3 戦争
戦争の虚像対真実
<1> 腹にひびく不快感
少年週刊誌の表紙をみるとき、ぼくは異様な感じにうたれる。腹にずしんとひびいてくる不快感が、それにともなう。同時にそう快さ、くやしさ、腹立たしさ−。
少年週刊誌の表紙はほとんど飛行機(戦闘用の)、軍艦、戦車である。たとえば『少年キング』九月二十五日号(一九六三)の表紙は、戦闘機メッサーシュミットを機上につんだユンカースJU88で尾翼にハーケンクロイツのマークがあざやかである。
同じ日付けの『少年サンデー』の表紙は日本陸軍の九七式戦車改、『少年マガジン』は巨人の柴田だが、そのマガジン前号は、空を指さす少年航空兵である。
これらの表紙群からうける異様な感じは、いったい何なのか。ぼくは先にそう快さも覚えたといった。そのそう快さに心はしびれる。降下していくユンカースの下方はるかに、ビルディングの群れが煙に包まれ、火をふいているのだ。
しびれる心の中で、記憶とはいえないほどの記憶がよみがえる。同じような表紙があったな。そう思うと、不快感はたちまちからだいっぱいひろがってしまう。
だが異様な感じはこの不快感と底の方でつながりながら、ちがうものだ。ぼくをとりまく、世界の一部にとつぜんさけめを発見した感じである。口では太平ムードはけしからんとかなんとかいいながら、いつのまにか、世はこともなくすぎていく、このにせものの世界の表皮をひっぱがしてみせてくれるのが、少年週刊誌の表紙である。
このさけめのむこうに、ぼくはぎらぎら輝く赤土の砂漠を見る。中学校二年生のぼくの毎日は赤土をもっこにになって飛行場をつくる毎日であった。そしてこの砂漠は同時に敗戦の日以降、愛国心という支えを失ったぼくの、生きるメドを持たない日々の砂漠である。
<2> 構成の中での意味
ひとくちに少年雑誌の戦争ものといってもさまざまである。マンガ「少年忍者部隊月光」(少年キング)では、飛行機からとびだした少年忍者たちが空をとんで敵の戦闘機をやっつける。これはいまの戦争物の性格のひとつをあらわしている。ここでは戦争は歴史でも現実でもなく、スーパーマンが活躍する単なる舞台に化している。
だから目くじら立てて戦争物を攻撃する必要はない、という論理もなり立とう。子どもは戦争は戦争、娯楽は娯楽とちゃんと知っているという考え方−。
だが、ぼくはそれには承服できない。「忍者部隊月光」は第二次大戦を舞台にするという点で、“みよ、島田戦車隊長のふん戦”とあおりたてる「マレー戦車隊」(少年サンデー)や、「海の王者大和」(少年マガジン)とつながっている。
「海の王者大和」では軍拡を提案する桂太郎内閣が議会から不信任をつきつけられる。敗れた桂は海相山本権兵衛にいう。
「くよくよするな、山本。きみは、アジアの平和と、日本の安全をいのって、軍艦づくりの計画をねったんじゃないか。正しいと信じたら、さいごまでやれ、わたしもこりずにおうえんするぞ。」
ここでは軍拡は正しいこととして承認されているのである。戦争物の現在の頂点はこの「海の王者大和」にあるとぼくは思う。この歴史読物を中心にして「ゼロ戦物語」や“日本の空を守った”「防空戦闘隊」の話や多くの戦争マンガ、図解「世界の戦争」などが各誌で展開される。
つまり戦争読み物群はそれ単独ではたいした意味をもたないものを底辺にして、立体的に構成されている。この構成の中でこそ「忍者部隊月光」も一つの役割を果たすようになる。
これらの戦争読み物・マンガ群が一つのイデオロギーを形成しているとぼくはある雑誌に書いた。だがいま考えてみれば、イデオロギー形成という公式はぼくの真実ではないようだ。ぼくはもっと直接的なところで腹を立てる。ぼくが銃後の一員として戦った戦争というものの真実がつたえられていない。このことでぼくは腹を立てる。イデオロギーがどう形成されていくかということ以前に、戦争の虚像が形成されつつあるという、そのことがぼくにとっては直接的な問題だ。ぼくの意志、ぼくの体験が無視されているからだ。
<3> 平和教育の敗北
戦争物ブームは心情的平和教育の決定的敗北を意味している。平和教育は、戦争を教えることよりも、戦争を遠ざけることに傾斜していたのではないか。あるいは個々の経験を語ることに執着した、児童文学の場合、戦争はいやだという訴えはあっても、戦争のメカニズムを解明し、あるいはその体験を思想化しようとしたものは少ない。佐藤暁の『だれもしらない小さな国』はその唯一の例外だとぼくは思っている。
だが、『だれも知らない小さな国』は個人の精神史である。
ここでは外界とのつながりはない。だから長洲一二編著『戦争をどう教えるか』(三五〇円・明治図書)はぼくにとっては期待の本である。また西郷竹彦訳『ぼくの村は戦場だった』(三八〇円・明治図書)もやはり戦争教育にやくだつ本として歓迎したい。
だが『ぼくの村は戦場だった』のあとがきにぼくはひっかかった。この本はドイツ軍占領下にあったソビエトの白ロシア共和国の少年少女の体験記だが、そのあとがきで西郷はいう。「戦争が昭和十年代の日本の子どもにとってゲームのようなものであったのは、戦後の今日の子どもたちが戦争をカッコイイと受けとめ、スポーツかゲームの一種のように思っているのと思いあわせて、考えさせられる問題である。」
<4>無視された体験
この西郷の感想は、一九三〇年生まれの中島誠の「戦争は玩具の地図上に兵隊の駒を動かすゲームのようなものであった。」という文章を引用してのことである。だが、この中島感想を一般化することはどうなのか。
一九二七年生まれのぼくには自分が動かされる駒であった。スコップ一杯分よけいに土をもっこに盛り、その重みに耐えることが戦争であった。西郷感想でも、ぼくの意見と体験は無視されている。
さてぼくは戦争の真実さということをいってきた。この真実は客観的な戦争を意味していない。週刊誌の戦争が虚構であるのは、ぼくの体験した真実−赤土の砂漠である戦争のかけらもないからである。
ここで、ぼくは体験と、客観的な事実との差にぶつかる。一五年戦争ということばはおぼろげに理解はできても、ぼくの体験とはまだむすびつかない。さらに、戦争体験ということ−西郷感想は戦中体験について述べ、ぼくのイメージ赤土の砂漠は戦後体験と重なりあっている。
この戦中体験と、事実と、戦後体験の問題は『戦争をどう教えるか』にもはっきり出てくる。中学校の実践(1)吉村徳蔵では、戦争を科学的に認識するやり方がのべられ、中学校の実践(2)丸木政臣では、母親の歴史(体験)を書くことによって戦争にせまっていこうとする。
この二つの方法のうち、どちらがよいなどというつもりはぼくにはない。共に成果をあげているということと、戦争教育の方法がまだまだ手さぐりの状態であることを示しており、またいくつもの方法の芽ばえが見られるということを、いっておけばよい。
<5>中岡の出した方法
ぼくが最も考えさせられたのは、高校の実践(中岡哲郎)であった。安保闘争のころ、彼がつとめていた定時制高校での実践である。高校生たちにとって、戦争とは「ひもじい幼年時代」であった。「生徒たちの頭の中には、自分たちが、『ひもじい幼年時代』から抜けだせたのはアメリカの経済援助のおかげだという固定観念みたいなものがあって(中略)、その考えがしつように討論を(中略)『日本は果たしてアメリカがなくともやってゆけるだろうか』という系列にひきもどすのである。」
この討論の中で中岡は否応なしに古い反戦教育から、脱皮せざるを得なくなってしまった、という。
その古い教育は戦争の不毛と悲惨さの体験を、それを経験していない生徒につたえるという使命感を柱にして成立していた。ところが実際に必要なことは、生徒たちが「昔は苦しかったけれどアメリカのおかげで今はらくになった」と整理している、生徒らの戦後過程を徹底的に吟味し正しく意味づけてやることだったと、中岡はいうのである。
この中岡の方法は、先の吉村・丸木のやり方の綜合とも考えられる。そしてぼくはまた「海の王者大和」を思いだした。「山本には、国民のくろうが、すっかりわかっていた。ロシアのむりないいがかりを、いつまでもゆるさないために−、日本の将来を安全にするために−、国民のひとりひとりが、しのべるだけの不自由さをしのんでくれているのだ。」
中岡はいう。「生徒の戦争意識というものは、体制的なものと、骨がらみみたいになったものである」。「海の王者大和」ではこの“体制的なものと骨がらみみたいになった”国民が肯定される。これをうちくだくには、客観的な戦争の事実が必要となる。中岡が中立政策の経済的可能性について生徒に説明したように、だ。それが父祖の生活につながる場合、吉村と丸木と両方の方法がここでは生きてくる。少年週刊誌の戦争読み物を材料にして、学習することも考えられるかもしれない。
そして、その一方、戦争という事実の認識が、検定のたびごとに悪化してきた教科書によっても行なわれることにも注意しなければならない。
「さらに、こうした単純な興味からの戦争ブームが、権力の教育政策または日本の政治の流れと結びつくとき、戦争物が日本の軍国主義復活の有力なテコになりうる危険性をもっているし、現にそうなっている。」(『教育・文化の軍国主義化の実態』日本出版労協)
<6>体験と事実の差
戦争物単独ブームはまだまだ大きな問題ではない。だが、前記出版労協報告書のいうように、政治・教育の動きの中で、虚像形成は一定の役割を果たすことになる。少年雑誌の戦争物はほぼ体制的なもののがわにくみこまれている。この体制側の攻撃があるからこそ、さきの中岡のことばはいっそう重要なものになってくる。
ここで、ぼくはどうしたらよいのか。
中岡の新しい方法を消化するのには、ぼくはまだ力がとぼしい。だがこの一文を書きながら、しだいにはっきりしてきたことは戦争体験は日日成長するということでありそれによって戦争はまた見なおされていくということである。さらに戦争体験と、戦争という事実の差である。書くことによって、この体験と事実の差はちぢめていくことができる。ぼくはやはり太平洋戦争物語をつくりたい。昨年ぼくの所属する日本児童文学者協会は太平洋戦争物語を企画して、実現しなかった。ことし七月、出版労協の出版研究集会で、子どもに実際の戦争を知らせる読み物がないといったことを、ある教師が報告しているのを、ぼくは歯をくいしばってきかなければならなかったのである。
体制がわの攻撃にくらべて、戦争の真実をしらせる教育、読み物はいかにも弱い。ぼくは望む。この『戦争をどう教えるか』にある、さまざまの芽生えを各地の教師が育ててくれることを。いまや平和教育よりも戦争教育が必要なのである。
(日本読書新聞・一九六三・一〇・七日、一四日)
テキストファイル化岡田和子