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十四、五年前、子どもの食事風景のレポートがTVでありました。彼らに絵を描いてもらうと、TVを見ながらカップ麺やレトルカレーを食べている自分だけの姿が・・・。つまり、独りで食事しているケースが多いとわかった。 食事は家族がそろってする。いわばそれは家族の基本形態のように思われていたわけですが、この放映以前にすでにそこから父親の姿は消えていて、そしてついに母親もいなくなった。一人っ子が増えたことも独りでの食事に拍車をかけます。原因は、仕事を持つ母親や、家のローンや子どもの教育費のためやでパートに出る母親の増加、それから、塾通いで不規則な時間に食事を摂る子どもたち、などがあげられていました。そしてそうした子どもの姿は、「家族」が機能不全になっている象徴のように描かれていたわけです。 孤独な食事、「孤食」という言葉が生まれ、定着しました。この単語がまさに示しているようにそれは、マイナスイメージです。独り寂しく、家族の温かみもないまま食事をする子ども。家族がいないわけではないぶんだけ、孤独感はいっそう深く見えます。 で、去年、同じTV局がもう一度この問題を追跡レポート。孤食する子どもの数は増えている(不況で残業のなくなった親が早く帰宅するようになったら、子どもの方が塾で不在なんて逆転現象も起こっています)。が、そこにいるのは孤独な子どもではなく、孤食を快適と感じている彼らでした。独りならゲームをしながらでも、好きなペースででも食べられる。うるさい親がいない。それは孤独ではなく、自由に変わっていたのです。 もちろんこれは、単に慣れのせいかもしれませんし、ひょっとしたらさみしさをそう思うことでやりすごしているのかもしれません。どうであれ子どもが独りで食事をしているのは、決していいことではないと言うこともできます。しかしそれを、自由として味わってしまった子どもに、そうした否定的な見方は受け入れられにくいと考えておいた方がいいでしょう。極端な話(ではなくなっているかも)、まず孤食が基本的前提で、その上であらためて、家族一緒の食事のおもしろさも発見していく、といった視点の転換がそろそろ必要になってきていると思います。これは何も食事だけではないですけどね。 (ひこ・田中 「図書館の学校」2001.03) |
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