『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969)

童心主義の諸問題

〈1〉
 大正期後半の児童文学は、ふつう「童心文学」といわれる。菅忠道は次のようにいう。「童話・童謡という言葉の歴史は古いが、大正時代には、新しい意味をこめて復活された。それは、この時期に芸術性をゆたかにした児童文学を、おとぎばなしや唱歌と区別するためにとなえだされたものであった。その童話・童謡が『童心の文学』として主張されていたので、文芸精神や創作の態度・方法を概括して、童心主義といい、その運動を童心文学運動と呼びならわすようになっている。」(『日本の児童文学』)また関英雄によれば、「大正後期(大正七―十五)の九年間は、正しく『童心文学開花』の時代である。」(『児童文学大系第二巻解説』)
 そして、大正期児童文学といえば『赤い鳥』の名がすぐに浮かびあがり、「赤い鳥は、おとぎばなしから創作童話への転機を画する仕事は果たしている。桃太郎主義を乗り越えて、童心主義の芸術運動を展開する、主導勢力となっている」(阪本一郎『赤い鳥代表作集初期』付録)ということになる。
 このいわば通念となっている大正期(後半)児童文学イコール童心主義、そして『赤い鳥』イコール童心主義という見方を、ぼくは疑う。
 「童話流行の風潮に乗って、安易に書きなぐる人も多かったなかに、童話の創作に良心をうちこみ、社会的現実と対決していた作家もいた。作品実践が童心という枠をのりこえて、童話という形式がもっとも有効に生かされている作品を、このような仕事のなかにみることができるのである」と菅忠道はいい、『一ふさのぶどう』と『赤いろうそくと人魚』をその例にあげ、さらに芥川竜之介の『白』もつけ加える。つまり、菅氏は大正期児童文学の主要な流れを、「童心」と規定すると共に、童心のわくをこえたものの存在を認めている。
 この考え方を延長して、ひとつひとつの作品について、これは童心主義にはいるか、はいらないかを検討してみたらどうだろう。たとえば芥川の『くもの糸』『杜子春』は童心主義なのか、どうか。宇野浩二の『春をつげる鳥』や『ふきの下の神さま』は童心主義かどうか。相馬泰三は、山村暮鳥は――というやり方である。そして、ぼくには、こうした諸作品が童心主義だとは思えない。だから、ぼくは大正期児童文学の特徴を「童心主義」ということばで概括することに、不満を感じる。
 ということは、童心・童心主義ということばの内容のあいまいさも大いに関連している。ぼくは次のように書いたことがある。「ぼくにとって、童心主義の典型は英国の空想童話である。ピーターパンはウェンディの心の中に住んでいる。そして、いつまでも成長しない。ここでは、おとなの世界と子どもの世界は断絶している。波多野完治は、童心主義の児童観を資本主義の最盛期になってからのものとしている。童心主義は日本特有のものではなく、資本主義的近代に普遍的なものである。(略)日本の近代童話には、空想童話――典型的な意味での童心主義は存在しない。(略)ぼくは現在の日本児童文学不振の理由のひとつを、童心主義の不徹底としたい。」(『猪野論文に関するノート』小さい仲間八号)
 そして、ある時、鳥越信に童心主義の典型的な作品は何かとたずねると、彼も即座にピーターパンと答えた。前述のぼくの文章は数年前のものだが、今日、ぼくは自分に童心主義の典型的な作品をあげよ、といわれると、ハイジや小公子をあげたい誘惑にかられる。ただし、これは誘惑にかられるのであって、ハイジ、小公子、ピーターパンというものこそが童心主義であると、他人におしつけ、またそのことが日本でいわれてきた「童心主義」の概念をいっそう混乱させることはさけたい。
 ただ童心主義ということばの拡大、あるいは成長は、鳥越やぼくのところでは以上のようなところまで及んでいるという、ひとつの例である。その一方こういう使い方もある。
 「私は、日本の児童文学を弱くしている大きな原因のひとつに、意識的にか無意識的にか、いまだなお私たちのあいだに尾をひいている童心主義の亡霊をあげたい。」(猪野省三『日本児童文学』一一号)
 この猪野のことばは、ぼくの前述の文章と同じ時期、一九五四年に使われたもので、同一時期においても、「童心主義」ということばの使用法はまったくちがっている。この使用法のくいちがいには、児童文学史への見方の差も作用しているのだが、何にせよことばの内容のくいちがいははなはだしい。そこで、ぼくはこの小論の目的を次のように定める。
 1 大正期後半児童文学の特徴。
 2 童心・童心主義ということばの意味。

〈2〉
 大正期は児童文学の幼年時代である。日本児童文学がいかに貧しいにしても、幼年時代には多くの可能性の芽ばえがある。今日の児童文学に失われ、やせ細ってきた可能性として、ぼくは説話的形態と、それの内容であった空想をあげたい。
 空想ということばは誤解を招くかもしれないが、未明や広介に空想があったとは、ぼくには思えない。彼らにあったのは、現実を象徴としてとらえる方法でしかない。
 たとえば、ここに『一夜の宿』という山村暮鳥の作品がある。一九二四年(大正一二)のものだが、あらすじは次の通り。歩き疲れた旅人が農家をみつけて泊めてもらおうとする。庭で薪を割っているよぼよぼのじいさんに泊めてくれという、じいさんは台所にいる自分の父にきけという。台所には、いっそうとしよりのじいさんがいるが、そのじいさんは座敷にいる父にきけという。座敷のじいさんは、縁がわにいる父にきけ、縁がわにいるじいさんは、寝床にいるじいさんにきけ、寝床のじいさんは、うば車のなかにいる父にきけ、うば車のじいさんは、角笛のなかにいる父にきけ。角笛のじいさんはなかなかへんじせず、一番どりが鳴き、二番どりもなく、その時、やっと「いいとも、いいとも」という声が角笛のなかから出る。そこで山海の珍味が出、食事がすむと、ぶったまげるほどりっぱなしとねに案内されるが、旅人がそこにはいったかと思うと、三番どりが鳴いて、しらじらと夜があけた。
 この作品の発想も内容も完全に説話である。おそらく外国の民話に取材したものと思われる。このような空想は今日の日本児童文学には見あたらない。これは意味のないほら話の系統に属するもので、『ちびくろ・さんぼ』のなかの、虎がとけてバターになるという発想も、ほら話の近代的変型であり、つまり『一夜の宿』が成長すれば、今日、ぼくたちも日本の『ちびくろ・さんぼ』を持ち得たものと思う。
 およそ、いかなる国でも子どものものの読物は、まず伝承されてきた説話であり、その説話の子どもむけ再話から児童文学がはじまる。ペロー、グリム、アファナーシェフ、そしてアンデルセンの初期のものが民話に取材していることを考えあわせよう。日本では、巌谷小波がまずそのしごとをやったわけだが、彼の場合、民話の採集という事業がともなわず、また江戸小説の方法を抜けていない。大正期の児童文学は小波の江戸小説的なものをすてて、彼のしごとのやり直しという面を持っている。
 未明、広介、また宮沢賢治のしごとを除く当時の作品を見れば、それらは、ほとんど説話的なものである。説話というものは、神話、伝説、民話など、文献・口碑によるあらゆる伝承の総称だが、大正期の児童文学作品を説話的と感じるのは、説話には珍奇な物語が多い。珍奇・諧謔・滑稽というようなもの、つまり人生との関連よりも子どもにとっておもしろいというものが、大正期には多いのである。さらにその話の展開は物語的であって、ストーリィは起伏に富む。伝承的な説話の持つ内容・構成と共通したものを持つ作品を、ここで説話・説話的と呼ぶわけである。
 こころみに、こうした作品の書きだしを書きぬこう。

  まだ天子様の都が、京都にあったころで、いまから千年も昔のお話です。(一郎次、二郎次、三郎次・菊池寛)

  むかしある村に、貧乏な小商人がおりました。(どろぼう・久米正雄)

  むかし、京都に博雅という笛ふきの名人がいました。(ふえ・小島政二郎)

  いまはむかし、もうずっとむかしのことですが、北海道にコロボックルという、みょうな神様がすんでおられました。(ふきの下の神様・宇野浩二)

  むかし、猟をするのに火縄銃の使われでいたころのことです。(むじなの手・中村星湖)

  むかしペルシャの国に、ハムーチャという手品師がいました。(手品師・豊島与志雄)

 以上、いずれも『赤い鳥代表作集・初期』からの書きぬきだが、すべてが「むかし」の話である。すくなくとも『赤い鳥』初期(『赤い鳥代表作集・初期』には創刊の大正七年七月より大正十二年末までの作品が収録されている)は、童心というより説話の時代であったのだ。
 この説話的なものははじめ、珍奇な話だけに終わっている。『なめくじが蛇を食べた話』(江口渙)は、寝ている蛇のまわりをなめくじがひとまわりして銀色のねばねばで取りかこんでしまう。次にはその輪を小さくし、蛇がとぐろを小さくしていくにつれ、その輪をちぢめる。蛇は死にその死がいの上にきのこが三本できる。そのきのこのつゆをなめくじは吸ったというグロテスクな話である。ただグロテスクなだけでなく、なめくじが蛇のまわりを歩く時の両者の関係は実にユーモラスに描かれているのだが、その内容はめずらしい話ということに止まっている。
 こうした内容のめずらしさを超えて、説話は発展していこうとした。宇野浩二・芥川竜之介の作品は説話発展の方向に向かっており、それとはちがった角度から、秋田雨雀・浜田広介は説話の変革を行ない、それは広介において完成されたと、ぼくは思っている。
 芥川の『くもの糸』は仏典あるいはロシヤ民話によるものといわれている。つまり翻案的要素を多分に持っているものであり、珍奇な物語であるという点、そのストーリィの展開という点で、やはり説話的なもののうちにはいる。芥川は、この説話的なもののなかに思想と、新しい文章技術とを持ちこんだ。『杜子春』においてもそうであり、人生的内容を持つ説話が誕生した。
 宇野浩二もまた人生的内容を説話に持ちこんだ。宇野・芥川の説話的諸作品は、説話が持っていたおもしろさというもの、またその物語展開の上に人生を語ったもので、今日のいわゆる興味性から見れば、生活童話やメルヘン的なものより、ずっとおもしろい。この系統も発展しないで今日に至っている。説話的展開をとる作家としては、のちに新見南吉・平塚武二もいるのだが、彼らの場合、宇野・芥川の系列の豊かな発展とは考えられない。
 秋田雨雀には、説話と、いわゆるメルヘンとの混合状態が見られる。説話は当然、伝承的なメルヘンをなかに含んでいるものだが、ここでいうメルヘンは幻想・象徴的な創作メルヘンのことである。『仏陀と戦争』はまったく説話的であり、『太陽と花園』『白鳥の国』は象徴的であって、物語そのものよりも、話の奥にある内容に重点が置かれる。説話は物語であるために、そのなかには時間の流れがあるが、『白鳥の国』は現実の断面であって、時間は存在せず、物語そのものには意味はない。
 説話のこの転換には重大な意味がある。いわゆるメルヘン――空想物語(ファンタジー)とは異質の日本的なメルヘンの誕生が、ここに見られるのである。そして、雨雀が広介の『花びらの旅』を読んで、日本にもこういう童話を書く人が出たかと感嘆したということには、象徴的な意味がある。物語そのもののおもしろさを失った詩的メルヘンが、以後、日本の児童文学の主流に置かれるようになる。説話『こがねのいなたば』から出発した広介の童話は、一見、物語性に富んでいるが、その本質は詩であり、自己主張であって、時間的過程は存在していない。青木茂の『智と力の兄弟の物語』は正当な評価を受けないで埋もれ、ピノッキオやアリスは生まれないで終わる。
 未明にも説話的なものの断片は見られる。『牛女』は、民話に取材したものであり、一夜の旅人という登場人物は、元来、民話の産物であった。
 大正期児童文学は、説話文学(散文)の発展の時期であり、説話は十分な開花を見ないうちに、未明を中心とする詩的メルヘンに敗北する。それと共に、空想と物語への可能性も、芽生えのまま立ち枯れたのである。

〈3〉
 大正期に説話時代を想定することは、さらにくわしい実証の過程を要するが、三重吉の『古事記物語』は、アファナーシェフの神話研究、アンデルセンと同国・同時代のグルントウイの北欧神話への関心などと、史的には同じ位置に置かれるものと思う。そして、この説話時代の想定は「童心」ということばの使用法によっては、大正期を童心文学時代とする考え方と、かならずしも矛盾するものではない。
 童心ということばがあいまいなのは、児童観と、創作の主体・方法とが混用されているからである。いうまでもなく、童心ということばは大正期童謡の基本的なことばであった。それは菅忠道のいうように「文芸精神や創作の態度・方法」を概括したことばである。この童心主義の攻撃・否定がプロレタリア児童文学から始まったことも、周知の事実である。槇本楠郎は次のようにいう。「私は斯る曖昧模糊たる『超階級的童心芸術論』に従うことは断じて出来ない。何故かなら、第一、私は彼等の規定するが如き『子供』を信じない。」あるいは「彼等・既成童謡詩人」たちは、口を極めて児童の「天真」を説き、童謡の「童心芸術」たることを力説した。即ち児童は純真無垢、恰も天使(エンゼル)の如き超階級的崇高なる存在であり、童謡はその水々しい歌だと定義し、それ以外のものは断じて「童謡」ではないと論断したのである。」(『プロレタリア童謡講座』)
 この槇本の見方は、童心を児童観と解釈している立場からのものである。
 この見方は当時以後の教育界に拡がっていく。今日、戦後生活綴方第三期の代表作といわれる『村を育てる学力』の著者、東井義雄はかつて槙本楠郎氏にしたがえば、「童心なるものはプチブル・インテリ層の児童の無邪気さあどけなさに過ぎなかった」(百田宗治編 綴方教程 童心主義への訣別)と書いた。山形の綴方指導者、村山俊太郎は「童心主義とは芸術至上観の上に立って子供の心を徒らに純真無垢なもの、神聖なものとみるイズム」の復活とし、鳥取の妹尾輝雄は童心主義を次のように分析する。
 1 子供は未完成の大人ではない。それ自身完成された全体である。
 2 子供の世界は大人の社会とは別に存在する筈である。
 3 子供の思想と行動は、最も自由なものであり、他からの束縛を拒む。
 4 大人の意識からして、子供を指導することは出来ない。(百田宗治編 綴方教程 童心至上主義への批判)
 童心主義を児童観としてとらえる立場は、以上のようにマイナス面を強調する時代を経て、今日では、次のような考え方が定説になっている。「子どもに即しては、自発性の原理を尊重して、自由教育の立場をとっていることである。こうした童心主義を、歴史の流れのなかでみるとき、疑いもなく進歩の役割を果たしているといえる。子どもに人間性を認め、子どもの心に特殊性を認め、子どもの心に自由で創造的な成長を期待するというのは、封建的な児童観や古い教育観に対するアンチ・テーゼである」(菅忠道)
 この説に従いながら、童心主義を児童観としてとらえた時、説話時代という設定は、その児童観とどのような関連を持ってくるのか。教訓が影をひそめ、物語そのもののおもしろさが説話時代の中心になった事実を見れば、説話時代は子どもへのおしつけを避けた、児童中心の時代のさきがけであったといえる。しかし、子どもの喜ぶものという前提はありながら、その内容は、諧謔・滑稽・珍奇というようなものにすぎない。
 だが、説話に新しいものを盛りこんだ芥川は、その死の前日まで書いていた『西方の人』のなかで、聖書の「若し改まりて幼な児の如くならずば天国に入ることを得じ」をひいて「クリストはこの言葉の中に彼自身の誰より幼な児に近いことを現している。(略)『幼な児の如くあること』は幼稚園時代にかえることである。」と書いた。
 この場合の芥川の考え方は、いわゆる童心主義――子どもを理想の人間像と見る考え方である。未明は次のようにいう。「子どもの時の心程、自由に翼を伸ばすものは他にありません。また汚されていないものもありません。少年時代程、率直に美しいものを見て、美しいと思い、悲しい事実に遇うて悲しく感じ、正義の一事に対して感憤を発するものは他にはないのです。」(『私が童謡を書く時の心持』)
 芥川は未明とほぼ共通の児童観を持っているのだ。あるいは、持とうとした。そして、こうした児童観こそ、後世の批判を受けたものであり、芥川の説話の敗北は、ここにも現われている。
 だからといって、こういう児童観を持つということが、かならずしも、児童文学の質を規定するものではない。『ハイジ』や『小公子』には子どもを汚れない、理想の人間像とする考え方が明確に出ており、その考え方は作品の価値とはある程度、無関係である。プロレタリア児童文学論のあやまりは、児童観をただちに児童文学に結びつけたところにあった。問題は児童観よりも、方法であったはずだ。

〈4〉
 童心ということばは、童謡・教育・童話の三領域にわたって用いられた。野口雨情はその著『童謡と童心芸術』のなかで、教育の実際についてふれている。「児童の村(註・東京池袋にあった自由教育の学校)は、志垣寛氏を主宰として、野口芳兵衛・峰地光重・平田のぶ子其の他諸訓導がいられます。明星学園は、赤井米吉氏が園長として、霜田静志・照井・山本其の他の諸訓導がおります。両校の教育方針は余程相似たものがありますが、前者は芸術に対する自由に基礎を置いて児童の天賦性を尊重することにつとめ、後者は児童の天賦性に基礎を置いて精神の芸術化につとめられているように考えられます。」
 ここには童心教育の方法が述べられている。童心ということばはこのような方法を含んでいることばであった。
 白秋はいう。「私はよく童心に還れといった。然し此の意味はただ児童の無智をよしとする謂ではない。ことさらに児戯を模し、児童に阿る謂ではない。真の思無邪の境涯にまでその童心を通じて徹せよというのである。恍惚たる忘我の一瞬に於て、真の自然と渾融せよと云うことである。」(『童謡私観』)このことばは創作の態度、方法について述べているものだが、さらに白秋は童謡には「大人自身の純真性の発露より自然にその童心が童謡の形式を持って顕現したもの、子どものためのもの、大別すれば二つとなる」という。また「詩人は殊に此の童心を豊かに保存している。更にまた童謡作家としての資格はこの童心に最も富んであらねばならぬ筈である」という。
 童心は、ここでは児童文学者の資格として考えられている。童心は創作の主体なのである。童心を児童文学創作の主体として見る時、説話時代の想定は、それとほぼ同一の時期を童心文学開花の時期とする考え方と、完全に矛盾し、対立する。芥川や宇野浩二その他多くの人びとの説話が「大人自身の純真性の発露より自然にその童心が顕現したもの」として受けとれるだろうか。説話は、おとなが子どもに与える立場で書かれたものであり、「詩人の感興がおのずからにして童心童語の歌謡を成した。そうした作品(『叡知と感覚』)」とは、まったく質を異にするものである。ぼくは、大正期児童文学一般に童心主義のレッテルをはることには、賛成できない。
 ぼくは、さきに童心を児童観として見れば、童心時代と説話時代はかならずしも矛盾しないといった。そして、たとえば豊島与志雄の『てんぐ笑い』には、ぼくは子どもの空想と説話との融合を感じる。にもかかわらず、大正期児童文学を童心時代とすることに反対なのは、童心ということばのさまざまの内容のうち、児童文学を創作主体とする見方がもっとも重要だと思うからだ。童心ということばを創作主体と限定して、童心時代あるいは童心文学の開花の時期ということばを使えば、説話的な多くの作品はそのレッテルに該当しないからである。
 童心主義のレッテルに反対のことを前提として、その創作主体としての童心の内容に立ち入ろう。童心の主張は、一般文学からの児童文学の独立、または童話というジャンルの存在の主張と見ることができる。この時代の童心の内容によって、現在の児童文学も規定されている。
 童心の内容は、まず郷愁である。未明は「何らかの連想によってすでに少年時代に失われた日を取り返すことができればどんなにか幸福なことでありましょう」と述べる。白秋は次のようにいう。

  私の童謡は幼年時代の私自身の体験から得たものが多い。
  ああ、郷愁! 郷愁こそは人間本来の最も真純なる霊の愛着である。此の生まれた風土山川を慕う心は、進んで寂光常楽の彼岸を慕う信と行とに自分を高め、生みの母を恋うる涙はまた、遂に神への憧憬となる。此の郷愁の素因は未生以前にある。この郷愁こそ依然として続き、更に高い意味のものとなって常住私の救いとなっている。(『童謡私観』)

 郷愁ということばもあいまいなことばであり、少年期の体験・少年期を追憶する幻想・故郷の山河への愛と、さまざまのものを含んでいる。幼少年期の体験と取れば、その体験をモティーフにしたものは、藤村の『幼き者へ』から始まって、有島武郎の『一ふさのぶどう』千葉省三の『虎ちゃんの日記』がある。だが、童心につながる郷愁は体験そのものではない。郷愁は甘美なものを含んでいて、『一ふさのぶどう』は郷愁の作品ではなく、藤村もまたいささか質を異にし、典型的なのは千葉省三であろう。
 昭和初期の酒井朝彦、くだって新見南吉という郷愁的なものはさておき、大正期童心文学は、白秋を代表とする童謡、未明・広介の詩的メルヘン、千葉省三の郷愁的童話の三つに大別されよう。そして、彼らに共通の童心は、尾関岩二の定義を借用すれば、「児童時代の精神活動の痕跡である。」
 ここで、ぼくは尾関岩二の『童心芸術概論』(昭和七年刊)にふれなければならぬ。この書物の理論的水準は決して低いものではなかろう。彼は明確に、童心を創作の契機にかかわるものとしてとらえた。彼によれば「童心とは成人心理の中に、消え残っている児童時代の心理生活の痕跡である。童心は誰の心にも、気づかれない様にひそみかくれている所の児童性である。」
 しかし、彼はこの童心の発動の仕方については語らない。ぼくたちは坪田譲治の意見をきいてみよう。
  「未明の『赤いろうそくと人魚』広介の『むくどりの夢』のような作品はどう真似ようたって真似の出来るものでもなく、これを学んで、これ以上に出ようたって学ぶことのできるものでもない。これは生まれながらの詩心に咲き出たる美しい一つの花のようなもので、自然の力を待つ外はない。
  これに比べれば、北原白秋の傾向からは此後尚多くの作家の生まれ出ることが予想される。これは彼の制作の秘密が外にあるからである。対象が幼年の心にあるからである。」(『児童文学の早春』)

 未明は童話をもっとも自分に適した表現の型式として選んだ。広介の作品は自己慰安に満ちている。強烈な原始心性、あるいは児童性を、ぼくたちは彼らの作品に発見することができる。彼らの場合、怒りなら怒り、願いなら願いの直接的な自己表現がそのまま童話になっている。「生まれながらの詩心」ということばと子どもは天成の詩人であるということばと考えあわすべきであろう。
 坪田譲治が「詩心」ということばを使ったのは偶然ではない。塚原健二郎は、日本の児童文学者の童話に対する考え方として、「ただ一つの共通していることは、その本質が詩精神と象徴性にあるということである」(『童話文学論』)という。童話における童心文学の大半が詩的メルヘンであったことは、実に不幸なことであった。というのは、未明童話を例にとれば『金の輪』に書かれているのは、恐怖を基調をする原始的なものの感じ方である。これは対象のある恐怖ではなく、子どもが闇を恐れる理由のない恐怖である。『牛女』は自分の子どもを愛する母というより、子どもにしつようにつきまとう悪霊である。『野ばら』にも一種異様なふんい気がたちこめている。
 ここで未明童話の機能を考えれば、いわゆるヒューマニズムとか愛とか正義とかいう表面的な解釈を越えて、未明童話がもっと強力に働くのは、読者の心の深層に埋もれた原始心性の喚起である。暗い恐怖感・気分・ふんい気が読者の心のなかに発生し、読者はその処理の方法を知らない。未明童話は人間全体――その知識・経験・感覚のすべてに訴えるのではなく、そのうちに原始的感覚の部分にだけ、主として働きかけるのだ。そして、広介童話は情緒的ふんい気の喚起を主とする。詩というものは、人間のうちのある部分を鋭く突きさすが、全体を動かし、人生への態度を形成させるというまでにはいかないものだ。
 未明の童心は単に児童時代の精神生活の痕跡であるだけでなく、人類の発達の痕跡をとどめている。それを未明自身は知らなかった。白秋の「郷愁の因は未生以前にある」ということばは、童心の内容のなかに、人類発達の痕跡があることを、詩的直観でとらえたことばではなかろうか。そして、白秋は子どもの実相を観察した。『童謡復興』は子どもを描いた文学として、すぐれて高いものである。未明・広介が自身の童心をだけ書いたのに対して、白秋は外界の子どもと共通の童心を歌ったのである。そして童謡の白秋に対応する作家を童話に求めれば、ぼくは千葉省三をあげたい。未明・白秋にくらべて、スケールは小さいが千葉省三には「児童の心理を描く作家」を生む可能性が含まれている。
 大正期の児童文学をふりかえると、当時まだ生まれていなかったぼくにも、感慨めいたものが湧いてくる。詩的メルヘンに対応して、散文に発展し、豊かな空想を築く芽生えを持っていた説話は消え失せ、少年期の体験によって子どもの心を語る『一ふさのぶどう』も『虎ちゃんの日記』も芽を吹かなかったのだ。
 そして、詩的メルヘンが以後、日本の児童文学の主流になり、その影響は今日の同人雑誌の作品の形態の大半を決定し、潜在的には、散文であるはずの生活童話にも浸透して、今に至っている。機能としては、ふんい気の喚起にとどまるこの詩的メルヘンは、外界とつながらない作家の童心の自己表現という方法の所産であり、したがって、その作品の質は、作家の童心の強弱に完全に支配される。譲治のことばをかりれば、学ぶことのできないものであった。それが、児童文学の中心になったところに、今日の不振の原因がひそんでいる。
 未明・広介の意義を認めないわけではない。ただ彼らの位置の決定と共に、消え去った可能性を児童文学史の上に探しあてることが必要であろう。
(新選日本児童文学大正編・一九五九・三月)

テキストファイル化田代翠