少し古い話ですが、昨年夏の報道によれば、「子どもたちは、なぜ「キレる」のか」の実態調査に文部省の国立教育研究所と厚生省の国立公衆衛生院が入り、全国で4、500の事例を分析し、どう子育てをすればいいか、学校はどう対応すべきかの報告書を作成するそうです。こういうことに国が本格的に取り組むのは初めてで、医師も入れて精神医学からの分析も進めるとのこと。
校内暴力は過去最多を記録し、しかも昔のツッパリと違ってふだんはおとなしい普通の子どもが突然、ってケースが増えている。よって教員はこれまで培ってきたノウハウが使えなくなって、どうしていいかわからなくなっている。そこでこの調査を始めるというわけです。
きわめて真っ当といえば真っ当な動き。が、ふだんはおとなしい普通の子どもが突然「キレ」るから、わからないというのが私にはわかりません。その生徒を「ふだんはおとなしい普通の子ども」だと位置づけているから「キレ」るのにとまどってしまっているだけだと発想を少し変えてみた方が、いい気がします。
つまり、生徒のキャラをおとなしいから騒がしいや、普通から普通でないのようなカテゴリーで順列をつけて判断すること自体がもはや無効であると考えてみる。
調査分析は、少年事件調書や少年審判の記録を調べたり、問題行動を起こしている子どもの父母から、どのような仕付けをしてきたか、情操教育は? 生活習慣、食生活、ゲームやTVの影響などを詳しくきくことから始めるとのこと。これはすでに問題行動を起こした子どもに関しての調査です。やって無意味だとは思いませんが、そこだけを観てもしょうがないとも私は思います。だって「ふだんはおとなしい普通の子ども」が「キレ」ることに困っているのなら、「ふだんはおとなしい普通の子ども」を調査することの方が必要でしょう。
おとなしい子という姿と「キレ」た姿、そのギャップにとまどい、やんちゃだとありそうなことだととまどわない。が、このとまどいを取り払ってしまえば、風景はとてもシンプルになります。普段おとなしく見えようと、やんちゃに見えようと、彼らは等しく「キレ」る可能性を生きている子どもなのだと。「キレ」るが一種の自己制御できなくなった状態だとすると、それは我慢強くなくなったからでしょうか? それもあるでしょう。しかし、制御すべき自己存在そのものの不安定感が大きいと私は思っています。(図書館の学校2002.04)