昔話に限らず、子どもの本には、おじいさんやおばあさんがよく登場してきた。伝統社会では、働き盛りの父親や母親に代わって、祖父や祖母が子どもたちの子守役を引き受けさせられてきたからなのだろうか。物知りで、物語上手で、ちょっと頑固だったり、ときどき奇行に走ったり、おじいさんやおばあさんは、くまさんやうさぎさんと同じように、子どもの物語にとっての貴重なキャラクターだ。そして現実の祖父母は、父や母とは違って、子どもにとっては物分かりのいい優しいスポンサーでもある。お誕生日に、クリスマスに、お年玉に、おじいさんおばあさんからのプレゼントには、両親以上に期待がかかる。
実際に、現在幼児から小学生くらいの子どもの両親は、だいたい三十代半ばだから、おじいさんやおばあさんは、六十歳前後。まだ定年までも間がある働き盛りの元気なおじいさんも少なくない。というわけで、もう少し年齢を上にスライドしたところでも、子どもの本の中心読者層の祖父母には、なかなか「老人」のイメージは重なってこない。
たとえば、和田誠の『冒険がいっぱい』(文溪堂)のおじいちゃんは、主人公のヒロシの母方の祖父だが、自分のことを「ぼく」という。父母も祖父母も若い時に結婚したから、普通のおじいちゃんよりも若いという設定になっているものの、このおじいちゃんは感覚も若い。戦時中の疎開体験から、戦後の進駐軍が子どもたちにガムやチョコレートを配っていた頃のエピソードを、虚実混ぜ合わせて孫のヒロシに語るのだが、悲惨で恐ろしい話も、このおじいちゃんの口を通すと、スリリングで不思議な冒険物語になってしまうところが新鮮だ。
壮絶な老人介護が話題になった佐江衆一の『黄落』(新潮社)の主人公が六十歳ということは、和田誠と同世代だから、「老人問題」とは、むしろ彼らの親の世代、つまり現在の子どもたちにとっては、祖父母たちが抱える曽祖父母の問題なのだ。ということは、今日の一般的な子どもたちにとって、「老人」は家族関係の中ではなかなか現実的な視野に入りにくい存在なのである。にもかかわらず、「老人」と「子ども」を、ともに「社会的弱者」だというような共通項で括ってしまっては、この距離をますます見えにくく隔ててしまうのではないだろうか。ましてや、一時期の親の離婚問題などのように、「老人問題」を児童文学の直面するテーマであるかのように安易に氾濫させてしまうのもかえって犯罪的だ。とはいいながらも、すでに、その傾向が出始めているのだから困ったものだ。
現在、わが国は確実に高齢社会に突入してきている。全人口に占める六十五歳以上の割合が、七パーセントを超えると高齢化社会、十四パーセントを越えると高齢社会、二十パーセントを超えると超高齢社会になるのだという。わが国は、一九七〇年に七パーセントを超え、九四年に十四パーセントを超えた。つまり、わずか二十四年で高齢化社会から高齢社会に移行したことになる。同じ経緯を、スウェーデンが八十五年、フランスが百十五年かかったのに比べると、実に急激な高齢人口の増加である。
この急激な変化が、様々な問題を引き起こす。今日では日本の全世帯数四一八〇万のうち、高齢者だけの世帯が五百万。そのうち一人暮らしが一九九万で、しかもその八十パーセントが女性である。また高度経済成長期以降の核家族化の進展が、これまでの家族のあり様を解体し、同一家屋内に世代を超えた家族が一緒に住むことが少なくなる。しかも列島改造で地下が値上がりし、都市部では二世帯が共に住む空間を確保することさえ難しくなった。この間に、子どもが祖父母とともに暮らすという、それまで当たり前だった光景が、ほとんど見られなくなったのだ。
湯本香樹実の『夏の庭』(福武書店、のちベネッセコーポレーション)は、まさにそういった時代の一人暮らしの老人と子どもたちの関わりを視野に収め、その中に人の死の意味を浮かび上がらせた作品である。
登場する子どもたちは、小学校の六年生。同級生の山下が、おばあちゃんの葬式で田舎にいく。主人公の「ぼく」は、お葬式なんて出たことがないし、誰かが死んだらどういう気持ちになるかなど、まったく理解できない。高度成長期以前の日本だったら、祖父母と同居している子どもたちが少なくなかったし、日本人の平均寿命も今日とは比べ物にならないくらい低かったから、家から死者を送り出すことも珍しくなかった。実際ぼくたちも、子どもの頃にはずいぶん葬式に出会ったし、土葬や火葬の現場に立ち会った。一昨年インドネシアのバリ島で、村の中学校の副校長の葬儀に参列したときなども、火葬にする前に、生徒たちが棺の中の死者に順番に対面していた。
『夏の庭』の子どもたちにはそんな経験がないから、お葬式に出席した山下にその模様を執拗にたずねる。山下はそれに答えて言う。
「人は死ぬと焼かれるんだ。火葬場、というところに運ばれて、お棺が、大きなかまどのなかにするすると入ってがちゃん! と扉が締まる。そうして一時間後には」
「一時間後には」ぼくは身を乗りだした。山下の声がだんだん小さくなってきたので。
「骨になるんだ。ぜんぶ焼かれて、骨だけが残る。白くて、ぼろぼろ。すっごくちょっぴりしかなかったよ」
「一時間もやかれるの」
「うん」
「熱いだろうな。ゴーゴー燃えるんだろうな」
「その骨を、みんなでお箸でつまんで、骨壷に入れるんだ」
「お箸でつまんで」
「そう。それでおしまい」
それでおしまい、か。でも。
「泣いたりした」ぼくはきいた。
「ううん」
「おまえのおばあさんだろ。悲しくなかったの」
「だって、赤ちゃんの時に会ったきりだもん。知らない人みたいなものじゃない」
人は死ぬ。しかし死んだ後どうなるか。作者は山下の口を通して、その部分を克明に描写して見せる。山下の説明に、「ぼく」も友だちの河辺も気が気でない。「そういえば、ぼくだって、おとうさんのほうのおばあちゃんには、もうずいぶん長いこと会っていない。どんな人だっけ」と、作者は主人公の少年にも言わせる。多少オーバーではあるが、核家族状況の孫と祖父母の関係を象徴的に語っているようでもある。山下は、おばあちゃんの死顔を見た。耳と鼻の穴に綿みたいな物が詰まっていた。そのおばあちゃんの死体が山下の夢に出て、山下とプロレスをするんだそうだ。山下は怖がって、葬式なんか行かなければよかったと嘆く。
しばらくしてこの三人が、一人暮らしの老人を監視して、その死ぬところを見届けようということになる。山下の体験に刺激された河辺の提案だ。子どもならではの好奇心と言っても、怖い物見たさと言ってもよい。いずれにせよこの不埒な動機が、生気を失った一人暮らしの老人の晩年を活性化させるというところに、この作品の輝きがある。身寄りの無い老人を助けようとか、親切に思いやるなんていうのではないのだ。死んだ姿を見たいという、ただそれだけの動機から老人にアプローチしていくうちに、老人と子どもたちの間に奇妙な親密感が芽生えてくるのだ。
ワルガキどもの悪戯の対象にされるというのは鬱陶しいけれども、世の中から全く疎外されているのに比べると張り合いがある。しかも元気いっぱいの子どもたちと関わるには、それなりのエネルギーが必要だ。老人の生活に生気が蘇る。少年たちも様々なことを知る。しかしそれも束の間、少年たちが合宿に行っている間に、老人は人知れず静かに息を引き取っていた。彼らは始めて人の死に向き合い、その悲しみや虚しさを実感するのだ。
「老い」は死に向かって時間を刻む。幼い生はその対極にあるのだから、死に向かう時間の恐れを実感するのは難しい。
ペーター・ヘルトリングの『ヨーンじいちゃん』(上田真而子訳、偕成社)は、一人で暮らしていた七十五才の母方の祖父、ヨーンじいちゃんが、娘夫婦の家に同居することになるところから始まる。孫のラウラは十二歳、ヤーコプは十歳。ヨーンじいちゃんは、六十歳の頃には、身長が一メートル九十七センチもあったというから、相当なのっぽだ。それが今では一メートル八十九センチ。年を取ると背が縮むのだ。生活習慣や言葉遣いが多少みんなと違うけれども、とりあえず家族の一員として溶け込み、近隣でも人気者になり、恋人までできる。特に体の不調を訴えることも無かったのだが、両親が留守のときに卒中で倒れ、それ以来めっきり老化が進む。そのうち、奇行が目だってくる。ヤーコプがいるのにも気づかずに、ガスの栓を開けたまま点火もせずにガスを出しっ放しにして、ヤーコプを慌てさせる。室温調節のサーモスタットを誰かが下げると、反対にそれを押し上げて部屋中を蒸し風呂にしてしまう。しかも人の言うことは聞かなくなるし、子どもみたいな振る舞いが続く。家族はイライラがつのり、今にも怒りが爆発しそうになるけれども、なんとか持ちこたえた。 そのうち主治医も入院を勧めるのだが、それに反対した父親は仕事から早めに帰宅して、ラウラやヤーコプも一緒にヨーンじいさんの側で時間を過ごした。そしてついに、ヨーンじいちゃんに死が訪れる。ラウラにもヤーコプにも、それは信じがたいことだった。ヤーコプは泣くこともできなかった。ヨーンじいちゃんと一緒に死んでしまいたかった。
ヤーコプとラウラは、ヨーンじいちゃんと一緒に生活することによって、その人となりに引きつけられていく。しかしそれは、一緒に暮らしていないと見えないものだ。たとえ肉親だといっても、その死に対しては『夏の庭』の少年たちのように、何の感慨もなかったかもしれない。一年余りを共に過ごすことによって、確実に死に向かうヨーンじいちゃんの気持ちに寄り添えたのだ。
『ヨーンじいちゃん』は、死に行く者に対して、家族はどう支えるかという問題に一種の回答を提示しているようでもある。たとえボケが進み、それが家族にとって堪え難いほどの状態になっても、その不満を露出させながらも全員で支えていくという潔さである。とかく家事を担う母親にのみ負担がのしかかりがちなところを、父親も子どもたちも一体になって、それを支える。それは、ヨーンじいちゃんに対する敬愛の気持ちがあるからだ。とりわけ、そこでも子どもの存在が重要なポイントを握っている。家族が、死に行くヨーンじいちゃんにとっての、魂の癒しの場になっているのだが、ひるがえってそれは、老人を抱えることで、子どもたちにとっても癒しのシステムとして機能していることを見逃すことはできない。
子どもたちにとって「老人」とは、自分たちの生の対極にあるものだから、その死に向かう生の困惑は見えにくいものである。むしろ老いの醜さや、生活環境の違いや、食習慣の違いなどから、異星人のようにさえ見られかねない。しかもわがままで、頑固で、自分本位で、威張っていて、最も付き合いにくい存在でもある。しかしそういった老人であっても、長いあいだ一緒に暮らしていたらどうだろうか。高度成長期以前の伝統社会では、子どもたちが生まれた時から共に暮らしているのだから、単に家父長制度的な権威と幻想を除外しても、祖父母や曾祖父母に対する尊敬と親愛の情が自然に培われてきている。それを現在に望むべくもないが、ヘルトリングは、自らの問題として、高齢社会における老年期のありうべき理想を提示して見せたのかもしれない。
山中恒の『とんでろじいちゃん』(旺文社)も、老人と子どもの心の交流を、老人の奇行を軸にして過去と現在を自在に行き来しながら、ユーモラスに描いた作品で、不思議な感動をさそう。
高齢社会における老人の問題は、直接的には自分の老親とどのように付き合うかということに収斂するが、それは自分たちの老年期をどう生きるかとも重なってくるのだ。
清水義範の『日本ジジババ列伝』(中央公論社)は、老いの不安や悲哀を突き抜けた、シタタカでたくましい老人たちの姿を鮮やかに描き出し、しみじみとした笑いの中に現代を生きる老人の一面をユーモアたっぷりに表現する。それはまた、老年期の輝きのようにも受けとれる。
子どもにとって「老人」とはだれかと問うならば、どの大人にとっても、それは自分自身の問題だということを外して答えるのは空疎なことだ。