さしあたって、これだけは
−ぼくの批評の原点−

野上 暁

           
         
         
         
         
         
         
     

野上 暁
 毎年十月に開催されるフランクフルトのブックフェアーは、世界の出版動向を見るためには格好の場でもある。一昨年はアメリカの出版社が総じて元気がなかったが、昨年(一九九二年)は、アメリカはもちろんのこと、全体的に低調だった。会期中に五十社以上の欧米の児童書出版社とコンタクトして気付いたのは、新刊書の予想以上の少なさだ。そして、「この世界的な出版不況を力を合わせて乗り切っていこう」といった会話が、あちこちで交わされた。
 不況知らずで、むしろ不況に強いとも言われてきた日本の出版界だが、さすがにそういった神話も過去のものとなりつつある。なかでも子どもの本の落ち込みが激しく、とりわけ児童文学のジャンルが危機的な状況だといえそうだ。今日の書店経営の難しさや流通の問題はもちろんだけれども、こういう時代だからこそ、子どもの本の現在に対して冷静に目を凝らしていかなくてはならない。
 子どもの本が不振になると、必ず登場してくるのが悪者探しだ。テレビのせいで、マンガのせいで、ファミコンのせいで、といった具合に、とりあえず子どもの心をとらえるメディアが悪者扱いされて敵視される。これまで、嫌というほど見せつけられてきた、このような敵視論の轍を、二度と繰り返させたくない。それが子どもの本を特殊な領域に囲い込み、当事者の自己研鑚を怠らせる格好の口実となり、それ自体の向上を妨げる最大の要因になってきたと思われるからだ。
 人はいかにして子どもと出会うのか?
 おそらく答えは二つしかあるまい。(一)親になったから。(二)子ども相手の職業についたから」と、明快に論じてみせたのは、『子ども体験』(大和書房)の村瀬学だった。ぼくの場合も例外ではなく、子ども雑誌の編集者という職業についたことによって、子どもと出会うハメになったにすぎない。
 もともと映画や文学には関心があったけれども、子どもなどというものは、思考の対象外だった。というよりも、大学の子ども文化サークルや児童文学研究会のような集まりに対しては、大の大人がなぜ子どもに揉み手して擦り寄るのかと、むしろそのメンタリティーに奇異な感じを抱いていた。反体制運動の多様化が進んだ六十年代後半という時代性もあったのだろう。そういったサークルの多くは、子どものためという縫いぐるみを被った一政治党派に従属する大衆組織として機能していたという印象が強かった。政治状況的テーマを、自分たちの問題としてとらえずに、子どものためとか子どもの将来とか、どうして子どもを全面に押し立てて語るのか、それが欺瞞的に見えた。
 その後、大学を卒業して、なんとか出版社にもぐりこんだものの、予想もしていなかった子どもの雑誌の編集に回されて大いに困惑した。そして仕事の関係上、仕方なしにといった半ば中途半端な気持ちで、テレビの子ども番組を見たり、おびただしい量の漫画と付き合うとともに、その制作現場に立ち会った。
 テレビや漫画のような大衆的な子どもメディアは、送り手のねらいや仕掛けとは関係なしに、独特の力学によって子どもたちの心をつかんでいくものだということが、そういった体験の中で、朧気ながら見えてくる。そこに、大人社会の作為を突き抜いて、いつの時代にも独自に成立する子ども固有の文化の在り様があるのではないか。それを探ることは極めてエキサイテイングで、ぼくの二十代と三十代は、ほとんどその面白さに振り回されたといってよい。
 ところが、そのような大衆的な子どもメディアと子どもたちの関わりは、しょっちゅう大人社会の批判にさらされる。批判の急先鋒は、本来ならば子どもの側に立つべき教育現場の人とか、子どもの本の関係者だったりするのだから、こういった子どもプロパーの子ども観のステロタイプ化に、ほとほとウンザリさせられた。とともに、子どもに関わる人達の、現実の子ども世界とのズレをこそ問題にしなければならないと、痛切に感じさせられた。おそらくそのような体験が、ぼくが子どもの世界について語るときの基本的な姿勢に深く関わっているのではないだろうか。
 子どもの立場に立つなどというと、その物分かりよさげな偽善的な姿勢こそが、当の子どもたちにウサン臭く見られ、既にそう表明することこそが子ども世界との距離を語るというパラドクスを抱え込みながら、それでもなおかつ今を生きる子どもたちの感性にできるだけ迫ってみたい。それは現在の様々な制度の轍の中で、ともすれば窒息しがちなぼくたち自身の感性を開放していくことにも関わるし、絶え間ない自己否定のエネルギー源ともなる。そして、現代という奇妙な時代を生きるぼく自身の、この時代に対するこだわりが、子どもの世界に対するこだわりと重なってくる。などというと、あまりにも格好良く受け取られるかもしれないが、要は子どもたちが抱く大人的な枠組みに対する敵意にも似た感情を、どれだけ受容できるかにかかっているといってよいだろう。
 岩瀬成子の『「うそじゃないよ」と谷川くんはいった』『もうちょっとだけ子どもでいよう』、川島誠の『夏の子どもたち』『800』、ひこ・田中の『お引越し』『カレンダー』といった作品を、ぼくが高く評価するのは、以上のような理由からであり、これらの作品が、アンヴィヴァランスな時代を生きる子どもたちの感性を繰り込みながら、それを外に向けて発散するエネルギーをためこんでいるからだ。彼らの作品に登場する子どもたちは、大人たちが一般的に思い描く子ども観を逆撫でするかのように自立的で、しかもエネルギッシュだ。
 現代に真っ正面から切り込んでいく、このような作家たちとは反対に、自分が子どもだった時代を舞台に、子ども特有の世界を生き生きと描いた作品にも興味がそそられる。山下明生の『カモメの家』、山田詠美の『晩年の子供』、森忠明の一連の作品などは、生活者としての大人たちとは違った価値観と感覚で、独自の世界を構築していた子どもたちのドラマを巧みに浮かび上がらせている。ともすれば単なる郷愁になりがちなところだが、それなりの現在性を確保しているのは、今日とは比較にならないくらい明確にセパレートした、大人世界との疎隔感の中での子どもたちの生き様を意識的にとらえているからだ。
一口に子どもといっても、幼児から高校生までは全く現れ方が違ってくる。三歳から百歳まで共有できるのが子どもの文学だとか、中学生以上を対象にしたものは子どもの文学とはいえないと言う人もいる。子どもの文学固有の価値を追求していくと、そういった物言いもできるのかもしれない。
 しかしぼくは、「子どものための文学」といった括り方よりも、「子どもにとっての文学」を考えるほうに関心がある。だから、ぼくにとっての子どもの本や子どもの文学は、子どものために書かれたいわゆる児童文学の枠組みを超えて、現代の中・高校生が享受できる、あるいはして欲しい作品までも対象とする。今は高校生といえば大人と同じだと言われるかもしれないが、高度情報社会のただ中で、大人と子どもの狭間にたって、その不安定な精神生活を強いられているこの世代こそが、最も尖鋭的に子どもの立場からの異議申し立てができるからだ。
 といっても、幼児を対象にした子どもの文学を無視しているわけではない。幼い子どもたち独特の感受力と相渡る文学に固有の世界もまた、日常性の中で鈍化したぼく自身の感性を刺激してやまない。それにしても、最近のこの年代を対象にした作品が、総じてなんとも薄っぺらで、書き手のモチーフの弱さに苛立ちをさえ覚える。そのような中で、最近まとめられた『まど・みちお全詩集』などを読むと、この卓越した詩人の世界を見る視点が、計らずも幼児固有の感性と重なる、その一種マジカルな個性の原点が浮かび上がってくるようで興味深かった。
「日本児童文学」 1993/03
テキストファイル化山地寿恵