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現代は不透明な時代であると言われている。共同体が縮小および細分化した結果、それまで共同体で共有されていた大文字の物語は、もはや成立しないからだ。このような不透明な時代にあって、透明な物語(共有されるべき大文字の物語)を提出することが困難をきわめるであろうことは想像に難くない。本書は、不透明な時代に敢えて透明な物語を提示した。それが如何に困難であったのかは、その記述スタイルが屈折していることから窺える。そこで、まず最初に、本書の記述スタイルから見ていくことにしたい。 本書の目的は、「「子ども」と「大人」の「境界」を、あらためて「理念」として問う」(2p)ことにある。そこで第T部「「13歳」の物語史」では、過去の文学作品(マンガ一点を含む)が「子ども」と「大人」の「境界」として「13歳」を設定していることに着目している。ただし、そこでの手続きが同義反復的であることに注意しておこう。著者は「13歳」を指標に作品を選んでいるのであって、その逆ではないからである。無作為に選択された作品群から抽出された結果ではない以上、「13歳」が「子ども」と「大人」の「境界」である必然はない。著者自身もまた、「なぜ「12歳」ではないのか、なぜ「14歳」ではだめなのか。残念ながら、そういうふうにはいかない。「13歳」が主題なのだ」(1p)と宣言している。「境界」が「13歳」であることに反論することは、予め去勢されているのである。ゆえに、著者が提示したルールにしたがって、反論することはしない。問題設定からして、その記述スタイルは屈折していると言わざるを得ないのである。 第T部で「境界」としての「13歳」を主題化した著者は、第U部「はじまりとしての「13歳」」で、「13歳以降」の「理念」を提出する。その「理念」については後述するとして、そもそも、「13歳以降」を「理念」として設定しなければならなかったのは何故なのか。著者は、「「13歳」を「大人のはじまり」と設定することによって「その後」のことを考えられるようになる」(220p)からこそ、「13歳」そのものを主題として設定し、理念化したと言う。暴力的な問題設定を性急に理念化してまで、著者が「その後」に執着するのは何故か。おそらく、そこには「子ども」と「大人」の「境界」が曖昧であることに対する過剰なまでの危機感がある。象徴的なことに、著者は「モラトリアム」を批判する。「モラトリアム」なる概念は、「大人になること」の延期を肯定するが故に、「醜悪で有害なイメージ」(221p)として嫌悪されているのである。ゆえに、「子ども」と「大人」の「境界」は、「幅」(モラトリアム)としてではなく、「線」としてイメージされることになる(13p)。「13歳」という境界線には、「13歳以降」を考察するための形式的な手続き以上の機能、すなわち「モラトリ アム」を切断するための「線」としての役割が与えられているように思われるのだ。たとえば、著者は「18歳の少年」(82p)あるいは「16歳の少女」(155p)という表記を批判している。一般に「少年」「少女」というカテゴリーは、「18歳」および「16歳」を含まないからである。このような「幼児化表記」は、若者の幼児化を促進させると同時に、彼らを「大人」扱いしない意味で無礼な態度であると言う。しかし、実際にそのように表記されても違和感がない「モラトリアム人間」が存在している以上、彼らの存在を否認してよいものだろうか。本書の第T部で、「オタク」系の文化が見当たらないのは偶然ではないだろう。だいいち、「子ども」と「大人」の「境界」が曖昧であることから出発した考察が、当の前提そのもの(境界が曖昧であること)を否認してしまっては、議論そのものが成り立たないのではないか。本書が議論そのものを回避しているような印象を与えるのは、このような論述の仕方にあるように思われる。ここにも、先に指摘した記述の屈折が指摘できるのである。 さて、本書の目的は「子ども」と「大人」の「境界」を「理念」として問うことにあった。具体的には、「君子」というモデルによって理念化されている(「君子/小人」モデルは孔子に由来する概念だが、以下の議論は本書が提出したモデルを検討しているのであって、孔子のそれとは無関係である)。著者によれば、「子ども」と「大人」の「境界」が曖昧なのは、「大人以降」のモデルが不在であるからだと言う。つまり、「君子」というモデルは、「大人」にそのまま代替されないものなのである。「君子」は「大人」が追求すべき目標として設定されているからである。著者は、【子ども→大人→君子】のように図式化している。ここに言う「大人」が「小人」(しょうじん)としてイメージされていることに注意しておこう。「小人」とは「自分勝手で、協調性がなく、差別的な行動をとって何の自覚もない「大人」のこと」(221p)で、「君子」とはそのような「小人」の到達目標なのである。さらに【子ども→大人(小人)→君子】モデルは、著者が批判する【子ども→青年(モラトリアム)→大人】モデルに一致しないと言う。すなわち、「小人」は「青年」、「君子」は「大人」を意味 する訳ではない。便宜上、前者を孔子モデル、後者をモラトリアム・モデルと名付けておく。著者によれば、「小人」が「青年」と一致しないのは、「小人」はあくまで「大人」であるのに対して、「青年」は「大人」ではないからである。「君子」が「大人」と一致しないのは、「君子」が「大人以後」の段階であるのに対して、モラトリアム・モデルでは「大人以後」がないからだとされる。複雑なモデルに見えるかも知れないが、論点は二点しかない。便宜上、【子ども→青年→小人=大人→君子】という折衷案を設定する。この第三モデルと孔子モデルを比較すれば、「青年」(モラトリアム)を経由せずに「小人=大人」になるという前提と、「大人以降」の段階としての規範モデル(君子)という結論が明確になろう。孔子モデルはモラトリアム・モデルを批判するために設定されたものなので、その有効性はモラトリアム・モデルを批判できるという点にはなく(それは同義反復だ)、結論部分の規範モデルによって議論されなくてはならない。そもそも、前提部分(モラトリアム批判)は先験的に与えられた命題なので、規範モデル(君子)を議論する余地しか残されていないのである。 「君子」とは、「「礼」を踏まえて行動できる人」(245p)として規定されている。そして、「「違い」を前にした時に、その「違い」を沸き立たせないための実践」(239p)が「礼」だとされる。「礼」という実践が「郷にいれば郷に従え」という諺によって説明されていることからも推測されるように、これは共同体を前提にした発想である。共同体間の移動に価値観の変更が伴うところまでは理解できるが、何故「違い」を沸き立たせてはいけないのだろうか。その答えは一つ、そのような「違い」が共同体の存立を危うくさせるからである。結局のところ、君子モデルは共同体に回帰してしまっている。興味深いことに、「「君子」という「礼」を生きる独特の「公の人」のイメージは、(略)「契約」を基盤に発展した近代ヨーロッパの個人主義の「公の人」のイメージとはずいぶん違ってくる」(257p)らいし。ここで、「違い」を前にして「違い」を黙認する「共同体」とは対照的に、「違い」を調整するのが「社会」であると規定しよう。上記の文章は、「社会」(契約)と「共同体」(礼)の対比として読めはしまいか。「契約」ではなく「礼」を重視すべきであるという主張は、本書 が議論そのものを回避する傾向にあったことと無縁ではないだろう。ここに、「形式」(記述スタイル)と「内容」(「礼」という原理)が相互に規定し合うループが指摘できる。そもそも、君子モデルが提出されたのは、「大人以後」のモデルが消滅しているからであった。規範モデルの消滅とは、そのようなモデルを共有する共同体の消滅を意味するはずなのだ。にもかかわらず、提出されたモデルは原理上、共同体に回帰するものであった。したがって、君子モデルは、不透明な現代社会という問題に透明な共同体モデルで回答してしまっているため、有効ではない(「違い」に直面する困難こそが現代社会の不透明さを物語っているのだから)。君子モデルは、モデル自体が機能不全に陥る現代社会の不透明さを回避してしまっているのだ。 しかし、本書に揺らぎがない訳ではない。たとえば、「13歳」で「通過儀礼」をすべきだと言う提案は、前提(通過儀礼の喪失)と結論(通過儀礼の復活)がループしている。しかし、そこで提案されている「通過儀礼」は、個人化されている(「新しく自分の力で、社会システムのなかにつくり出さなければならない」132p)。これは困難だが不可能ではない方向であると考えるが、個人化されているものを「通過儀礼」とは普通言わない(通過儀礼は共有されていることが前提なのだから)。また、「13歳」が「家の人」から「法の人」に転回する時期である(べきだ)という記述がある。「法」という語がかなり広義に使われているので一概には言えないが、「法」が「契約」を前提にする以上、「礼」という行動規範は「法」と相容れない関係にはないのか。本書は、「礼」と「法」の間で揺れているように見えるのだ。 本書は、不透明な時代に透明な物語を提出することで躓いてしまった。しかし、躓くことでしか直面できない性格の問題があるのではないか。本書は躓くことで、不透明な現代社会に直面しているのであって、それは正当に評価されるべきだと考える。私が批判しているのは、本書が躓いたことではない。その躓き方なのである。 (『研究誌 別冊子どもの文化』第2号、子どもの文化研究所、00年5月刊行)
(村瀬学著『13歳論』洋泉社 1999年2月 2,400円)
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