2000年の児童文学

日本児童文学2001.05
ひこ・田中

           
         
         
         
         
         
         
    
 たとえば昨年最も印象深かった絵本を思い浮かべるとすると、『ミツバチのなぞ・フリズル先生のマジック・スクールバス』(ジョアンナ・コール文 ブルース・ディーギン絵 藤田千枝訳 岩波書店) や『ヒガンバナのひみつ』(かこさとし作 小峰書店)、『おちばのしたを のぞいてみたら・・・』(皆越ようせい ポプラ社)などになるだろうか。
 実はこれらは物語絵本ではない。とりあえずジャンルで括ってしまうなら科学絵本。
 『ミツバチ』は、フリズル先生とともに生徒たちがミツバチの生態を調べるべく、ミツバチとなる趣向。けれど、「子ども向け」の学習物だと考えるとこれは、詳しすぎるほどに詳しい。絵本というよりコミック的コマ割りが使われ、そこにはありとあらゆるミツバチのデータが置かれている。それらの一つ一つを見、読み、していくと知恵熱にかかってしまいそうだ。
 『ヒガンバナ』はヒガンバナの解説をしつつ、それがこの国で320種の異名を持つことも伝える。土地土地にズラりと配置された様々な名前。ここでも詳しすぎるほど詳しい。320種の名前を知って、どうするというのか? である。
 『おちば』は、カメラマンの皆越がズームを駆使して、普段私たちが見ることのない、落ち葉の下の小さな生物を可視化してくれている。ミミズのウンチまでを。これもまた必要以上に詳しい。
 さきほどこれらを科学絵本と呼んだが、それが子どもたちに必要な知識を与えるものであるとするなら、これらには壮大な無駄がある。ヒガンバナの異名を320種覚えたとて、何の意味があるのだろう? ミミズのウンチは?
 しかし、これらの絵本の魅力的は、まさにそこにある。
 子どもにとって、世界は年々狭くなっている。一つにはそれは情報化社会が必然的にもたらすものだ。彼らは、物事をよく知っている。ネットの時代はますますそれを加速するだろう。知っているといってもそれは体験や経験ではないというなかれ。体験や経験をしなくとも情報を得られてしまうとき、そちらを選択することは当然といえば当然なのだから。
 また、年々忙しくなっていく子どもたちの時間は断片化されている。隙間時間に友達と遊び、ゲームなどの情報を交換する彼らにとって、じっくり型は難しいことでもあるのだ。
 そんなとき、たとえばこうした絵本たちは、単なるミツバチ、ヒガンバナ、落ち葉の下に、彼らが必要とはしないまでも、まだ知らない情報が山ほどあることを伝えてくれる。
 『ミツバチ』を読んだからミツバチに興味を持ち出す、または科学に目覚める。『おちば』を読んで、本当に落ち葉の下を覗きたくなる。そうなるかもしれないし、ならないかもしれないけれど、そんなことはどうでもいいことだ。そうではなく、ミツバチにも、ヒガンバナにも落ち葉の下にも未知が溢れているのなら、自分の周りの、こののっぺりとして見える世界もそうではないか、世界は思っている以上に厚いのではないかをそこから何となく感じとれればいい。
 一方物語絵本では『しりたがりやのちいさな魚のお話』(エルサ・ベスコフ=作・絵 石井登志子=訳 徳間書店)や『ぼくのいぬがまいごです!』(さくまゆみこ=訳 徳間書店)のような古い時代のものが活きがよかったのがおもしろかった。こうした古典ともいうべき絵本が今どき翻訳出版されるにはそれなりの意味はある。それはこうした物語は現代の作家には書けないものだからだ。たとえばいとうひろし(スズキコージ ・五味太郎・あべ弘士etc、お好きな名前をどうぞ)の作品群を前にして、今の作家がこれらを書いたとしたら、その時代感覚のなさを醜くも露呈する結果になるのは明らかだ。従って、書けない時代には書けた時代の作品を持ってくればいいわけだ。持ってくればそれはとても新鮮に映る。特に後者の素朴さと、にもかかわらずのスピード感と、人種の坩堝であるアメリカをワンエピソードで描いた腕はなかなかなもの。

 長い物語は、1999年から『ハリー・ポッター』シリーズの一人勝ちが続いたわけだが、『ハリー』にあおられたわけでもないだろうが、大長編ファンタジーが目に付いた。フィリップ・プルマンのライラシリーズ1、2巻である『黄金の羅針盤』(大久保寛訳 新潮社)と『神秘の短剣』、ラルフ・イーザウの『ネシャン・サーガ・1』(酒寄進一:訳 あすなろ書房)はその代表。どちらも、よく売れている。
 『ハリー』は、叔父の家で不遇だった孤児のハリー・ポッターが、実は選ばれし者で、魔法使いになるために別世界の魔法学校過ごす日々を描いている。とはいえ、これが、魔法を教える学校で、しかも別世界にあることを横に置けば、かなりコテコテの学校物語である。ということは、こちらの世界ではもはやリアリティを持ちえないからこそ、それは別世界に置かれている可能性は高い。つまり、私たちの世界と別世界を横断することで、または、両方に足を置くことで、物語はかろうじて成立している。
 『黄金』は、2世紀ほど前プラハで発明された「真理計」、これは真理を指し示す計器なのだが、それを読める孤児ライラの物語。彼女は科学者で冒険家の叔父に預けられたオックスフォードのある学寮で暮らしている。とはいうものの、この、プラハがあり、オックスフォードもある世界に住むライラたちは一人一人に、ダイモンと呼ばれる守護精霊がついている。子ども時代はその感情によって様々な動物に姿を変え、大人になったとき、どれかの動物に安定する。その動物こそが本当の守護精霊である。地名も、小道具も私たちの世界そのもののようであるのに、どうもそうではない世界。やがてそれは私たちの世界とパラレルであるのが分かってくる。そして、叔父が実は父親であり、ライラたちの当面の敵こそが母親であることも明らかになってくる。『神秘』で物語は私たちの世界に移り、ライラとそこでの主人公ウィルは、第3の世界で巡り会う。この物語もまた『ハリー』と同じく私たちの世界と別の世界を横断することで成立している。
 『ネシャン』はネシャンと呼ばれる世界に住むヨナタンがふとしたことから裁きの杖を見つけだし、世界を救うためそれを裁きの司に届けようとする物語。ヨナタンはなぜかその杖を操れる。と書けば、ふつうのファンタジー(またはRPG)のようだが、章が変わると、舞台は20年代のスコットランドに移り、車いす生活を送るジョナサンが語られる。そして、ネシャンは彼の夢の世界であると明かされていく。しかしだからといって、ヨナタンにとって、自分たちの世界が少年の夢だとは思えない。ここでも私たちの世界と別世界(夢?)両方に足をかけている。
 これはTVゲームのRPGにも見られることだが、確固たる別世界、確固たる現実世界といった物語は構築されにくくなっている(輪郭のある・実感のある・手触りが感じられる世界があると信じられる時代には、想像力は外側に別世界を創造できたのだが)。こう言い換えてもいい。両者の幸せな棲み分けは終わりつつあると。

 『バンビーノ』(岡崎祥久作 理論社)は私たちの世界の物語だが、そこにも同じ兆候がある。転校生トシオは背が小さく、とても5年生には見えない。そう思いながらたちまち友人となったハルニワとコウタロウ。トシオは母親と二人暮らしだが、彼女の名はTJだという。そして、本当は母親ではなく恋人だとも。自分は大人だったがなぜか子どもになってしまったのだと。そういえば、トシオは妙に大人びたやつだ。ラストにトシオは突然転校してしまう。彼は何者だったのか? ここでは、子どもになった大人か? 大人びた子どもか?は決定できないまま、両者を横断している。ハルニワとコウタロウの結論、「ただのチビ」だった、はそれ以外に何も判断できないということ。
 『悪者は夜やってくる 』(マーガレット・マーヒー:作 幾島幸子:訳 岩波書店)は、宿題で物語を書くことになった主人公が悪者の名前をふと思いついたとたん、そいつが現れ、彼が望む物語を書いていく。というだけでもすでに私たちの世界と別世界は横断されているのだが、それに留まらず『悪者』では、主人が物語を書くメディアがノートからテキストファイルまで移動していく。紙にインクで印刷された書物の中の物語、という前提もまた終わりつつある。

 こうした現象は先に述べた子ども(に限らない)の情報量の増大、子ども(に限らない)の時間の断片化と無縁ではない。これまでの、子どもから大人へ成長する道筋(作法)が無効になってきていることの反映だといえる。確固たる現実、約束された(ように見える)将来、そうしたものが曖昧になった時代に描かれた物語なのだ。
 当たり前の話であるはずだが、子どもの本は「今」の時代を呼吸している。