2 六〇年代をふりかえり七〇年代を考えるおぼえ書
「七〇年代・児童文学の位置」は、六〇年代の経済の高度成長の結果、児童文学が現在の日本社会において、どのような位置に置かれることになったか、また占めるべきか、を考えたものであった。いいかえれば、児童文学に対する国民の要求と、児童文学がはたさなければならない役割について書いたものであり、外部から児童文学を考えたものであった。
では、それに対して、児童文学の内部、ことに創作の分野で、どのような問題があるのか、六〇年代をふりかえり、七〇年代の課題とでもいうものを考えてみたい。
現況(1)――ぼく自身
今日は書く者にとっても苦しい時代である。
六〇年代のはじめ、いくつかの作品は一作ごとに新しい世界を切り開いてみせてくれた。『だれも知らない小さな国』がそうであり、『木かげの家の小人たち』がそうであり、『とべたら本こ』がそうであった。
その時代、児童文学の創作で衣食できる人はほとんどいなかった。児童文学はいわゆる慢性的不況からようやく脱したばかりであった。しかし、その一作、一作に手ごたえがあった。
その後、十年の間に事情は一変した。毎月、何冊もの創作単行本が出る。だが、その手ごたえはけっして強くない。
これはいったい、どういうわけなのか。作者が主体的でないからだ、という意見がある。乱作のためではないか、という意見もある。
それらの意見はたぶんあたっているだろう。ことに、作者の主体を問題とする意見は、もっと深く吟味しなければならぬ。
しかし、ぼくの実感に執着していえば、これが現代なのだ。六〇年代はじめとは状況がちがう。今日は、書き手が一歩進むことが非常に困難な時代である。書き手にとっては実験ではあっても、評者・読者にはそのように受けとられない場合が多い。
そして、その書き手たちも他人の作品を前にするとき、やはり評者・読者である。
この困難な時代をぼくたちはどのように切り抜けていくのか。
角度をかえ、自分自身をさぐってみよう。
七〇年一月のある日、ぼくは電車の中で『砂のあした』(小沢正)を読んだ。一万年後、地球は砂の世界と化し、そこにすむ人びとは、砂に変身して生きている。その一万年後の世界と現代とが交錯する物語である。
この一万年後の世界のなんともいえない荒涼さ――これは一方、現代の精神的風景である。もちろん、そうではない、と否定する人もいるだろう。ただ、もう一度ぼくの実感に即していうと、ぼくの中には『砂のあした』が存在している。
他人の作品を引合に出すことは誤解を招くかもしれない。いいなおすと、ぼくは「絵の中の物語」という物語を書きたい、と思っている。ある一家が夏の別荘村で、庭の芝生のテーブルについて、夕食をとっているところからはじまる物語だ。
この一家は、あすは東京に帰る予定だ。居間には絵がかかっている。親子三人、庭の芝生のテーブルで夕食をとっている絵。そして、実際には夕食をとっている親子三人のうち、父親は自分たちが実はその客間の絵の中にとじこめられていることを知っている。
翌日、一家は列車に乗って東京に帰る。郊外へ行く私鉄にのりかえ、見なれた沿線の風景が近づく。駅におりて、歩き出す。すると、そこはもう、朝出発したはずの別荘村だ。
このとじこめられた世界からどのようにしてぬけ出すのか。やっとぬけ出したかと思うと、そこもまた新しい絵の世界。ぬけても、ぬけても、絵の世界は続いていく。
こういう物語をぼくは書こうと思っている。ぼくは自分が絵の中にとじこめられている、と見ているらしい。だから、心の中に『砂のあした』がある。そのぼくが『砂のあした』を読みながら、電車に乗って行こうとしているのは、「本好きな子どもにするためには」というパネル・ディスカッションの会場であった。
「本好きな子どもにするためには」――人によっては、いわゆる教育ママごのみの、夏の休暇の別荘村的風景と見るだろう。それに参加することによって、とじこめられた世界から脱出することができるのか。脱出の可能性の一つの部品でもよい、獲得することができるのか。
いや、獲得以前に、「本好きな子どもにする」ことは、この見せかけの繁栄下、商品としての本を売りひろめ、体制を擁護していくことになりはしないのか。
これは一種の恐怖感である。商品としての本の中には、ぼくの書いたものもふくまれている。現体制に不満であるぼくの気持、考えは、その本の中に流れているはずだ。ぼくの本とかぎらず、そうした本を売りひろげることは、世の変革にいくらかの役にたつのではないか。
そうは思っても、なおかつ恐怖感が残る。女房がいったことがある。
「わたしたちは小さいさかなみたいなものじゃないかと思うときがあるわ。無目的にむれをつくって泳いでいて、うしろの方から、ぱっくり、ぱっくり、大きなさかなにたべられているのを知らないで。」
このことばには、レオ=レオニの絵本『スイミー』の影響があるかもしれない。スイミーでは、小さなさかなたちが大きなさかなのかっこうをつくることで、自分たちをたべにくる大きなさかなを撃退する。しかし、そういうさかなの生態はおそらくあり得ない。ぼくは『スイミー』を見ていると、こういうつくりごとはもうたくさんだといいたくなる。
体制を掘りくずす――いや、それよりも日本の子どもと自分に忠実なしごとをやっていると思いこみながら、なおかつ、そのしごとがじつは体制擁護のしごとに転化させられているのではないか、という恐怖感がぼくにはある。
今日の体制の構造は巨大であり、また柔軟であり、多少の抵抗(?)は音もなく吸収してしまうのである。その中で、目的ありげに泳いでいた自分が、いつのまにか目的を失い、失ってもそれに気がつかず、いまもまだ、目的があるかのように泳いでいるのではないか――これが、ぼく自身に対するぼくの疑問である。
しかし、会場へ行ったとき、ぼくはやはり来てよかったと思った。会場である小学校のPTAが会員父母を対象とした、本についてのアンケートの結果が報告され、その中に、検閲機関をつくって、悪書をとりしまるべきだ、という意見があった。
書くものがどう利用されるかという以前、書くものが人の目にふれないという状態がやっくるかもしれない。各地PTAへ子どもの本の話をしに行くと、とりしまりの問題が二か所に一度はかならず出てくる。七〇年にはいって、『ハレンチ学園』(中村豪、『少年ジャンプ』)のことが新聞記事になって以来、この傾向はことに多い。
検閲機関はあるべきではない、自由な選択の中で好ましくない本は追放していくべきだ、とぼくは会場の人びとに話した。
ぼくはやはり、脱出の可能性の一部品を獲得できる方に賭けている。
にもかかわらず、講演の依頼を受けて、瞬時、ためらうことがあるのは、なぜなのか。体制に奉仕しているのではないか、という恐怖感をふりすてて、なおためらう。それはおそらく、この時代の巨大なメカニズムに対して、ぼくのつみ上げようとしているものがあまりにも小さすぎて、はたして抵抗できるのか、という気持によるらしい。
だが、ほかにどのような方法があるのか。ヘルメットをかぶって、角材をふりかざす――この方法で、今日の社会がかわるとはぼくには思えない。人間がかわらなければ、世の中はかわらない。
蟷螂《とうろう》のおの、ということばがある。ゲバ棒とはちがう蟷螂のおのをふりかざそう。とじこめられた世界から抜け出す可能性を、ぼくはぼく自身の蟷螂のおのに賭ける。
現況(2)――『立ってみなさい』
「日本の児童文学にも一九七〇年がはじまっている。過ぎた一年の作品たちに、さまざまな評価がなされている。それとは別に。目をつぶったら浮かんでくる作品といったらどれだろうと考える。(中略)あげはじめると芋づるのように指折られる。しかし、指をたくさん折ってくるにつけて、いい作品だが、なにか小柄で器用すぎ、とりこみ方がうますぎて、印象の強烈さがなくなってくるようだ。七〇年の課題のひとつかなと思う。」
雑誌『日本児童文学』七〇年二月号の編集後記に、その編集委員のひとりの森久保仙太郎はこう書いた。
「なにか小柄で器用すぎ、とりこみ方がうますぎて、印象の強烈さがない」作品群――これは「過ぎた一年」である六九年にかぎられたことではない。記憶にたよることになるが、六〇年代後半、作品の「平均化」ということばがあちこちで使われている。
まったく、森久保のいう通りだと思う。書く者にとっては、七〇年の課題のひとつどころか、最大の課題である。
では、なぜ「なにか小柄で器用すぎる」作品群が多く生まれてくるのか。横谷輝は次のようにいう。
「今日の児童文学は、一定の技術水準をもった作品であるていどのおもしろさをそなえた作品にことかかない。しかし、新しい児童文学のあり方をもとめて、実験や探究の努力を重ねている作品や、その可能性をいくらかでも表現している作品は、きわめて微々たるものである。このような状況を、停滞といわずになんといえばいいのだろうか。
この停滞の根元的な原因は、やはりなんといっても新しい児童文学理念が、確立されていないことである。『童話理念』にかわって登場した『小説精神』や『世界的な児童文学理念』が実体的価値をもつことができず、機能的合理主義にとどまっているところに、今日の児童文学の深い混迷があり、過渡期特有の不安定さがある。」(「過渡期の児童文学運動」――『児童文学と思想と方法』所収)
横谷の『児童文学の思想と方法』は、六〇年代児童文学の動きを、「童話理念」の消滅と「近代主義」への動きとしてとらえていて、この巨視的な見方にはなるほどと思わせられるところが多いが、細部については異論がある。
いま引用の箇所も肯定できないところだ。横谷は今日の「停滞」の根元的な原因を「新しい児童文学理念が確立されていないこと」に見るが、ぼくにはそうとは思えない。理念の問題ではなく、今日の社会の壁をどう突き破るか、それを発見し得ないところが問題なのだ。
ぼくはさきに、「今日は書く者にとって苦しい時代である」といった。一方、横谷は「新しい児童文学のあり方をもとめて、実験や探究の努力を重ねている作品や、その可能性をいくらかでも表現している作品は、きわめて微々たるものである」という。巨視的なものの見方をする者と、そうでない者とのちがいなのか、今日、書く者にとっては、たった一歩の前進が、大げさにいえば地獄の苦しみである。ぼくは横谷のこの文章を読んだとき、おもわずためいきが出た。
問題は理念ではない。理念の消滅はむしろ今日の児童文学作品の多様化とかかわっているものとぼくは考える。問題は今日の社会の壁と、それに対する作者の主体である。
六〇年代後半に出現した最大の作家は斉藤隆介だと、ぼくは思っているが、彼に『立ってみなさい』という短編がある。
アイヌの酋長の子オキは年二十。足なえで足が立たず、炉ばたにすわって彫刻だけやっている。酒、飯、彫刻の材料、すべて姉がめんどうをみた。オキがやるのは彫刻の小刀をとぐことだけだ。
ある朝、オキが、なくなった酒の壺をあげても、姉は次の壺を持ってこない。「オキ、お酒はもう無いよ」と姉はいう。「キキン魔が川にクルミのヤナグイを立ててしまったから魚もとれないし、クルミの矢で射つんで鹿もいなくなってしまった。だから食べ物もお酒ももう無い」のである。
「さっきのが、あれが最後だよ。ほしかったらキキン魔を退治しておいで」と、姉はいう。これにつづくオキと姉との問答はぼくの胸をえぐる。
「だっておれの、足が立たないことは姉さんもよく知ってるじゃないか! それにおれは、化もの退治なんか性に合わない。おれは、たたかう、なんてことは出来やしない。おれに出来るのは彫ることだけだ。おれはそれで良いんだ」
「ほんとにそれで良いの? 食べられなかったら飢え死にしてしまう。飢え死にしたら彫れないよ」
「だっておれは、まだ生まれてから一ぺんも立ったことがないんだよ、キキン魔とたたかうどころかおれは立つことさえ出来やしないんだ!」
「お前は立てる。立ってごらん。本気で立とうとしたことがないじゃないか」
「立てるものか!」
「オキ。立ってみなさい」
オキは立った。オキは立てた。生まれて二十年目にはじめて立てた。今まで立てなかったのがふしぎだった。立ってみると、世界も高くなった。元気が体にあふれた。オキはポロポロと涙をこぼした。
オキは、母親がつくって父親が身につけたハバキをつけ、祖父の着たクサリのよろいを着る。姉は伝家の宝刀も渡そうとするが、オキはそれをことわり、「日に何度も自分でといでは使ってきた彫刻用の小刀」を持って外へ出て、キキン魔とたたかう。
この『立ってみなさい』はひしひしと身にこたえる作品である。この物語を読んだのち、ぼくは、深夜、つかれて帰るぼくの口からおもわず出てくるつぶやきに気がついた。それはオキと姉との問答である。
「お前は立てる。立ってごらん。本気で立とうとしたことがないじゃないか」
「立てるものか!」
「オキ。立ってみなさい」
この問答が身にこたえるのだ。ぼくは自分にいうことになる。「お前はいったい、一度でも、本気で立とうとしたことがあるのか。」
それに対して、ぼくは答えることができない。ぼくの頭を去来するのは、どのようにしたら立てるのか、ということである。
どのようにしたら立てるのか、といえば斉藤隆介は激怒するだろう。「本気で立とうとしたことがないからだ」というにちがいない。
しかし、それでもなお、ぼくには「立ち方」が問題なのだ。立ち方は、いいかえれば、どのようにして変革が可能になるか、というプロセスなのだ。
おなじく斉藤隆介の『ゆき』。この中で、村はずれの爺さまはいう。「手だては一つ。百姓がたが心をあわせることだ。」また、いう。「一味同心。二十か村の心を一本のなわにないあげねばなんねえ。一つの村や三つ四つの村がまとまっただけではだめだ。この戦場のまわりの村々の百姓がたが、みんな心を一つにして太い一本のなわをないあげて、それで戦場をぐるりと取りかこむのだ。」
まったく、爺さまのいうとおりである。しかし、それはどのようにして可能なのか。たしかに、今日の社会をかえようとするなら、「手だては一つ、心をあわせること」しかない。にもかかわらず、「心をあわせること」しかない。にもかかわらず、「心をあわせること」のいかにむずかしいことか。この困難をどのようにして乗りこえるのか。プロセスというのは、そのことである。
斉藤隆介は原理を語る。しかし、プロセスは語らない。ぼくは日本の現在の状況を切り開くプロセスがほしい。原理は現在の日本では、どのような形で展開するのか。いや、現在の日本で展開されている、さまざまの動きの中にひそんでいる原理をどうみつけ出すのか。
この際、『立ってみなさい』と『ゆき』とでは作品の性質がちがうだろう。『立ってみなさい』では、原理はまさしく原理として提出され、したがってぼくは「本気で立とうとしたことがあるか」という声を心に、きくことになる。
だが、『ゆき』ではそうではない。『立ってみなさい』では、立たないオキと、立たないぼくとが重なりあう。『ゆき』では日本の現在状況と重なりあわない。いや、一般的な状況として重なりあうことは理解できるが、身にはせまってこない、ということになるのか。
そして、『立ってみなさい』にゆすぶられながら、ぼくはやはりプロセスを考える。考えざるを得ないのだが、その突破口さえもみつけ出せないのである。
今日のこの出口のなさ、あるいはそれとかかわりあって、突破口を発見できない主体の弱さ――それが今日の「なにか小柄で器用すぎ、印象うすい」作品を生み出しているのではないか。「新しい児童文学理念が確立されていないこと」は、今日の「停滞」の根元的原因ではない。
ぼくには、時代に流されてきた、という感じが強い。
六〇年代の出版をどう見るか
では、ぼくたちは時代に流されっぱなしだったのだろうか。そうではない。
六一年、山形県の同人誌『もんぺの子』の同人たちは、県内の米軍基地のことを書いた物語『山が泣いている』を発表した。その同人のひとり鈴木実が六九年に次のように発言している。
「一九五九年から六〇年にかけて起こった創作児童文学の激しいほとばしりは、明確に意識された敵対物に対する集中砲火のそれに擬せられるものがあった。ひと言でいうならば、安保反対という表現に集約された諸々の運動と作家の内的緊張が密接に結びついて文学的モチーフに昇華した時期だったのではないだろうか。
しかし、安保闘争を経て、擬制的民主主義に対する絶望、前衛に対する懐疑、挫折感の膨張する中で、明確に意識される敵を見失いつつある。」(『山形県教育ジャーナル』三五号)
鈴木のこの考えについて、ぼくは疑問が二つある。一つは、五九年から六〇年にかけての創作児童文学の出現を、「安保反対という表現に集約された諸々の運動と作家の内的緊張が密接に結びついて文学的モチーフに昇華した」ためととらえるところである。
表面的現象から見れば鈴木の解釈も成り立つが、ことはそれほど単純ではない。前にもいったことだが、作品の成立時期と、出版時期はちがうのであり、ことに五九年から六〇年、六一年の時期では、それ以前に書かれたものが出版されている場合が多い。安保の経験が作者のモチーフにはいってくるのは、むしろ六〇年以後である。
しかし、いまのところ、ぼくはこの問題に深入りするつもりはない。もう一つの疑問の方が、六〇年代をふりかえり、七〇年代を考えようとする、ぼくのこの文章の趣旨に直接かかわりがある。
その疑問はこういうことだ。鈴木のこの文章のかぎりでは、六〇年代の創作は下降線をたどってきた、とうことになる。はたしてそうなのか、ということである。
鈴木的意見はほかにもある。砂田弘は次のようにいう。
「民主主義を阻むものを敵として、ジグザグながら前進してきた戦後児童文学が、硬直化の兆を見せてきたのは、ここ十年である。(中略)独断をおそれずにいえば、今日の児童文学の硬直化も主体の不在も、敵を見失ったところから生じた。戦後児童文学の大勢は、アメリカ帝国主義と独占資本を主たる敵とし、その旗手たちは、自らが民主主義勢力、すなわち体制への告発者の立場にあることを疑うことがなかった。そしてこの十年、その敵が巨大な管理体制と情報社会を定着させ、児童文学をも包みこんだ時もなお、告発者であることを自認していた。体制に包みこまれることによって、必然的に自らの内部に胚胎した敵を認識し、それと対決することなど及びもつかなかったのである。ぼくらはこの時から、敵の明確な所在を見失い、主体を埋没させていったのである。」(『日本児童文学』一九六九年、五月号)
砂田のこの論は「激動する社会と児童文学者」という題名のもので、「今日、激動する社会の中の少年少女たちの問いの前に、戦後児童文学はたじろいでいる」という状況認識の上に立って書かれている。
ぼくはこの状況認識をいちじるしく主観的なものだと考える。だから、論全体として、砂田のさけびを感じることはできても、そのさけびはうわずっている、としか思えない。ただ箇所、箇所の分析では人をうなずかせるものを持っている。
そこで、砂田説の中にある、六〇年代をどう見るか、ということだが、ぼくはまず、六〇年代を「戦後児童文学の硬直化」と見ることに反対である。この際、力点は、砂田がいっている「ここ十年」におくことになる。またそれ以前、戦後児童文学が「ジグザグながら前進してきた」ということについても賛成できない。
以上二点の反対理由として、ぼくは、五〇年代後半、日本の児童文学がいわゆる慢性的不況におちこんでいた事実をあげたい。その回復が、というより新しい前進が、五九年から六〇年初期にはじまるのである。もちろん、その出版時期以前に『赤毛のポチ』や『だれも知らない小さな国』は書かれているが、その影響力は同人誌上の作品や、私的出版物の形態を取っているときと、商業出版社の出版物として、商業ルートにのったときとでは、きわ立ったちがいがある。
商業出版社の出版物となったとき、硬直化ははじまる、と砂田はいうらしいのだが、一方、砂田は次のようにも書いている。「児童出版の興隆は望ましいことであり、それを拒む理由はない。資本主義下にあっては、資本主義に敵対する者にとっても、″意識の産業″を媒体とすることが、自らの主張のもっとも有効な伝達の手段だからである。」
そうだとするなら、砂田はなぜ、彼のいう「硬直化」の反面である創作出版の興隆の意義について、述べなかったのだろうか。
彼のいおうとするところと、創作出版の興隆の意義は関係がなかったかもしれない。いま引用した部分に続けて、彼はいう。
「だがいかに良心的な出版社の出版物であれ、いかに良心的な編集者によって送り出された出版物であれ、生産流通機構に組入れられることで、それが商品となることには変わりはない。エンツェンスベルガーは、この出版社と著者の関係を『パートナーであって同時に敵』であるとし、『この両義性を認識』することの重要性を説いた。だからこそ、好機にめぐり会った時、ぼくらは自らの主体を執拗なまでに探ぐる必要があったのである。しかし、ぼくらはそれを怠ることで、温床に蝟集し、いわゆる花ざかりを謳歌することになった。」
彼のいおうとするところは、「児童出版の興隆は望ましいことであり……」よりも、いまあげた文中、「自らの主体を執拗なまでに探ぐる必要があった」、「しかし、ぼくらはそれを怠」った、というところにある。彼からすれば、創作出版の興隆はそれほど大きな問題ではなかったのだろう。
だが、ぼくは、彼が「好機にめぐり会った時」と書く、そのことばにどきりとさせられた。ぼくにも、「めぐり会った」という感じはないわけではない。だが、それよりも、今日の創作出版は営々辛苦のはてに人びとが獲得したものだ、という気持の方が強い。
ふりかえれば、五〇年代後半、児童文学のいわゆる慢性的不況の時代、児童文学者たちは多く名作再話によって衣食していた。この状態は硬直化以前の次元である。名作をどのようにうまく再話しようと、他人の作品を書きなおすことに何の創造性があろうか。
今日、児童文学者たちはまがりなりにも、創作によって衣食することができるようになっている。名作という商品が、創作という商品にかわっただけにすぎないという見方もできようが、しかし、書く者にとっては、この転換は質的転換である。
この「転換」を真実の転換にするために、ということで、ぼくは砂田の主体論を受け入れよう。そして、その前提となるのは、この「転換」は棚ボタ式に「好機にめぐり会った」のではなく、人びとの力によるところが多い、ということだ。
そこのところを、横谷輝は次のようにいう。
「そのあゆみ(五九年以後の創作児童文学のあゆみ、古田)を単純にいってしまえば、質から量への転化の過程であった。この転化の過程の背後には、送り手である児童文学作家や出版者、受け手の教師や母親などの、それぞれの領域におけるねばりづよい努力があったことはいうまでもない。それは大きくいって、民主的な権利を主張し、人間らしい生活を自らの手で守ろうとする広範な人びとのたたかいと結びつくことによって可能であったのである。今日、みられる創作児童文学の花ざかりは、こうした基盤のうえに、はじめて生まれてきたことを確認したいと思う。」
砂田もこの横谷の文章を引いて、いう。「それには異論はないが、それと同時にこの興隆期がいわゆる高度成長下における相対的繁栄の側面を持っていたこともまた、率直に認めなければならない。」
この点、同感である。六〇年代の創作出版の隆盛は、一方は、横谷のいう「民主的な権利を主張し、人間らしい生活を自らの手で守ろうとする広範な人びと」の力によって獲得されたものである一面、たしかに高度成長のおかげをこうむっている。
だから、現在の状態がいつまでも続くとは、ぼくには思えない。「七〇年代へ・児童文学の位置」で述べたように、児童文学は生活必需品の方向を見せつつあるが、まだ広く深く国民のあいだに根をおろしたわけではない。今後十年間という短い時間の中で見ても、あるいは短い時間の中で見るからかもしれないが、もう一度、壊滅に近い状態がやってくるのではなかろうか。
これには何も理論的根拠はない。そういうおそれへの予感があるということなのであり、それはたぶん今日の状態を虚像と見る見方が、ぼくの中にあるからなのであろう。
虚像と見る見方は、さきにいった、児童文学がまだ広く深く国民のあいだに根をおろしているわけではない、ということから生まれている。全国学校図書館協議会の読書感想文コンクールの課題図書となれば、小学生むきの本の場合、十万部以上も売れるという現象がある。この課題図書は、創作出版を盛んにした大きな原因の一つである。それは同時に、児童文学がまだ国民のあいだに根をおろしていない証拠でもある。
もし経済の変動があれば、たちまち今日の創作出版はだめになるのではなかろうか。だから七〇年代の大きな課題として、児童文学を国民のあいだに浸透させ、定着させていくことが必要なのだが、これについては、またのちに述べたい。
もとにかえれば、砂田の「好機にめぐり会った」考えに対して、ぼくは「獲得」の要素を加える。その結果は、砂田の結論とはちがうものが出てくる。砂田は、児童文学は「体制に包みこまれ」た、と考える。
その面があることをぼくは否定はしない。同時に、砂田ふうのいい方をすれば、それは体制につきささったトゲでもあるのだ。現体制がぼくたちにとって好ましいものでないのは、それがぼくたちが人間として生きるのを阻むからである。この際、児童文学が人間の真実を追求するなら、それは体制にとってのトゲという役割をはたすことになる。
そして、国民の要求があるかぎり、体制はそれを完全には拒否できない。砂田は「激動する社会と児童文学者」の他の部分で、自分自身の中に敵がいる矛盾について述べるが、同様に、体制が体制内部に敵を抱かざるを得ない矛盾については語らない。
教科書や、テレビや、児童週刊誌がかならずしも真実を語らないとき、創作児童文学出版の自由が、ある程度にせよ、六〇年代に一応成立したことを、ぼくはつくづくありがたいと思うし、大きな前進だと考える。
しかし、ぼくは手放しで喜んでいるわけではない。この前進は、砂田のいうように、不可避的に「体制に包みこまれる」側面も持っていたし、それは商品として流通することにより、「技術の平均化」(横谷輝)をも促進させた。こうして、現象的には横谷のいう「質から量への転化の過程」が六〇年代だった、という見方も成り立つこともある。
だが横谷のそのとらえ方にも、ぼくはかならずしも賛成ではない。もっと長い目で見たい、とぼくは思う。
見落とされた「おもしろさ」の一側面
――大衆児童文学の主張
だが、トゲがはたしてトゲであるのか。トゲだと思っているうちに、実はトゲをなくしてしまっている――それが現状の大勢だ、とも考えられる。
だから、自己検証はたしかに必要である。しかし、「なにか小柄で器用すぎる」作品が、自己検証の足りなさからだけ生まれてきたものとは思えない。
砂田の場合、変革を志向する者にかぎっているようだが、変革を志向しなくても、人間の真実を書いたもの、それがトゲとなり得る、とぼくは前に述べた。
そうした方向の作品もふくめて、「なにか小柄で器用すぎる」。児童文学の商品化はそれを促進させる面があるが、それは一つの条件にすぎない。商品化にだけ、すべてをおっかぶせることはできない。
その原因はひと口にいって、いまどうしてもこのことをいわねばならぬ、というモチーフの稀薄化である。
では、モチーフの稀薄化に何もかも還元できるのかといったら、これもそうではない。モチーフはもともと生きものである。モチーフが何であったのか、それが確認できるのは、作品を書きおわったときでしかない。そのモチーフを生かすためには、近代童話の方法、形態ではどうしようもないところから、それへの挑戦が行われ、本として出版されはじめたのが、五九年〜六〇年代初頭であった。つまり、「児童文学とは何か」ということの模索、実験から六〇年代ははじまったのであった。
そして、それは出発当初から問題を内在させていた。ぼくは次のように書いたことがある。
「『谷間の底から』が生活記録ふうな書き方をしていたことは象徴的であった。生活記録は散文であり、万人が書き得るものである。童話創作は作家の資質によっていて、だれでもが書き得るものではない。『谷間の底から』はいまや児童文学の創作がかぎられた童話作家のものではなく、万人のものであることを示した。童話は決定的に児童文学に席をゆずりわたしたのであった。
しかし、それはまた新しい堕落の可能性も示していた。『谷間の底から』が生活記録ふうであったということは、この作品の強みが児童文学の新しい試みというような強みではなく、疎開学童を書いた素材の強みであった。素材がよければ本になる。それは一転しておもしろければ本になる。という方向へかわっていく可能性を持っていた。しかも、その本はいまやだれでも書けるのである。昭和三十四年以後の児童文学史は、凡百の作品と、新しい方法、新しい内容の作品とがいりみだれる歴史となっていった。」(「昭和の児童文学」――『昭和文学八四講』)
以上、引用の文章は六五年秋に書いたものだが、その後の児童文学史もやはり同様の展開を示してきた、と思う。
そして、作品の「いりみだれ」は今日、多様化といわれ、また「おもしろさ」の意味がそろそろ問われはじめようとしている。
まず、その「おもしろさ」についてだが、横谷輝はいう。
「六〇年代の児童文学においては、『リアリズム』は創造上の一方法にすぎず、『おもしろさ』はせいぜい『機能概念』でしかなかった。そこでは、実体的価値を追求するよりも、日本の社会という実体を捨象して、『おもしろさ』といういわば世界に共通する『機能』のみを肯定しようとする傾向が濃厚であったのである。」
この横谷説にぼくは賛成できない。横谷は六〇年代の「おもしろさ」追求を「世界に共通する『機能』」追求としてとらえようとする。これはいうまでもなく、『子どもと文学』説への反撥だが、しかし、「おもしろさ」は『子どもと文学』の人びとだけが考えたことではなかった。
五〇年代のなかば近く、児童文学の慢性的不況の時代は、一方では、六〇年代に仕事をはじめる人びとが同人誌に集まっていた時代であった。そのとき、山中恒やぼくは「おもしろさ」を考えていた。ぼくの場合、追求すべき「おもしろさ」は二つの方向があった。一つは外国児童文学の「おもしろさ」であり、もう一つは大衆児童文学の「おもしろさ」であった。この大衆児童文学の方向は、世界に共通のものではなく、むしろ日本の社会の底辺にその基盤を求めるものであり、六〇年代の山中恒の諸作はそのあらわれと見ることができる。
その点、横谷が次のようにいうこともあやまりである。「『童話』理念が欠落していたものと、『童話』理念の崩壊によって欠損したものとは等質の関係にある。つまり『童話』理念が欠落していた散文理性と、『童話』理念の否定によって見落された、日本的感性とは等価であるにすぎない。」
そして、横谷は日本的心情の例として、『泣いた赤鬼』、また『巨人の星』などをあげる。『泣いた赤鬼』は別として、さきにいった大衆児童文学の方向は、まだなお実現していないとはいえ、とりもなおさず『巨人の星』の支持層をつかもうとする方向である。だから、ぼくは「現代大衆児童文学の創造」(『現代児童文学論』所収)を書き、「児童大衆芸術」(『児童文学の思想』所収)を書いた。
しかし、それは全体の声にならなかった。六八年、那須田稔は「あかつき戦闘隊」大懸賞問題のことを、母親たちの集まりで話したあとのできごとを、次のように報告する。
「すると、ある母親が、とつぜん、真剣なおももちで『あなた方児童文学者は週刊誌を批判はするが、少年週刊誌の八〇万読者を魅了するだけの読み物を、なぜもっと書こうとしないのですか。読者はその作品の登場を待っているのです』と発言した。瞬間、わたしはたじろぎ沈黙せざるを得なかった。沈黙しているあいだ、わたしの脳裏に浮かびあがってきたのは、書店の店先で、あらそって少年週刊誌を買いながら、連載マンガのつづきを読みふける子どもたちのすがたであった。
その子どもたちと、われわれ児童文学者はなんと遠いことか。」(『週刊読書人』一九六八年七月一日)
ぼくは五八年に『ながいながいペンギンの話』にふれて、「ペンギンにもやはり、ぼくは豊富な子どもの生活が、指の間をすり落ちていくもどかしさを感じる」といい、佐藤紅緑その他の「大衆物の古典をぼくが愛するのは、いわゆる児童文学からすり落ち、ペンギンからもすり落ちた、ある種の真実、現実のためである」と書いた。
その後、十年、那須田がほぼ同様のことをいい、「その子どもたちと、われわれ児童文学者はなんと遠いことか」という。大衆児童文学について、かつてぼくがいったことは、この十年、まったく実現されていないことを、ぼくはこの那須田のことばから、あらためて思い知らされた。
ぼくは、ぼくがつねに正しかったなどと、いおうとしているのではない。時評にたずさわる者として、のち、そのときの発言のあやまりに気がついて、にがい思いをすることも、ぼくには多い。たとえば、「ぼくはかつて支持した『ペンギン』を否定せざるを得なくなってきた」と、「現代大衆児童文学の創造」の中で書き、今日ではまた『ながいながいペンギンの話』を現代幼年文学の古典的作品と考えている。
ここで、ぼくがいいたいのは、次の三点になる。第一、横谷は六〇年代の「近代化」(近代主義化であり、マイナス面を持っている)の中心に、「少年文学宣言」と『子どもと文学』をおき、その考えの上に立って、「おもしろさ」が機能概念(近代的合理主義では機能が重視される)としてとらえられる傾向が濃厚であったとするが、「少年文学宣言」に出発するぼくの主張の中には、大衆児童文学・文化の中に内在する「土着のエネルギー」をつかもうとする考えがあった。したがって、横谷説をそのまま肯定することはできない。
第二、大衆児童文学の主張はぼくだけではなく、散発的にあちこちから出ている。実作に目をむければ、山中恒、吉田とし、那須田稔、北川幸比古などの諸作がある。六九年の那須田の作品『星と少年』は、その意欲が積極的にあらわれた作品だと、ぼくは考えている。そして、少なくとも『星と少年』の場合、そのおもしろさは単なる機能にとどまってはいない。
以上二点から、第三の問題が生じる。五〇年代後半にすでに主張があったにもかかわらず、それはなぜ埋没したのか。また六〇年代、そうした実作はなぜ相互に関連がなく、ばらばらであったのか。
この第三の点は、七〇年代につながる問題である。簡単にいえば、五〇年代の主張が埋没したのは、大衆児童文学への要求が、作者の内的必然にならなかったからである。六〇年代の実作の散発性は、七〇年代への芽生えとして受け取りたい。六〇年代の多様化の中でも、大衆児童文学という面はまだなお欠落している。
話を本すじに引きもどそう。「おもしろさ」の追求は、もともと、日本近代童話の表現ではどうにもならぬものを生かす方法を求めての模索の中から、生まれてきたものであった。そこには、作中人物の成長発展というものがからみ、また物語の場所設定や、作中のもろもろのイメージの変化によって、この現代を新しく見なおし、またこのしばられた現代から飛翔していく、というような、作者のさまざまの要求がふくまれていた。
いまいった、作者の「おもしろさ」要求というものは、ぼく自身に即してのことであり、児童文学ではそうしたことが、おとなの小説より、より自由であることが、児童文学の魅力の一つである。
一方、読者を考えることからも、「おもしろさ」への要求は出てきた。戦後の民主主義児童文学の没落の原因は、ひと口にいえば「おもしろさ」がなかったからである。さらに、その結果としての慢性的不況の時代は、ぼくたち(鳥越や山中やぼく、ということに限定されるかもしれないが)に、子どもに読まれない児童文学は意味がない、ということを、いやというほど思い知らせてくれた。
「おもしろさ」の出発をこのようにふりかえってみたのには、二つの理由がある。一つは、児童文学の六〇年代への評価が、いままで見てきた横谷説では出発点に中心をおいて組み立てられ、その出発点に対する認識の弱さ(とぼくは思う)が、六〇年代児童文学を低く見る結果をもたらしているからである。
児童文学の六〇年代と、政治、社会の六〇年代はかならずしもパラレルに動いてはいない。ぼくは六〇年代児童文学を、その後半においても、やはり相当なみのりがあったものとして、考えている。
にもかかわらず、「なにか小柄で器用すぎる」作品が出てくるのは、どうしてなのか。横谷説すべてを否定することはできない。出発当初の「おもしろさ」の追求は、なぜ「停滞」の現象を示すようになったのか。これが「おもしろさ」の出発をふりかえってみた、もう一つの理由である。
市民の児童文学と小市民性(1)
子どもに読まれる児童文学を、というところに「おもしろさ」の出発点の一つがあった。いいかえれば、子ども不在の児童文学から、子どものいる児童文学へとむかって進行してきたのが、五〇年代後半から六〇年代への児童文学の動きである。
そこでは当然、子どもの心理・論理の問題が出てくる。子どもをどう見るか、ということが、六〇年代の児童文学・文化の動きの底に流れている。「戦後児童文学のいま一つの大きな指標は、なんといっても『子ども』に対する認識およびその把握であろう。もっと別な表現をすれば、戦後児童文学はある意味で、子どもの存在が社会化していく過程であるといっていい。」
この横谷輝のことばは「戦後児童文学とはなにか」からの引用である。いままで引きあいに出してきた横谷説は「過渡期の児童文学――一九七〇年代の児童文学運動をめざして――」を中心に、「児童文学の思想――児童文学における『近代主義』の問題――」からも書きぬいたものである。この後者二編の説には、なっとくのいかないところが多かったが、「戦後児童文学とはなにか」には、うなずかされるところが多い。
子どもに対する認識・把握の出発点は、たとえば鳥越信の次のことばにあらわれている。「今日、児童文学の古典として残されてきた作品は、一にかかって、子どもの論理にどれだけ密着してきたかという点にある、と私が考えたのは、とくに日本の児童文学が、長いあいだ、不振、停滞状況にあえいでいたことへの反省をはじめた時以後である。」(「おとなの論理・子どもの論理」――『児童文学への招待』所収)
鳥越がこの「おとなの論理・子どもの論理」を発表したのは、六二年のことであった。それに先立つ六〇年、『子どもと文学』は「子どもの論理」ということばこそ使わなかったが、「昔話」の構造や、ファンタジーを論じ、また未明、広介、譲治、賢治や、千葉省三、新美南吉の諸作品を考えることで、子どもの心の構造に適した物語の形態を主張した。
横谷輝は『子どもと文学』のしごとについて、こういう。「その見事さは、日本の児童文学がもっていた観念性と、子どもというものを社会から切りはなして純粋なかたちで把握することによってなりたっていたように思う。それはちょうどかつての『童心』をうらがえしにしたような類似性をもっていた。」
つまり、『子どもと文学』は、子どもを子ども一般としてとらえた。鳥越信にも、そのかたむきがあった。彼はいう。「『ちびくろ・さんぼ』の紹介を皮切りに、海外のすぐれた幼年童話が数多く日本にも翻訳され、その影響を受けて、この数年来の日本の幼年童話は、格段の進歩をとげた。翻訳という作業は、当然ことばの問題をともなうが、それにもかかわらず、海外の作品が日本の幼児たちをとらえたということは、やはりことばの問題以前に、論理の問題があるということを雄弁に物語っているのではあるまいか。」
だが、ぼくにはどうも、アフリカ諸国や、中国の子どもが『ちびくろ・さんぼ』を大いに歓迎するとは思えない。子どもの論理――その心理的発達の共通性と共に、その子が生まれて以来受けてきた教育と、その社会環境の問題が、鳥越の上記発言には抜け落ちていると思う。
そして、この社会環境の影響下にある子どもたちの姿を、「現代っ子」という誇張したかたちで紹介したのが、阿部進であった。六〇年代のはじめ、『子どもと文学』と阿部進と、この二つの子どもに対する認識が、わずか二、三年のちがいで、提出されたのである。『子どもと文学』は子どもを一般化しすぎ、阿部進は特殊化しすぎた。その結果は、共に「童心」への類似性を持っていた。阿部進の場合、直接、児童文学に影響することは少なかったようだが、両者への批判もふくめて、児童文学者たちの子どもに対する認識は深まっていった、と考えられる。
そして、一つの主張が世にむかえられ、受け入れられるときは、それが受け入れられる基盤が世の中にでき上がっているということである。直接の関係はなくとも、共通性のある主張が他の場所で進行中、ということが多い。
『だれも知らない小さな国』は、ぼくから見た場合、『子どもと文学』が主張する物語の構造をそなえている。ちがうのは、この物語が明瞭に「個人の尊厳」という思想を形成、表現していたことだ。『子どもと文学』は思想については語らない。
『だれも知らない小さな国』については、上野瞭のみごとな解説と位置づけがある。
「コロボックルは小人であると同時に、普通の人間には可視的でないことによって――つまり、その存在を信じ、それを求め続ける人間の前にしか姿を現わさないことによって、人間の内在的価値なのである。」
「このコロボックルの提示は、作者によって、主人公の探し求める人間的価値に与えられた一つの形だが、これは、同時に、戦後民主主義が提示してきた理念の具体的な姿でもある。
主人公の青年は、みずからが探し求めた価値の明確な内容を把握し、そこから次の行動に移る。すなわち、『矢印の先っぽの国』の建設、言いかえれば、今や明確な方向を持った人間の自律的価値の発揮である。」(「児童文学における戦後価値の問題」――『戦後児童文学論』所収)
ぼくは今日、上野の意見にほとんど賛成なのだが、一方、いまもときどき、『だれも知らない小さな国』をはじめて読んだときのショックを思い出すことがある。ぼくはそのとき、はっきりと敗北を感じたのであった。
なぜ敗北を感じたのか。
それはおそらく、こういうことだろう。それまでぼくは批評を通して、新しい児童文学のイメージを模索していた。それは、ぼくの場合、「変革」につながるものであった。ぼくは変革の文学を望んでいた。しかし、それらしいものは『赤毛のポチ』以外にはあらわれなかった。そこへ、ある日、突然、『だれも知らない小さな国』が出現したのである。まぎれもなく新しく、それでいて、ぼくの望んでいた変革の文学とはまるきりちがっていた。
では、それまでのぼくの模索はまったくまちがっていたのか。ぼくはそうとは思わない。五九年以前の混沌の中に、象徴的にいえば二つの芽生えがあった。一つは『赤毛のポチ』であり、一つは『ながいながいペンギンの話』である。両者は共通性を持ちながら、その未分化の中からも、それぞれちがう方向を指し示していた。
『赤毛のポチ』には、貧困という現象を通して階級性の自覚へむかおうとする芽生えがあり、『ながいながいペンギンの話』には、より広い立場から人間の自立の精神の確立へむかおうとする方向があった。
『だれも知らない小さな国』は歴史の流れの上では、この『ペンギンの話』の方向が、明確に分化したものと考えられる。ここには自覚された階級性はない。そして、ぼくが望んでいた変革の文学は、どこかで階級性の自覚につながるものであった。いや、このいい方はあいまいである。むしろ、『だれも知らない小さな国』の方に自覚があり、ぼくの方になかったのかもしれない。
ぼくは、大まかには、プロレタリアートの文学とでもいうものを中心とするあり方を模索していた。『だれも知らない小さな国』はそうではない。ここにはむしろブルジョアジーの思想がある。主人公は、コロボックルの住む小山を買い取って、自分自身の所有にしようとする。『だれも知らない小さな国』という内的価値の確保は、外的には小山の所有という形態を取る。物語『だれも知らない小さな国』は小山を主人公が手に入れることによって、完結するのである。
だから、ぼくはこの作品を市民の文学と考える、市民ということばは内容複雑なことばだが、ブルジョアジーということばもまた、今日では資本家階級として用いられ、いっそう誤解をまねくからである。ここでいう市民は、市民革命のにない手であった市民であり、さらにまた今日、地方自治体へ歩道橋や保育所建設を要求する市民のことである。そして、『だれも知らない小さな国』の主人公が、懸賞当選でなければ小山を手に入れることができなかったように、けっして豊かではない人びとのことである。
この「市民」は階級としては労働者階級に属する。しかし、その思想一般はその階級としての自覚に基づくものであるよりも、個の主張、個に内在する価値体系の確立に基礎をおいている。
上野瞭のいう『だれも知らない小さな国』における「戦後価値の定着」――これに、ぼくは以上のようなわくをはめたい。
以後、六〇年代の日本児童文学のもっとも大きな流れは、この市民の文学であった。
この動きを進めていくのに、『子どもと文学』の主張も、大きな役割をはたしている。その主張は、児童文学は子どもの論理・心理に即した構造を持たなければならぬ、ということであり、旧来の児童文学より一歩前進していた。この立場は、子どもを子どもとして認めることであり、それに対して、旧来の日本児童文学の多くは、観念的にしか、子どもを認めていなかったのである。
子どもを子どもとして見ることは、市民社会成立の一つの条件であり、『子どもと文学』もまた市民の立場に立っていたのである。ただし、それは市民社会を成立させてきた思想についての検討はないままの立場であった。市民の思想――個の確立の思想を核としてそなえていない表現形態は、ただ形態だけに転落する可能性を最初からはらんでいる。『子どもと文学』にはマイ・ホーム的感覚――現在の社会の中に安住してしまう小市民性への傾斜が、その主張そのものの中にふくまれていた。
ただ、『子どもと文学』中の小川未明論で、いぬいとみこが未明の幼年童話『なんでもはいります』と、それに対する奈街の評について、「もし、この同じテーマをつかって、子どものお話を書くとしたら、主人公の子どもが、ポケットにはなんでもはいります、という『発見』をしたところから、何か事件がはじまるべきなのです」と述べたのは、重要なことであった。単に構造・技法にとどまらない、また幼児・幼年の物語にとどまらない、児童文学すべてにまたがるフィクションのあり方を、彼女はおそらく無意識のうちに示唆したのであった。
そのいぬいの『ながいながいペンギンの話』が出版されたのは、五七年のはじめのことで、これは前にもいったように現代児童文学の先駆的作品であり、また市民の児童文学の先駆的作品である。
この作品は、子どもを上から見おろすのではなく、子どもとおなじ目の高さに立って、子どもの心理・論理に即した物語を展開する、という姿勢・構造をとっている。その内容は、人間にうまれつきそなわっているものとしての好奇心・冒険欲を中核とする、個の自覚・自立の過程である。
ふたごのペンギンのルルとキキ――ことにルルの成長の過程にその思想を見ることができるが、同時にもう一つ、ルルが捕鯨船にとらえられたと思って、捕鯨船におしよせていくペンギンの母親たちの姿は、この作品にある市民の思想が、権力に対抗するものであることを示している。
この母親たちの姿ほどの強烈さはないが、『だれも知らない小さな国』でも、コロボックルとせいたかさんは、小山を道路にしようとする計画を変更させる。ここにも、市民と権力との関係がある。
では、こうしてはじまった市民の児童文学が、なぜ中途で伸びなやむことになったのか。
その問題にはいる前に、ぼくが望んでいたプロレタリアートの児童文学、というよりも、その表現の根を日本の労働者階級におろした文学と、市民の児童文学との関係はどうなのか。これは敵対関係にあるものではなく、同盟的な関係にあるものだ。さらにまた、それは、一方が先行するという、段階的な関係にあるものではない。現在の日本では相互影響を持って、共に存在するはずのものである。また一つの作品の両側面でもある。
しかし、ぼくの予想しているプロレタリアートの児童文学の芽生えは『赤毛のポチ』以後、『キューポラのある街』『出かせぎ村のゾロ』でちらりと顔をのぞかせたほか、山中自身の作品系列にもあらわれてこない。また、ぼくの作品もそのようにはなっていない。
市民の児童文学と小市民性(2)
そこで、市民の児童文学が中途で伸びなやんだということだが、これについては、おそらく三つの理由が考えられる。
その一つは、市民の児童文学というものが、巾ひろいことである。石井桃子、寺村輝夫、今江祥智、松谷みよ子――この人たちの諸作品をぼくは市民の児童文学と考えているが、そのうちの一つ、石井桃子の『くいしんぼうのはなこさん』を考えてみよう。
『ながいながいペンギンの話』では、母親たちが捕鯨船におしかけた。『くいしんぼうのはなこさん』では、牧場の女王となったはなこに対して、他の牛は引きさがったまま、はなこのおあまりの木かげに寝、はなこのおあまりの水を飲む。はなこが自分のわがままな行為をやめるのは、カボチャとイモをひとりじめにして、自分がアドバルーンのようにふくれあがり、くるしい思いをした結果である。ここでは、個の自律性は問われるが、『ペンギン』のように、集団の中の個ではない。
こういうさまざまのひろがりを持ったものとして、市民の児童文学は存在している。そして、市民の思想とは、市民社会を形成しようとする思想であり、核となるその思想が強固でないとき、それは小市民の文学に転落してしまうのである。
『くいしんぼうのはなこさん』には、それほど強固な思想はない。石井桃子でさえそうであった。『子どもと文学』の影響下にあった人びとの作品の多くは、子どもに喜ばれる構造・形態の作品にしかならなかった、といえる。
以上が、市民の文学の発展が中途で低迷した、第一の理由である。そして、おそらくそれは幼児・幼年の文学のむずかしさとかかわりあっているだろう。
第二の理由は(といっても、別に順位があるわけではないが)、よくいわれることだが、ひとりの作者がすぐれた作品をそうそう続けて書けるものではない、ということである。これは、児童文学の機能ともからむことで、のちにまた述べる。
第三は、六〇年代をどう見るかという、見方の問題である。五年、十年の時間で思想の形成をどこまで論じることができるだろうか、という疑問がぼくにはある。ぼくはいままで「伸びなやむ」ということをいってきたが、その「伸びなやみ」という見方そのものに問題がありはしないか。
これには、六〇年代が市民の児童文学として出発したという見方よりも、六〇年代には市民の児童文学のさまざまの芽生えが出てきた、という見方が必要となる。たとえば、中川李枝子だが、彼女は一つの芽生えである。『いやいやえん』中にある『おおかみ』――この主人公は、保育園をずる休みしたしげるで、顔には食事のたべかすをいっぱいつけ、ほおには絵がかいてあり、おでこにはどろがついている。赤いジャケツのオオカミはこのしげるをたべようと思うが、こんなきたないのを食べたら、おなかに回虫がわくだろうと考える。そこで、オオカミはしげるを洗って食べることにする。
結局、この衛生的なおおかみはしげるを食べそこね、子どもたちにつかまってしまうのだが、ずる休みをしてオオカミさえおどろくほどきたない顔をしたしげるを主人公にしたところ、『くいしんぼうのはなこさん』とは質のちがう市民が誕生してくる可能性があった。
しかし、それは可能性にとどまり、その後の中川李枝子には、いまいったところからの発展は見られない。彼女のその後の作品を検証していくこと、また佐藤さとるの進んできた道すじをたどることで、六〇年代後期の伸びなやみの原因はある程度、解明されるかもしれないが、前にもいったように、ぼくはもっと長い目で見ていきたい。ここではただ、六〇年代の市民の文学の中に多様な芽生えがあったことを指摘しておきたい。
まだほかにあげていくと、今江祥智の『海の日曜日』では自由の問題が提出されている。また神沢利子にも個の主張があった。『ヌーチェのぼうけん』中の「おいらはおいらのもん」では、ヌーチェがわなをかけてキツネを取る。ところが、大ワシがキツネもろともヌーチェをぶらさげて空にまい上がる。ヌーチェはこの大ワシをやっつけて、雪の野原に落ち、かけつけてきた男たちに説明する。「おらのキツネをよこどりするワシを、天までおいかけて、とうとう、とりかえしたんだい」と。
しかし、キツネは口をとがらせて、もんくをいう。
「おらのキツネだなんて、おいらはヌーチェのキツネでも、ワシのキツネでもないや。つかまったっておいらはおいらのもんだぞ。ちぇっ、いい気になるない。」
そして、神沢利子は六九年の『くまの子ウーフ』で、六〇年代の幼児・幼年童話が子どもを外がわからとらえていたのに対し、内がわ――その認識の発達の過程から子どもをとらえようとした。さらに、七〇年に完結した『銀のほのおの国』(『母の友』連載)では、個の成長を社会的なわく組みでとらえようとするに至る。
六〇年代は過渡期であると、横谷輝はしばしばいい、ぼくも六五年の「昭和の児童文学」でそう書いた。そこから七〇年代を見るとき、これは転換期(横谷)であるというより、むしろ形成期である。たとえば、寺村輝夫がどう発展するか、ぼくはかたずをのむ気持で彼のゆくえを見守っている。ここで、市民の思想が根づくかどうか、六〇年代のさまざまの芽生えを確固としたものとして形成させるかどうか、不成功の場合、日本児童文学はふたたび辛酸をなめることになるだろうからである。
そして、なお一つ、七〇年代が市民の思想の形成期にならなければならぬと思うのは、六〇年代、戦争児童文学がまだ完成されていないからである。
戦争児童文学は、市民の思想と密接な関係を持っている。平和への願望、戦争反対の心情は六〇年代の特色であったともいえる。しかし、それはどのような思想として形成されたのか。
いぬいとみこの『木かげの家の小人たち』は一種の戦争児童文学である。いぬいはすでに『ながいながいペンギンの話』で戦争体験を出している。
『だれも知らない小さな国』にも戦争体験はあった。上野瞭はこの物語を次のように読みとった。
「主人公の少年は、そうした人間の価値の内在することを、ある日、ふと知ってしまう。しかし、少年の幼い精神は、その大切さや真の内容について、深く理解するところではない。彼は、人間の中に、そうした価値の存在することを記憶にとどめたまま、現実生活の中に埋没していく。戦争がおこり、戦争は国家的利益の趨勢について、人間の注意を喚起するが、少年の日、彼が知った人間的価値については注視することを許さない。形をとらないままに、眠りこんでいる人間的価値。それを眠りからさまし、一つの形を与えるのは敗戦である。
すべての人間らしさを排除してきたはずの戦争も、そこで、ついに、人間の内在的価値への志向性を摘みとり得なかったことを示す。」
上野のようにこの物語を読むことは可能である。戦争体験をくぐることによって、この物語は生まれ、思想は形成されたのである。
ただし、佐藤さとる本人にとっては『だれも知らない小さな国』は、戦争を意識してのしごとではなかった。戦争を意識してのしごとではなかった――ここのところは重要な問題である。意識した場合にも、『木かげの家の小人たち』のようにファンタジーのかたちをとったものの方が、単に体験・心情だけではなく、思想形成の方向を取っている。もっとも、『木かげ』には、ぼくはやはり、戦争はいやだという心情的傾斜も感じるのだが。
体験を体験そのものではなく、他の表現形態に転換させたとき、体験は体験におわらず、思想として形成された。だが、直接、太平洋戦争を書いた多くの作品に、ぼくは思想の断片を見ることはできても、思想の体系を見ることはできない。
他の表現形態といったが、それは、この際、子どもとおなじ目の高さに立って、物語を展開していく形態である。そこでは当然、今日の子どもの感覚や知識を考慮する――というより、共通体験を持たない読者に、戦場なら戦場の異常さを真実として受けとらせる物語展開のしかた、描写がなければならない。
だが、多くの戦争児童文学はそのような表現形態をとっていない。『南の風の物語』はその表現形態に接近しようとしていたと思うが、思想形成の物語にまで至らなかった。この物語は過去の童話理念、形態を追放するところまでには行かなかったのである。
『若草色の汽船』は過去の童話の形態を取り、怨念の結晶として成功した。しかし、思想には結晶しなかった。『おかあさんの木』は民話の方法を取ろうとして、これもやはり怨念の結晶として実を結ぶ。しかし、ぼくがほしいのは思想である。
今日の子どもにとって、太平洋戦争は過去の歴史である。しかし、作者たち、また母親たちにとっては、それはまだなまなましい。母親たちは共通体験によって、『おかあさんの木』に涙を流す。だが、真実、力になるのは、この心情を基礎として築き上げた思想である。
佐藤さとるは戦争を意識しないことによって、作者と子どもたちのあいだにある深いみぞをとびこえた。だが、多くの戦争児童文学はこのみぞに足をすくわれた。体験をおなじくしない子どもたちにむかいあう姿勢、それにふさわしい方法を、その作品群は取っていない。戦争児童文学は子どもよりも、作者にとってどうしても一度ふりかえってみなければならなかったこと、という方に比重がかけられている。
一方、それが伝達を中心とするときも、また失敗である。『火の瞳』、『ゲンのいた谷』をぼくはその例だと思う。
そして、現在の子どもたちにむかいあうということは、いいかえれば、作者が現在とどう対決するか、ということである。戦争児童文学の場合、これは現在の戦争をどう見るか、ということに直接かかわりあう。
南ベトナムの解放民族戦線の結成は六〇年のことであった。ベトナム戦争が日本国民の広い層に関心をよびおこすのは、六五年の北爆開始以後だが、ほぼこの五年間に戦争児童文学は集中して生まれている。
これが偶然のことであったかどうか、ぼくにはわからない。ただ戦争児童文学が生まれてくる理由の一つに、ぼくは戦争拡大への恐怖をあげたことがある。
恐怖というとらえ方――いまから考えれば、なんともはずかしいとらえ方だ。しかし、そこからでもよい。ぼくは現在とのつながりが戦争児童文学にほしかった。そして、日本とベトナム戦争との関連は、太平洋戦争中に生じている、というのがぼくの認識であった。
それは、戦争児童文学の多くが、日本国民を被害者としてとらえがちなことへの反撥でもある。加害者であり、被害者である、そのことを語らなければならない。後期の戦争児童文学、『シラカバと少女』、『ヤン』にはその視点がある。『ぴいちゃぁしゃん』はその先駆的なものといえよう。
しかし、その視点をもっと深めてほしかった。『ヤン』の場合、その見習士官が日本に帰ってどう生きたのか――それが、もっとも気がかりなことであった。この見習士官は戦後の日本で、どういう人間となったのか。市民の思想に結晶するその一歩手前で『ヤン』はおわったように思う。
さらにまた、戦争児童文学には、太平洋戦争を日本の歴史の上でどう見るか、という視点も欠けていた。たとえば、次のような見方である。
「(太平洋戦争の過程で)独占資本が日本経済で決定的な役割をになうにいたったことは、地主制の地位を相対的に低くした。(中略)米の供出の強化は、小作料を物納から金納に変化させた。このような一連の措置は、天皇制の物質的基礎の一つであった地主制をほりくずし、戦後の農地改革の前提をつくりだした。」(加藤文三他著『日本歴史・下』)
『ヤン』の中に、天皇がただひとり、焼野原にぽつんと立つことを想像する場面がある。この作品の中で、ぼくがもっとも心打たれたところだが、これがいま書き抜いたような社会を背景にして出されていたら、いっそうあの戦争の意味が明確になったのではなかろうか。
六〇年代の戦争児童文学について、ぼくの結論はこうである。戦争児童文学は市民の思想を形成することができなかった。戦争児童文学は童話的心情の上に成立していたのである。童話との徹底的なたたかいなしに、ただ構造のみが先行していった小市民性と、思想を形成できなかった戦争児童文学とは、表裏の関係があったといえよう。市民の児童文学が中途で低迷を見せることと、戦争児童文学からの新しい思想が成立しなかったことは、相関関係がある。
しかし、芽生えはすでにあった。ただ、心情だけでは不足である。思想と論理が必要なのだ。
そして、六九年一二月発行の奥付がある奥田継夫の『ボクちゃんの戦場』は、いままでの戦争児童文学とは異質のものである。
この作品は、あとがきに引用されている理論社社長小宮山量平の手紙という文中にあるように、「児童文学という出版上の土俵のルールを、ふみやぶって」しまっている、実に「わがままに書いたもの」である。
この「わがままさ」はやはりマイナスのものである。出版上のことはどうでもよいが、子どもにもっと理解、なっとくがいくように、この作品が書かれていたら、とぼくは残念である。
しかし、そこをふみはずしてしまわなければ、作者は書けなかったのだろう。そして、骨組みそのものは、やはり児童文学の骨組みである。
「ボクちゃん」という卑怯未練、優等生でまじめで弱虫の小学校四年生が、大阪から島根県へ集団疎開する。この疎開学級の中での子どもたちの対立、その中で「ボクちゃん」のメッキははげていき、さいごにこの腕力のない弱虫は、腕力のないまま、成長していって、疎開から脱走する。
ここには、被害者意識はまったく見られない。にもかかわらず、この「ボクちゃん」たちが戦争の被害者であることを、物語自体が語る。そして、「ボクちゃん」をふくむ、子どもたちの成長には、戦争の中で目ざめていく民衆の姿が見られる。
ぼく自身の体験に即していうと、ぼくは戦争中、勤労動員にかり出された年齢層だが、この勤労動員の宿泊の中では、「ボクちゃん」たちの疎開と同様なことがおこっている。そこでは、家の監督を離れたため、ある種の自由が生まれ、他校生徒や、おなじ学校の集団どうしの対立の中で、いままでメッキの権威によりかかっていたものが、正体をあらわしてきた。
前に、天皇制を支えていた基盤が戦争中、相対的に弱くなっていった、という歴史書の解釈を引用したが、戦争の遂行の過程の中で、自由が芽生える、という矛盾が、ぼく自身の体験の中にはたしかにあった。
『ボクちゃんの戦場』はそこをとらえている。そして、そのことによって、現在の状況に対応するものを提出している。それはやはり、個の自覚であるのだが、その個の自覚は『だれも知らない小さな国』とちがって、もっとどろどろしたものに根をおろしているようである。
ただ、この作品が児童文学として成立した場合も、そのどろどろしたものを失わずに残るだろうか。それがこの作品の問題の一つであり、またかつて『ぴいちゃぁしゃん』が試みたように戦争の総体をとらえようとすることは、この作品では最初から放棄されてしまっているのが、もう一つの問題である。
くりかえすが、六〇年代、すでに芽生えはあった。七〇年代はどのような戦争児童文学が生み出されるのか。
誤解のないよう、つけ加えておこう。ぼくが戦争児童文学の弱点をいうことは、戦争児童文学を否定することではない。またその達成を認めないことでもない。批評屋はつねに注文し、希望し、条件をつけることによって、自らを語るものなのである。
多様化とその中心
ところで、前にも引用した鈴木実だが、彼はおなじ文章の中で、次のように語る。
「国民が、たとえば『平和』という一つの概念に対していだくイメージが、今日ほど多様にしかも、分裂的である時代はないであろう。このような状況をえがくための創造方法として、児童文学もいわば必然的に多様化しているともいえる。たとえば『海へいった赤んぼ大将』『マコトくんのふしぎなイス』(佐藤さとる)『コッペパンはきつねいろ』(松谷みよ子)『フライパンが空をとんだら』(神沢利子)『うみがめ丸漂流記』(庄野英二)『モグラ原っぱのなかまたち』(古田足日)『みどりの川のぎんしょきしょき』(いぬいとみこ)『ゲンのいた谷』(長崎源之助)『シカをよぶ笛』(岡野薫子)などに見られる方法の新しさや、ジャンルの広がりは、それ自体としては児童文学にプラスしている。が、悪くすれば、発想のユニークさだけで現実を斜視的にえがくことしかできなくなっている。
さらに最近特に目立つ現象は『ちょんまげ』物が多いことであろう。『忍術らくだい生』(古田足日)『天文子守唄』(山中恒)『ちょんまげ手まり歌』(上野瞭)などはリアリティのある作品であるが、なぜ現実を現在形としてえがかなかったのかという気になってくる。『ちょんまげ手まり歌』は現代的な状況を実に諷刺的にえがきだしているだけに、それを感ずる。それと同時にこれを現在形に書きかええないところに、現実の児童文学のリアリズムの衰退を感ずるのである。
このような状況のなかで、現実の問題にぶつかろうとした作品もある。『道子の朝』(砂田弘)や『出かせぎ村のゾロ』(須藤克三)はそれである。特に『出かせぎ村』は現代日本の経済のひずみを象徴する出かせぎ問題、それは、ある山村のある特別な問題ではなく、わが国における社会状況の典型的な現実の姿になっている場面を背景としている点、リアリズムを発展させる条件をになった作品となった。」
この鈴木発言を材料にして、ぼくがいおうとするのは「リアリズム」のことだが、その前にはっきりさせておかなければならないことがある。
その第一は多様化のことであり、第二は『海へいった赤んぼ大将』以下が、「現実を斜視的にえがく」ものかどうか、ということである。
多様化のことは、鈴木のいうように、たしかに現実との対応関係があるが、これは同時に作者にとっては表現形態のさまざまの模索(アイデアに堕しているものもふくめ)であり、子ども・児童文学に対する多様な追求なのである。
そうしたものをすべて、「現実を斜視的にえがくことしかできなくなっている」と受けとるのは、どうか。現実を現在形で書くことだけが、現実をちゃんと見ることではない。
六〇年代の児童文学の多様化現象のなかには、ファンタジーの発展、幼児・幼年の文学の発展がある。幼児・幼年の文学の場合、その形態は、幼い子どもの発達に即していて、かならずしも、いわゆるリアルなものではない。
小学校中級以上の子どもを読者とした場合も、ファンタジーなり、歴史に材料をとったものが、現実をちゃんと見る目を与えることも多い。問題は作品そのものであり、現在形、過去形、空想形の問題ではない。
上野瞭はこういったことがある。
「いくつかの方法が考えられる。いくつかの道と言ってもよい。事実『原理の時代』(戦後十年の時期を上野はこう呼ぶ、古田)以降の児童文学は、その多様性によっても解るように、いくつかの道を通って、それに対峙してきたと考えられるのだ。たとえば、現状況そのものにかくされている人間解体の事実を指摘すること、平穏無事な日常性を否定して、平穏無事でない人間の姿を描くこともその一つの道なら、逆に自立的な人間を提示して、現状況とは別様の人生を描くことも、その一つの対峙の仕方である。」(「児童文学における戦後価値の問題」――『戦後児童文学論』所収)
多様化現象は、いま引いた上野がいったこと、及び、さきにいった発達段階に適した作品の追求、ということが根拠にあって、おこってきたものである。
そして、それは横谷のいう「童話理念」の消滅があって、可能になったものであった。ほぼ単一の「童話」というそれまでの形態のかわりに、さまざまの形態・構造の作品が生み出されてきたのである。鈴木が「児童文学自体にはプラス」というのは、そのことであろう。
だが、その多様化の結果、現在は、どういう作品が児童文学の中心なのか、それが見失われている。「童話理念」は消滅し、新しい「理念」はまだ打ち立てられていないという横谷説は、この中心不在を指してのことだと、ぼくは理解する。
そこで、上野の『ちょんまげ手まり歌』だが、これは作者の単なるアイデア、寓意ではなく、誠実な表現である。作者にとってぎりぎりの表現を何も現在形にする必要はない。
また、ぼくはこの作品について、「現代的な状況」というより、むしろ戦前の天皇制と重なりあう面を強く感じているが、それはいまのところ、論じる問題ではない。ぼくの問題は『ちょんまげ手まり歌』が児童文学かどうか、ということである。
この問題を立てるのは、児童文学かどうかと判定して、子どもの手からその作品を取り上げるためではない。児童文学をせまく限定していくことによって、横谷のいう「理念」――ぼくのいう「中心」をつきとめたいからである。
だから、問題は『ちょんまげ手まり歌』にかぎったことではない。『立ってみなさい』は児童文学なのかどうか。問題はいいかえてもよい。『立ってみなさい』はどういう児童文学なのか。それは今後の児童文学の中心的存在たり得るのか。今後の発展の方向を指し示す作品なのか、と。ただし、この問いは作品の評価とは無関係の問いである。
そして、ぼくは『立ってみなさい』も『ちょんまげ手まり歌』も、児童文学の中心的方向にはならないと考える。二つの作品とも、本質的にはおとなの文学である面を多分に持っているからである。
ぼくは、児童文学を三つにわけて考えている。一つは『トム・ソーヤーの冒険』や『宝島』のように、その作品から受ける感動が児童期にはじまるものである。ただし、この感動は全人間的感動とでもいうもので、子どもが背のびしたところで感動する――たとえば『坊っちゃん』のようなものではない。そして、その全人間的感動は児童期にはじまって、おとなになって読んでも、やはりひきおこされるものである。
第二は『ちびくろ・さんぼ』で代表させよう。子どもの発達段階のある時期において、子どもの可能性を作品の中で広く深く実現させるものである。『さんぼ』のトラがバターになるところ、さんぼがホットケーキを一九六枚もたべるところ、こうしたところは現実と想像の世界が完全に分化していないというか、想像の世界におとなよりもっと深くはいりこんでいける幼児期に読んでこそ、もっともおもしろい。おとなになって読んでもおもしろいにちがいはないが、そのおもしろさには、幼児の世界を見おろすおもしろさがはいりこんでいる。
この種のものは幼児・幼年の文学に多いが、幼児・幼年段階にかぎられたものではない。それぞれの発達段階において存在する。そして、これは第一のものと関連しあっている。『トム・ソーヤー』の全人間的感動が児童期にはじまるのは、鳥越のいうように、作中に子どもでなければ持てない価値観があり、物語が子どもの論理にしたがって展開しているからである。こうして、『トム・ソーヤー』を児童期に読まない人間は、児童期でなければ得られない一つの体験をすてたことになる。
三番めが『立ってみなさい』。これはおとなにも子どもにも共通の「子どもの心」とでもいうか、そこにむかって訴えるもので、いわゆる童話である。こうしたものでは、作品によっては、おとなの方にこそ全人間的感動をひきおこす場合があり、ここに分類される多くの作品にその傾向は多少ともあらわれている。
ぼくは、今後の児童文学の中心的存在として、いまあげた三種のうち、第一と第二、またこの両者の合体したものを考える。そして、六〇年代の児童文学全体の方向は、大まかにはその方向にむかって進んできているのである。
さらに、この方向のものをもっと限定していった場合、ぼくの頭に浮かんでくるのは、「リアリズム」ということばである。「リアリズム」の作品が、多様化の中心として存在しなければならぬ。
子どもの文学のリアリズム(1)――その特徴
だが、「リアリズム」ということばほど、めんどうなことばはない。そのことばについて、いくらかずつ内容規定をしながら進んでいこう。
このことばの内容について、ぼくは「現代のファンタジーを」の中で次のようにいった。「もし、ひとつの法則(これはおそらく自然科学・社会科学の法則と重なりあう)にともなうイメージと論理の展開による創作方法をリアリズムとするなら、リアリズムにつらぬかれた作品にはふたつの形態がある。ひとつは日常的世界で展開する物語であり、もうひとつは空想的な世界で展開する物語である。」
だから、ぼくの場合、公式には「現代のファンタジーを」を書いた以後、リアリズムとファンタジーは対立概念ではない。リアリズムによるファンタジーが存在する。
ところが、一般的には、「リアリズム」は日常的世界、現実的世界で展開する作品、と受け取られている場合が多い。なぜ、ぼくの場合、リアリズムによるファンタジーが存在することになるのか。
それを考えていくために、六〇年代の、現実世界で展開する作品のうち、どういう作品によって、ぼくは、ぼくのいう「リアリズム」発展の道すじを考えようとするのか。作品名をあげてみよう。
それに『赤毛のポチ』『とべたら本こ』(以上、山中恒)、『キューポラのある街』(早船ちよ)、『ヒョコタンの山羊』(長崎源之助)、『チョコレート戦争』(大石真)、『出かせぎ村のゾロ』(須藤克三)に、『宿題ひきうけ株式会社』となる。場合によっては、『海の日曜日』『山のむこうは青い海だった』(以上、今江祥智)、『ぼくらの出航』(那須田稔)、『ああ! 五郎』(柚木象吉)、『道子の朝』(砂田弘)がはいってくる。
だが、「リアリズム」の方法による作品一点をあげよ、という問いに答えようとするなら、ぼくの頭にまっさきに浮かんでくるのは、これらの作品ではない。『だれも知らない小さな国』である。
『山のむこうは青い海だった』――これは夏休みの少年の物語である。その少年の新鮮さは、夏の日ざしの輝きと共に、ぼくの心にいまも焼きついているが、この現実生活の中の少年を書いたものよりも、『だれも知らない小さな国』の方が、「リアリズム」としてぼくに受け取られるのである。それはどうしてなのか。
『だれも知らない小さな国』では、一定の法則を持った世界が、ぼくの前に姿をあらわす。『山のむこうは青い海だった』も一つの世界であることにはかわりない。しかし、この世界の法則は明瞭には感じとれない。
その原因は、物語展開の方法によるものだと思う。一つの事件に対する人物たちの反応が、次の事件をつくり出す、この因果関係が『だれも知らない小さな国』では、きわめてあきらかに示される。この物語は、一箇一箇レンガをつみ上げていく、とでもいう方法でつくられている。だが、『山のむこうは青い海だった』では、因果関係は論理ではない。むしろ感覚によって処理されている。ここでは材料はレンガではない。その感覚的処理法は、とけたガラスを吹くやり方に似ていて、でき上がったガラス壁には厚いところ、薄いところがある。
そして、『だれも知らない小さな国』はレンガづくりの建造物として、明瞭なりんかくを持っているが、ガラスの城である『山のむこうは青い海だった』は、日光を反射して、そのりんかくはかならずしも明瞭ではない。
以上の比較から、『だれも知らない小さな国』の特徴を引き出すと、(1)、明瞭なりんかくを持つ、(2)、その世界には一定の法則がある、(3)、そのつくり方はレンガづみである、ということになる。
比喩と、そうでないものをごたまぜにしたいい方になるので、以上の特徴を一般論ふうにいいなおそう。
(1)の明瞭なりんかくを持つということは、それがフィクションの世界であるということである。(2)はあとまわしにして、(3)のレンガづみであるということ。これは作品中の事物が事物存在の法則をふみはずすことなく描かれていて、その結果、作品中において客観的事物となっている、ということである。次にはそれに対する人物の反応が、人間の認識の法則に合致している、ということである。そして、(2)の「一定の法則」というのは、この「存在の法則」と「認識の法則」のことであり、両者の相互関係は「発展の法則」となる。ただ一つ注釈しておかなければならないのは、児童文学のリアリズムでは、この発展の法則が子どもの論理、子どもの発達段階による認識の法則に則して、表現されていることである。これを落とした場合、児童文学のリアリズムは成り立たない。
そこで、フィクションということにもうすこしくわしくはいっていくと、その出発点は、いぬいとみこが小川未明論の中で書いたことに要約される。彼女が未明の『なんでもはいります』について、「もし、この同じテーマをつかって、子どものお話を書くとしたら、主人公の子どもがポケットになんでもはいります、という『発見』をしたところから、何か事件がはじまるべきなのです」と述べたところである。
現実の日常生活では、ポケットに「なんでもはいります」ことの発見は、多くの子どもにとって、彼らの認識・行動の一応の終着点である。ポケットにミカンを入れることのできなかった幼児が、ふさにしたらはいることを発見したとき、ミカンをポケットに入れる行為はおわるのである。
しかし、フィクションの世界はここからはじまる。「発見」は終着点ではなく、芽生えである。その芽生えを物語の中で成長させる。それがフィクションだと、ぼくは思う。そのフィクションの場が現実世界であろうと、空想世界であろうと、それは形態のちがいにしかすぎない。方法は一つなのである。
ぼくの考えるリアリズムが、現実の模写ではないことはもういうまでもないだろう。ことに児童文学のリアリズムでは、子どもの論理、さらには子どもの欲望の上に成り立つフィクションが必要である。なぜなら、子どもの現実生活はきわめて制約の多い生活である。これは社会環境からの制約と、まだ発達途中にある身体、知識等から来る制約、経済的な制約など、さまざまだが、その人為的制約条件をできるだけ取りのぞくとき、子どもは新しい姿を見せる。そして、子どもはそれを熱望しているのである。
こうして、現実から一歩ふみ出したところで、児童文学のリアリズムは成立する。そして、そのリアリティを保証するものは、まず第一、作品中の細部の真実である。この細部――具体的には、作品中の森や林や家や、その家に住む人の姿のリアリティを保証するものは、さきにいった「認識の法則」の上に立つえがき方である。この「認識の法則」は自然科学・社会科学の法則と関連していて、その結果、作品中の細部の事物は客観的事物として位置づけられる。
その事物と、作品中の人物との交互作用、つまり物語展開のプロセスである。このプロセスでふたたび「認識の法則」が働く。しかし、これは「法則」によりかかることではない。作者に即していえば、それは「法則」の発見である。
リアリズムをとりあえず、以上のように考えておこう。
だが、なぜ、カビの生えたようなリアリズム論をいまさら、と思う人もいるだろう。その「なぜ」に対して答えると、ぼくのいう「リアリズム」はまだなお実現されていない。せいぜい『だれも知らない小さな国』があるだけで、それもまだ「リアリズム」の出発点でしかない。ぼくの考える「リアリズム」は冒険小説をふくむが、六〇年代、冒険小説はついに一編もあらわれていない。
さらにまた、鈴木があらっぽいかたちで出している問題は、実に重要である。これを考えずに通りすぎることはできない。
鈴木のいう「リアリズム」は日常的、かつ社会的なものであり、六〇年代の多様化の中でその芽生えを発展させることができず、むしろ先細りになっていったものである。その先細りの原因は、児童文学全体の小市民的傾斜、また今日の児童文学運動がかかえこんでいる矛盾、リアリズムという創作方法についての研究不足などだが、鈴木のいう「擬制的民主主義に対する絶望、前衛に対する懐疑、挫折感の膨張する中で、明確に意識される敵を見失いつつある」こと――これがおそらく最大の原因であろう。
だからこそ、現在、プロセスが必要となる。「立ち方」を考えなければならぬ。『立ってみなさい』では、キキン魔は「野のはてに、黒雲のように立ちはだか」っている。しかし、鈴木は「階級的前衛としての左翼陣営における認識の不一致」をいう。認識が一致しないとき、敵の正体はあやふやなものとなる。
一つのことばとして、敵はアメリカ帝国主義であり、日本独占資本である、ということはやさしい。しかし、それはいったいどのようにぼくたちの生活に結びつき、ぼくたちの心をむしばんでいるのか。そして、それに対するたたかい方はどうなのか。
これは明瞭にプロセスの問題である。敵をみつけていく道すじと、その敵とのたたかい方をぼくはつかみたい。そして、リアリズムとはまさしくプロセスなのである。
子どもという人間への関心
だが、なぜ、リアリズムが伸びなやむのか。そこに立ち入って考えるために、六〇年代の「リアリズム」について、他の人がいっていることをきいてみよう。
例によって、横谷輝。彼はいう。「『リアリズム』も、ヒューマニズムや社会的善意によって古い秩序や社会・政治の不合理を、まがりなりにも照らしだそうとしながら、結果的にはゆがみをゆがみとして描きだすだけの平板さから脱けだすことができなかった。そこでも、人間・社会を歴史的な展望のもとにとらえ、いまどのような人間主体が必要であり、新しい社会をどうつくりだしていくかという視点が欠落していたのである。」
横谷のいう「リアリズム」は日常的次元で展開する物語をさすもののようである。
神宮輝夫は次のようにいう。「昭和三十四年の長編化にあたってその役をつとめたのは空想物語であり、それ以後のリアリズム系の作品は『赤毛のポチ』以外は本質的に生活童話と変りなかった。そのリアリズムは、四十一年で本質的変化のきざしを見せたのである。その意味では、四十一年までを戦後リアリズムの発展と終焉、世界的リアリズムの誕生と見なすことができる。一方、日本児童文学の批判精神の一貫性を考えれば、三十四年は童話から小説への変化、四十一年はリアリズムの変化の年と考えることができる。」(『日本児童文学』一九六七年十一月号)
この神宮意見はのちに修正されるが、彼が四十一年転換説を出した理由は次のように述べられる。「昭和四十一年に『宿題ひきうけ株式会社』(古田足日)、『青い目のバンチョウ』(山中恒)、『八月の太陽を』(乙骨淑子)が出版されたことは、ひじょうに興味深い。三点には共通したところがかなりある。三つとも、四分五裂した革新思想という状況の中で、昭和三十四、五年に出た作品のもつ現状批判と未来への展望をもっている。そして、三つとも、使い古されたパターンを脱し、新鮮な着想と骨太なストーリー性をもっている。つまり、どれもみな現実の忠実な模写の段階をこえて、高次元のリアリズムをめざしているのである。」
神宮がここで使っている「リアリズム」は、やはり日常的次元で展開する物語のことをさしているが、横谷の「リアリズム」より範囲が広いようである。
つづいて、神宮の修正説。これは前の説が発表された次の年、六八年四月号の『日本児童文学』誌上のもので、『現代の児童文学におけるリアリズム』と題されている。
「だが、この三作(『宿題』『バンチョウ』『八月の』三作、古田)はマイナスの点でも共通したものをもっている。それは簡単にいえば登場人物が読者の心に明瞭な像をつくらないことである。」
この登場人物の問題が一つ。次には、フィクションの問題がある。
「私は、手法として、フィクションの世界の中で日常的法則につらぬかれた人物の行動と環境描写が、これからもあたらしいリアリズムを生むと考えるが、その世界が寓意の世界であるかぎり、真にすぐれたリアリズムにはなりえないと考える。戦後リアリズムの多くは、一種の寓話だったと私は考えている。」
神宮はこう書いて、『赤毛のポチ』『あり子の記』『うみねこの空』の三作をあげ、これらの作品はそのすぐれた点とは別に、「フィクションの世界で完結すべきものが、現実に転稼され、現実との二重うつしでぼかされる部分を、もっていた」といい、『宿題ひきうけ株式会社』も、「末尾になると、せっかくのフィクションの世界を一挙にくずして、現実にとけこもうとする姿勢になる」と述べた。
横谷、神宮の二説をくらべて見た場合、ぼくの考えは、修正説もふくめて神宮の考えに近い。「リアリズム」の理解が、神宮とぼくとではおそらく同一、あるいは近接しているためであろうし、また神宮説は具体的に作品にふれているためであろうし、さらにはその作品の中にぼくのものがあげられているためでもあろう。
横谷説はぼくから見れば、巨視的にすぎる。彼は「人間・社会を歴史的な展望のもとにとらえ、いまどのような人間主体が必要であり、新しい社会をどうつくりだしていくかという視点が欠落していた」というが、ぼくの認識はかならずしもそうではない。
ぼくから見れば、『出かせぎの村のゾロ』にはその「視点」はあった。『天使で大地はいっぱいだ』もやはりその「視点」を持とうとしていた。ぼく自身も主観的には持っていた。にもかかわらず、それが実現できなかったのだ。そのことの方にぼくは問題を感じる。
では、なぜ、それが実現できなかったのか。ぼくはその最大原因として、モチーフのことを考える。ここでモチーフというのは、ある作そのもののモチーフと共に、その作者がなぜ子どもの物語を書くのかということ、その両者をふくんでいる。
そして、ひとりの人が児童文学にはいりこんでくるモチーフを考えてみるとき、モチーフは直接、その表現形態を支配することがある。日常世界を離れて自由に空想の翼を飛翔させることが、児童文学――その中のファンタジーといわれるものでは、おとなの文学より、はるかに大きく可能である。この形態の魅力にひきこまれればひきこまれるほど、その人は児童文学に深くはいりこんでくる。ただ、この際、ファンタジーは、リアリズムによるものと、非リアリズムによるものと、両方をふくむ。
さらにまた、原理的なものを求める、表現しようとするモチーフがある。『立ってみなさい』『ベロ出しチョンマ』など、斉藤隆介の諸作はこれに該当する。
以上の二つは、直接、表現形態に作用するモチーフだが、そのように直接作用はしないモチーフも存在する。子どもにこれを伝達しておきたいというのもそうであり、また子どもという人間存在そのものに関心を持つことも、そうである。
そして、さまざまのモチーフは複合しあい、ひとりの作者の中でも、あるモチーフが強烈に作用する場合、それにかわって他のモチーフが強く働く場合、というように変化する。ぼくのいうリアリズムは、子どもという人間存在そのものに関心を持つ、というモチーフと、もっとも強くかかわりあっている。ただし、その関心は、おとなが上から見おろした子どもへの関心ではない。関英雄は次のようにいう。「児童文学者はおとなの目と子どもの目の、二重のレンズをもっていて、この複眼に映るものを、『子どもの目』にまとめて表現する。」このことばに出てくるようなあり方での、子どもへの関心である。
つまり、おとなである自分の目と重なりあって、子どもの論理、子どもの価値観から見ることによって、世の中と人間を新しくとらえることができる、という児童文学へのモチーフである。
ところが、その子どもそのものへの関心が、日本の児童文学では弱かった。
そのことは、神宮の出してきた「日本のリアリズム発達の宿題の一つ」の「登場人物が読者の心に明瞭な像をつくらないこと」となってあらわれてくる。
そこで、その宿題に対する神宮の解答をきいてみよう。
「私たちは、いつも、日本の児童文学には、なぜ一本足のジョン・シルバーやトム・ソーヤーやキムが生まれないのかというなげきをもってきた。私はその理由を、一つは児童文学を理想主義の文学とする認識、一つは私がひそかに『変革への意志』とよんでいるものがある日本児童文学の体質であると考えている。」
「歴史の若い、そしてたえず子どもを守る立場から創作してこなければならなかった。また、伝統的に人間性から発する問題意識よりもむしろ環境に発する問題意識がつよい日本の児童文学にあって、児童文学は理想主義の文学という大前提をもつことは、たとえそれがまちがっていないとしても、現状では質の向上にマイナスにしかはたらかない。」
「日本の児童文学の前進の力となった私の考えている〈変革の意志〉を持つ多くの作品は、その性急な理想の追究のために、ついに現在にいたるまで個性ゆたかな人間像を創造していない。また、つねに時の為政者たちにおもねり、観念的な理想主義をかかげた俗流児童文学は、当然意味のある人物などを登場させることはなかった。」(以上「現代の児童文学におけるリアリズム」)
この神宮発言は、ほとんどすべて的を射ている、とぼくは思う。その中でも、ぼくがもっとも共感するのは、日本の児童文学を「伝統的に人間性から発する問題意識よりもむしろ環境に発する問題意識がつよい」と見るところである。
日本児童文学のいわゆるヒューマニズムは、子どもそのものへの関心から出発するより、子どもをめぐる環境の劣悪さから出発している。それは子どもを上から見おろすヒューマニズムであり、子どもを対等の人間として見ないことであった。
この環境の劣悪さへの怒りが、一方では「変革の意志」となる。そして、このあせりすぎた「変革への意志」は神宮のいう通りの結果を生み出したが、では、この「変革の意志」をすてれば、すぐれた作品ができるのかといえば、その保証はどこにもない。
その上、神宮も認める通り、「変革の意志」は日本の児童文学のモチーフとして、幾人、幾十人かの書き手の中に内在している。その書き手たちは、そのモチーフを生かす方法を考えるよりほかないのである。
神宮説をくみ入れて、そのモチーフを生かすためには、より有効に「変革の意志」を発揮するためには、環境への関心を共に、いや、それ以上に、子どもそのものに対する関心を持たなければならぬ。
「変革の意志」と児童文学及びファンタジー
ぼくはいまの日本の社会では、窒息してしまいそうな気がすることが多い。だから、ぼくは変革を願う。一方、ぼくは自分の表現として、児童文学を選んでいる。
ここのところを、図式的に極端化してみると、変革の願いは、いますぐにでも社会がかわれば、という願いである。一方、児童文学はどう転んでも、十年、二十年後にしか生きないものだ。
そこで、その統一はどのようになるか。
鳥越信は児童文学を「理想主義」の文学としているが、横谷輝によれば、鳥越はその内容について、こういっているそうである。「理想主義ということばは、本質的に秩序だったものであったり、必然的に人間の暗い部分、世の中の悪を排除するものではない。逆に秩序を破壊し、人間の暗い部分をひきずり出して、それをよりよく変えていこうとする働きをもつもので、その意味では、理想主義はまさに〈変革の意志〉とつながる。」(『児童文学の構造』)
これは前記、神宮説の「理想主義」「変革の意志」批判への反批判であろう。
その前半についてはその通りだと思うが、「理想主義はまさに〈変革の意志〉とつながる」となると、ぼくはくびをかしげてしまう。児童文学が理想主義の文学であるということに、ぼくはためらいを持つし、もしそうだとしても、そう簡単に「変革の意志」とはつながらない。
鈴木実はあまりにも簡単に「変革の意志」と児童文学とを結びつけてしまったのではないか。そこをどのように統一するのか、その困難さに鈴木は気がついていないように、ぼくには見える。
その統一は、いわゆる主体を、関英雄のいった「おとなの目と子どもの目とをもつ」構造として把握するところから出発することになるだろう。両者は固定したものではなく、相関関係をもっていて、一方が成長することによって、他の一方も成長するのが、その正常な関係であろう。「変革の意志」だけが進行する場合、その主体はもはや児童文学的主体ではない。
ぼくは、今日必要とする児童文学を二つにわけて考えている。一つは、人間が人間として持たなければならない愛や勇気や友情などを追求するもの、もう一つは、古い概念を打ち破り、人間と社会に対して新しい認識の目をひらくものである。もちろん、この二つは相互にからみあうものである。
この後者の場合は、直接「変革の意志」とつながることが多いから、前者と「変革」の問題を考えてみよう。
人間が人間として持たなければならないものというのは、人類がその発展の歴史の中で、いままでに獲得してきたもの、と見てよかろう。これは人間の原理であり、原理であるために、幼い子を読者対象とする作品には、この類のものが多い。
こうした作品創造の場合、「変革の意志」は直接には作品にあらわれない。では、その意志が全然働かないのかといえば、そうではない。子どもがちゃんとした人間に成長していくこと、それが変革につながっている。
そして、日本の現状では、児童文学普及の現状から考えてみても、変革を十年後、二十年後に見る作品がどうしても必要なのだ。幼児の段階にかぎってみるが、バージニア・バートンの『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』、このアメリカ生まれの絵本は、日本の子どもたちにも大いに気に入られている。
ひとりで走ってみたい、小さい機関車ちゅうちゅうが、ある日、思い通り脱走するこの絵本は、ちゅうちゅうの次のようなことばでおわる。
「あたしは、もう にげだしたり しません。にげても、あまり おもしろいことは ないんですもの。これから、たくさんの ひとを いっぱい のせた きゃくしゃや、にもつを つんだ かしゃをひいて、ちいさな まちから おおきな まちまで、いったり きたりしますよ。」
自分で自分を律する市民の思想が、この絵本の根拠にはある。だが、ちゅうちゅう=幼児の成長をこのようにとらえる以外のやり方もあるはずだ。
それは、幼児も集団の中でそだつ、という考え方だ。その方向で幼児の成長をとらえる物語は、それが成功した場合、幼児の心に、変革につながる思想の種をまくことになる。
もう一つ、例をあげると、おなじくバートンの『はたらきものの じょせつしゃけいてい』。けいていは、じえおぽりすという町の役所の道路管理部の車で、大雪のときには除雪車として出動する。雪で機能麻痺におちいった警察、郵便局、病院等が、けいていの活動でつぎつぎと機能を回復していく。そのようすが、すばらしい絵と文で語られる。
この絵本からもぼくは強烈な市民の思想を感じる。病院や消防署、警察などの機能をみごとに説明するこの本は、社会的知識の本としての側面を持っているが、それだけにとどまらず、けいていが市民精神の体現者として、ぼくの心に残ってくる。
この絵本を見るアメリカの子どもたちには、町が一つの有機体であることを理解すると共に、自分がその町の一員であることを知るにちがいない。
だが、わが国では、町はほんとうにわが町なのか。プレハブ校舎が建ち並び、川は源泉からすでににごっている町での、市民のあり方はどうなのか。けいていではない、わが日本の市民のあり方、じえおぽりすではない、わが日本の町の姿が書かれなければならないのである。「変革の意志」はここで生きる。
もっと具体的にいえば、山形には雪上車がある。その雪上車=人間=子どもを絵本の中の日本の町で動かすことによって、市民のあり方をさぐったらどうか、ということになる。この方法は、いうまでもなくリアリズム――環境と人間=子どもとの交互作用である。
そこで、山形の雪上車という具体的なもので出した提案を、もっと一般的なかたちにひきもどそう。その出発点は、自分の中にある「子どもの目」のことである。その目を持つ「子ども」は、「童話」の時代では、作者自身の幼少年時代の投影であることが多かった。だが、六〇年代、その「子ども」は、外がわにいる子どもたちの投影として、作者の中にはいってきはじめた。作者の中の「子ども」は外部の子どもに根をおろしているのである。
しかし、その根はまだけっして強くはない。作者の中の「子ども」は、六〇年代、子ども一般であることが多かった。子ども一般の心理に対応する形で、児童文学――ことに幼児・幼年の物語は創作された。そして、その子ども一般というのは、中産階級の子ども一般であった。つまり、六〇年代の児童文学では、「子どもの目」が、「子どもの論理」が、中産階級の子どもの目、論理であることが多かった。
これが分化、発展しなければならないのが、七〇年代である。前に出した『なんでもはいります』を例にして、話を進めよう。
まず、ほんとうにポケットにはなんでもはいるか、ということだが、壺井栄に、幼児がポケットの中に手をつっこんで母親をさがす、童話というか、観察記録ふうの作品がある。今江祥智には、父親をさがしてポケットをさぐる幼女についてのエッセイがある。
ポケットに父親、母親がはいるなら、おなじポケットの中にゾウを入れることもできるし、宇宙船を入れることもできる。そして、そのポケットの中のゾウは、何かのおりにひょいひょいと飛び出してくる。こう考えれば、自然に物語は展開していく。
この展開の形態はファンタジーなので、そこに限定していくことになるが、ポケットに入れるものはゾウなのか宇宙船なのか、それともひとにぎりの砂なのか。それを決定する重要な条件は、子どもの欲望である。
炭坑の子ども、出かせぎ村の子ども、工場地帯の子ども――それぞれの環境(だけではないが)によって、子どもの欲望の具体的なあらわれはちがう。また、巨視的に見れば、子どもの発達段階による論理は同一である。しかし、微視的に見れば、その発達段階においても、子どもの置かれた社会的条件によって、論理の展開のちがいがある。
どのような子どもの欲望の表現、論理の展開によるファンタジーを、ぼくたちは七〇年代に生み出すことになるのか。
それを決定するのは、作者の中にある「おとな」である。自分が表現し、自分が追求しようとする世界、それが姿をあらわしてくるのには、いいかえれば、この人間世界が新しい様相を見せ、うずもれた可能性や、かくされた非人間性をあらわしてくるのには、ゾウでも宇宙船でも砂でも、なんでもよいというわけにはいかない。もっとも適切なものを選ばなければならない。もっとも適切な論理を選ばなければならない。
子どもの生活の中に、すでに一つの芽生えがある。しかし、子どもはそれに気がつかない。その芽生えの中には、欲望表現のイメージの芽生えもあり、論理の芽生えもある。しかし、子どもはそのイメージを、論理を、ひとりで発展させることはできない。その芽生えを物語の中で成長させることによって、作者の前にも、読者である子どもの前にも、新しい世界がひらかれる。
だが、六〇年代、出かせぎ村の子どもの生活の中にある芽生えを、その論理に沿って展開するファンタジーは、ほとんど生まれなかった。工場労働者の子どもの空想、論理の上に立つファンタジーもなかった、といってよい。七〇年代、都市の中産階級だけではなく、もっとさまざまの環境・階層に根をおろしたファンタジーが出てこなければならぬ。
ただし、中産階級の子どもに根をおろし、そこから市民の思想を形成していくファンタジーが、同様に必要なことはいうまでもない。中産階級も本質的には労働者であり、そこで形成される個人の尊厳の思想や、自由の主張は、現在の日本では、もっと下積みの層から形成されてくる思想と融合して、その小市民性を消去され、新しい社会をつくり出す思想に発展していくはずのものである。
子どもの文学のリアリズム(2)――現実世界の作品
さまざまの環境、階層に根をおろしたファンタジーを創造し、また中産階層の中でも、市民の思想形成の方向のものに目をむけようとするのは、子ども一般がもっと具体的な子どもに分化していく、ということである。
では、作者はそういう具体的な子どもを、どのようにしてつかむのか。そこで、ファンタジーの発展のためにも、ある環境・階層に限定された子どもを書く日常的なリアリズムの作品が、もっと出てこなければならない、ということがいえる。双方があることで、双方、共に発展するのである。
もちろん、これは日常的なリアリズムが存在しなければならない第一義の理由ではない。日常的リアリズムの存在理由は、横谷輝の次のことばがみごとに言いあらわしていると思う。
「子どもが成長発達していく過程というものは、ある意味で子どもが外部の世界である、自然や社会や人間をふくめた現実を獲得していく過程である。いいかえれば、外部の世界の認識拡大にともなって、内部の現実が変革していくたたかいの過程でもある。児童文学におけるリアリズムは、すくなくともそれと対応したかたちであるべきではないかというのが、わたしのひそかな判断である。」(『リアリズムの問題』)
この横谷発言にある、日常的リアリズムの作品を創造するための難関の一つは、作品中の人物が明瞭なイメージを結ばないことであった。そして、その問題を解決するには、児童文学へのモチーフが、環境への怒りよりも、子どもそのものへの関心に転換しなければならぬ、とぼくはいった。
この「ねばならぬ」だが、これはかけ声だけのことではない。六〇年代の児童文学の動きから推していくとき、そのような必然が今後の動きにはらまれている。六〇年代の児童文学は、中産階層的子ども一般を発見するところまでこぎつけた。これのもう一歩の前進なのだ。
環境・階層によって子どもをとらえる、ということもそうである。山形、信州、北陸――それぞれの地域の文学が芽を吹いてきた。それをさらに推し進めよう、ということになる。ただし、方法と、態度をいっそう吟味してからのことだが。
立場を変えていえば、ある限定された環境の、個性ゆたかな子どもの論理と認識と行動、それを通さなければ、今日の日本が見えてこない――実はそういう状況に、今日の児童文学は追いこまれている。
ぼくがプロセスをいうのは、そのためである。『だれも知らない小さな国』では、認識の対象はひとりの人間の内部世界であった。「変革の意志」を持つ者たちが認識しなければならないのは、外部の世界である。
では、どのようにして外部の世界をとらえ、表現するのか。ここのところは、六〇年代、意外に発展しなかったところである。その原因の一つは、とりあえずフィクションを、またおもしろいものを、という課題に、作者が答えなければならなかった、ということであろう。
だが、それよりはるかに大きな原因は、モチーフがもともと環境への怒りにあるために、そのモチーフを信じて疑わなかった素朴さにあるのではなかろうか。その素朴さは実感信仰であり、その点、ぼくたちはまだ日本近代童話の呪縛からのがれていない。
さらに、そこに重なりあってくるのが、いわゆる「革新思想の四分五裂」である。ここで、横谷輝の「リアリズム」についての定義を引っぱり出すと、彼はこういった。「わたしにとって『リアリズム』とはなにかを結論風にいうならば、それは文学のうえにおいては、客観的な現実をとらえるための基本的な態度であり、その認識からえたものを表現する方法であるということになる。」
この「客観的な現実をとらえるための基本的な態度」ということ、ぼくはそれにふれないでいままで進んできた。「態度」を重視すると、混乱をひきおこすおそれがあったからだ。たとえば『立ってみなさい』を「態度」の面から見れば、やはりリアリズムになりかねない。
ぼくはいまのところ、「リアリズム」をもっとせまく限定しておきたい。ぼくは「方法」の方に重点をおく。ただし「方法」が「態度」に支えられていることは、いうまでもない。
ところで、「態度」というのは、「態度」すべてを指しているものではない。「客観的な事実」をとらえる態度であり、すでに現実を「客観的」なものとして見る態度であることが、前提となっている。
そして、横谷はエルンスト・フィッシャーのことばを引いていう。「ここでいわれていることは、文学・芸術作品はただ客観的な現実だけを反映したものではなく、それと同時に作者の意識をも反映することによってなりたっているということである。いわば現実の反映は、作家の内部現実をとおしておこなわれるというのである。そして、現実の総体とはこれら客観的現実と主観的主体を包括したところにのみ存在するというわけである。」
ずいぶんまわり道をしたが、「現実の反映は、作家の内部現実をとおしておこなわれる」というところで、「革新思想の四分五裂」が重要な意味を持ってくる。
六〇年代の児童文学の日常的次元――このことばは不適当なようだ。非日常的な生活を書くものもあるので、現実的次元といいかえよう――でのリアリズム作品では、その「四分五裂」はまだそれほどいちじるしくはなかった。しかし、七〇年代では、この傾向はもっとあきらかになっていくにちがいない。
六〇年代に、外部世界――客観的現実をとらえる方法があまり発展しなかった原因について、ぼくはいま述べてきたようなことを考えているが、それだけでは抽象的すぎる。作品そのものにあたってみよう。
ぼくはこのおぼえ書きの中で、何度か、「なにか小柄で器用すぎる作品」ということをいった。しかし、前にあげた『ボクちゃんの戦場』、そして、いまから論じていく『教室二〇五号』(大石真)、『ぼくがぼくであること』(山中恒)は、けっして「小柄」な作品ではない。
教室二〇五号――小学校の体育倉庫の下にある秘密の地下室、ここに集まる子どもたちは、現実の世界に疎外感を抱いている。「洋太の家には、″おかあさん″とよんだことのない母親が、洋太の帰りをまっていたし、明の家は帰ってもおかあさんはいなかったし、友一の家では、K学院の試験が近づいて、目の色をかえておかあさんが、友一の勉強部屋にまちかまえていた」のである。
そして、もうひとり、この地下室の四人の仲間のなかで一番陽気な健治さえ、こういう。「ここにいると、家になんか帰りたくなくなるね。家に帰れば、すぐ、宿題だとか、テストの成績だとか、わいわい、いわれるんだもの。」
四人はこの地下室を、ほんとうの教室につくり上げていこうとする。洋太はいうのである。「たとえば、ここに、こう書いてあるだろう。″おたがいにたすけあい、なかよく勉強していこう″って、それなのに、ぼくたちの教室じゃ、だれも、このとおりになんか、していないじゃないか。」「だが、ここではちがうんだ。みんなが、みんな、いい成績にならなくちゃいけないんだ……。」
友一は二年生の明に算数を教え、明はテストで百点を取る。それを、喫茶店につとめている母親のところへ明は持っていく。だが、母親はすこしも喜ばない。それよりも、「自分がこんな大きな子どもの母親であることを、お客やなかまに知られたのが、ひどく腹だたしかった」。明はふらふらと町を歩き、自動車にひかれる。
この明の話は物語全体から見れば、一つの部分にすぎないが、重要な部分である。友一はびっこであり、洋太の母は継母である。この設定には、ヒューマニズムの文学の作者、大石真の設定が見られるのだが、明の場合は、そういう、いつの時代にも通じる条件ではなく、この現在でなければならない条件が設定されているのである。
ここにあるのは、もうヒューマニズムによる弱者への同情ではない。現実が、現実としてとらえられたのである。洋太は明の家のじゅうたんや、ソファや、ステレオを見て、明にたずねる。
「明、おまえ、こんな品物より、おかあさんが家にいたほうがいいと思うだろう。」
だが、明の答は洋太の予想を裏切る。明は「ぼく、品物があるほうがいいや」と答えるのである。
明母子の人物像とその関係――これがあることによって『教室二〇五号』はヒューマニズムの作品にとどまらず、現代社会を批判する作品としての側面を持つことになった。
この社会批判ということは、いままで「変革の意志」を持つ者のしごととして考えられていた。ところが、大石真はぼくの分類では、今西祐行、前川康男と共にヒューマニズムの児童文学を中心として、市民の児童文学にまたがるものも書いてきた人である。
その人が今日、力こめた作品を書くとき、現代という条件が作品の中にはいりこんでしまう。作者の視点がちがったというよりも、現代の持つ非人間性が一般化してしまったのである。
ここで、「変革の意志」を持つ者の作品のあり方が問われることになる。現代社会の批判はヒューマニズムの児童文学でも、市民の児童文学の中でも行なうことができるのだ。そこにとどまるのか、それからさらに一歩前進するのか。いや、何にむかって、どのように前進するのか。
『ぼくがぼくであること』はそれについての山中恒の答であろう。この物語はおもしろい。そのストーリーの展開と、誇張された表現と、その登場人物たちによって、おもしろい。そのおもしろさは、人物像とその表現によっては、横谷輝のいう機能概念的なおもしろさを越える場合がある。
たとえば、次のようなところだ。「秀一はこのマユミの″ママ″といういいかたが気にくわない。家じゅうで母を″ママ″とよぶのはマユミだけである。秀一は″ママ″などという人は、もっとわかくて、ミニドレスがよくにあって、英語やフランス語などぺらぺらで、自分で自動車を運転して、チョコレートとアイスクリームだけで生きているような人だと思っている。それなのに、お茶づけをワシャワシャかっこんで、たくわんをバリバリかじり、イモをもぐもぐやる、ややふとりぎみのおばはん[#「おばはん」に傍点]が″ママ″とよばれて返事をする。」
ここでは、日本の小市民がひと皮むけば、実は長屋のおかみさんであることが語られている。ただ表面的なおもしろさではない。
そして、この母親は秀一にテストや学校のことをうるさくいう一方、金もうけを計画して失敗した秘密を持っている。「おれたちがおふくろさんを信用してなかったように、おふくろさんもおれたちを信用してなかったらしいよ。金さえあれば、子どもたちにみすてられないってな」という優一のことばには真実がある。山中の目は、ここでは奥行深く人間をとらえている。
このように部分的には真実があり、その真実がこの作品に重量感を与えているが、全体として見た場合、この作品は大きな計算まちがいをしているのではないか。ある書評はこの作品についてこういった。「『エッチ』『ウシシ』などと、子どもべったりの流行語を駆使しながらも、教育ママに例証される現実の教育態勢にいどみ、『ぼくがぼくである』という、たいへんな主題に肉迫した」(『週刊読書人』一九七〇年一月二六日)と。
流行語のことは、ぼくにはいまのところ、どうでもよい。ぼくの問題は、この作品が「教育ママに例証される現実の教育態勢にいど」んだ作品か、どうか、ということである。
いどむかに見えて、この作品は、ついにいどまなかったというのが、ぼくの結論である。この物語の中にときどき顔を出す政治的風景が、ぼくには宙に浮いて見えるのである。
わだ・としおの次の文章は、その宙に浮いて見えることを説明している文章だと思う。
「『ぼくがぼくであること』――この言葉は、秀一に仮託した作者の″自立性″への希求なのだが、この作品では、この言葉は読者を納得させない。ここでは、エネルギーにみちたコドモは、ただ情念につき動かされて行動するコドモにしかすぎない。(中略)家出して起こる事件、ひき逃げ犯人やら信玄の宝やら戦時中の″殺人″に捉えられてしまっている老人やらが、単に興味性、意外性の観点から編み出されてきていて、主題とからんでこないところに、その罪があるのだが、同時に″モーレツなる教育ママ″という主題の掴み方にも問題があるのではなかろうか……。」(『図書新聞』一九七〇年二月一日)
戦時中の″殺人″に捉えられてしまっている老人のことは、物語展開の意外性以上に深みのある問題でその点については、わだ意見に賛成できないが、その他のことについては同感である。
ただ、わだは「″モーレツなる教育ママ″という主題の掴み方にも問題があるのではなかろうか……。」といって、そのむこうへは進んでいない。もっとも、「主題」ということばは複雑な意味をもつことばなので、そこのところ、ぼくには気分的にしかわからないところがある。
ぼくには、この作品の世界と、現実世界とが、うまくかみあわない。その一つが、「教育ママ」という存在だ。『週刊読書人』の書評者はこの作品中の母親を「教育ママ」としてとらえてしまい、わだ・としおはいくらか疑問を持っているらしい。
ぼくから見ると、『週刊読書人』の書評者は、まちがっている。そして、作者自身もおなじようなあやまりをおかしているのではなかろうか。テストや、通信簿を気にする程度のことでは、「教育ママ」ではない。問題はそこからむこうのことで、この母親は、秀一が出そうとする手紙を、秀一の妹のマユミにいいつけて、ポストから取りもどさせてしまう。これは、作品中の一例だが、これほど「教育ママ」らしからぬ母親はいない。
この秀一の家庭は実は家父長制の家庭である。ただ家父長が入りむこの父親ではなく、家つきむすめであった母親となっているだけのことだ。母親は作品の最初から専制者として登場し、作品の最後では、その「おふくろさんの城だった家」が焼けてしまうのである。世にいう「教育ママ」はもっとかしこく、もっと子どもと対話を試みようとするものである。秀一の母親のように自分勝手にわめいているだけではない。
こういう家父長的世界に反逆する衝動的家出――これは『とべたら本こ』に原型を持つ、山中作品のパターンである。そこに、『ぼくがぼくであること』では、政治的風景が顔を出す。秀一兄弟の一番上の兄の良一は、物語の終わりに近いところで、母親にいう。
「おかあさんのように人を愛することもしないで、めさきのことだけで結婚し、ただ自分の気分のためにだけ、子どもを勉強へ追いやり、自分のめさきのちっぽけな安楽のためにだけ、子どもを大学へやり、一流会社にいれて、なにごともなくぶじにすごしたいというおとなたちが、この不正でくさりきった社会をつくってしまったんだよ。その責任はおかあさんにもある!」
ここには、二つのあやまりがあると思う。一つは、この作品中の家父長的母親への批判が、「自分の気分のためにだけ、子どもを勉強へ追いやり」ということばでだけしか出ていないところだ。この良一発言全体は、自分の母親批判を通して、世のいわゆる「教育ママ」批判をやっているのではない。自分の母親批判ができないで、一般的批判をやっているのである。しかし、作者は良一発言を肯定している。
第二のあやまりは、この作品の母親像をはなれての現実認識の問題である。世の母親たちは「自分のめさきのちっぽけな安楽のために」「子どもを大学へやり、一流会社へいれ」ようとしているのだろうか。
多くの場合、そうではない。母親たちは、子どもを現在の自分たちの生活よりも、より物質にめぐまれた生活、金に苦労しない生活を送ることのできるおとなにしようとして、子どもを大学へ入れようとしてきた。さらにまた、現在では、子どもに一定の教育を受けさせることが親の義務である、という考えがひろがりつつある。
この母親たちの願いがどうして生まれてくるのか、また親が教育を受けさせようとするのに、子どもがそれを拒絶する場合があるのはなぜなのか――そこにはいらなければ、政治的風景は宙に浮いてしまう。
『ぼくがぼくであること』に、もし良一発言を生かそうとする意図があったのなら、この作品は家父長的家庭よりも、子どもとつねに対話し、子どもをつねに理解しようとしている母親を書くべきだった、と思う。その母親をひと皮、ひと皮むいていけば、やはり、家父長的世界の母親の姿をあらわしたかもしれないし、また小市民のどうしようもない姿が出てきたかもしれない。
ぼくは、山中恒がふたたび『赤毛のポチ』の世界に立ちもどることを望みたい。ポチが行ったり来たりする中で、カツ子を執拗に追い続けた、あの目と態度を希望するのである。
さて、ここで、客観的現実をどのようにしてとらえるかということに帰るわけだが、それについて、よい考えが別にあるわけではない。
ただ抽象的にいうなら、これはやはり法則の問題だ。『教室二〇五号』の明を殺したのは、いったい何者なのか。それを追いつめる必要がある。
その追いつめていく道で、個々の事実が問題になるが、その際、恣意的な構築の仕方になっては、どうしようもないということを『ぼくがぼくであること』から学んだことになる。
しかし、それからむこうはやはりわからない。わかるのは、変革の意志による、現実世界のリアリズム作品が必要とされているということだけだ。それは読者のがわからの要求でもある。今日を知りたい、この現代社会をどう認識するのか、そこをつらぬく法則は、という要求である。たとえば公害なら公害が、子どもの世界もつつみこんでしまう現在、政治、社会の問題は子どもにぐっと近接している。というより、子どものなかにはいりこんでしまっている。そこでは、こういう要求が生まれるのも当然のことである。
一方、作者のがわにも要求がある。一度ならずいってきたプロセスの問題だ。ここでは、さまざまの現象を調査・探求していくことがどうしても必要となる。調査・探求は作品以前のことかもしれないが、どうもそこからやりなおす必要があるように思う。恣意的に流れて行くのは、事実に即さないからである。そしてまた、意外なほど、日本各地のさまざまな政治・社会的現象は書かれていないのである。
恣意的になって行くのは、もう一つ、認識態度の問題がある。『道子の朝』は変革の意志を持った作品だが、この中で、どうしてもぼくになっとくがいかなかったのは、教師像であった。あまりにも薄っぺらな教師として出てきていて、この場合も、ぼくの見ている現実世界とかみあわない。調査の問題と共に、見る目の問題があるのだ。
また人物のことになってきたが、ぼくには、腰に目覚まし時計入りの袋をぶらさげた子どもの姿が、おぼろげに浮かんでくる。その子の仲間たちは、胸に笛をさげ、うき袋を持ち、麻なわを持っている。潮が満ちると、姿をかくす貝がら島へ遊びに行く子どもたちだ。
この子どもたちの出ている『希望の漂流』はごたごたしすぎている作品だ。だが、この子どもたちの計画性にぼくは心をひかれる。この子どもたちの姿は、ぼくにとっては、未来の児童像の一部分をかたちづくるようだ。
しかし、その児童像はまだおぼろげでしかない。かつて小川未明は「子供等の代弁者となり、ために抗議し、主張」する、といった。今日のぼくたちは子どもによって突破口を求め、変革のプロセスをさぐろうとしている。だが、その児童像はまだなお姿をあらわしていない。
また、その子どもと客観的現実との関係は、どのようになるのか。変革の意志に基づいて、現実世界を書くリアリズムの行方は、七〇年代最大の課題ではあるが、その方法のいとぐちはまだなおつかめていない。
ただ一つ、いいそえておかなければならないのは、神宮輝夫の次の意見に対するぼくの考えである。神宮はいう。
「リアリズムの世界が、物語として完結するためには、フィクションとして構築される世界が、子どもの目で見たものでなくてはならないし、子どもはもちろん子どもとして、大人が出てくるとき、その大人像は、子どもの目に映じた、子どもの認識の目をくぐった大人像でなくてはならないだろう。
『飛ぶ教室』で二つの学校が決闘するところがある。決闘前にとりきめてあったことは敗者は守ろうとしない。すると禁煙先生が、『あきれたな! そんなならず者が今どきの少年の中にもいるのか。マルチン、ぼくが決闘をすすめたが、気の毒したね。決闘できめるなんてことは、紳士的な人間のあいだでしか、おこなわれないことなんだね』(中略)という。
一九三三年という発表年を考えるとき、私たちには、このならず者がだれをさすかだいたいわかるのだが、登場人物のマルチンにとっても、読者の子どもにとっても、それは相手の学校生徒でしかない。
現実の忠実な描写からはなれたリアリズムの世界にあって、子どもの前にあらわれる事件は子どもの認識の段階でえがかなくてはならないものであり、そこに作者の解釈が顔をだしてはならない。作者の考えが顔を出すことは、作品世界のリアリティをくずすことになる」。(『日本児童文学』一九六八年四月号)
この神宮説中にある「作者の解釈」ということだが、それはかならずしも子どもの認識を越えたものではないだろう。彼は子どもの認識に即して、客観的現実を作品中にどう構築するかをいっているのだが、その際、イメージならイメージ、物語全体なら物語全体のはこびをつくり上げる作者の、現実に対する態度にはふれていない。
「ならず者」はいうまでもなくナチスである。作者ケストナーの内部では、ナチスと、作品中のならず者と、卑怯な生徒たちの姿が重なりあっていた――と、いえはしないか。両者表裏の関係をもつ児童文学は当然存在する。物語中のイメージ形成に、物語そのものの進行に、作者の現実に対する態度は大きく作用している。むしろ、みごとなイメージをつくり出すのは、作者の現実に対する態度によるのではなかろうか。
時経てのち、作者がなぜそのイメージを形成し得たのか、ということは忘れ去られる、そのイメージのみが残る、ということになるのだが、その結果と、生み出すときの作用とを混同してはならないと思う。
ところで、現実世界を書くリアリズムは、七〇年代には冒険小説ともなってあらわれなければならないだろう。六〇年代、空想の世界の中での冒険は書かれた。だが、現実世界での冒険小説はついに出現しなかった。
しかし、『ぼくがぼくであること』にも『希望の漂流』にも、その芽生えはある。現代日本の状況の中での冒険小説が、ぜひとも生まれなければならない。
読書運動(1)――その主要な性格
さきに六〇年代の創作出版は、多くの人びとの手によって獲得された面がある、ということをいった。その獲得の具体的な力として働いたものの中に、読書運動がある。
読書運動は六〇年代の児童文学運動を特徴づける。創作を中心とする児童文学運動は、六〇年代後半では完全に消滅している。だが、読書運動は後半になっていっそう発展した。
その歩みを簡単にふりかえってみると、椋鳩十が「母と子の二十分間読書」を提唱したのは、ちょうど一九六〇年のことであった。おなじその年、石井桃子の『子どもの読書の導きかた』が出ている。『子どもと文学』もまた創作・理論面だけではなく、読書の手引きとしての役割もはたしている。
それ以前、学校図書館法の成立があり、全国学校図書館協議会を中心とした運動の展開があるが、椋、石井ふたりの発言があった六〇年を、本格的な読書運動への出発の年、と考えてよいのではなかろうか。「母と子の二十分間読書」の呼びかけは変型、発展して、親子読書となっていくが、その親子読書を、多くの読書運動活動家は口にするし、また石井桃子の『子どもの図書館』を読んで、家庭文庫をつくったという人も、少なくないのである。
そして、十年間、今日の読書運動の発展はたいへんなものである。児童図書館研究会の調べでは、六九年、全国に地域・家庭文庫が一六八あることになっている。これは調査もれが多い数字(たとえば、その調査では愛媛県には一か所も文庫はない。しかし、偶然のことでぼくは二か所の文庫の人と顔をあわせた)と考えられるので、その数はおそらく数百になるだろう。
また、静岡県の「茶の間ひととき読書」のように、県立図書館・小・中学校がいっしょになって運動を展開しているところもある。
いまもひろがりつつある、この読書運動は、その提唱者たちの中に椋鳩十がおり、石井桃子グループがあったにもかかわらず、六〇年代前半では、多くの児童文学者たちと無縁であった。読書運動は、児童文学のいわば外がわからおこったものであった。
しかし、後半、児童文学者たちもこの動きの中につつみこまれる。七〇年代では、この傾向はいっそう強まるにちがいない。だから、読書運動のことを考えなければならぬ――。
いや、このとらえ方ではだめである。読書運動は国民的な運動となる可能性を持っている。本は今日、六〇年代の経済の高度成長によってひきおこされたひずみに対する自衛手段となりつつある、とぼくは『七〇年代・児童文学の位置』で書いた。読書運動が生まれる基盤は今日の社会状況そのものの中にあり、その運動の実際は、子どもによい本を、ということを軸にしながら、さまざまの方向へ展開している。
たとえば、その運動のある部分は、自治体を真実、地域住民のものにしようとする運動の一環として、とらえることもできる。地域で、個人や有志が子どものための文庫を開いた際、最初は場所も蔵書も自費だが、やがて蔵書の補充にあたって、その財源が問題となってくる。ここで自治体との交渉がおこる。
その実例はまだ多くはないようだが、地域には本来、自治体の施設であるところの児童図書館がなければならない。それを現在、地域文庫、家庭文庫が代行しているのである。
だが、地域住民の要求で、もし児童図書館ができたらこの運動はおわるのか、といえば、そうではない。学校教育との関係で見ると、学校はときとして、文庫や親子読書会の活動を、学校教育の延長としてとらえようとする。それがPTA活動の一環に組みこまれたとき、校長、教頭の指導の下に、自由な活動が封じられてしまう場合もないではない。
この関係を見ると、児童図書館ができて専任の職員がくればそれでおしまいなのではない。その図書館がどういうことをやるのか、母親たちはそれを見、それについて発言し、要求しなければならないのである。
いま、ぼくは「母親たちは」といった。「母と子の二十分間読書」は親子読書、親子読書会となっていくが、この際の「親」はほとんど母親である。なぜ母親が多く父親参加は少ないのか、そのことは一度考えてみなければならないことだが、母親がこの運動に積極的に参加することによって、読書運動は女性解放運動という側面もそなえている。
それには本そのものの働きもある。日本の現代児童文学を親子読書会で取り上げるとき、その作者がつかんだ日本の現代への批判は、母親を刺戟する。同時に、今や、文庫の運営、本に対する判断、自治体との問題――こうしたことを考え、行動するなかで、母親は自覚して行く。つまり、読書運動は前にいった「市民の児童文学」――その意味での市民の運動という性格を、大まかにはそなえている。
しかし、この運動は、いまいったような要素だけではなく、極端にいえば、現代での立身出世主義をもその成立要素としてかかえこんでいる。これは、もはや学歴だけでは一流社会にはいったところで通用しない、という親の認識によっている。今日、企業の中で重要な位置を占めるのには、想像力、創造力がなければならぬ。その基礎をつちかう本を――という認識である。
一方、今日の学校教育では人間を機械の部品化してしまうだけであり、本から、それとはちがう認識の基礎を、という考えもまた、この運動の中に流れている。
読書運動を成立させている諸要素をあげていくと、きりがないほど複雑であって、この運動の性格を一口にいうことはむずかしい。しかし、大きく見れば、この運動は、現代のマスコミ児童文化にだけ子どもをまかせておけないという認識と、本を読む子が少ない、その子たちに本を読ませよう、という願いの上に成り立っている。
このうち、マスコミ児童文化にだけ子どもをまかせておけないというのは、現代的な状況から生まれてきたものである。一方、本を読む子が少ない、その子たちに本を、というのは、一種の近代化運動と考えられる。本を読むたのしさをだれでもが享受できる、本を読む能力をだれでもが持つことができる――これは、近代化(横谷のいう「近代主義化」ではない)の方向だ、とぼくは考えるのだ。
このように見てくれば、読書運動は、本の単なる普及運動ではない。現在の日本を一歩前進させていく運動としての性格を持っている。そして、その主要な性格を日本の現状況における近代化運動、とぼくが考えるのは、日本の子どもの本のあり方が、前近代的であったことも、一つの原因となっている。
読書運動の発展の中で、いわゆる世界名作の再話というものが、しだいに問題になってきた。この名作再話は一口に商業主義の産物といわれる場合があるが、ことはそれほど単純なものではないだろう、名作再話成立の基礎には前近代性があった、とぼくは思う。
それはおそらく外国児童文学移植の歴史とからみあい、その初期には、再話しなければ子どもにつたわっていかない、また子どもは多量に物語を要求している、という必然性があったにちがいない。
しかし、昭和も戦後になっては、その必然性はもうそろそろ消えかかっていたのではなかろうか。再話しなければ子どもにはわからない、といういい方の中に、子どもにはこの程度でけっこうという子どもべっ視があったのではないか。子どもの発達段階も考えないで、高学年むきの名作を絵本、低学年用に再話していくのは、子どもを一人前の人間として見ない態度と、著作者の表現を尊重しない態度の上に成り立っている。前近代性と商業主義とが結びついて、名作再話は成立していたと考えられる。
この名作再話問題は、大出版社から出ている本、また有名人監修の本の問題とも、共通するところを持っている。名作という名前、有名人、大出版社という権威にたよるな、という点である。だから、この問題は完訳ならそれでよい、というだけではおわらない。ひとりひとりの父母、教師が、それぞれの本について自分の判断を持て、ということになっていく性質のものである。
読書運動を近代化運動とぼくが考えるのは、子どもによい本を、ということを中心としながら、それに参加している人びとの「個の確立」ということが、どうしても落とせない要素としてはいってくるからである。
また、さらに、その「個の確立」は、子どもを子どもとしてとらえる態度の上に立ってのことである。本の伝達者、媒介者としての役割を持っている運動参加者は、子どもに本をおしつける存在ではない。再話された世界名作を子どもにおしつけて、その善意にもかかわらず、子どもをかえって本ぎらいにした人は、いままでけっして少なかったとはいえない。
そうではない態度――子どもの発達段階をちゃんと見る科学的な態度と、子どもを独立の人格として見る態度、この両者の統一された態度が、この運動の中から自然に養われようとしてきている。もしも、この態度が失われるときには、読書運動は本のおしつけ運動に転落し、子どもたちにそっぽをむかれて、消滅していくにちがいない。
さて、ここで、いままでいってきたような、今日の読書運動の性格をふりかえってみるなら、この運動のまだなお自覚されていない中心思想は、創作とおなじく、やはり市民の思想である。この運動の中で、ぼくたちはそれを確かなものとしていかなければならない。
そして、この市民の思想の形成は、作品中の世界とはちがって、その作品をもふくむ日本の現況の中で行われる。前近代的なもの、超近代的なもの、さまざまの要素が錯綜する中で、それは行われる。その中での市民の思想の形成は、近代主義的なものではない。
読書運動(2)――作品評価の問題
総体としての読書運動は、以上のような性格と方向とを持っているが、そのなかにはさまざまの矛盾がある。
読書運動のあり方そのものに関する部分ははぶき、児童文学と直接、関係のあるものについて述べると、その内部矛盾は何よりもよい本とは何か、というところにあらわれてくる。
絵本『シナの五にんきょうだい』はその象徴的な例である。この本の訳者である石井桃子はもちろん、この本を「よい本」と考える。神宮輝夫もまたそう考える。一方、鳥越信や、代田昇や、ぼくは日本の子どもに推せんできるほどの本とは考えない。
神宮はこの本について、次のようにいう。「物語のはじめに、まず顔やかたちのそっくりな五人兄弟が紹介され、つづいて、長兄が海の水をのみほす力をもち、二番目が鉄のくびをもち、三番目がのびる足をもち、四番目がやけない体を、五番目が息をしない能力を持つという特性が語られ、つづいて事件がおこると、この五人がつぎつぎに困難をのりこえる様子が順序よくえがかれ、幸福な結果にいたります。人物描写、事件の発端、展開、クライマックス、結末という物語の型が、むだなくそして十分にその力を発揮して、読者に緊張と興奮と安心感を与えます。画家のビーゼは中国をじっさいに知っている強みもあって、簡潔で力と動きにあふれる絵をかき、ビショップの再話の価値をいっそう高めました。」(『子どもに読ませたい本』)
「読者に緊張と興奮と安心感を与え」る「物語の型」としての、この物語の分析は、石井桃子の『子どもの読書の導きかた』でくわしくなされているが、一方、代田昇、増村王子は、次のようにいう。
「(シナの五にんきょうだい)は、米国人が中国民話を再話したものです。この種のいくつかの類似した中国本来の民話には、もっと役人に対する風刺と抵抗の精神があります。(中略)あれでは、無実の罪を着せられる五人のきょうだいの死刑を民衆が役人に協力しています。真の民話なら、せめていく人かでも、無実ではないかと考える者もいるはずです。まして『シナ』という中国にとって屈辱のことばの本を、子どもたちの思い出の本にさせることにも、わたしは国際信義上いささか、抵抗を感ずるのです。」(「読書相談室」)
また、ぼくがこの本を子どもにすすめない理由は、次の通りである。第一は民話再話のあり方である。民衆の願望成就、あるいは代田のいう風刺、抵抗の精神が、こういう種類の民話にはあるものだが、『シナの五人きょうだい』では、話のはじまりとおなじ状態に帰るにすぎないし、また風刺も見られない。
第二は民衆を愚民視していること。村人ぜんぶが、長兄が子どもを殺したと、思いこむようになっているところだ。フランス生まれのアメリカ人である作者は、無意識のうちにアジア人をべっ視しているのではないか。
第三は絵の問題。民話の絵の場合、どの時代のどの風俗をとるかが、重要になる、満州族支配下で強制された髪型である辮髪スタイルの絵が、この民話に適当なものとは思えない。
第四、題名にある「シナ」ということば。英米では中国をチャイナというのだから問題ないではないか、という説もあるが、これは日本と中国との歴史、民族感情を考えない説だと思う。
つけくわえておくと、同種の民話として、絵本『王さまと九人のきょうだい』がのちに出版された。物語としては『巨人ニジガロ』の中の『六人の兄弟』がすぐれているのではないか、と思う。
この『シナの五にんきょうだい』評価に見られるちがいは、児童文学観のちがい、読書に何を望むかのちがいによっている。だから、このちがいは作品評価についての根本的なちがいだが、他の面で、評価の混乱がおこる場合もある。
それは、無益の混乱とでもいえるもので、創作を進めて行くための批評と、その作品が今日、子どもたちに対してどういう意味を持っているか、ということを同一視してしまうためにおこってくる混乱である。
たとえば、ぼくはこのおぼえ書の中で、戦争児童文学の欠点をいくつかあげた。しかし、そのことは、戦争児童文学が今日の子どもに対してはたす役割を、否定するものではない。ところが、それが全面的否定として受けとられる場合がある。同様なことが、ぼくが批判的に書いた『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』や『はたらきもののじょせつしゃけいてい』についてもいえる。
ある作品を材料として児童文学のあり方を考える批評と、その作品が現在の子どもに対してはたす役割とを、読書運動の参加者は混同しないでほしい、とぼくは願う。
この、いわば二つの評価は、ときとして、創作者と実践者の立場とに解消されやすい。六九年の夏、「日本子どもの本研究会」が開いた児童文化講座のパネル・ディスカッションの席上で、論争めいたものがおこったことがある。
戦争児童文学についてのぼくの発言が一つのきっかけになって、藤田圭雄と石上正夫のあいだにやりとりがあった。藤田が「現在の戦争児童文学にはまだすぐれたものがないから、他のさまざまの作品を子どもに与えたらどうか」という意味のことを発言したのに対して、石上は「すぐれた作品が出るまで、待ってはおれない。いまどうしても戦争児童文学をやる必要がある。藤田の考えは作家的な考えだ。教育の現場の立場ではそうではない」と、いったのである。
作家的立場と現場的立場ということは別にして、ぼくはこのふたりの発言は共に正当である、と思っている。「マラッカ海峡防衛論」などが出てくる今日は、戦後というより、戦前の様相を呈している。そこで、戦争児童文学をという声が出てくるのも当然である。一方、豊かな感受性と批判力を育てる作品を与えることによって、その子は戦争を批判することができるようになる、と考えるのも当然であり、この発言は、今日の子どもたちが太平洋戦争を作者と共通の体験として持たないところから見れば、さらに有効性を持つ。
だが、子どもがひとりで読むのではなく、教師や父母がその読書に参加するとき、様子はちがってくる。石上正夫は多年、戦争児童文学による教育を実践してきた教師であり、『子どもに戦争をどう教えるか』という本の編者である。こういう指導者が子どもたちの読書に参加するとき、作品は作品以上の力を発揮する。学校教育でいえば、教材にだけ力があるのではなく、教師によって教材は生かされる。教師の力がプラスされるのだ。
その実践があるからこそ石上の発言が出、その発言は生きる。そして、石上をその実践にかり立てて行った原動力は、やはり石上自身の戦争体験であろう。そこを原点として、石上の教育実践は成立する。
ここで、表現ということを考えれば、作家にとっての表現は作品であり、教師にとっての表現は授業であろう。教師自身の表現になっていない授業なら、機械が教師になる方がましである、作品も教育実践も共に表現であるという共通性を持ち、戦争児童文学の場合、その成立の原点となるものは、やはり戦争体験である。
こう考えるとき、作家的立場と現場的立場という区別は、もはや存在しなくなる。ぼく自身の創作についていえば、不完全なものであることを、ぼく自身承知している。だが、不完全であっても、今日存在する意味があるもの、とぼくは思っている。その点、ぼくはむしろ石上のいう「現場的立場」に近いのである。
いまあげた戦争児童文学論争は、さきにいった二つの評価の混同が、原因の一つ(それだけではないが)となって、ひきおこされたものと思う。読書運動を進めて行くために、この混同はぜひとも防ぎたい。
ところで、また『シナの五にんきょうだい』だが、これを高く評価する人びとのあいだでは、その「おもしろさ」が評価の重要な理由となっている。石井桃子は「私の家の図書室にくる子どもが、だれでもだいすきなお話が、いくつかあります。幼稚園から、小学六年生までがおもしろがるのです。左に、そのお話のなかから、一つあげてみましょう」(『子どもの読書の導きかた』)といって、『シナの五にんきょうだい』を紹介するのである。
読書運動は直接、子どもとかかわりあう。それは、児童文学にさまざまのかたちではねかえってくる。まだ少数の子どもとはいえ、子どもと作者のあいだに往復作用がひらかれつつあり、これは大いに歓迎すべきことなのだが、そのはねかえりがすべてプラスであると見てしまったら、あやまちがおこる。作者や、読書運動参加者の、はねかえり、受けとめ方の姿勢によっては、はねかえりがかえってマイナス作用をおこさせるのだ。
「おもしろさ」の問題は、その一つ、ことに重要な一つである。『シナの五にんきょうだい』について、母親や教師の集まりでぼくが反対意見を述べると、「だけど、子どもはおもしろがります」という反論が出る。おもしろい本イコールよい本、という考え方が、ある程度、ひろがっているのである。
その考え方は『シナの五にんきょうだい』支持層と反対層と、両方ともに共通なものである。ここで、慢性的不況の時代をふりかえってみると、いわゆる世界名作はのぞき、本の読める子どもたちは、たとえば『ヴィーチャと学校友だち』のように、岩波少年文庫を喜んだ。その後、福音館書店発行の翻訳絵本、『小さい魔女』に代表される低・中級むきの翻訳、というように、外国児童文学が子どもの心をつかんでいた。
ところが、この数年のあいだに、日本の創作が子どもに迎え入れられるようになる。読者の高まりと共に、日本の創作がそれだけ「おもしろさ」を獲得した、といえる。では、その「おもしろさ」の質はどうなのか。
石井桃子の『シナの五にんきょうだい』分析のなかに、次のような発言がある。「もう一つ、だいじな点は、このようなお話は、子どもをおもしろがらせながら、知らないうちに考えることを要求していることです。このお話はつぎつぎに、因果関係を追っているのですから、途中をちょんぎってしまうと、お話はなりたちません。このように、前のことが、つぎのことに関係があって、それでまた、事件が発展するというのは、一つのりくつであり論理です。子どもは、自分では知らないでも、このりくつをたどっていって、結末にきたのです。おもしろいお話でも、りくつのある話と、ない話では、なっとくのゆき方がちがうのでしょう。」
石井桃子のいう通り、これは「だいじな点」である。論理――作品の骨組みが重要であることを、彼女はいう。だが、この数年間の日本の児童文学の「おもしろさ」は、論理よりも、むしろ素材によっている。
日本の現在の創作の「おもしろさ」を肯定する人も、この石井分析を頭に入れておく必要があるのではないか。彼女のいう「因果関係」は作品世界の法則であり、ぼくはこの作品中のその法則には賛成できないが、一般論としては、その通りだ、と思う。でないと、「おもしろさ」に足をすくわれてしまう。素材を、ぼくたちはもっと論理によって構築していかなければならないのだ。ここでも、前にいった、二つの評価がつきまとうのである。
だが、今日の読書運動が抱いている最大の矛盾は、いままで何度もいってきた「小市民性」の問題である。読者の小市民的環境・意識から生まれる小市民的要求が、作者の小市民性を刺戟して、小市民的作品を生む、という循環である。いうまでもなく、商品としての児童文学作品では、その傾向はいっそう促進させられる。
ここを断ち切って行くのには、少なくとも、市民の思想に結晶していく作品が多数生まれなければならないのだが、現在の問題として、そうした作品はかならずしも多くはない、子どものどん欲ともいえる、本への欲求をみたしていくのには、実に多数の本がいる。
さらにまた、児童文学を国民のあいだにひろげて行くことを考えるとき、本を読まない子の方が、本を読む子より圧倒的に多い。そのことも読書運動が生まれた一因である。この読まない子どもたちを本にひきよせていく、そのとき、本はどうしてもおもしろくなければならぬ。ここではまた、小市民的作品群も利用されるのである。
小市民性を伸ばすぐらいなら、漫画・テレビの方がましだ、という意見もあるかもしれないが、そうとはいかない。漫画・テレビと、本とは機能のちがうものであり、また漫画・テレビにも小市民的なもの、前近代的なものが非常に多いのである。
いずれにせよ、ぼくたち、あるいはぼく自身が小市民であり、また読書運動には小市民層が多く参加していることを考えれば、ぼくたちは小市民の場から出発するよりほかない。
読書運動(3)――いくつかの問題点
だが、小市民的立場からの出発で、本をひろげることはすべて可能になるのだろうか。そうではない。読書運動の参加者は全国的に見れば、まだ数少ない。また、ある小学校PTAの調査では、本を読みたい子六〇%、読みたくない子四〇%であった。この読みたくない四〇%を、どのようにして本の世界にひきこむのか。
ここで、いくらか遠まわりしよう。ぼくは「おもしろさ」の項の中で、那須田稔が、少年週刊誌の漫画に目を輝かす子どもたちについて発言したことを述べた。この那須田発言が出た当時、ぼくはそれに異論をとなえたことがある。ぼくは次のように書いた。
「(ある母親の)発言で那須田氏は沈黙し、児童文学者はなんと子どもと遠いことかと感じる。だが、私から見れば氏は沈黙してはならなかった。この発言をきっかけに、今日の日本の出版企業と読書教育について語るべきだったのだ。たとえば『巨人の星』が百万の読者を持つのは、それが百万部発行の『少年マガジン』にのっているからという要素がある。作品そのものと関係のない、資本と流通機構との問題がここにからんでいる。」(『週刊読書人』一九六八年七月二二日)
那須田は引用の母親発言に対して、まったく誠実である。だが、この母親発言は一面では的を射ながら、一面では、あまりにも単純である。
この母親に代表される疑問は、今後もまだなお出てくるはずだ、ぼくはそれに対して、三つの答を出さなければならない、と思う。一つは、那須田が示した「瞬間のたじろぎ」にあらわれているように、現在百万の読者をつかみ得る作品を、日本の児童文学はごくわずかしか生み出していないことである。しかし、この点、第三の答と関係があるが、そのわずかの作品を無視してしまうことは、あやまりである。
第二は、資本、流通機構、PRという出版企業の問題と、読書教育が十分になされていない、ということである。
第三には、すぐれた児童文学作品の紹介である。実現不可能の仮定だが、もしも資本、流通機構、PRを同等においた場合、那須田への異論の中でぼくが例にあげた『青い目のバンチョウ』は、現在においても百万の読者を持つ可能性がある、とぼくは判断している。また、読書教育が十分おこなわれた場合、『だれも知らない小さな国』や『ちびっこカムのぼうけん』はやはり百万の読者を持つだろう。
読書教育について、もうすこしくわしく述べると、その不十分さは、読書運動成立の条件となっている。戦前を考えれば、読書教育はほとんど家庭にまかされていた。なるほど、子どもたちは最低必要な文字は、義務教育でおそわった。しかし、読書教育は受けなかった。
戦前の義務教育中、読書ともっとも縁の深かったのは、「読み方」である。しかし、一年かかって、あの薄っぺらな本二冊を読んでいくことで、読書の能力が身につくはずはない。もし、その「読み方」の力が基本となって本が読める、としても、子どもの生活の中に本がなければ、その力を育てていくことはできない。
戦前、読書教育がなかったのは、教育体系の不備ということも一つの理由だろうが、最大原因は、国家権力が、本の読める人間はある程度しか必要としなかったためであろう。鉄砲かついだ兵隊となる、それに必要なだけの文字が読めれば十分だったのである。
そして、戦前のその教育の不備は、今日においても、まだ解決されてはいない、読書能力がないところで、本が読めるはずはない。いわゆる大衆文学、大衆児童文学の成立基盤には、読書教育の不十分さが、重要な条件として存在している。
しかし、多くの親たちは、子どもが学校で一定の教育を受けることによって、一定の本が読めるようになる、と信じている。その考えがあやまりであることを、ぼくたちは親にしらせなければならないのだ。
そして、同時に、書き手の立場では、新しい大衆児童文学の創造へも踏み出さなければならぬ。今日の義務教育で最低の成績を取るような子も、やはりよろこんで読めるような物語をめざしてである。
しかし、それはただ、おもしろくおかしいだけのものではないだろう。椋鳩十は『母と子の二十分間読書』の中で、父のない家庭で母が失対事業に出ている子の読書のことをしるしている。つかれた母のまくらもとで、子どもが本を読む。母が目をあけて聞こうとするが、頭がぎりぎり痛む。ある晩、母はついに「こん夜は、もう、かんべんしておくれ」と悲鳴をあげる。
新しい大衆児童文学は、こういうところをくりこんだ物語でなければなるまい。
読書運動の前途には、まだまだ大きな問題がいくつもある。例をあげると、いままでの小売店方式とちがうブック・クラブが発足する。外資によるブック・クラブをもふくめて、それにどのように読書運動は対処して行くことになるのか。
また、七一年度実施の学習指導要領では、国語科の中で読書指導が重要な位置をしめることになる。この読書指導がはたしてほんとうの読書教育にあるかどうか。それと読書運動との関係はどのようになっていくか。
なお、読書運動の力が強くなれば、出版企業との関係が出てくる。それが読書運動内部に変質と腐蝕をもたらすきっかけになることもある。そこをどのようにしていくか。
別の面から見れば、今日、児童文学の批評は混乱し、衰退している、それに対して、読書運動はその内部から、子どもの反応の積み上げを基礎とした、新しい児童文学批評を生む可能性を見せている。しかし、作者と作品を生む可能性はまだ見せていない。
それは、本をすでに存在しているもの、所与の価値として受けとってしまう態度に、原因があるのだろう。一編の物語が生まれてくる過程に、運動参加者が関心をはらうようになるとき、新しい批評が成立し、作者と作品を生み出すようになるのではなかろうか。
そうなるには書き手と運動参加者がもっと理解しあわなければならぬ。親、教師の多くは、児童文学者は子どものための物語を書くものだ、と思いこんでしまっている。それが作者自身の表現である点は、深くは考えない。
こういう諸問題の基礎にあるのは、児童文学が国民のあいだに広く深く浸透していく――その意味をどのようにつかむか、ということであろう。鳥越信が以前に書いていたことだが、イギリスの推理小説では、スコットランド・ヤードの警部が難事件にぶつかり、「ふしぎの国に迷いこんだアリスのようだ」とつぶやく。こういう浸透をぼくは望んでいるが、しかし、それはいったいどういう意味を持っているのか、ということである。
これは、ただ子どものあいだに本をひろげることではない。その子ども時代の読書の経験が、おとなになっても生きていて、児童文学的思考とでもいうものをおこさせる――そのことではないか、と思う。
では、児童文学的思考とはどういうものか、ということになるのだが、このおぼえ書ではもうそこまで立ち入る余裕がない。ただ、手がかりとして、そのことばだけを出しておこう。
最後に、言論統制の問題がある。今日、児童文学の内部には、たとえば日本児童文学者協会の形骸化をめぐり、組織不要の論が出てきているが、このまま進めば、ぼくたちの言論の自由は、いま、とにもかくにも保証されている分より、はるかに後退させられていくことが教育の統制とからんで、目に見えている。
この圧力に対して、個人でたたかえるだろうか、児童文学の書き手たち、読書運動の参加者、それぞれの組織、団体が意見のちがいはこえて、この圧力に対しては、力をあわせて進んで行きたい。
テキストファイル化小林繁雄