国境の町、あるいはコーゼルの湿地

上野 瞭

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 先日、『お引越し』という映画を見た。原作者のひこ・田中さんが年賀状の端っこに、「それなりにようできた映画ですから」と走り書きしていたからである。
散文作品の映像化については、ぼくなりに一つの考えを持っている。偏見といってもいいのだが、それがどれほどみごとに作られた場合でも、原作者の不満あるいは違和感は決して消えないだろうという確信めいた思いである。たとえば『砂の上のロビンソン』というぼくの小説の場合、最初テレビ・ドラマになり、それから芝居になり映画にもなったのだが、ぼくはその三様の表現を見て、「違うんだよな、これ」とひそかに溜息をついてしまった。『アリスの穴の中で』が放映された時も同じで、友人が「おもしろかったよ」と電話してきたのに、「そうかなあ。あれはおれの物語じゃないよ」など相手の好意に水を差すような言葉を口にしてしまった。
 散文と映像は所詮、異質の表現世界なのである。散文作家は物語を書きながら、書きつつある人物や場面を脳裡に浮かべている。目と手は、原稿用紙の枡目に向けられているが、前頭部のあたりは原稿用紙に向いていない。書こうとする(あるいは書きつつある)「情景」を凝視している。そうした「風景」の見えない「もの書き」はまずいないだろう。作家は、言葉を繰りだしながら、すでにじぶん自身の内部に一種の映像を作りだしているのである。ぼくはよく、京都の吉田山界隈や琵琶湖疎水の情景に立ち戻るが、それを言葉に置きかえようとして表現力の貧しさに落ち込むことがある。内なる映像世界は光と影に満ち、風の匂いさえ鼻先をかすめる。それはしかし、地理的(あるいは空間的)意味合いでの特定の場所ではない。吉田山界隈といい疎水べりの景色といい、ぼくというフィルター(記憶や感性などを含む個人的条件)を通して再構成された風景に他ならない。だからこそ「情景」という言葉を使っている。作家が物語を書きながら、そういう情景をすでに呼び起こしているとするならば、いかなる映像作家が彼の物語を映像化しようとしても、そこに違和感が生まれるだろう。映像作家も また、彼の個人的フィルターを通して「情景」の創造を試みるのであり(それは再現ではないだろう)、それは原作者の内側に息づく「情景」と決して重なることはないからである。
 「情景」という言葉をひとまず風景に限って使っているが、誤解しないでほしい。実はその言葉でもって本当は、登場人物、葛藤、さらに「状況」と呼ばれるものまでを含めて考えている。
 ぼくは、ひこ・田中さんの『お引越し』(一九九〇・福武書店)をなかなか興味深い物語と考えているのだが――ついでにいえば『カレンダー』(一九九二・福武書店)のほうがもっとおもしろいと一人合点しているのだが――映画の『お引越し』のほうは、監督である相米慎二氏、それに「レンコ」役をやった少女をはじめとする多くの俳優諸氏、またスタッフの世界だと思っているのだ。この映画を見ることによって、原作者の意図したことはわかるかもしれないが、原作の持つ独自の世界とは離れるだろう。それは映画の後半が(これは一種の山場である)原作とは完全に違っているからというようなことではなく、散文作品のそもそも持つ可能性――つまり、読者の数だけ映像化が可能だという散文の喚起する想像力の世界が限定されるからである。鶴見俊輔さんの言葉を流用すれば、「誤解する権利」を狭められる。たぶんぼくは、原作も読まず、またこの映画がオリジナル・シナリオによって作られたものなら、もっとおもしろがったかもしれないのだ。こういう残念感は、『お引越し』に限らずよくあることなのだと思う。
 世評に高いウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』(一九五四年・フェイバー・アンド・フェイバー/一九七五年・新潮文庫)が映画化されたのは、一九八九年、ハリー・フックの手によってである。(ネルソン・エンターテイメント社だったと思う)孤島に漂着した少年たちが、最初は「社会秩序」といった既成の概念で生活を律しようとするが、そのうち「狂気の集団」ともいうべき「力の秩序」に同化していく様が丹念に映像化されていく。たとえば教会の合唱隊リード・ボーカルだった赤毛でソバカスの少年ジャックが、元合唱隊員だけを引き連れて海岸の漂着仲間の前に現れるシーンなどは、映像ならではの表現になっている。着のみ着のままの打ちひしがれた少年たちの前に、この一団は、黒衣の制服をまとい、ジャックの号令のまま整然と行進してくるのである。それは、かつてのワイマール共和国の社会混乱の中に、ヒットラー率いるナチスの抬頭した様子を連想させるし、そうした歴史的出来事を持ちださなくても、「人間の秩序」と呼ばれるものに内在する規制や管理や異質物排除の冷酷な一面をぼくらに感じさせる。一見「楽園」にも思える孤島の生活が、やがて恐怖と暴力の日常に 変わるのだが、映画のこの異様な行進の場面は、それを予感させる不気味さに満ちている。
 しかし、映画『蝿の王』によって、小説『蝿の王』をカバーすることはできない。それは映像と散文の優劣の問題ではなく、表現方法の異質性の問題である。映像はエスカレートする集団狂気の状態を可視的に積み重ねていけるが、個人の内側に生起する想念をカメラで描きだすことはできない。不安の表情、恐怖の瞳、絶望の仕種をクローズ・アップで把えることによって、内面の動揺や想念のほどを感得させるにすぎない。もちろん『ゴースト』のように「死者」を登場させたり、ナレーションを多用することによって人間の不可視な内面にアプローチする方法はあるだろうが、映画は本来「活動写真」であって、流れる時間を生みだすことこそその独自の役割なのである。
 『蝿の王』の中で、後半、仲間の少年たちによって虐殺されるサイモンが、切断され木の枝に串刺しされた野豚の頭と向き合う個所がある。「豚の頭」はサイモンに語りかける。
「わたしはおまえたちの一部なんだよ。おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ」
「分かるね。全くおまえは邪魔っけなんだ。わたしらはこの島でおもしろおかしく暮らしてゆきたいのだ」(平井正穂訳による。以下の引用も同じ)
サイモンは、悪魔の化身のような「豚の頭」の声を聞く前、同様のことを仲間に話しかけようとする。
「ぼくがいおうとしたのはたぶん、獣というのは、ぼくたちのことにすぎないかもしれないということだ」
 サイモンは、人間の持っている残酷性について語っている。人間が理性や知性と呼ばれる思考機能によって「秩序」を形成してきたが、それは常に「秩序」を維持する諸条件が備わっている場合の話で、生存の危機に直面した場合、野生の獣たちと変わらない行動を取るだろう。なぜなら、人もまた動物の一変種に過ぎないからだ。しかし、野生の動物と違ってもっと手に負えない点は、人はそれを「意味付け」し、正当化する「知恵」を身につけてしまったことだ。あらゆる行為を特定の「価値観」によって「もっともらしく」受容しようとする。たとえば旧ユーゴスラビアの内戦は(ボスニア・ヘルツェゴビナの悲劇は)、『蝿の王』においてサイモンの指摘した(いや、作者ウィリアム・ゴールディングの思い到った)「人間というものが侵されている根源的な疾病」の顕現に思えてならない。
 映像は、こうしたサイモンやピギー(この少年も漂着仲間に殺される)の内省に、多くのフィルムを割くことはないだろう。それは不可能というよりも映像の機能と制約からいってあまりにも「非映像的」すぎるからである。頁を繰るのももどかしいおもしろい物語を読んだ時、「まるで映画を見ているようだった」などという読者がいるが、それは散文の喚起した読者の想像力である。作家は映画を作らない。映画に喚起された自己の想像力を活字表現のバネにすることはあるだろうが、彼の描きだすものはあくまで内なる「情景」なのである。
 文字通り衝撃的だったアゴタ・クリストフの『悪童日記』(堀茂樹訳・早川書房)は国境の町を舞台にしている。また、オトフリート・プロイスラーの傑作『クラバート』(中村浩三訳・偕成社)は「シュヴァルツコルムの水車場」を舞台に物語を展開する。これらに息をのんだ読者は数え切れないほどいるに違いない。国境の町も、水車場のあるコーゼルの湿地も、読者の脳裡にその様子があざやかに浮かんだことだろう。だからといってそれらの作品が映像的といえるだろうか。映像は独自の形で物語を限定するが、散文は読者の数だけ多様に「情景」を提示するのである。人は時としてじぶんの見知った事柄で物事を説明しようとする、映画はその手近な例である。ぼくもまたその一人だが、映画『スタンド・バイ・ミー』とスチーブン・キングの原作との異質性(優劣ではない)は心得ているつもりである。
 これが、映画『お引越し』を見終わった後に考えたことである。児童文学にまったく関わりのない話ではないかといわれれば、それはそうだとしかいいようがない。しかし、「書く」にせよ「読む」にせよ、散文に関わるものは、その独自性(可能性?)についてこの程度の愛着(?)を持っていいのではないか。多数の子どもの本がでている。それを前にして、映画『フライド・グリーン・トマト』や『シティ・オブ・ジョイ』のほうが数段すばらしいと嘆息しないためにも。
日本児童文学1993/07

テキストファイル化秋山トモ子