『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969)

現代っ子と最近の児童文学

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 「現代っ子と最近の児童文学」というタイトルは不正確かもしれない。これからぼくが書くことは、いわゆる“現代っ子”が児童文学をどうけとっているか(全然読まないということもふくめて)ということではない。このタイトルはとりあえず、児童文学にあらわれた“現代っ子”というほどの意味である。
 それではなぜ「児童文学にあらわれた現代っ子」というタイトルにしないのかといえば、これからあつかおうとすることは、作品の方法をふくむ。古い方法で“現代っ子”があらわれるはずがないし、また“現代っ子”というものは、たえまのない変化をくりかえしていて、何々にあらわれたというように、静的なものではない。ぼくは“現代っ子”という風俗をとらえたいのではなく、“現代っ子”のうちから生まれる作品の方法と、“現代っ子”とを、相関関係のなかでとらえてみたい。
 たとえば、長崎源之助に『ハトは見ている』という少年小説がある。この作品には風俗的な“現代っ子”があらわれる。ハトを買う金を作るため、ノボルは自分が毎月とっている少年雑誌を友だちに一冊五円で貸す。それが学級会で問題となった。「子どものくせに本をかして、お金をとったり切手の売り買いをするのは、よくないと思います」という意見が出てくる。これに対して、ノボルはなぜ悪いかと反論する。
 このノボルの姿は十分“現代っ子”的である。貸本屋は十円で貸しているのに、ノボルの貸本料は五円。貸す人も借りる人もトクしているのに、なぜ悪いかと、ノボルは思う。第一おとながやっていることを、子どもがやったら悪いというのは、なぜなのか。
 だが、ぼくはノボルを“現代っ子”的だとは思っても、“現代っ子”とは思わない。“現代っ子”も過去の子どもも人間である。これはたしかに人間だという力を、ノボルは持っていない。『ハトは見ている』は現在の子どもの風俗の上を流れていった。
 作品中の“現代っ子”の前提には、あるいは同時にだが、現代がなければならないのはいうまでもない。『ハトは見ている』は人間としてノボル、またその弟を書くことに失敗しただけではなく、現代をとらえることに失敗した。
 さまざまの方法が同時に存する以上、作家が成長すれば、やがてノボルを人間として書くことができるようになる。だが、そのことと現代をとらえることができるかどうかということは、また別問題だ。
 それが“現代っ子”となるとまためんどうだ。現代イコール“現代っ子”とは、ぼくには思えないからである。だから、ぼくはカッコつきで“現代っ子”と書いた。
 カッコつきで書く理由をもうすこしくわしく言おう。“現代っ子”ということばそのものは、ある児童観にささえられている。この児童観ということばのなかみも不明瞭なものだが、児童観が人間や社会に対する見方とつながっていることはたしかである。作家の場合、これは方法となって出てくる。ことに“現代っ子”をとらえる場合、方法が大きな位置をしめる。
 方法が重要だというのは、紙面にあらわれた結果からだけでは、“現代っ子”の問題は考えられない。阿部進は『現代子ども気質』のおぼえがきのなかで、この本を読んで「ショックを感じてほしい」という。また「読んだ人によっては何かちがう別の世界の子どものようにとる人がいるにちがいありません」と書いた。
 効果を計算するこの方法によって、“現代っ子”はささえられている。この方法は感情移入の方法とはちがう。文学でいえばカフカやカミユ、日本のものでは安部公房の作品の方法である。
 だから、“現代っ子”のことを考える際、いまの子どもの風俗的現象だけで考えることはできない。阿部進がえがきだす子どもは、都会の子どもの生態だという考え方はさけなければならぬ。とらえる人の思想・方法とからみあったものが“現代っ子”なのだ。

<2>
 “現代っ子”的考え方は阿部進ひとりのものではない。ぼくが“現代っ子”を見る作品は山中恒の『とべたら本こ』であり、早船ちよの『キューポラのある街』である。またその考え方は大河原忠蔵の「状況認識の文学教育」にもあらわれていると思う。
 阿部進のしごとを頂点として、以上三つのしごとがはたしつつある役割は非常に大きい。「状況認識の文学教育」が一般化されていないだけである。だが、どのしごともまだプラス・マイナスというか、その可能性や欠点があきらかにされていない。この小論はそれをはっきりさせていくぼく自身のノートのようなものである。
 先日、ぼくは雑誌『教育科学国語教育』で阿部進の民話教材研究にぶつかった。彼はそこで文学教育のもっともよい教材としてシナリオをあげる。「わたしは今日、もっとも教師たちが手がけなくてはならないのは、現代感覚を身につけ、現代的映像的文章表現によるシナリオ作家たちの作品であると思う。簡潔な文章と文章の空間、そこから、引きだすイメージ、それが子どもたちにとっていまもっとも必要なものだと思う」と、彼はいう。
 ぼくはさきに阿部進の方法としてショックを与えるということを、とりあえず出しておいたが、これと共に映像的表現が阿部の方法の特徴だ。そして、この二つは切りはなせない。
 阿部は「ここに出てくる子どもたちはきわめて、ノーマルな子どもで、勉強もしっかりやっています」(『現代子ども気質』)という。そのノーマルな子どもの生活のなかから阿部はいくつかの断面をとりあげる。
 ノーマルな部分が切りおとされて出てきた、その断面は映画のクローズアップである。子どもの生活のある部分が拡大されるのだ。人間の顔のクローズアップが画面いっぱいになり、皮フの表面の毛穴が見えていくとき、ぼくたちにはそれが人間の顔とは感じられなくなる。そこまでの効果を阿部の著書は持っていないにしろ、根本的にはその方法は同じなのだ。そして、その結果がショックである。クローズアップされたものは、かならずしも「現代」ではない。阿部があげる“現代っ子”のなかには、今日に至って出てきた子どもの変化と、過去にもあったものとが、両方出てきている。
 両方があるということは、阿部進が過去を見なかったということと同時に、現象を並べて行く際に選択がおこなわれたということである。『子ども気質』のおぼえがきで、阿部はこの本は「子どもの現況」だというが、この現況のなかには、阿部自身の価値判断がはいっている。だからこそ、ある部分が拡大される。
 もちろん、阿部でなくても、だれかが何かを記述する際、選択がはたらくのは当然だ。だが、阿部の本はアップにつぐアップである。従来の選択の場合はひとつひとつの現象をつないで行く論理が重視される。この連続して行く論理を阿部はすてた。またはすてようとしている。さいごにショックをおくということは、連続の論理からは出てこない。
 連続は一方では完結を予想しているもので、おわらない本というものはありえない。だが、阿部の本はおわってはならないのである。読者がショックをうけ、違和感をおぼえるということは、自分という存在の不たしかさを知ることである。読者はいやでもおうでも主体としては状況に直面しなければならぬ。
 ショックを予定し、だから連続の論理をすてるとき、選択は阿部進の主体による。ということは城丸章夫の言うように「阿部氏の恣意に従属せざるをえない」ということになる。

<3>
 ひと口にいえば実存主義――それにささえられているのが、“現代っ子”である。ささえられているというのは、“現代っ子”を語る人びとの思想が実存主義的だということだ。その目で見る場合、そうでない子どもの現象も実存主義的なものとしてとられる。だが、また子どものなかに実存主義的傾向が出てきているのも事実である。

 が、ぼくは最初にあげた阿部進ほか三人の人たちを実存主義者だとは思っていない。阿部がもし徹底すればその方向に行きつくということであり、その際阿部は子どもを完全なオブジェとしてぼくたちの前に提出するだろう。阿部の方法をクローズアップといったが、それよりカメラが対象に近接していく記録という方が正確なのである。
 山中恒の『とべたら本こ』には、この対象に近づいたカメラの手法が効果的に使われている。

 主人はだまってタバコの煙をはいた。でっぷり太って赤ら顔の耳の穴から毛がはえていたし、はなくそみたいなはな毛が束になってまっくろくはなの穴からつき出していた。そのはなのわきにパチンコ玉ほどの黒いイボがあった。カズオは何だかそれだけでもうこの主人が気にいらなかった。

 主人は、酒やけした赤黒いひたいをひからせ、大げさに笑った。どれもこれも、まっくろなタバコのやにのついた歯だった。しかし主人は急に笑うのをやめてカズオの顔をじっと見た。

 映像的な文章である。あとの方の文を例にとると、笑っている主人の姿がある。つぎには歯のクローズアップ。そして、カズオの顔を見るという変化なのだ。
 『とべたら本こ』が現代を感じさせる一つの理由は、この映像的方法のためだが、これに関連して人間が生理的なところでとらえられる。「カズオは何だかそれだけで、もうこの主人が気にいらなかった」というふうにだ。「母親ののどが、ゲボッと変な音を立てたと思ったら、もう顔つきが変っていた。母親は身ぶるいして、犬のように涙をふりとばすと、いきなりカズオをおさえつけた。」
 そして、ショックというものは生理的なものだ。文学作品を読んでぼくたちが感動する際、その感動は心のなかにうちよせる、またはわきあがる波のようなものだ。その波のなかに心身をひたして行く感動と、ショックとは異質である。
 阿部進は生理的違和感を本がおわったところに予定したが、山中恒はそれを作中に書く。そして、それはそれでまた読者に違和感を与える場合がある。恐怖にゆがんだ人間の顔のクローズアップを見る時、ぼくたちはただ芸術的感動にだけひたっているわけではないのである。
 山中のこの方法は彼自身が意識していないため、作品全体には及んではいない。“現代っ子”的思想は、方法と同時に主人公のカズオの姿に見なければなるまい。エネルギーとずるさ、かわり身の早さをカズオはそなえている。
 「大きくなったけものたちが、時には、親とも命をかけてたたかうというのをきいて、なるほどと思った。カズオも命こそかけないが、たたかっているようなものだった。弱いけものは、強い敵をあざむき、だましながら生活していた。それが弱いもののたたかいであるなら……。」
 これが『とべたら本こ』の中心思想である。現代っ子たちはいつもたたかっている。そのたたかいのやりかたはま正面からぶつかって玉砕するというやりかたではない。彼らのたたかいかたはゲリラに似ている。
 そして、児童文学(通俗的なものをふくめて)のなかでのたたかいはほとんどの場合、悪に対するたたかいだが、『とべたら本こ』のたたかいは主人公カズオの生存のためのたたかいである。ふつうにいう、生きて行くためのたたかいということではない。動物的な世界にまでおりてのたたかいだ。
 だから、特殊な状況が設定される。物語のはじまりは競馬で大穴をあてた父が警官に護衛されて、裏長屋に帰ってくるところだ。家出した吉川カズオは電車のなかで出あった婆さんに山田カズオにされてしまい、その家に連れて行かれるが、この婆さんは十二匹のネコといっしょに土ぞうのなかでくらしている。
 この関係にはいわゆる人間的なものは全然ない。婆さんとむすこ夫婦とカズオはそれぞれが利用しあい、だましあう。
 おたがいがおたがいを人間としてあつかわないのだが、それだけのことなら同種の作品がほかにもある。だが、それに作品の方法、文体がからみあう。さきにあげた「はなくそみたいなはな毛」とか、「タバコのやにのついた歯」とかいう、対象に接近した描写は対象を物体化してしまった表現なのである。
 この表現はデフォルメされた表現と考えられやすいが、これを生みだすものは前に言ったように映像的方法である。特殊な状況というものも実はクローズアップの変型である。
 この方法によって、人間の世界は動物的生存の世界としてとらえられた。動物的エネルギーがこの作品には満ちているのである。
 この作品でもうひとつ注目しなければならないのは、吉川カズオが山田カズオになり、山田カズオが高橋カズオになって行く、一種の変身物語だということである。典型的な児童文学では主人公は成長する。だが、カズオは成長しない。カズオは新しい状況のなかになげこまれると、その状況に自分を適応させ、また自分につごうのよいように状況をかえて行く。これは成長ではなく、変身である。
 もっともこの作品は第三章の「高橋カズオの物語」でハッピーエンドになり、この第三章でカズオは悪とたたかうようになるが、この文章は前二章にくらべていかにも薄手である。つまり話のつづまりをつけるためにできたような章なので、このカズオの変身の物語は完了していないといえる。無限の変身が予想されるのである。
 この無限の変身にはかなり実存主義への傾斜を見ることができよう。またプラグマチズムを見ることもできよう。

<4>
 裏長屋という設定、また親と子の相剋、家出に近い状態という点で、『キューポラのある街』は『とべたら本こ』に似ている。
 『キューポラ』にも安直なヒューマニズムはない。「ハトを飼っているタカユキくんの気もちを、だいじにしてあげてください」とタカユキの教師の花村は言ったが、タカユキにとってはハトはかせぐためのものである。
 子どももかせがなければならない状態をあわれだと思わせるような書きかたは、この作品にはない。えがかれるのは全力をつくして生きている子どもの姿である。
 だが、その全力のつくしかたはこれも典型的な児童文学のなかの子どもとはちがう。カズオと同様にタカユキも成長しないのである。子どもには無限の可能性があるということ――これがおとなが児童文学を書く動機の中心になっている。名作といわれるほどの作品にえがかれた児童像はほとんどが完全な人間のたまごである。もちろん、ここでいう完全は優等生的完全ではない。欠点も魅力となる完全である。トム・ソーヤー、『少年探偵団』中のエミールなど、全人間的発達が児童文学の前提になっている。
 カズオにもタカユキにもそれがない。彼らはただ状況を生きるだけである。そして『キューポラ』がこのようなところに到達したのは、自然主義的な方法のためであり、児童文学ということをたいして考えなかったためであろう。
 『キューポラ』にえがかれたのは、作者の実感の世界である。川口に住み、川口で行動している作者の観察の結果である。その実感の世界のなかに作者はおぼれこむ。
作者はだれの生きかたを否定し、だれの生きかたを肯定しようとしているのか。
 この物語にも完結の論理はない。しかし、『キューポラ』が完結していないということは、『とべたら本こ』が完結していないということとは、質がちがう。『キューポラ』の場合は完結をめざしながら、完結しなかった。この物語の表面的完結がそれを実証する。「意外、意外と出てやろうと思った」という山中恒の考えかたは、早船ちよにはないのである。
 作者が実感する世界のなかで、子どもたちは全力をつくして生きている。彼らはおとなと同様に一人前の存在としてとらえられた。可能性を持った人間としてではなく、現にそこに存在するものとしてとらえられた。
 タカユキにくらべて姉のジュンには成長があるが、その成長ははじめてのメンスという生理的なものによっている。また出産を見たという経験。ここにも動物的なものへの還元がある。『とべたら本こ』のなかのことば、「大きくなったもの達が、時には、親とも命をかけてたたかう」という世界がまた『キューポラ』の世界の底辺をかたちづくっている。

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 人間性の回復ということばをきくとき、ぼくはいつもとまどった気持になる。回復ということは、一度あったものをとりかえすということだ。回復というより、新しくつくって行くという方が正しいことばなのではないかという、単純なうたがいだ。
 その意味で『とべたら本こ』や『キューポラのある街』が動物的な世界にまでおりて行ったことは、すぐれたしごとだと、ぼくは思う。人間はいうまでもなく動物なのであって生存競争のなかにほうり出されている。個体の生存ということが人間の行動の根元なのだ。
 大河原忠蔵はその状況認識の文学教育中で次のように言った。「マルクス主義の認識論が、主として、客観的反映論によって構成されているため、この主観的能動性という領域について、ほとんど知ることができない。玉城素氏は、この点を鋭く取り上げ、その主観的能動性の内部構造として、肉体の諸器官の欠乏感覚(たとえば空腹)からくる衝動・衝動から欲望へ・欲望から利害へ・利害から価値意識へという体系がありうることを指摘している」(日本文学協会編・河出書房発行『教師のための国語』中“文学教育の課題”)
 ぼくは玉城素の意見をこれ以上には何も知らないが、ここに紹介されたかぎりの考えにはさんせいだ。この本を読む前に、ぼくは自著『うずしお丸の少年たち』のなかに、これと同様の考えを書いた。
 そして、不十分な知識だが、大河原の言うようにマルクス主義の認識論には主観的能動性があまり出ていないように思う。“現代っ子”はそれとはちがって、主体的なものとして出てきたその主体の構造の根元が動物的なものにあることを、阿部進も『とべたら本こ』も『キューポラのある街』も示している。だが、衝動から欲望へ・欲望から……価値意識へという体系はまだ成立していない。以上三者のうち、阿部進に一種の方向があるだけで、『とべたら本こ』も『キューポラ』も、せいぜい欲望のところでとどまっている。
 そして、価値意識は欠乏感覚からだけ生まれるものではない。逆に豊かさからも生まれてくる。それがふつう人間性といわれるもののように、ぼくは思う。たとえば好奇心とか冒険欲とかいうものだ。
 “現代っ子”にあらわれた、実存的傾向はその主体のとらえかたで動物的なものとつながり、この資本主義社会をどう生きて行くかという面にだけかたむいて行く危険性を持っている。たとえば、ショックを予定することは、効果を計算することにだけおきかえられ、たくみな演出だけをやるというところにまでダラクしかねない。
 そして、実存的傾向のなかで連続の論理が無視されるとき、その主体がよっぽど強烈なものでないかぎり、自分につごうの悪いことはふりすてられる。かわり身のはやさもまたその方にダラクしかねない。
 実感的な『キューポラのある街』に出てくることでわかるように、この傾向は自然成長的である。また大河原のことばを借りよう。「新型車に夢中になる生徒は、新型車のハバに、意識を調節する。新型車のハバより意識がはみ出ていないから、新型車に夢中になる(流行を追う)ことの無意味感といったものがまったくない。また新型車のハバより意識が萎縮することもないから、「新型車の持てない身分」についてなやむより、新型車に乗るチャンスをつかむ工夫をする。運転免許証をとるためなら、学科の勉強には一度も示したことのない集中力で準備をする。
 “現代っ子”の実存的傾向が映像の方法と結びついていくのは映像が対象を物体化していくからだ。大河原のことばのなかには、人間の物体化そのものの問題があり、この方向は実存的傾向の動きのなかで、もっとも注目すべきものだと思う。

(現代教育科学・一九六二・一〇月)
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