ファンタジーの行方/名づけと鏡とそして…

酒寄進一
「日本児童文学」1993

           
         
         
         
         
         
         
     
 小さい頃、ぼくは自分が宇宙人じゃないかとまじめに悩んだことがある。小学校三、四年の頃だ。何度も何度も、自分だけが地球人じゃない夢を見た。60年代後半のことだから、よくある異人幻想の現代版といったところだろう。以来、ぼくはそういう異人感覚と「子どもらしさ」の両極のあいだに揺れながら成長してきた。そんなぼくが、つねに魅力を感じてきたのは物語の中の異人たちだった。とくにファンタジー文学はその宝庫だった。
 最近はどんな「異人」に出会ったろうと考えていて、寮美千子の小説『ノスタルギガンテス』(1993、パロル舎)の主人公カイが頭に浮かんだ。「ぼくに見えるものが、あいつらには見えない。みんなが住んでいる世界に、ぼくは住んでいない」と感じ、途方に暮れる小学生のカイが垣間みる現実、幻想、そして夢。そのひとつひとつを紐解くと、現代社会のさまざまなほころびが見えてきそうで刺激的なのだが、ぼくが今、いちばんひっかかっているのは、「だれのでもない息子」と自認するバスチアンとの関係だ。バスチアン、いうまでもなくエンデの『はてしない物語』(1982、岩波書店 ドイツ語版原書の初版は1979)の主人公だ。なぜこのふたりの関係が気になるのかというと、それはまず個人的な動機から出発している。というのも、バスチアンが「だれのものでもない息子」つまり異人であるはずなのに、なぜか共感できなかったからだ。ところどころに見え隠れする「用意されたレール」を進むバスチアンに、そして彼の失敗さえも、そうしたシナリオの一部であるかのように感じさせてしまう語り口に何か違和感を覚えたからだ。
 だがこのふたつの作品を何度か読み返すうちに、カイとバスチアンの差が単なるぼく個人の読後感の差だけではすまされないことがわかってきた。ふたつの作品は思いの他、好対照の存在で、しかもそのあいだに作者の世界観や、この十数年で変化した子どもの状況の違いなどがほのみえてくるからだ。一例をあげてみよう。たとえば『はてしない物語』で目につく〈名づけ〉と〈鏡〉のモチーフが『ノスタルギガンテス』でも多用されている。『はてしない物語』では、バスチアンが病んだ幼ごころの君に新しい名前を与えることが「ファンタージエン」再生の必要条件だったし、バスチアンが自己を発見するための道具として〈鏡〉のイメージが肯定的にでてくる。ところがカイの場合は違っている。「ママ」に捨てられた「メカザウルス」をカイがある大きな木のてっぺんにくくりつけたことがきっかけになって、そこに集まりはじめた「役に立たなくてもとてもすてきな物たち」=キップルに吸い寄せられるようにしてカイの前に現れるふたりの大人がいる。ひとりは「ぼくが名づけることで世界が生まれる」といってはばからない「命名芸術家」、もうひとりは「みんなは、いまのままの世界で安住 していたい。だから、求めているのは創造神じゃない。世界を移す鏡なんだよ」とうそぶく「カメラ男」だ。バスチアンは〈名づけ〉と〈鏡〉によって異人であることから脱却していく、そこにどこかポジティヴな弁証法がすけて見えるが、カイは逆に〈名づけ〉と〈鏡〉によってさらに閉塞感が増幅される。ついには「ぼくを閉じこめないで」と泣きだしてしまうほどだ。ところで「閉じていること」をめぐってもふたつの作品は好対照だ。カイは閉じこめられることを極端に嫌う。それを象徴するのが「琥珀の中の弱虫」だ。カイは「光の牢獄」の中え滅びたことを忘れられない羽虫に困り果てる。カイにとって好ましいのは「名前を失った小さな廃墟」「自分が誰だったかをとっくの昔に忘れた貝殻や流木」つまりキップルたちだった。おそらくキップルのひとつになることが、カイにとって唯一「異人」であることから逃れる方法なのに違いない。ところが『はてしない物語』は何重にも閉じた世界だといえる。「幼ごころの君」のおしるし「アウリン」を囲む互いに尾をかむ二匹のヘビにはじまって、人間世界とファンタージエン国の関係性にいたるまで、さまざまなレベルで対になる存在が互いに分か ちがたく閉じた円環になっている。そして一方の再生は他方の活性につながるという補完の思想に貫かれている。
 バスチアンとアトレーユにしても、この補完の思想が当てはめられるだろう。バスチアンはファンタージエンに入ると、つぎつぎに物語(世界)をつくり、あたかも救世主(神?)であるかのように振る舞う。そして山のようなつくりかけの物語(世界)を後に残して、人間世界に還るのだが、そのしりぬぐいを買ってでるのがアトレーユだ。バスチアンはアトレーユがいることによって、自分の元の世界に安住の場所を見つける。だがカイには、アトレーユに当たる代理人はいない。始めてはしまったが、終わりの見つからないカイ。彼は「こんなことになるなんて思ってもみなかった。最初のひと滴を落とすのが神だとしたら、ぼくはきっとその神だ」と独白する。そこには作者の思想の差を越えて、袋小路のような現代社会の中で先が見えなくなっている今の子どもの状況が窺いしれそうだ。
 こう書いてくると、カイはペシミズムの権化のように見えそうだが、そうではない。カイの中では名前のないものを象徴するのは「地下の見えない水脈」だった。そしてその水脈を通してカイは認識する。「地下を流れる水、空に散乱する水、木々に吸いあげられる水、人の形をして走る水」、世界は「循環する水の庭園」なのだと。人間社会で異人だったカイは、最後に別の次元で世界とつながっている自分を垣間みる。閉じこめられることを嫌いつづけたカイがわずかな瞬間にせよ自分を解き放てたその場面は、作品中もっとも描写の美しいところのひとつだ。そこを今回あらためて読みながら思った。ぼくも小学三、四年の頃、世界とつながる別次元の夢を見たかったな、と。
テキストファイル化大塚菜生