『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969)

戦後児童文学史ノート


<1>

戦後児童文学の屈折を考える際、初期には食糧事情、現在に至っては読書指導の普及などの社会的変化を考えなければならないが、この稿ではそれにはふれないことにする。
 また、児童文学全集の普及や、少年雑誌、テレビ、ラジオについてもふれないことにする。叙述のつごうが悪くなればあっちに逃げこっちに逃げした結果、ごった煮的におちいってしまうのをさけたいからである。
 以上を前おきとする。
 戦後児童文学をぼくは三つの時期にわけることにしよう。その第一期はいわゆる良心的雑誌や児童文学運動の主体となった時期であり、敗戦の年からはじまり、昭和二十六年(一九五一)の『少年少女』の廃刊までとしておこう。
 以後数年間を第二期とし、第三期のはじまりを昭和三十三年(一九五九)八月におく。ここにおく理由は佐藤暁の『だれも知らない小さな国』の発行日付が三十三年八月であり、柴田道子の『谷間の底から』が九月、いぬい・とみこの『木かげの家の小人たち』が同年十二月となっているからである。
 以上三作品によって第三期を設定するのは、ここからはじめて戦争体験が考えられようとし、児童文学の戦後がはじまるからである。
 しかし、時代区分は多くの場合便宜的なものであって、新時代になっても旧時代はかならず生きのこっている。第一期を猪野省三の言うように(『日本児童文学体系』第五巻解説)昭和二十三年(一九四八)末までとしてもいいかもしれない。十年ひと昔というが、第一期と第三期を比較してみると、やはり一種の感慨がわく。第三期の作品で「童話」といわれるものは数少ない。童話から小説への移行が戦後児童文学史であった。童話というものが資質に依存することが多い形式であり、小説は力を失いながらもまだ普遍的な表現形式であることを考えれば、この移行は児童文学の解放である。第三期になって、児童文学は解放の道を歩きだした。
 だが、この解放の底にある思想は決して強力なものではない。現在は、長くてすこしおもしろい作品が書ければ、出版される時期である。この混乱をこえてのこるもの、のこさなければならないものを考えるとき、ぼくは第一期の諸作品につきあたる。
 いま、というより、何かのことにふれてうかびあがり、ぼくが歯がみしてつきたおしたい作品は、坪田譲治の『サバクの虹』(昭和二三)である。
 新安保条約が自然成立した日のしらけきった朝、国会議事堂のそばの道はものすごくだだっぴろい感じであった。堀ばたの道を学生たちが、三人、五人と帰っていく。
このとき、『サバクの虹』を思いだすのは当然すぎるほど当然のことだ。そして、いわゆる民主主義児童文学の作品群がよって立つ地盤の弱さがふたたび認識される。『サバクの虹』は子どもとおとなに共通の文学で、児童文学の形式的側面からの批評を加えることができる。だが、それにもかかわらず、戦後児童文学はこの一編が提出した問題をまだ解決していない。
 『サバクの虹』にあるのは不毛の廃墟の思想であり、それでいて奇妙なあかるさにみちている。これとほぼおなじテーマの作品は平塚武二の『太陽よりも月よりも』(昭和二二)である。『サバクの虹』はサバクの自然のいとなみのくりかえしであり、『太陽よりも月よりも』はサバクの孤児の出世と転落の物語である。
 それぞれの作品の結末は、虹はふたたび谷間にたたず、サバクの大王の墓はない、ということになる。その過程も結末も共通のものであった。
 おなじく廃墟を感じさせられるものに、『ビルマの竪琴』がある。この作品には甘さと退廃があり、その甘さのためにもっとも広く読まれる作品となったと、ぼくは考える。これは一種の大衆文学であり、教養小説であり、広く読まれる児童文学を創造しようとするなら、研究材料のひとつとして重要である。
 『ビルマの竪琴』にはストーリィと人間の生き方とムードがあり『サバクの虹』にはがんとして動かない実体だけがあった。思想という点でいえば『サバクの虹』の方がはるかに思想的である。だがこの実体―思想は坪田譲治のなかでも、平塚武二のなかでも成長しなかった。作者たちは偶然廃墟と出あったまま、そこを通りすぎていった。課題は今日にのこされた。
 その変形したよみがえりは『だれも知らない小さな国』にみとめることができる。その主人公はやけあとの廃墟に立って、『だれも知らない小さな国』を求めたのであった。しかし、『サバクの虹』が虹のたたない谷間を予想したのとは逆に、『だれも知らない小さな国』の谷間には、やはり泉がわいていた。『サバクの虹』は矮小化されたのである。
 解放の過程と平行して、矮小化、あるいは思想の拡散という過程があった。戦後の作家のなかでもっともどんらんな食欲で成長していった、いぬい・とみこさえ、『サバクの虹』の世界を自分のうちに吸収していくことができなかったと思う。

<2>

一般に第一期は良心的諸雑誌の発行と、民主主義児童文学の作品が多く出たということで、特徴づけられる。『赤とんぼ』(昭和二一―二四)『銀河』(昭和二一―二六)『子どもの広場』(昭和二一―二七とちゅう二五・一月から『少年少女のひろば』と改題)『少年少女』(昭和二五―二八)その他の雑誌である。
 こうした諸雑誌やセンカ紙の単行本またいわゆる民主的なおとなの新聞・雑誌で、児童文学者たちは活動した。筒井敬介の「コルプス先生汽車へのる」、岡本良雄の『あすもおかしいか』、平塚武二の『ウィザード博士』、関英雄の『銅像になった犬』など、いま読んでもそれぞれ当時の熱っぽさがつたわってくる。
 この熱っぽさということを、たいせつなこととぼくは思いたい。当時の民主主義児童文学の花ざかりをささえたものは、熱っぽさなのであった。熱っぽさといって悪ければ、精神の高揚であった。
 だが、高揚した精神はともすれば足もとを見うしないやすい。たとえば、児童文学体系第五巻の年譜の、昭和二十三年の頃に「無国籍童話及び諷刺的なナンセンステールの創作さかんになる―平塚武二、筒井敬介、小林純一、奈街三郎等」としるされてあるが、この諷刺の弱さを、今日ぼくたちはすぐ指摘することができる。
 奈街三郎の『サル三びきの物語』を読んでいて、ぼくはいらだつ。見ざる、いわざる、聞かざるを批判しているそのことが、かえっていらだたしいのである。そのとおりだ、だからどうする―問題はぼく自身にはねかえってくる。一九六二年の今日、自分のうちにある見ざる、いわざる、聞かざるは、外的批判だけではどうにもならないし、一方、見ていること、言っていること、聞いていることの真実を、つねにぼくはうたがわなければならない。
 精神の高揚がこの時期の作品を力のあるものにしたことと、それが同時に作品を弱くしたことを、ぼくたちはみとめなければなるまい。そして、民主主義的常識の伝達がなかなか文学にならないことも、当時出された問題のひとつとして残っている。
 この民主主義児童文学の花ざかりが、あっというまにたたきつぶされた原因は、今日ほぼ次のふたつであると考えられているようだ。ひとつは通俗ジャーナリズムの攻勢で、もうひとつは児童文学者内部の弱さである。
 児童文学者内部の弱さについてだが、いままでの批評はこの弱さはおもに児童文学者が子どもの心をつかむ技術を持っていなかったということにしぼられるようである。のち未明批判と重なりあってこの批評は出てくる。
 鳥越信は、戦争中、法令により不良文化財が追放され、いわばその保護下に出てきた児童文学者たちはジャーナリズムの競争に耐え得なかったという意見を出している。
 この意見はもっとも強い技術主義的意見だが、その一面、戦中児童文学と戦後児童文学との差のなさを言いあらわしたものとも考えられる。戦争中に出てきた人たち、関英雄や岡本良雄の代表作は戦中と戦後のこの時期に集中していて、戦中の作品と戦後の作品はほぼ等質である。
 もちろんひとりの作家がそう簡単にかわるはずがないということはいえる。しかし、ぼくは『サバクの虹』にたしかに戦後を見ることができる。戦前の坪田譲治には死への恐怖があった。くらやみをおそれる原始心性は『サバクの虹』の発想の根元ではあるが、彼はこの作品では死と生との交替をただみつめている。
 敗戦直後、廃墟は外的なものだけではなく、日本人の内がわにも存在していた。民主主義児童文学がこの廃墟を整地して建設されたものではないという答は、すでに出ている。当時の児童文学者の内部の弱さについて、技術的な面だけでなく、この主体の問題を見ることが必要だと、ぼくは思う。これは現在の新しい作者たちの問題であるからだ。
 そっぽをむきあった廃墟と民主主義のすきまに流れこんだのが、『ビルマの竪琴』や『ノンちゃん雲に乗る』である。「ノンちゃん」は児童文学の技術的な面と本質的な面との接点にある子どもの観察という点で、すぐれた作品であることはもう言うまでもない。童話派作家たちの作品とは異質であり、石井桃子は精神の高揚のかわりに、ある豊かさを持った実体を提出したのである。ノンちゃんは一種の理想像であり、その理想(空想)はひとつの像に形づくられて実体となった。
 一方、童話派作家たちはさけびはあげたが、そのムードに酔って、実体を提出することをおこたった。あるいは、童話というものがそうしたものであったかもしれない。そして売れた「ノンちゃん」の本は四七年の大地書房発行のものではなく、五一年に光文社から発行された本であったことに注意したい。世の中がいくらかおちついてきたとき、「ノンちゃん」は売れた。「ノンちゃん」の示す方向へ日本の社会は動いていた。これは民主主義児童文学の敗北を示すものであった。

<3>

この稿を書くため、あらためて『児童文学体系第五巻』と『新選日本児童文学現代編』と読みかえしてみて、もっとも強く心にのこったのは佐藤義夫の詩『ともだちシンフォニー』と与田準一の詩『すばらしい人間世界』であった。発表時期は昭和二十四年と二十八年。
 佐藤は人間と人間の信頼をうたい、与田は人間のすばらしさをうたう。そのふたりにそれぞれ『王さまのハンケチにはロバのししゅうがしてある』(与田、昭和二四)『百まんにんの雪にんぎょう』(佐藤、昭和二三)のように、人間を信頼しきれない作品があることは注意すべきであろう。
 こうした作品が児童文学であるとかないとかいうことには、ぼくはもう興味がない。ただ一時の精神の高揚だけでないものを、与田や佐藤や平塚は持っていたことを、ここにしるせばそれでいい。不信に裏うちされた信頼が発展しないうちに、良心的諸雑誌はつぶれた。
 創作児童文学の慢性的不況という時代がやってくるのだが、そのひところ不振停滞ということばも使われた。慢性的不況ということばをつくったのは菅忠道だが、その際彼は不況ではあっても停滞ではないと言った。その通りであって、この時期に、第三期への準備はすすめられていた。そして、その準備のなかですでに現在の弱い面をまねくものも芽生えていた。
 犬石真の『風信器』(昭和二八)国分一太郎の『鉄の町の少年』(昭和二九)いぬい・とみこの『ながいながいペンギンの話』(昭和二九同人誌『麦』。単行本出版は昭和三二宝文館)それいぜんの壺井栄の『二十四の瞳』(昭和二七)などの作品が、この時期には生まれている。しかし、その一編一編は孤立していて、第一期のような共通の時代精神というものはない。
 そして、『風信器』を童話の最後の作品とするなら、『ながいながいペンギンの話』は次の時代になって、創作者たちのあいだにしっかりと根をおろすようになる。
 『風信器』も『ながいながいペンギンの話』も同人雑誌に書かれたものであり、また山中恒の『赤毛のポチ』もそのころ同人誌に書かれている。のち『山が泣いてる』となった『ヘイタイのいる村』もやはり同人誌に連載されて、この時期にその原型をつくった。
 たしかに停滞ではなかった。この時期を細分してみると、早大童話会が『少年文学の旗の下に』を出した昭和二十八年九月以前と以後にわかれ、その以後の方は昭和三十二年の『コタンの口笛』(石森延男)発行でまた二つにわかれる。このまんなかの時期は批評時代と考えてもよい。
 創作不振のかわりに批評があり、この批評が技術主義的に流れていった結果が、次の時期に及んでいく。その批評は不振の現状から出発してその原因をさぐろうとし、未明伝統批判となった。やがてそれが『児童文学とは何か』ということに集約されていったとき、質の転換がおきた。児童文学の条件が吟味され、思想内容は論じられなかった。
 いや、論じられないことはなかった。『サバクの虹』には永遠と輪廻の思想がある。この日本的なもの、それに対するたたかいが童話否定の批評であったはずなのだが、批評する方も批評される方も、批評になれていなかった。この時期の決算のひとつに小著『現代児童文学論』(昭和三四)をあげることをゆるしてもらいたい。

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 第三期昭和二十八年に創刊された福音館書店の『母の友』は最初、学齢以前の幼児を持つ母親の雑誌であったが、昭和三十四年一月号から小学校一・二年生までの子どものことをあつかうように誌面をかえた。
 昭和三十四年という年は戦後児童文学の転機にあたる年であった。今日、創作児童文学の本をもっとも多く出している理論社が、その最初の一冊として、斎藤了一の『荒野の魂』を出したのも三十四年。
 『荒野の魂』もやはり戦争体験が創作動機のひとつになっている。『だれも知らない小さな国』『谷間の底から』『荒野の魂』『木かげの家の小人たち』とこの年の四作品にあらわれた戦争体験は、その後まだ発展していない。『だれも知らない小さな国』は失われた人間性を、少年時代の平和な生活を通してとりもどそうとしているが、佐藤暁の最近作『豆つぶほどの小さな犬』ではその思想は消えているのであり、「童話」への対決は不十分であったといえる。
 そして、和人対アイヌという『荒野の魂』の設定に加害者としての日本人の姿がある程度うかがえることをのぞいて、これからの作品はおのおの戦争の被害者としての立場から書かれている。その立場をもっとも強く文学化したのは『木かげの家の小人たち』であった。
 この作品を支えているものは、戦争はいやだという心情である。かつて、第一期の童話作家たちはこの心情をムードとして表現した。または心情を殺して観念的図式として出した。だが、『木かげの家の小人たち』は小人たちによって、その心情を具体化しようとする。
 『だれも知らない小さな国』もムードではなく実体を出そうとしたのであり、心情のこの具体化がファンタジイといわれるものである。そして、具体化ということは思想の形成にほかならない。
 だが、心情であるかぎり、加害者兼被害者としての日本人はとらえられない。実感をこえなければならないものが、やはり実感にたよっている。
 一方、『母の友』を中心とする幼年文学の技術の進歩はめざましい。その理論編とも見られる『子どもと文学』(石井桃子他著 昭和三五)には新しい童心主義の主張が見られる。かつての"童心"が美しく純粋であったのに対して、この童心は豊かさやあかるさやユーモアを内容とする。『ノンちゃん雲に乗る』は一時期孤立した作品であったが、その方法と理念は『母の友』にうけつがれ、瀬田貞二や渡辺茂男の創作翻訳とともに、現在の児童文学の重要な部分をしめることになった。
 ただし、瀬田や渡辺は別として、やはり矮小化の方向がある。石井桃子が「ノンちゃん」を戦時中書きつづっていたことは一種の抵抗であり、子ども社会のあるべき姿を戦時体制のなかで考えていたことなので、ここには未来への予見がある。だが、その後の彼女の作品及び『母の友』の寄稿家たちの多くには未来への予見はない。現状肯定のムードのなかで技術のたくみさだけに落ちている。
 三十五年に本になった『山が泣いてる』は共同創作という点でめずらしく、また生活記録の運動のなかから生まれてきたものとしてこれもまた孤立した作品である。『鉄の町の少年』にはじまる、社会的な文学の系列に属してすぐれたものだが、ここにもやはり実感への埋没があり、同時に生活記録の図式化がある。『鉄の町』がすでに図式化の面を持っていたし、その作者の国分一太郎がかつて『すこし昔の話』を書き、少年詩『胸のどきどきとくちびるのふるえを』を書いた、豊かな創作性は『山が泣いてる』では失われた。その図式化のもっとはっきりした例は鈴木喜代春の『北風の子ら』(三七年)である。
 おなじく社会的文学の図式的なものとして、吉田としの『少年の海』があり、社会的なものの存在はまだ弱い。この弱さの背後には児童文学の現在性とイデオロギーがどう必要であるかということの研究がまだはじまっていなかったことがあげられよう。
 批評がいかに無力であったかということの証明としては、『赤毛のポチ』を書いた山中恒が『とべたら本こ』(共に三五年に単行本)を書いたことがあげられる。子どもの生き方、またたくみなストーリィの展開と、土着的などん底のエネルギーをいきいきとした児童像のなかにもりこんだという点で、『とべたら本こ』は高く評価されなければならない。だが、その思想は『赤毛のポチ』の豊かさ―石井桃子たちの西欧的・市民的豊かさとはちがう日本人の根元的な豊かさからはずれて、はるかにプラグマチックなものとなっている。いかに生存競争を生きぬいていくかというエネルギーとずるさの方へ、この作品は傾斜した。
 もし支配権力に対するなら、ずるさは庶民のちえということになる。だが、それがただ人間対人間の関係に転化されたとき、ぼくは庶民万才、エネルギー万才の声をあげることはできない。
 そして、人間を生理的・動物的なものに還元していく方向は、子どもと親を等価値とすることであり、ここにもプラスとマイナスの面がくみあわされている。
 『とべたら本こ』に共通の思想をもつものとして、早船ちよの『キューポラのある街』がある。ここにもどん底のエネルギーと、生存のたたかいはあるのだが、社会と権力に対する闘争は出てこない。そして、ともにどん底という限界的な状況のなかで人間をとらえようとするところに、実存主義への方向が見られる。
 これはまさしく、戦後十五年たったのちの思想であり、この思想をどう発展させるかは今後の問題である。
 さて、ぼく自身の『ぬすまれた町』(昭三六)は"リアリズムでは処理しきれない現実を他の方法でとらえようとしたもの"であり、また『鉄の町の少年』の現代版を意図している。おなじく講談的歴史小説『うずしお丸の少年たち』は人間の欲望(食物への欲求から理想や好奇心をふくむ)から生き方を考えてみようとしたものである。これらをどのように戦後児童文学に位置づけるかは、ぼく自身のしごとではない。
 もう余白がないが、いぬい・とみこの『北極のムーシカミーシカ』は『ながいながいペンギンの話』の方法を発展させ、その西欧的な目を日本的なものに転化させている。友だちのにおいのする肉をくわなければならないものとして、人間世界を見る目に、ぼくは『サバクの虹』の目を見る思いがする。『サバクの虹』の呪縛はまだとけないのである。
 日本的「童話」との形式的な対決はおわった。のこるのは「童話」の思想との対決であり、それをとりこんで乗りこえていくことである。
(鑑賞と解釈 一九六二・一一月)
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