぼくは感じる。そのつながるものはアナーキーな心情なのであり、この心情はさかのぼれば、『赤い海水着』の志摩に通じるものでもあった。



 このようにときには極端に走る心情がの女にさまざまの作品を書かせたのであろう。しかし、それらはつねに社会批判を軸としていた。『春やいずこ』や『巣立ちの歌』のように偶然性の多い作品の中でも、やっぱり随所に社会批判があらわれるのである。
 そして、いままでふれてきた作品以外に、ぼくに印象深く残っているのは『森の小母さん』である。すべてのものに親切であった森のおばさんは結果として、森に不幸をもたらす。これは安直なヒューマニズム批判なのであり、しかもそれが幼い子のための物語であることは北川千代でなければできないしごとであったろう。
 ぼくは最初に北川千代に日本の児童文学者のかなしみを感じるといった。児童文学者のしごととはいったいなんなのか。かの女は娼妓解放の実際運動の中で、もっともすぐれた作品を書き、その後も差別ある社会に抗議し続ける。この姿をふりかえるとき、ぼくはそれでよかったのだと思う。作品は残らなくてもよい。子どもがしいたげられる社会の中では、児童文学者はどのようなかたちであれ、つねに社会に抗議し続けなければならないのである。北川千代はそういう日本の児童文学者であった。
 そしてまた、後世に残らず消えていく作品はなんの意味ももたないのだろうか。ぼくはそうとは思わぬ。時を越える古典とは、すでに人間が獲得した価値である。一方、世の常識に対して疑いをもち、新しい価値を創造するのは、つねに現在の作品である。北川千代の作品はそういう作品であった。
(『北川千代児童文学全集』下、一九六七年、講談社)
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