翻訳
ごく私的児童文学
翻訳者列伝

酒寄進一

           
         
         
         
         
         
         
     
 翻訳児童文学の一年回顧を頼まれてから、さまざまな地域、さまざまな時代の文脈で書かれた作品を、去年日本語に置き換えられたという理由だけで、はたして一くくりにできるのかなあと考えてしまった。
もちろん方法がないわけじゃない。たとえば国や地域で分けてみるとか、テーマ別に分類してみるとか、オーソドックスなやり方はある。でも翻訳された作品に限ってしまうと、じつはどちらの方法も穴だらけだ。
 たとえば国や地域に分けて、アメリカの児童文学ではと始めるとする。翻訳の場合、どんなに急いでも一年から数年のタイムラグができるし、意外に重要な作品が翻訳されずじまいになっていることもある。だから翻訳作品だけでは、それぞれの国や地域の文脈や今の事情をバランスよく反映させることはむずかしい。
テーマ別という方法にもちょっと無理がある。翻訳されたのが昨年だとはいっても、原作は八〇年代の作品を中心に、古くは一九四一年にスイスで出版された『赤毛のゾラ』(クルト・ヘルト作、渡辺芳子訳 福武書店)や一九四四年にイギリスで出版された『変身動物園 カンガルーになった少女』(エリック・リンクレイター作、 神宮輝夫訳 晶文社)まで含まれる。日本で古典として定着している作品の新訳を除いても、これだけ時代の幅がある。当然、児童文学で好まれる「戦争」とか「友情」とか「家族愛」といったテーマにも時代のズレは起こるもので、統一的な思潮をあぶりだすのはむずかしい。
 むずかしい、むずかしい、というばかりではしょうがないので、ぼくなりの切り口を考えてみたい。翻訳児童文学に関して、ぼくは作者の意図を問題にするのと同じくらいに、日本側の文脈に引き寄せて捉える必要もあるんじゃないかと思っている。ぼくの考えを補強するために、昨年本誌の翻訳時評を担当していた横川寿美子の言葉を引用しよう。『ひいおばありゃん』(モニカ・ハルティヒ作、高橋洋子訳 講談社)と『アマリリス号―待ちつづけた海辺で』(ナタリー・バビット作、斉藤健一訳 福武書店)を書評するための前振り部分で、「ここ二、三年、老人を扱った作品がやたらと目につく」といったうえで「けれども、各国の児童作家たちが急に老人に興味をもち始めたわけではないだろう。翻訳書を出そうとする日本の児童書業界がそういう選択眼をはたらかせているのだ、と考えた方が自然だ」と述べている。
 そうした出版傾向に業界の事情を加味するのはリーズナブルだけど、もちろんそこにだけ問題を集約するのではまだ足りない。ほら、すでにいくつか書名をあげているけど、そのあとにくっついている括弧の中身、そこにはもうひとつ項目がある。そう、○○訳という項目。翻訳書には作者の意図にプラス翻訳者と日本側出版社の意識が加わる。翻訳の三重基準とでも呼びたい状況があるのだ。なかでも重要なのは翻訳者だろう。日本では「あとがき」を書くチャンスまで与えられているくらい翻訳者の位置づけは高い。ぼくは前々から、誰か事情通の方に「児童文学翻訳者列伝」みたいなものを書いてもらいたいなと思っていた。ここではその口火を切る形で、翻訳者たちの仕事という視点から、昨年の翻訳書を並べ換えてみようと思う。いわく「私的児童文学翻訳者列伝」、登場する順番は五十音順。
 青木由紀子 この人を訳者として意識したのは『足音がやってくる』(マーガレット・マーヒー作 岩波書店)から。あれはこわい話だった。ちなみにこの仕事でサンケイ児童出版文化賞を受賞している。以来、マーヒー・ファンにはおなじみの訳者で、『いかさま海賊こんぐら航海記』(福音館書店)につづいて、昨年は『贈り物は宇宙のカタログ』(岩波書店)を出版。『宇宙のカタログ』は、グラマーでつっぱってはいるが、そのじつ母子家庭であることに悩んでいるアンジェラと、宇宙の謎には熱心だが、目の前の恋をめぐっては引っ込み思案なティコの心の成長を描いた作品。前作『足音がやってくる』のような超常現象は見られないけど、マーヒー得意のテーマ「変身」の変奏曲的作品といえる。
 石井登志子 ぼくはリンドグレーンの訳でこの人を意識したが、『おばかさんに乾杯』(ウルフ・スタルク作 福武書店)の仕事もとってもよかった。転校して男の子にまちがえられた女の子のシモーネが、そのまま男の子になりすまして引き起こす騒動がおもしろい。シモーネが一番心を許しているおじいちゃんのキャラクターもいい。一種のとりかえばや物語だが、そこにはスウェーデン、男女の関わり方とか死の哲学みたいなものが日本より一歩先んじたところでうまく描き出されている。ウルフ・スタルクを手がけるのは絵本『ぼくはジャガーだ』(ウルフ・スタルク作、アンナ・ヘグルンド絵 佑学社)につづいて二回目だが、これからもぜひウルフ・スタルクにこだわってほしいもの。
 上田真而子 訳書を列記すると、そのまま現代ドイツ児童文学史年表ができあがるくらい質の高い仕事をしている。昨年は『おくればせの愛』(ペーター・ヘルトリング作 岩波書店)を訳した。原題は Nachgetragene Liebe。この訳を見ただけで、思わずうまいなあと思ってしまう。(訳語については「あとがき」に説明があるので、そちらを読んでほしい)日本ではヘルトリングといえば上田、上田といえばヘルトリングというイメージがすでに確立されている。『おくればせの愛』はそんなヘルトリングの一九三八年(五歳)から一九四五年までの戦争をはさんだ少年期を扱った自叙伝で、幼くして死別せざるをえなかった父へのレクイエムでもある。
 岡本浜江 といえばキャサリン・パターソン。昨年は訳書が百冊に達したとかで、すっ、すごい! なんて思ったもの。その中にはもちろんパターソンの新しい訳書がはいっている。『もうひとつの家族』(偕成社)がそれ。パターソンはいろんな設定でアメリカの家族を描きつづけていて、『もうひとつの家族』はベトナムで戦死した父親の過去を探索するため、父親の故郷に出かけた少年、そしてベトナムで父親が生ませた少女を通して、ベトナム戦争後のアメリカが抱えている家族の問題の一断面を切りとっている。
 金原瑞人 ジュマーク・ハイウォーターの一連の作品をはじめ、ファンタジー/ホラー系の翻訳が多かったが、『ジャングル・ブック』(偕成社)の翻訳以来、古典の新訳にも新境地を拓いている。昨年は『ピノキオの冒険』(カルロ・コルローディ作、ロベルト・インノチェンティ絵 西村書店)を訳した。軽妙洒脱という言葉がまさにぴったりの訳文で、大胆なアングルが特徴のインノチェンティの絵とおもしろいようにマッチしている。
 川西美沙 最近ミヒャエル・エンデの翻訳を手がけている。環境破壊の問題にファンタジックな衣をつけた『魔法のカクテル』(ミヒャエル・エンデ作 岩波書店)は、原書を読んだとき、言葉遊びがすごくて、これが日本語になるんだろうかと思った。訳者の苦労がしのばれる。ただ『モモ』や『はてしない物語』と較べると、いまいちかなあ、というのがぼくの感想。もちろん、好みの問題だけど。
神崎巌 老人問題を扱った児童文学として注目された『さよならおじいちゃんぼくはそっといった』(エルフィー・ドネリー作 さ・え・ら書房)の姉妹編『赤い靴下』(さ・え・ら書房)が同じ訳者の手によって出版された。『赤い靴下』では、多感な少女マリが精神病院で暮らすおばあさんと出会い、周囲の偏見を取り除くのに一役買っている。社会問題に対する作者の生真面目さと、現在形を多用し、感情を抑えた文体を忠実に日本語に置き換えようとする訳者の生真面目さとが、いい具合に共鳴しあっている。
 島式子 は、『マイ・ゴースト・アンクル』(ヴァジニア・ハミルトン作 原生林)のあとがきでヴァジニア・ハミルトンの作品への思いを熱っぽく語っている。好きなんだなあ。ちなみにぼくは『ジュニア・ブラウンの惑星』(掛川恭子訳 岩波書店)が気に入っている。『マイ・ゴースト・アンクル』については、正直いって、どう評価していいかわからない。幽霊がらみのスリリングなストーリー展開にぐいぐい引き込まれたし、行間にほのみえる、アメリカ黒人の過去と血の問題もわからないではない。でも、そのパッションとエートスがどうもぼくの内面でひとつに結び合ってくれなかった。どうしてだろう?
 高杉一郎 なんといっても『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス作 岩波書店)の訳が有名。昨年も同じピアスの短編集『こわがっているのは だれ?』(岩波書店)を出版した。(私ごとだけど、この訳者にはちょっと変な親近感を覚えている。というのも、訳者が和光大学を退職したあとしばらく途絶えていた児童文学ゼミを、ぼくが今年から再会したからだ。しかも研究室まで同じらしい。ぼくが後をどう引き継ぐかが目下の課題になっている)
高柳英子 昨年の仕事は石油タンカー事故に材をとった『海が死んだ日』(オットー・シュタイガー作 リブリオ出版)の翻訳。シュタイガーを手がけるのは『泥棒をつかまえろ!』(佑学社)以来二度目。シュタイガーは地味な社会派の作家だが、その作家の作品をこつこつと訳す訳者もとっても社会派。
 中川千尋 『ふしぎをのせたアルエル号』を皮切りに福武書店で矢継ぎ早に翻訳の仕事をする。『森に消える道』(ブロック・コール作 福武書店)は福武時代の最後の仕事。サマーキャンプで仲間に裸にされ、島に置き去りにされたハウイとローラの四日間の放浪生活をロードムービー的なタッチで描いている。親とのふれあいが得られず、友だちもできなかったふたりは、行くあてもなくさすらううちに、信頼しあえる仲間となり、生きる自身と勇気をもつようになる。ワン・オブ・ゼムだったふたりが、しだいに自分を見いだしていく様子がじつにきめ細かく語られていて、共感を覚える。この訳者の仕事の基本は、なんといっても物語ることのおもしろさと醍醐味につきるようだ。
 母袋夏生 複雑な歴史と民族の問題を抱えるイスラエルに通じた数少ない児童文学翻訳者。『ぼくたちは国境の森でであった』(ダリア・B・コーヘン作 佑学社)は、アラブ人少年サリームとユダヤ人少年ウーリーの間に芽生えた友情の物語。ウーリーは父を中東戦争で亡くし、サリームは兄がPLOに関わったためにイスラエルの村で暮らせなくなっていた。民族や国の事情と偏見でつい敵対してしまう間柄でも、個人と個人であれば違った出会いが待っていることをストレートに描いていてさわやかな読後感だった。
 脇明子 昨年訳した『海を渡るジュリア』(R・E・ハリス作 岩波書店)は「ヒルクレストの娘たち」シリーズの三作目。昨年の翻訳書の中で、ぼくが一押ししたい一冊。第一次世界大戦をはさんで、イギリス南西部の丘陵地帯で育った四姉妹の物語。一作ごと主人公が違って、第一作『丘の家のセーラ』は末娘の視点から、二作目『フランセスの青春』は画家として成功する長女の視点から、そして三作目は次女の視点から描かれる。ストーリー自体は両親を失っての苦しい暮らしや、後見人になった牧師の息子娘たちとの交流をめぐって描かれるが、同じ出来事が立場の異なる姉妹たちにどれほど違って映っていたのか、一作ごとにどきっとさせる発見が潜んでいる。たとえば幼いセーラからは気丈に見えた長女フランセスが両親を失ってからの暮らしにどれだけ不安と責任を覚えていたかとか。そしてフランセスと比較され、劣っていると思い知らされてきた次女ジュリアにとって、青春時代はそのまま自分の生き方を捜し求める日々の連続だった。人の役に立つことに喜びを見いだしたジュリアは、看護婦見習いとしてフランスに従軍し、そこで牧師館の次男ジョフリーと恋に落ちる。しかし 、ジョフリーは戦死し、戦後ジュリアはふたたび新たな道を歩みはじめるが。エピローグはおもわず胸が熱くなった。こんな奥行きのある作品が訳せたら訳者冥利に尽きるというもの。訳者あとがきによると、このシリーズは六巻になるとか。今後がとても楽しみだ。
 とまあ列記してみたけど、どうだろう。紙面も尽きたので、今回はここまで。取り上げそこなった訳者の方にはごめんなさい。戦争や環境をテーマにすれば、当然言及しないではすまされない作品がいくつもあったけど、昨年翻訳された本を翻訳者たちの意識の流れの中で押さえることを優先して割愛してしまった。どうか悪しからず。
日本児童文学1993/05
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