子どものHP/MP

「大人の時間」
ひこ・田中
図書館の学校
2002.03

           
         
         
         
         
         
         
    
 映画はいよいよクランクイン。子どもたちが「子ども」を演じる時間です。
 教室シーンにおじゃましました。
 冬休みの校舎を借りているのですが、休み中に廊下のワックスかけや壁のペンキを塗り直しをしているので、その匂いがこもっていて、1カットごとに窓を開け放って空気を入れ換えないと、気分が悪くなる子どもが出てきます。
 いくらオーデションに合格したからといって、せっかくの冬休みまで学校で「授業風景」の撮影なんてウンザリかな?と思っていたら、そうではなくて、むしろ、冬休みに学校で授業っぽいことをするのがおもしろいみたいです。
 考えてみたら、見慣れたはずの教室のあちこちにライティングされ、カメラが置かれ、先生とは似てもにつかない、怪しげな映画関係者(と私)に観られながらの時間は、かなり異空間です。「学校の怪談」みたいなものかな。
 撮影している教室の隣が親御さんたちの控え室になっています。ちょいと覗くと、100%母親なのですが(事務所のマネージャーを除く)、そのほとんどが、ヤン・ママ。ヤング・ママではなくヤンキーママ。茶髪、赤色系のファッション、ブランド品、タメ口。考えてみれば彼女たちの中高校生時代とはヤンキー真っ盛りなのでした。ヤンキーとは、カミナリ族から暴走族を経て、80年代に出現する「不良」(と世間では呼ばれる)たちが自ら名付けたものですが、もちろんそのころのすべての中高校生が真性ヤンキーであったのではなく、ほとんどが、ヤンキー風を装っていたわけです。で、今、子どもたちが異空間となった教室で「子ども」を演じている隣の教室に、元ヤンキー風だった方たちが母親として、集まっています。
 どういうことかといえば、彼女たちは、大人としての振る舞いより中高校生時代のヤンキー風を引きずったまま親として控えているわけです。親ですが大人ではない。いや、かつて大人と思われていた大人としては振る舞っていない。休み時間子どもたちとの会話と聞いていてもタメ口。
 私はそうした現象を悪いと言いたいのではありません。そうではなく、大人と子どもの関係性、位置関係の変化がここにも現れていることを指摘しておきたいのです。
*ヤンキー=大阪地方で街にたむろする新風俗の若者。[株式会社自由国民社 現代用語の基礎知識2001年版]