子どものHP/MP

(17)「子どもの時間」!

           
         
         
         
         
         
         
    


 私事ですが、拙著『ごめん』が今度映画になります。子役はオーディションで選ぶので、さっそく出かけることに。『お引越し』が1992年でしたから、9年ぶりに「オーデションにくる子ども」を観察です。これを逃す手はありません。
 子ども達は、事務所の子はマネージャー、一般の子は親(母親)と一緒にきています。反復になりますが、子どもだから。もちろん、控え室と、オーデション室は離れていて、子ども達はそれぞれたった一人で、ライバル達と競い、かつ、審査員の大人達のお眼鏡に叶うように戦わなければなりません。
 ちょっとだけ想像力を働かせば、これがどれだけのフレッシャーとなるかは理解できると思います。特に、親の要請ではなく自分の意志できた子どもにとっては。
 ぶっちゃけて言えば、それぞれの役にピタリの子どものイメージは最初から制作者側の頭にはあります。いくら可愛くても、いくら演技が巧くても、その役が求めているキャラでないなら、その子は必要ではありません。残った候補者の写真を並べて、まずはスタッフの挙手でおおまかにそれぞれのイメージに合ったものを絞り込みます。「人買いですね」と、助監督。その通り。最終的にはそれを参考意見として、監督が決めるわけです。
 今回参加して印象深かったことは、一つ。
 一般の子ども達の演技力が9年前と比べて驚くほど向上しているのです。最終審査ではありません、最初の段階から、巧いのです。審査には予め簡単な1シーンを渡してあるのですが、演じられるのです。ちゃんと。9年前は最終に残った子どもたちでさえ、セリフは入ってないし、しどろもどろでした。事務所から来た子との差は歴然としていました。でも、今回は、そんなことはない。控え室に戻ってもらって、子どもがいなくなったとたん、「うめー」とスタッフの一人がつぶやいたほど。私も、大げさでなく、やや呆然としつつ、彼らの演技力のことを考えていました。彼らはここに何をしに来たかを自覚している。何を求められているかを解釈している。そして求められているであろう他者にいとも簡単なりきることができる。先ほど述べましたように、私たちは審査に当たって何かを求めているのではなく、誰かを捜しているだけなのですが、もちろんそんなことは知らない子ども達は、そうしてくるし、そうできる。それは、今の子どもが、大人が期待する子どもを演じるスキルが上がってしまっていることの一つの証のような気がしました・・・。
(ひこ・田中 「図書館の学校」2002.01)