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もはや誰しもお気づきのように、高校生以上のコたちはケータイ依存症になっています。私は電車の中は絶好の取材場所なのでいつもアンテナを立てていますが、一つの車両を見渡せば、ケータイをいじっているコたちの多いこと多いこと。これまで定番だったコミックスやウォークマンはあまり見かけなくなってしまいました。電話をかけるけるためにケータイを使うのでなく、手に持ったそれのモニターをひっきりなしに、にらんでいます。目は怖いくらいに真剣。親指族の名に恥じないスピードで親指を駆使。 電車の中でそうしたコの横に座ったときついそのモニタに目が行ってしまいます。で、彼らが何のためにそれをにらんでいるかといえばメール。内容は、待ち合わせの確認だとかのたわいのないものからチャット的やりとりまであるようです。かつては電話に関して、学校でさんざ会っているのに、家に帰ってからまた長々電話して困ったものだと言われたものですが、それは、生身で会って話すときと、電話のそれとは、コミュニケーションの質が違っているからです。大人はよく、「電話ではなんですから、会って直接お話を」なんて場面を作りますが、もしそれが本当ならその逆に「顔を見ながらではなんですから、電話で改めて」も成立するはず。どちらが正しいかではありません。 そして今それは急速にケータイメールに移行しているのです。もちろん電話より安くつくということもありますが、「安いから使っている」から「使わないではいられない」となり、メールコミュニケーションの味を覚えてきたといえるでしょう。 生身から、声だけとなり、今度は液晶文字だけのコミュニケーション。だんだん関係が薄くなっていく・・・。かのようですが、声だけの方が生身と会うより、例えば息づかいから相手の気持ちがより伝わるように、文字の合間からかえって濃いコミュニケーションが成立する可能性は否定出来ません。それよりなにより気になるのは、モニタを見る頻度です。何かメールが入ってないか、入ってないか、入ってないか。その姿はケータイ依存症というより、友達依存症なのかな? (ひこ・田中 「図書館の学校」2001.01) |
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