「うた時計」の入手経路をめぐって

皿海達哉

           
         
         
         
         
         
         
         
    


 私は大学二年のとき、今も変わらぬ友人である日比茂樹と親しくなった。彼から薦められた最初の作家が福永武彦と新美南吉である。本人は忘れているだろうが、福永武彦の作品でまずと薦めてくれたのは『草の花』で、早速読んでみたものの、その観念性の強さに辟易した。私はあまりいい印象が持てなかったということを遠回しに言うのでなく必要以上に否定的に言ったので、彼はがっかりした以上に嫌な顔−もうこの男には二度と本など薦めてやるものかと心の中で決めたような顔をした。
 新美南吉の最初は『うた時計』である。私はそれまで日本の児童文学作家は宮沢賢治、小川未明、坪田譲治、浜田広介くらいしか知らず、新美南吉など名前さえ知らなかった。それで、さてどんなものだろうと半信半疑で読み出したが、すぐに引き込まれた。
 「二月のある日、野中のさびしい道を、十二三の少年と、皮のかばんをかかえた三十四五の男の人とが、同じ方へ歩いて行った。」
 物語はこう始まる。「坊、ひとりでどこへいくんだ。」と話しかけられた少年は、ポケットにつっこんでいた手をそのまま二三度前後にゆすり、「町だよ。」と答えて笑みを浮かべる。少年は、話しながら歩いていくうち、男のオーバーの大きなポケットに手を入れていいかと尋ねる。私自身も父や先生やのポケットにそうした覚えがあるので、ふむふむとうなずきながら読んでいると、その中にあった固く冷たいものが、不意に美しい音楽を奏でだすのである。
 何よりこの意外性がよい。冬の道を歩く少年が両手をしまっていた自分の小さなポケットから片手を出す。それが発端となって導かれるささやかなドラマ。そしてさらに意外性は続く。男は少年時代からのワルで、久し振りに帰って泊めてもらった自分の実家の薬屋から、その「うた時計」ともう一つの懐中時計とを盗んできていたのだった。
 男は、自分の父親を知っているらしい少年、人なつこく疑うことを知らないその少年にほだされて、別れ際にそれらを返してくれと頼む。自転車で追いかけてきたおやじさんが真相を明かしても、少年は男を弁護する。
 私は読み進みながらいつのまにか瞼をぬぐっていた。なんとも言えず暖かい感情が胸をひたし、自分もこんな作品が書けたらどんなにいいだろうと思った。
 借りたのは牧書店の版だったと思う。私は他の作品も次々に読み、すべてに満足した。がっかりさせられたものは一作もなかった。「新美南吉」の名は私の大脳と心臓の中にはっきりと刻みこまれた。こんな作家が戦前の日本にいたのか!
 翌日、私はすっかり驚き感動した旨を友人に伝えた。視点の置き方は違うけれど、川端康成が『伊豆の踊り子』で果たそうとしたことを、この作者はわずか数枚の掌編で果たしている、そんなことも言った気がする。親しい友人と好きな作家や作品を共有でき、それについていろいろ話を交わせるということは人生の愉しみの大きな一つである。

 この原稿を頼まれて、私は大日本図書版の三巻本を取り出し、まずこの『うた時計』を読み直してみた。二十数年ぶりであったが、やはり変わらぬ感動を受けた。
てぶくろを買いに町へ出かけるこぎつねのようには、少年は町へ行く目的を示されていないし、実際町にも行きついていない。知らない同士の束の間の出会いと別れ。歩いてゆく二人に追いかける一人。大胆に単純化された設定の中に、人間同士の触れ合いの真実がさりげなく結晶している。
 少年の死んだ妹が「薬屋のうた時計」が好きで、死ぬ前もう一度聞かしてとぐずったので借りてきて聞かせた、というエピソードもいい。男が「そのおじさんは、その周作とかいうむすこのことをなんとかいっているかい?」と訊くのに対し、少年が「ばかなやつだっていってるよ。」と応じ、自転車で追いかけてきた父親が「あのばかめが。」と、そのやりとりを裏付ける形になっているのもよい。
 とりわけ、いったん行きかけた男が引き返して時計を渡すあたりのそれこれは、そうそう書けるものではない。銀の燭台を盗んで捕まったジャン・バルジャンはミリエル司教の慈悲ある配慮に触れて悔い改めるが、この男は少年の無作為の純朴さに触発されるのである。

 『うた時計』に見られる作者の認識の一つは、因果律に関するものである。この世の中は決して単純ではない。複雑な要素が複雑にからみあって、結果だけが厳然と立っている。この場合、くいちがったまま終わるはずだった親と子を第三者の少年が引き寄せ、自分がそうしていることにさえ気づかぬ結末であるが、作者は、少年という存在はあくまで縁であって、父と子の中に残っていた愛こそが真の因であるという認識を持っている。
 一見何でもないように見えるオーバーのポケットの中にも想像以上に複雑な事情が隠されていると見るのもこの作者の認識の特徴である。それは、いわゆるメルヘン的、民話的な発想の作品にも随所に見られるが、小説『久助君の話』や『川』で久助君が兵太郎君に人間の混沌や暗部を垣間見るのはその典型であろう。もちろん、『うた時計』で効を奏した巧まざる善意も、裏返せば『いぼ』で「どかーん」「どかーん」と空砲を射ちながら帰ってくる松吉・杉作兄弟の徒労のかなしみとなるのである。詩で言えば、我が子の恋した女性が地主の息子に嫁いでゆき、その上で新しい生活を営むことになる畳を黙って縫い続ける職人の父を描いた『父』なども、同様な認識の上に立っていることがわかる。
 新美南吉の小説は、主人公が一つの体験を経た後、何等かの認識を得るに至る過程を描いている。それらはすべて氷山の一角とさらにその下を重視するこのような認識に裏打ちされている。その認識は深いがゆえにしばしば寂しくかつ暖かい。彼の作品を読んでいると、何の変哲もない日常からドラマを紡ぎだすための必要条件は、自分自身や自分を取り巻く世界に少々絶望することであり、十分条件はその自分と自分を取り巻く世界をさりげなく深く愛することであるように思われてくる。
 しかし、思えば、そういう抑制されたヒューマニズムこそ、これが書かれた時代に最も欠けていたものではなかったか。
 『うた時計』が書かれたのは、太平洋戦争前夜である。人々はポケットの中で美しい音楽を奏でる「うた時計」の繊細な音色に耳を傾けるどころか、スピーカーから迸り出る「軍艦マーチ」や大空に轟く爆撃機の爆音に胸を躍らせていたのである。
青野聰は講演記録『自己への漂流』(岩波書店)の中で、次のように述べている。
「ヘミングウェイ、スタインベック、メイラー、こういう人たちは作風は大きくちがうけれども、世界を語ろうとしましたね。アメリカがあり、ソビエトがあり、ヨーロッパがあり、アジアがあるという地球上の世界と同サイズの世界。定義すれば、新聞が根拠としている世界です。しかし彼ら、ロスやソール・ベローやコンロイといった作家はそういう世界に目を向けなくなるのです。世界規模に拡がる体験は人間を語る材料にもうならない。戦争、白人と黒人の軋轢、世界放浪、そういう場に身を置くことで取り込んだ世界矛盾なんか大きくもなんともない。自分たちが個人的に体験したことのほうが、地球規模で人類が体験していることよりもずっと意味深いという見方が育ってきたわけです。市民生活や家庭生活の中での個人的な経験の方が語るにあたいするということで、個人的なレベルで経験や思い出を再編成、翻訳化する道を見つけたといってもいいと思います。」
 『決闘』(昭和11年)『空気入れ』(12年)『久助君の話』(14年)『屁』『川』(15年)『嘘』(16年)『貧乏な少年の話』『草』『耳』(17年)『狐』『かぶと虫』『いぼ』(18年)など、生活童話とか私小説ふう少年小説とか呼ばれている作品群は、この青野聰の説を結果的に具現しているものと思われる。
 特に作者が一字ないし二字の短い題をつけているのに、私は「詩」の発想を見る。そういった題を選択しようとすること自体が、何の変哲もない日常の実生活や一般庶民の営みを敢えて意識的に描こうとする強固な意思と無関係ではなく、当時の大状況に対するアンチテーゼでもあったと推測するのである。それは、世界を論じ天下国家を論ずることが大人の当然の論理であり最優先の課題であったその時代に対する、作者のささやかな異議申し立てだったのではあるまいか。
 ただ、この『うた時計』(昭和16年11月)を折り返し点とし、『おじいさんのランプ』(17年4月)『牛をつないだつばきの木』『花のき村と盗人たち』(17年5月)というふうにかつてのメルヘンや民話風の路線に戻っていくかに見える作風の変化は、私には一種の逃避のように映らないでもない。
 彼の詩の発想がリリシズムに流れ、攻撃性を失っていたのは返す返すも残念であった。

 とここまで書いてきて、そう言えば新美南吉の作品は、戦前は鈴木三重吉が、戦後は巽聖歌が手を入れたりして発表していたのだったということを思い出した。
そこで、あわてて、ほるぷ出版の復刻短編集『おぢいさんのランプ』(有光社)を開き、発表当時の『うた時計』に当たってみると、果せるかな、周作の父親は日露戦争の勇士で、左の腕にまだ弾の傷が残っている、「うた時計」はその日露戦争から帰るとき凱旋記念に大阪で買ったものだ、と少年が説明する部分の十行ほどがそっくりカットされ、前後がうまく繋ぎ合わせてある。
 私はいささかがっかりした。巽聖歌も余計なことをしたものだ。情けないことに、そのエピソードを語る少年の語り口に戦争批判の精神は全くない。父親の人間像を表わすエピソードとしても取り立ててどうということもない。つまり、このうた時計入手経路の説明は、全体の中の部分としてもあまり必然性がないので、私は逆に「軍国主義の時代を生きる作者の無意識的防衛、本能的カムフラージュ」と思いたいのである。形勢不利になった南吉を何とか弁護したいのである。
 私事で恐縮だが、私はかつて『チンドン屋の雨やどり』という作品を書いたとき、今日を限りに商売をやめるというそのチンドン屋が演奏する曲の一つとして、「見よ東海の空明けて、旭日高く輝けば」という歌を初めの方に出した。もう時代遅れになっている彼らを象徴させるつもりであった。しかし、後で読み直してみると、主人公の少年が最後彼らチンドン屋に愛情の念を持つように描いているので、結果、まるで作者の私自身が無批判にその軍歌を賛美している右翼のように映ってくるのであった。
 "木を見て森を見ず"になるということは、特に物語性を重んじようとする者の陥り易い一種の陥穽ではあるまいか。しかし、思想上の点検は常に為されなければならない。それは、推理小説であろうとマンガであろうと、メルヘンであろうとファンタジーであろうと例外ではない。いわんや小説に於いてをや。もう一度ヘミングウェイやスタインベック、ミラーに還らねばならない。
 かくいう私が今考えていることは、しかし、二十八年ぶりにもう一度『草の花』を読み直してみることである。
「日本児童文学」 1993/03
テキストファイル化山地寿恵