子どもの成長モデル。

ひこ・田中

 昨日、友人と電話で話していたとき、「今ファンタジーで、あっちの世界に行ったままで終わってしまうものが多いのはどうしてだと思う」と訊かれたました。これまでのファンタジーの物語構造が「行きて帰りし物語」だとすると、確かにそこからはずれているものが多いのです。「行きて帰りし物語」とは、冒険に旅立って、戻ってくる場所があり、戻ってくることで主人公の成長が確認される構造を意味します。『ホビットの冒険』なんかが典型ですね。児童書ではありませんが子どももダイジェストなどでよく知っている『ロビンソン・クルーソー』などもこの系譜です。が、ハリー・ポッターの帰る場所は彼の成長を決して認めてはくれないおじさんチですし、『ネシャン・サーガ』のジョナサンは別世界のヨナタンと統合して、こちらの世界から消え去りますし、フィリップ・プルマンのライラの冒険シリーズではライラとウィルは確かに元の場所に戻って行くのですが、パラレルワールドの別の世界の住人であるために彼らの愛は成就しません。また『ルート225』(藤野千夜)では別世界に潜り込んでしまった姉弟は、戻れないことを悟り、そこで生活を始めます。つまり物語たちは、かつてのようなお決まりの着地点を見つけられなかったり、見つけようとしなかったりしているのです。
 何が変わってしまった?
 その前にまず、どうして「行きて帰りし物語」といった成長物語があったのか? と考えてみてもいいのかもしれません。これは子どもの成長モデルの一つです。もちろん本当の子どもがそんな冒険に出ることはまずありません。でも、ちょっとした遠出、迷子経験、友達とのけんかと仲直り、親との意見の食い違いなど、様々な生身の事件や出来事を経験することであなたは成長し、その成長を大人社会は認めてやがて大人として迎え入れてくれる、とそうした物語たちはほのめかしているのです。
 とすると、今違った物語が生まれてきているのは、別の新しい成長モデルがこの社会に現れてきた証なのでしょうか? そう断言する自信はありませんが、少なくともかつてのモデルが疲弊し、摩滅しかけているのは確かだと思います。ここ数年「リアル」という言葉が様々なところに登場し、使用されましたが、なによりそれは、リアルが成り立ち難い時代の反映でしょう。リアルがリアルであるなら、それは所与のものとしてあり、改めて語る必要などないのですから。先に挙げた物語たちは、子どもにとって、「行きて帰りし物語」的成長モデルがリアルでなくなったことに呼応しているのだと思うのです。
図書館の学校2002.05