児童文学に老人と子どもの像をさぐる

持田 槇子
日本児童文学 1996/04

           
         
         
         
         
         
         
     
 昔話はさておくとしても、洋の東西を問わず近代以後の児童文学も老人とのえにしは深い。ところがあたりまえのことだが、その描かれ方が時の移り変わりとともに大きく変化してきているのはとてもおもしろい。この変化は、社会的背景やそれに伴う児童観の変遷とともに歩んで、今日の高齢化社会における老人問題にまで発展してきたのである。
 そこで、古典的名作の中の老人はといえば、誰もが一に思い浮べるのが、『アルプスの山の娘』(一八八○年)と『小公子』(一八八五年)に登場するお祖父さんであろう。この二作は舞台背景にスイスの美しい大自然と、イギリス貴族の壮大な館という違いがあり、物語の趣きにも当然大差あるものの、いずれも十九世紀終わり近くの西欧におけるある種の児童観に基づいて描かれている。すなわち大人としての生を経て屈折し神への信仰も失った頑なな老人の、その心を開かせ信仰の道へと向かわせるのは、運命的に出会った幼い孫の純粋無垢なやさしさであったという筋立てである。
 その他、老人は、ある時は語りべであったり、老賢者であったりしながら、多くの児童文学に登場するのだが、第二次大戦後、老人と子どもを描いて世界的話題作となったのは、何といってもフィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』(一九五八<訳六七>・岩波書店)であるだろう。ここで出会うトムとバーソロミューおばあさんは、多くの物語にみられるような老人と孫という血縁関係ではない。伯父の家に一時預けられて不満と退屈に苦しんでいたトム少年は、これまで何の縁もなかった伯父のアパートの家主である老人の子ども時代と、不思議な時間の中でくり返し出会うのである。それは、トムが日ごろ無自覚に生きていた普通に流れる時間と、孤独な老年を生きるバーソロミューおばあさんの、忘れることのできない過去の幾つかの留まった時間との出会いであった。眠れないトムの真夜中、十三時というありえない時間の中で進行する、おばあさんの過去、ハティ少女との交流は、さすが二〇世紀も半ばのファンタジー。物語の非現実世界はリアリティーに満ちていて、トムの現実との関わり方も完璧な必然性をもっている。そうしてトムはやがて、今現実に彼が寝起きし ているアパートも、生活用品でごたごたした裏庭も、かつてはハティが少女時代を過ごした広い庭園と邸であったことを知る。年月がすべてを変えていく「時間」の不思議を、トムは四次元の世界を体験することで哲学的に考え得たのである。
 ここで、老人と子どもとは、と少し考えてみよう。一八〜九世紀に主だった、子どもは大人の雛型、立派な大人になるべく教育されるものという児童観は、一九世紀末から二〇世紀にかけて大きく変化した。子どもたちのもつ溢れるような想像力を認めることの大切さが次第に認識されるようになってきた。子どもは純粋無垢という観念からくる、理想主義、向日性などを根強く引きずりながらも、児童文学は、子どもの本質を考え、その内面をみつめ、子どもの言い分を理解しようとする大人によって創られるようになってきた。そしてこの二〇世紀末、より一層子どもの権利が叫ばれ、大人とともに生きる一個の人格としての子どもという認識のもとに、新しい児童文学の創造は歩みつつあるのだ。
 だがしかし、生きてきた時間の長さを考えてみると、大人との物理的な差は否定しようもない。まして老人と子どもにおいては、である。そしてその時間には経験の差というものが内包されている。そう考えると、老人の経験がもたらす豊かな知識と不安や苦悩、子どもの少ない経験からくる無知さ、無邪気さと育ちゆくパワー、この接点に燃えるエネルギーが、老人と子どもを描く児童文学を成立させているのではないか。またこうした物語で老人と関わることによって、子どもは、作中人物であれ読者であれ、自分たちの短い生をより豊かにし、「時間」というものの認識を得るようになるのではないかと思うのだ。
 その意味で、語りべとしての老人の役割にも大きいものがある。日本では「おぢいさんのランプ」(新美南吉・四二)で、家の納屋から古いランプをみつけだし、無邪気に遊ぼうとする孫に、祖父はそのランプにまつわる自分の長い人生の過去を語り、社会の移り変わりを認識させたし、イギリスでも「グリーンノウ」の物語(L・M・ボストン・五四〜七六<訳 七二〜七六>・評論社)で、「大おばあさん」が七歳の少年に、古い館にまつわる過去を語りつつファンタスティックな体験をさせて、不思議な時間の流れを認識させたのである。
 『トムは真夜中の庭で』の作者ピアスは『まぼろしの小さい犬』(六二 <訳七○>・学研)でも、また別の意味あいで祖父母と孫の交流を描いているが、こうした海外の作品が日本で次々翻訳出版されるようになった六○年代終わりから七○年代、日本でも森忠明が、祖父母との関わりの中で、時間について、人の生について深く考える少年を描きだした。『風はおまえをわすれない』(七七・文研出版)『花をくわえてどこへいく』(八一・同)である。
 前者では、両親が離婚してしまった六年生の花行少年が、年齢以上と思われるほどの思考力をもって、生について愛について死について考える。片親に育てられているのは不便だが自由もあると、勝手気儘に両親と祖母たち四つの家を往き来しながら、花行は祖母たちの老いや身近な動物たちの死を、かなり虚無的にではあるが真剣にみつめていく。祖母の家の、信仰というよりも慣習としての仏事の観念を抵抗なく受けいれている花行は、短い生しか体験していない子どもでありながら、今という時間だけでなく、流動的な時間の観念をもつようになっていく。生きるものには必ず命の終わりがくることを知って、時の流れの不思議とはかなさを考える花行は、では自分はどんな生き方をすればいいのかと思案にくれたりする。それはやはり、長い時間を個性的に生きてきた祖母との深い関わりによって認識された観念に違いない。『花をくわえてどこへいく』でも、同じく六年生の荘平が、年齢以上の思考力でもって生きるということについて真剣に考える。大人の世界に反発し、人生に絶望した優等生の荘平は家出をしたが、個性豊かな大工の七五郎お祖父さんに受け容れられ、豊かな自然の中での静養 を与えられる。荘平はその山中の温泉で一ヵ月余りを過ごすうち、祖父母以外の多くの老人との意味ある出会いを体験し、人生にとって、希望、楽しみ、張り合いが、どんなに大切であるかを少しずつ知っていく。ところがこのユニークな個性と感性に恵まれた作者は、この作品をもありきたりの認識成長の物語にはせず、最後に祖父七五郎の死に出会うことになった荘平の心に、奥深い余韻を残して物語をとじるのだ。
 このようにみてくると、ほぼ七〇年代の児童文学に描かれた老人は、わずか十年ばかりの人生体験しかもたない子どもたちに、長い人生を体験してきた人間の不思議な時間を考えさせ、老いの終焉には必ず死があることを認識させていく役割をもっていたのではないだろうか。イギリス生まれのE・ドネリーがドイツで出版した『さよならおじいちゃん…ぼくはそっといった』(七七 <訳 八一>・さ・え・ら書房)や、アメリカ先住民である若い作家C・K・ストリートの、民族としての死生観を謳った『おじいちゃんが冬へたびだつとき』(七九 <訳八一>・あかね書房)もまた、子どもが老人の死の意味を知っていく画期的な作品であった。それは七〇年代の児童文学が、世界的に人生経験の少ない子どもを配慮してのタブーをとり崩し、人生の暗い部分も隠さず描き始めたための当然のなりゆきであったのはいうまでもない。
 また現実に七〇年代は、個の確立、女性の自立によって家族のありようが大きく変化し、親の離婚に伴う孤立した子どもの問題が浮かびあがってきた時代であった。一方で核家族化による独居老人の生き方も問題を投げかけ、そこに必然的に老人と子どもの交流を新しい形で描く物語が生まれてきた時代であったのだ。その意味で、ヘルトリング作『おばあちゃん』(七五 <訳 七九>・独・偕成社)も、まさに時代の落し子であるだろう。
 これは交通事故ではあったが、突然両親を亡くした五歳のカレが、六十八歳の祖母のもとで育てられ、貧しい暮らしの中で、社会の仕組みを識り、老いとは何かを考えていく物語である。ここでは、作者は老いの現実をリアルに描き、一個の人間としての断固とした誇りと、精神的肉体的老化の自覚にゆれる祖母が、育ちゆく子どものエネルギーに支えられ慰められていく姿を、カレ少年の成長とともに描きだしている。
 しかし、世界的に、「老い」が昨今の高齢化社会の問題として児童文学に描かれるのは、八○年代にさしかかってからのようである。日本でも、前掲幾作かの翻訳年をみれば判るように、これら海外の作品を迎えいれつつ、老人の生き方と家族の問題、ひいては社会の問題として描かれた作品が出版され始めたのが八○年以後のように思われる。勿論そうでないものもたくさんありその内容は多様ではあるが、毎年三月号特集で前年度の出版動向を探る「子どもと読書」誌(岩崎書店)に目を通してみても、痴呆、超高齢、一人暮らしの老人や、老人との突然同居にゆれる子どもを描いた作品として紹介されている世界の児童書が八〇年以後に目につき、年々増加して九〇年代の今に至っている事実が読みとれる。先にあげたヘルトリングが、娘の家庭に迎えいれられ、その家族を戸惑わせながらも個性いっぱいに生きた老人を描いたのも一九八一年のことである。(「ヨーンじいちゃん」<訳 八五>・偕成社)。
 だが現実では、地道な向上はとげているものの、未だ福祉面での行政的援助に乏しい国々に高齢の老人が生きるのは容易なことではない。かなりの個人差はあるが多くの老化には肉体的精神的障害を伴い、それは他人の介護を必要とするからである。昔のような家族制度が崩壊し、核家族化した家庭が圧倒的多数を占める今日、女性は社会にでて男性と変わらない能力を発揮したり、また広い社会から何物かを学びとろうと家庭の外にでていくのが普通のこととなっている。理解ある家族は決してそれを妨げず、互いに協力関係を保ってよりよい家庭を築きだしている。ところが、老人は健康に恵まれていてこその自立であって、ひとたび障害を背負えば他人の介護を求めることになる。その任にあたるのは、やはりまずは主婦ということになるのが多くの現状である。このことは、日本に限らず海外の作品にも顔をのぞかせている。しかし児童文学では、こうした老人をめぐる問題は、たいていが老人と子どもの愛と相互理解による幸せな結末へと進むのだ。それはそれでなかなか真実味もあり、十分な感動をも覚えさせられるのだが、さて介護の負担を最も大きく担う女性は、と考えるとき、長年この問題 に直面してきている筆者はウッと息詰まってしまう。
 例えば、ドイツのモニカ・ハルティヒ作『ひいおばあちゃん』(八九<訳 九二>・講談社)をみてみよう。ヨシは思考回路にもまだ幼さの残る二年生。妹の誕生を待ち望むが、母は自分の生き方に子どもはもう厄介だと仕事の楽しみの方を選んでいる。父も多忙な仕事人間である。そこへいきなりやってきたのがヨシの父方の曾祖母。それはこれまで面倒をみてくれていた祖母(曾祖母の娘)の突然の死が原因なのだ。悲しみにうちひしがれ、陰気に泣きどおしのしわくちゃの「ひいばあば」に、部屋もベッドもゆずらねばならないヨシのショックと苛立ちは大きい。ところが初めは母親から、大人の言い分で一方的に納得させられ協力を求められていたヨシが、痴呆の兆しもみえるばあばの心にひそむ過去の思い出に触れ、幼さゆえにもつみずみずしい感受性(それは、大人が日常のあまりの忙しさの中で失ってしまったもの)でもってばあばと接触しはじめる。そうしてヨシは、人が老いることの意味をわが身の将来をも含めて考え得る少女に育っていく。またヨシは知能に障害をもつ友だちハイケを嫌っていたが、ばあばとみごとに心を通い合わせる彼女からもたくさんのものを学びとる。一方ヨシの母は、日増しに老化が進むばあばの介護のために仕事をやめざるをえなくなる 。その苛立ちをかかえての日々。結局この母も、子どもたちの感受性がばあばに生きる力を与え、幸せな納得ずくの死へと向かわせつつあることに心を動かされ、ばあばの最後を家庭で温かく看取ってあげるのだ。
 この作品では、老人と子どもの愛と相互理解が実によく描かれている。父親の姿、母親の姿もしっかり顔をのぞかせている。泣き虫だったばあばの幸せな最後にも深い感動を覚えることができる。それだけに、生き方の変更を余儀なくされ、これでよかったのだと納得するヨシの母親像に何か苦しいものを感じてしまうのだ。これは老いを扱った作品ではないが、I・コルシュノフ作『ゼバスチアンからの電話』(八一 <訳 九〇>・独・福武書店のちベネッセコーポレーション)の父親像と母親像、ヘルトリング作『ひとりだけのコンサート』(八九 <訳 九一>・偕成社)の父親像に、何か日本の状況に近いものを感じている筆者は、『ひいおばあちゃん』に出会ってまた改めて、ドイツにおける新しい女性の、男性の、その生き方や如何にと考えてしまったのである。
 ではもう一つ、最も平均的かと思われる日本の家族を描いて老人介護の問題を深く考えさせる『さよならの日のねずみ花火』(今関信子・九五・国土社)をみてみよう。ここでは冒頭から、祖父の臨終を見守る麻衣子・健太郎姉弟の、家族や親族それぞれの気持ちが生々しいまでにリアルに描かれる。だが祖父は奇跡的に危機を脱し、それからの回復と大往生までがこの物語である。ここでも、寝たきりの痴呆老人となってしまいそうな祖父に、まず回復へのきっかけと希望をもたらしたのは二年生の健太郎だ。彼の純粋な熱意が原動力となって、やがて家族中が涙ぐましくも微笑ましい努力で「おじいちゃん」の介護にあたるようになる。だが、六年生の麻衣子には、老人に子どもたちの家を渡り歩かせて、家族は面倒見の負担を軽減し、行動の自由を楽しんでいる友人夏芽がいる。男も女もない、人生はただ一回きり、介護のためにがんばることはないと語る夏芽の母の言葉に、自分の家庭との違いを考えて麻衣子の心はゆれる。そんな麻衣子には、祖父の介護をめぐる家族の労や親族のごたごたをみるのは耐えられないのだ。ところが彼女も祖父の排便の苦しみに直面し、健太郎と必死で力を合わせてそ れを介助することで心の峠を乗越えた。作中、まことに感動の一場面である。そして「おじいちゃん」の最後もまた感動的である。もっとも公共福祉の援助もあってのことではあるが、自宅に居ながらにして、年取った妻、息子夫婦、同居の孫、それぞれの家庭を空けて遠くからもやってくる娘たちの、手厚い介護を受けて旅立った「おじいちゃん」は現代老人の中の果報者としかいいようがない。夏芽の家庭のような新しい生き方に対して、麻衣子の祖母や伯母は「大切なのは、時代をこえていくもんやで」、介護の困難に「濃くかかわったら、得るもんも濃いんやで」と語りかける。この作品は、それがどれほど大変なものであるかを十分に描きながら、しかし老人にとって家庭での介護がどのくらい大切であるかを語りかけてくる。だが筆者は、もっともだもっともだと頷きながらもつい考えてしまう。幸せな老いの終焉のためには、これだけの家族親族を総動員しなくてはならないという現実を。そしてここには、主として女性の時間と労働の提供が求められるという現実を。
 ここで少し児童文学を離れて、いま評判の『黄落』(佐江衆一・九五・新潮社)に目を向けてみる。かつてのベストセラー『恍惚の人』(有吉佐和子・七二・新潮社)では仕事をもち家計を助けながら、痴呆の舅の介護に孤軍奮闘する立花昭子は、まだまだ日本的家の観念に束縛された戦後女性の姿であり、舅も夫も、その精神はまったく古典的な日本男子であったが、比べて『黄落』には、老人介護の息子夫婦の意識に、その後の年月がもたらしたあきらかな変化がみられる。嫁と姑の個性にもなかなか魅せられるものがあるが、やはり高齢化した両親に捧げる初老夫婦の時間と労働が涙ぐましい。これを日頃の筆者の想いと相重ねるならば、今の日本では未だ人情が先行し、介護する方もされる方も本当の自立心をもっていない、否もち得ないという答えが返ってくる。そこには高齢者の意識改革の乏しさ、福祉面での社会の援助のまだまだの遅れなど、介護にあたる家族親族の自由と自立を妨げるものが大きく横たわっていると思うのだ。
 ところで、児童文学では、こうした結論のない現実を描いても、ふつう一応の結末が求められている。確かに、よくいわれるように児童文学が「生の賛歌」であるならば、児童文学がよい意味での理想主義を保持していくならば、同じ高齢化社会の問題を取りあげても、『さよならの日のねずみ花火』のような感動の結末も悪くはないだろう。また、こうあってほしいという老人の姿をパロディクに楽しく描き出すのも悪くはないだろう。だがこの現実の重たさは、老人と子どもの愛と相互理解がもたらす幸せな結末への感動を、しばしば薄めさせてしまうことも事実なのだ。
そこでちょっとアメリカの作品に目をむけてみると、やはり今を生きる老人の登場が目立っていた。中でも『愛と悲しみの12歳』( E・ダイヤーク・九〇 <訳 九四>・文研出版)、『おじいちゃんとの戦争』(ロバート・K・スミス・八四<九一>・文研出版)は、いずれも老人との突然同居にゆれる子どもの物語であり、老人一人暮らしの困難さは世界的な問題であると思われる。そして二作とも結末は老人と子どもの愛と相互理解へと進むのだ。
 前者は、祖父に死なれ痴呆の気配の現れた祖母がやってきて、孫娘の部屋に同居。それを疎外しつづける不服いっぱいの十二歳の少女の物語。だがこの主題は少女の日常にはいりこんだ亀裂としての老人であって、その介護云々の問題とは受けとれない。それだけに幸せな結末もひかえめで、家族が皆それぞれの考えをもち、理性的でこまやかなやさしさをもっているのがさわやかだ。また後者は、妻を亡くして悲しみにうちひしがれている祖父を迎えいれることになった五年生の少年が綴る物語。「ぼくの部屋」を取りあげられた彼は憤慨のあまり、生きる気力さえなくしている祖父に、遊び仲間の知恵もかりてかなり過激ないたずらで戦争を仕掛ける。かつては「おじいちゃん」が大好きであったという彼のその言葉には、いささか疑問を感じないではないが、ここでは孫のいたずらに対応していく祖父の意識が良い。長い人生経験からくる深い考えで、しっかり孫に小言もいい、そして愛し、老いてなお心の成長をとげていく「おじいちゃん」は、休戦の後の孫の心にきっとすばらしいものを残したことだろう。
 最後に、福祉国家といわれる北欧に老人と子どもの像を探ってみたら、『ひみつの通信きこえますか?』( B・ベリイマン・七五・<訳 九五>・偕成社)というとても味わいのある作品に出会うことができた。だがさすが北欧。高齢者の社会問題ではなく、主題は十歳の孫娘とその特別な友人にあり、孫とともに「死」についてもしっかり語り合う「おばあちゃん」の、奥行のある生き方考え方が、子どもたちの無知無鉄砲でまっすぐなパワーを温かく受けとめ、幸せな結末へと導いていくのだった。
 そこで昨年出版の、老人と孫娘を描いて異色の『西の魔女が死んだ』(梨木香歩・九四・楡出版)を思いうかべると、こうした日本の児童文学もまだまだ今後に期待がもてそうだ。核家族化のために老人を識らない子どもも多いと聞く昨今、老人と子どもを描いて優れた子どもの本の、さらなる誕生を心から願ってこの稿をとじることにしよう。(持田 槇子


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