『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969)

マンガをばかにするな

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 児童文学を児童文学のなかでだけで考えることは、ばかげたことです。児童文学は文学という領域のなかの一分野ですし、同時に児童文化のなかの一分野です。だから、児童文学を考えるとき、おとなの文学の動きや、おなじ子どもあいての他の芸術のことを考えにいれなければならないのは、ごくあたりまえのことです。
 ところが、このあたりまえのことがいままであまり考えられていなかったようです。たとえば、児童文学の本は作品とさしえとの両方からできています。さしえは児童文学にとっては、非常にたいせつなものなのです。だが、さしえ論というようなものもほとんどないようですし、ある本が 何かの賞をもらったときにも、さしえ画家の努力はたいしてみとめられていません。
だから、童画、さしえの動向などにも児童文学者はあまり気をつけていません。一番近い関係にあるはずのさしえでもこうですから、マンガやラジオドラマに気をつける人は、けっして多くはないようです。
 原則的に言いますと、ひとつの芸術ジャンルの方法はかならず他の芸術ジャンルの方法から影響を受けます。影響されることを断固としてこばむということもふくんでのことです。
 児童文学が他の芸術と関係なく孤立していくということは、児童文学がやせ細っていくということです。そこで、外国児童文学の方法を輸血しろ、その他、いろいろの処方せんが持ちこまれます。他の芸術ジャンルの方法をとりいれることは、ひとつにはやはり輸血の意味です。
他の芸術ジャンルではありませんが、近代文学の中心であった小説の方法でさえも、なかなか日本の児童文学のなかにはいってこなかったのです。生活童話というものはあり、私小説的な児童文学作品もあることにはあります。だが、作中人物の性格がはっきりえがかれていて、首尾完結しているという本来の小説的なものは、ほとんど生まれなかったようです。私小説的なものでさえ、善太・三平だけで終わった感じです。
 いまやっと、小説的なものが出てきはじめましたが、ひと口に小説といっても、さまざまのものがあります。
 谷崎潤一郎に『乱菊物語』という作品があります。未完のもので、これが未完におわったことは、日本の児童文学の未熟さを、おとなの文学の側面から暗示していると思いますが、その問題はさておき、『乱菊物語』は華麗な幻想の物語です。
 時は室町末期、明の貿易商張恵卿は二寸二分四方の金の箱におさめられた、十六畳づりの羅稜のかやを、はるばる海を越えて日本に運んできます。播磨の国、室の津の遊女“かげろふ”の笑みを買うためです。
 この船が室の津近くまで来て、夜の海上で、白装束、緋のはかまの上ろうに出あいます。たたみの上にすわるようにして水の上にすわった、この上ろうはたもとをひらいて船をさえぎり、船も金の箱もゆくえ不明になるのが、この物語の発端です。
 全編、はなやかな色彩に満ちていて、うららかな瀬戸内海が目の前に浮かび(リアルな瀬戸内海ではなく歌舞伎ふうに着色された瀬戸内海とでもいいましょうか)、ことに小五月の祭の日、さじきをもうけて見物する人びとのあいだを、白衣のかげろふの行列が行き、その上の青空にハトが羅稜のかやをひろげる場面など、その色どりの美しさ、はなやかさは実にすばらしいものです。
 そして、人くい沼、馬のしりにもぐってしまう幻術師、馬とあしかのあいのこの水陸両用の動物にまたがる男など、空想の産物が出てくるのも、この物語の特色のひとつです。
 そして、話のすじが波らん万丈、ということになれば、『乱菊物語』は通俗物、いわゆる大衆文学になりかねないものです。ところが、すこしも大衆文学(この際大衆文学ということばは具体的には吉川英治や川口松太郎の諸作をさしてのことです)と感じさせないで、文学を感じさせるところに、この物語が提出しているもうひとつの問題があります。
 しかし、ぼくはここではその問題についてはふれないことにします。この小論は児童文学と他のジャンルとの関係を考えることが、テーマですから。
 おなじ文学という領域のなかで、児童文学をおとなの文学と対比させてみることは、じつは愚にもつかないことです。だが、『乱菊物語』から児童文学が学びとることができるものは、非常にたくさんあるはずです。
 そして、この関係を逆にすれば、おとなの文学が児童文学から学ぶということも当然出てくるのですが、文学の動きに影響を及ぼすほどの児童文学作品は、わが国ではまだほとんど見られないようです。

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 『乱菊物語』から、ぼくたちはたとえば八犬伝的な空想と物語の展開を学ぶことができますが、しかしこれは日本文学一般の到達点からぼくたちが学ぼうとすることが少ないから、もっと注意してみたらという公式的な見方にすぎないかもしれません。児童文学を文学一般のなかで考えれば、児童文学はもっと豊かなものになると、いうことなのです。
 この公式・原則にくらべて、マンガははるかにアクチュアルな問題を、児童文学に対してぶつけています。
 もちろん、マンガ家の大多数はそれとは知らず、編集者も児童文学者も、それとは知らないようです。
 だが、ぼくはマンガのすぐれたものは、児童文学のはるか前方を進んでいるという感じを持っています。
 たとえば、手塚治虫の『白いパイロット』は、ネズミと呼ばれて地下要塞で太陽の光を見ることなしにはたらかされている、どれいたちの物語です。そのどれいたちがある日、脱走しようとします。その脱走に気がついたメロ中佐は、門の外でどれいたちをとらえるように部下にささやきます。そのささやきをどれいのひとりが耳にしますが、彼は指揮者の大助にもそのことをだまっています。
 どれいたちに銃火があびせられ、いきをひきとるとき、このどれいははじめてメロ中佐の計画はわかっていたと、言います。
「なぜだまっていたんだ」という大助。それに答えて、「どっちにしても殺されるんだ。おれはひと目、太陽を見て死にたかった」と、そのどれいは言うのです。
 このようにストーリィに還元すると、甘い感じがしますが、しかしこの情景が映画のなかの一場面で出てくると考えてみた場合、そのシーンはぼくたちの心を打つものです。同様にマンガという条件が、ここでは最大限に生かされて、ぼくの胸はきゅっと痛みを感じます。
出口のないところで、出口を求めているのが現代ではないかと、ぼくは思っていますが、手塚のマンガのテーマはつねにこれです。いや、手塚だけにかぎりません。貸本マンガに見られるハードボイルド調は、人間が生き方を見失ったところから、生まれてきたものではないでしょうか。
 石森章太郎の『勇気くん』の主人公、柏勇気は見るからにスマートな少年です。転校してきた『勇気くん』がみんなに紹介されたとき、女の子たちはぼうっとなって、彼をみつめます。
 無用の暴力はふるわず、らんぼう者におそいかかるノライヌはかたっぱしからやっつけ、希望を失ったボクサーにはわざと負けてやる、この理想的な少年の『勇気くん』に欠けているものは、母親です。
 『勇気くん』はさっそうとした活躍ののち、ガールフレンドのゆかりが母親のところへかけて行くのを見て、なみだをこぼします。
「ぼくには、なぜおかあさんがいないんだ」
 ところで、マンガのおもしろさのひとつはページをあけるたびに、新しい絵とコマ割りが一度に目にとびこんでくるところです。マンガは見ひらき二ページが一単位になっている、と見てもいいものです。この見ひらき二ページごとの変化は、ほかの芸術には見られない、マンガ独特の方法です。
 母をこいしがり、元気をなくして父親のうでのなかにたおれこんだ『勇気くん』の姿が出てきて、ページがかわります。
新しいページをひらいて、ぼくがどきっとしたのは、『勇気くん』が大きなベッドの上にねて、目をつむり、その腹がひらかれ、腹のなかの機械が見えていたからでした。『勇気くん』はじつはロボットでした。
 現在の社会機構のなかの機械の発達は、人間をロボット化しています。『勇気くん』はこの実体をつかんで、ぼくたちの前に提出しています。
このロボット、『勇気くん』の場合にも、出口はありません。社会の行きづまりをもっとも敏感にとらえているのが、マンガというジャンルだということが、言えるでしょう。
 もちろん、『スポーツマン金太郎』のようなマンガもあって、マンガすべてがそうだというわけにはいきません。しかし、表面的には善画悪画にわかれていても、そのタッチや、こまはこびや、二ページごとの転換や、絵そのものは、善悪の対立をこえて、現代の行きづまりを示しているものが、多いのです。

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 『勇気くん』も『白いパイロット』のマルス王子も孤独な存在です。おなじ手塚の『0マン』の主人公リッキーは、人間の世界でそだてられた0マン族のひとりです。人間と0マンとのたたかいをくいとめようとするリッキーの努力はむなしく、そのリッキーもふくめて0マン族は金星へ移住します。人間が人間をほろぼしてしまうか、それとも栄えていくかを、金星の上から見ていこうという結末は、信頼したくても信頼できない人間どうしの関係があらわれています。
 ひとむかし前の孤独とはちがって、ここにある孤独はことばの通じあわない孤独です。おのおのの善意というようなものは、なんのやくにもたちません。
 こうした現代が、なぜ児童文学にはとらえられないのか、それがぼくにはふしぎです。いや、あることにはあります。与田準一にも佐藤義美にも、それぞれの部分を深くつっこんだ作品があります。それが子どものものとなっていかないのは、この作家たちの世界がきびしすぎるためだけでしょうか。
 たしかに「きびしさ」がこの作家たちの読者を少なくさせる条件になっています。たとえば佐藤義美のものは一種のスリラーですが、しかしこのスリラーの質は松本清張よりも、より深く暗いものです。
 この「きびしさ」にたえることができる読者が少ないことは、いうまでもありません。
 しかし、「きびしさ」だけではなく、ほかにも条件があります。マンガの方に物語性があり、児童文学の方にはなく、マンガの方に個性的な主人公があり、児童文学の方にはないというようなことです。
 だが、いうまでもなく決定的なことは、マンガは絵を材料とし、児童文学は活字を材料としているということです。一度にぱっと目にとびこんでくる絵と、一行一行、ことばを追っていかなければならない活字とのちがいが、読者の多少をきめます。
 しかし、絵ーー菅忠道のことばを借りれば画像ですが、この画像のはたらきはふつうに言われるように、画像の方が見やすいから、考えることもいらないから、という受身のはたらきだけではありません。
 ぼくはさきに『白いパイロット』を例にとって、活字で表現すれば甘い世界としか考えられないものが、映画の『白いパイロット』の場合には、強烈な感動を与えると、言いました。
 西部劇のことを考えれば、このことはいっそうはっきりしてきます。西部劇の原作となっているのは、ほとんどすぐれた小説ではないようです。西部劇という、映画の中の一領域はあっても、西部小説というほどのものはないのです。
 だが、西部劇の名作といわれるものは、やはりぼくたちの心をとらえます。『駅馬車』も『シェーン』も『荒野の決闘』も、それを見てきた人たちの心には深く感動をうえつけています。
 今日のマンガをふくむ、大衆的な児童文化・文学の伝統が、未明・『赤い鳥』以来の児童文学の流れに対して、出している問題はまだほとんど未解決のままです。主人公のたくましさとか、正義感とか、ユーモアとか、起伏のある物語とか、こうした問題が未解決のままでいるところに、未明以来の児童文学は、新しいマスコミ文化からもまたべつの問題を出されたのです。
 画像をふくむ、映像的なものーーこれが芸術の受け手を多数つかみ、そのはたらきはときとして活字以上に強烈であるという問題に、ぼくたちは直面しているのです。
 こうした状況ーーマンガのほうに現在性があって、そのはたらきは強力だという状況(作品の質はべつにしてテレビの持つ力が大きいという状態)のなかでは、ぼくは自分のしごとにうたがいを感じることがあります。ぼくはいままで児童文学の批評をおもなしごとにしてきましたが、児童文学といわれる本の書評や、現代児童文学の課題というようなものを書きながら、ぼくはとまどったり、むなしさを感じたりします。
 多くの児童文学書はぼくをたのしませてくれません。いや、たのしさということばは誤解されがちです。大げさにいえば、文学的感動とでもいうのでしょうか。そうしたものを、ぼくは現在の児童文学作品にほとんど感じないのです。
 批評というものの本来的なありかたは、自分と作品との対決でしょうし、自分と社会との対決だと、ぼくは思います。
 自分をゆすぶる作品がなければ、過去の名作をあいてにするよりほかないし、過去の名作には現代社会はとらえられていません。そして、文学はかつてのように人間だけをあいてにするものではなく、社会をあいてにするものになってきています。正確に言えば、ぼくは人間だけを書いた作品には動かされないと、いうことでしょうか。
 以前にくらべて、最近は児童文学の創作単行本も多く出ていますが、しかしその実体はぼく自身の作品もふくめて、意外にさびしいものなのです。もちろん、量が出なければ質の向上も望めませんが、同時にあせりがなければ実験もまた出てこないでしょう。

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 マンガが児童文学につきつけている問題は、ひとつは活字によって表現されていく文学というものの特殊性をどう生かすかという問題です。
しかし、これからただちに文学の読者は少数になっていくのかもしれないという結果をひきだしてしまうことは、問題を未来にずらしてしまうことになります。また活字はのちのちまでのこると言うことも、現実を見ていないことばです。単行本はべつにして、児童雑誌は消もう品です。機械の発達はテレビ・ラジオのすぐれた作品をのちのちまでのこすことになるにちがいありません。
 その上、後世までのこる作品をぼくたちがどれだけ書くことができるかといえば、疑問です。名作といわれ、古典として将来にまで通用するものは、ごくかぎられた数の作品でしかありません。
 文学の特殊性をどう生かすかという問題は、それ単独で解決できるものではなく、マンガが出している、もうひとつの問題といっしょに考えるべきでしょう。
 もうひとつの問題というのは、マンガというジャンルがなぜこうまでさかんになったか、ということです。その答はさきに言いましたが、マンガには現代の行きづまりがあらわれているからです。マンガに出ている不安や危機のムードは、推理小説全盛のムードと対応しています。マンガというものは、田河水泡のことばによれば「醜に近いもの」(日本読書新聞・一九六一・六・一二)であり、世界じゅうでもっともマンガのはんらんしている国は、アメリカと日本のようです。そして、おそらく映画的、ストーリィマンガは日本独特のものでしょう。
 マンガの持つ現在性を児童文学も持つ、べつの角度から言えば松本清張的なものを持つ、ということが必要だと、ぼくは思います。
その際、ぼくたちは「文学」をすてなければならないでしょう。きびしくもなく、タイハイの底からあげるうめきもない中間的なもの、これこそがもっともタイハイ的なものです。もしぼくたちが自分と社会とに責任を持っているなら、「文学」のまぼろしを追うことよりも、自分と社会に対して発言しなければならないことのほうが、さきにくるはずです。
 そして、現代がマスコミ時代であるということは、ことばが信用ならない時代だということです。映像も画像もことばによって認識されるものですから、ことばのはんらんはじつにすごいものです。
 ぼくたちの心は十重二十重にことばによってかこまれており、自分のことばだと思っているものが、じつは既成のことばにすぎないということがよくあります。
 この重なりあったことばの壁をくだくためには、人間をもっとも深いところからゆすぶらなければなりません。全人間的な感動をおこさせるもの、そうでなければ強烈なショックを与えるものが必要です。
 スリルやサスペンスというようなもの、これらはすべて生理的なものです。今日、あらゆる芸術は、生理的な刺激をともなう感動をひきおこす方向へ動いてきています。この動きは、その芸術自身の総合芸術化への動きだと見ていいし、そうならなければ他の芸術に自分の領域を占領されてしまうからです。
 マンガの新しいページをひらいたとき、読者がどきっとさせられるということ、この方法を児童文学のなかに持ちこみたいと、ぼくは思っています。ぼくが山中垣の『とべたら本こ』に興味を感じるのは、その主人公の生きかたが、同時に作品の方法をきめてしまったかっこうで、生理的な違和感をぼくに与えるからです。
 そして、大衆的なものはお涙ちょうだいの涙腺刺激からはじまって、手に汁をにぎり、いきをつめるというように、すべて生理的な反応をおこさせるものでした。違和感は一種のショックであり、この点、古い大衆的なものとはちがいますが、全人間的な感動というものは大衆的なものに深く根をおろしているものではないでしょうか。
(未発表 一九六一・一一月)
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