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今は落ちついてきましたが、アケードで人気を博していたものに格闘技ゲームがあります。最初の頃は、ゲーム機との闘いで、磨いた腕をギャラリーに披露していたのが、やがて、他のプレーヤーとの対戦型が主流となりました。ズラーっと並んだゲーム機のモニターたちは互いに向かい合わせに設置されている。こちらからは見えない反対側で誰もプレイしていないときはそれまでと同じくゲーム機との闘い。ところが誰かが反対側から対戦をしかけてくる(最初はそれを「乱入」と呼んでいた)。そうなると、相手はコンピューターではなく、生身の人間となります。とても強い子どもがいると、対面には次々とチャレンジャーが現れ敗退していく。そうして、何人もに勝ちつづけるヒーローには、ギャラリーからは賞賛の声が上がったり。 つまりそこには一種の祝祭空間ができていたのです。 実際それは見ていてあきないのでしたが、それより、その風景がおもしろいのは、殆どの場合、友達同士が向かい合って対戦するのではなく、見知らぬ誰かであること。 見知らぬ誰かとの対戦というだけなら、昔のレーシングカーから最近のミニ四駆まで、なかったわけではありません。しかしそれらは「大会」が催され、そこで競い合うことも多く、そのため「同好の士」として、初めて出会ったコとでも情報交換などが行われる。つまり、それをきっかけとしてコミュニケーションが成立する。けれど、この対戦型格闘技ゲームの場合、相手が対面にいるにもかかわらず、そうはなりません。相手の顔を見るでなく、モニターの中で互いが選んだキャラクターを闘わせる。伝わるのは相手の腕前だけなのです。いわば、全体ではなくパーツ(この場合はゲームの腕前)だけのコミュニケーションと呼んでいいもの。 善し悪しではなく、今の子どもたちにとって、それも「付き合い方」の一つなんですね。 (ひこ・田中 「図書館の学校」2000.09) |
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