序 妖精はおとなにきらわれた
子どもが妖精の国に行きたいとき、道はいくつもある。ある子どもは、心から行きたいと思ってねむると、いつのまにか、のぞみの海をボートで渡っていることに気づく。ボートはやがて湾にはいり夢の川をさかのぼって、めざす国にはいる。ある子どもは、庭の金魚池をじっと見つめていると、あぶくがうかんできて、それが割れて、「あなたは、どんな願いがあって、池をじっと見ているのか?」という声がでてくる。子どもが「妖精の国へ行きたい」と答えると、その声があぶくになって沈んでいく。やがて少女は、自分が、池にうつっていた影の方にのりうつって、どんどん水の中へ沈んでいくのに気がつく。そして、あっと思ったときには、もう妖精の国にきている。
場所によっては、こんな方法もある。野原へ行くと、草が円形にほかよりも青々と茂っているところがある。妖精の輪といって、月夜に妖精がおどりあかすところである。だから、夜こっそりとそこにいって待っていれば、妖精たちが彼らの国につれていってくれる。
こんな妖精の国への入国法が、イギリスの児童文学者アーサー・ランサムの『妖精の国の大路小路』(一九〇六)にある。ランサムは、入国につづいて、妖精国の住人たち、彼らの住居、仕事などを語っている。
民間伝承の中には小人がよくあらわれる。英語で dwarf 北欧で troll は、北欧の地下の精と考えられ、時には人間の指ぐらいの背としてえがかれるが、長いひげをたらしたせむしで、足は羊あるいはガンの足をもっている。地下に住むために、顔色が青白く、着ているものは灰色で金属をあつかうことがひじょうにたくみだとされる。ノーム gnome はその一種で、鉱山の守り手と考えられている。
そのノームが今世紀はじめの子どもの本の中では、「足までとどく長いひげをたらした小人のおじいさん」となり、「ノームは高原地帯や、草の間に灰色の岩が見えているような土地がすきです。ノームたちは、たいてい山掘りをしています。ひじょうにかしこい鉱山師たちで、かたい黒い岩から、金・銀・ルビー・エメラルド・トパーズなど、ありとあらゆる宝石類をほりだしてしまいます。わたしたちの国にあるどの山からも、モグラのトンネルのような秘密の通路が妖精の国に通じています。そこには、山一つつかって作った仕事場があります。それは、りっぱな宮殿になっています」ということになる。
家つきの霊または精の言い伝えは、ひじょうに古い。ローマ時代にすでに先祖の霊ラル lar があるが、ドイツにはコボルト kobold デンマークには ニス nis フランスにはゴブランgobelin スコットランドとイングランドではブラウニー brownie がいる。一般にこうした家つきの精や霊は人間の役に立ち、住みついている家を悪い霊から守ってくれる。そして台所の手伝いをしてくれる。たいてい、農家に住みついていて、夜台所の掃除などをやってくれるのである。
イギリスのブラウニーは、背が小さく、しわだらけの茶色い顔をしていて、フードつきの茶色い外套を着ていると考えられている。このブラウニーも、ランサムの本では、
「あちこちのはたけには、妖精の国の小さな白い馬にスキをひかせている小人たちがいます。この人たちの使っている馬は、形はわたしたちの国の馬そっくりですが、ひじょうに小さくて、たてがみがあつく、しっぽが長く、ひづめが、毛におおわれているように見えます。たねまきをしているブラウニーもいます。三日月型のかまで麦をかっているブラウニーもいます。ほし草づくりをしているブラウニーもいます。小さなめ牛や羊の世話をしているブラウニーもいます。なにしろ、妖精の国には冬がないので、となりあったはたけの片方がたねまきをしていると、そのとなりではとりいれといったぐあいなのです。丘という丘のくぼみや、谷間の日かげの場所に、たくさんの小さな灰色の農家がたっていて、そこにブラウニーたちが住んでいます。
ブラウニーは、妖精のおひゃくしょうさんで、妖精の国のはたけをたがやしています。そして、そこの仕事がおわると、わたしたちの国へやって来て、すきな仕事をつづけるのです。ブラウニーのいる家は、はたけのものがよく実り、なべやかまがよくみがかれているので、すぐにわかります。というのは、ブラウニーがはたけ仕事のつぎに好きなのは、家の掃除だからです。」
ということになる。
小人 dwarf は、夜動きまわって、日光にあたると石になるという。また、ブラウニーは、死者の霊ともいわれる。ともに白日を恐れるものであり、特にブラウニーは、善悪両様の性格が奇妙に入り交り、人間に対して親切であると同時に意地がわるく、気むずかしい。その点は、金髪をなびかせ、美しい声でうたい、黄金のたて琴をかなで、山野でおどるというスカンジナビアの妖精エルフ elf も、日光の下では動けなくなるし、人間を山道でまよわせるいたずらをする。要するに、彼らは人間と近しいながら、暗くて気味わるい面、どろどろした邪悪ななにかを感じさせる存在だった。しかし、ランサムの本の中では、彼らは抽象化され美化されて、土俗信仰の土着性、迷信性を失い、詩的想像力の純粋な産物と化している。これは、土俗信仰から出発した妖精群が、徐々に変化し、やがて詩人・作家によって自由につくりかえられ、一つの定型になっていった結果と考えられる。
しかし、妖精群の変化発展は、いつも順調に進んだわけではなかった。いや、キリスト教の宗教改革は、ほとんど彼らの息の根をとめてしまった。人間とは異種なものの存在は、原始的な信仰から生まれている。ギリシアのニンフ nymph フォーン faun サター satyr などは、キリスト教の誕生により、神々の座からおち、やがて悪魔の方においやられた。プロテスタントたちは、天国と地獄の中間にあるものなどゆるさなかったから、小人も妖精も人魚も、いっさいを悪魔と同一視してしまいそれを否定した。
この傾向がもっとも強かったのは、十六、七世紀のピューリタンたちだった。彼らは、人間の魂は生まれながらに罪にけがれたものであるから、神にいのり、ざんげして魂をきよめなくては、死語地獄におちると考えた。だから、悪魔とおなじ妖精や、妖精のあらわれる話など子どもたちに与えることをきびしく禁じた。
この、彼らの妖精と妖精物語への態度は、原始的な空想の産物をうさんくさく思う風潮を生み、長い間おとなの意識を支配した。たとえば、一七四五年に出版された子どものための教訓物語『女教師ー女子教育の小さな塾』(サラ・フィールディング)は七五年後の一八二〇年にもまだ版を重ねていたが、この版に序文を寄せた、これも有名な教訓物語作家シャーウッド夫人(一七七五〜一八五一)は、
「美しい物語や楽しいお話を通じて伝えられる教訓は、無味乾燥な話などを通じてよりも、若い人たちの心に浸透する。しかし、このような方法で伝えられる教訓は、神意に一致したものであるように、よく注意をはらう必用がある。それ故、一般にフェアリー・テイルズ fairy tales は、教訓の手段として不適当である。なぜなら、フェアリー・テイルズの中で、行動の動機としての キリスト教の信条を紹介することは不合理だからである。」
とのべている。
妖精や妖精物語は、宗教だけでなく、宗教を基礎におく道徳的なものの考え方や、知識を優先させる態度からも敵視された。ジャン・ジャック・ルソー(一七一二〜一七七八)は、想像力を危険視し、感情、感受性、内面の声の尊重によって、神聖なる良心をよびおこすことを、人間の幸福に通じる道としてとき、子どもは人工的なものを排した環境で、はたらき、創造し、考えて徳ある人間にそだてねばならないと説いた。このルソーの教育論の影響を受けた子どものための作家たちは、彼の教育思想の全体ではなく、好みの部分だけをつかって、想像力を否定した知識と美徳のための本を書いた。
フランスのアルノー・ベルカン(一七四九〜一七九一)は、「子どもの友」という雑誌を出して、ルソーのいう感受性にみちた教訓物語をたくさん発表した。『小鳥と野イバラと羊』という題の話を例にとろう。
ある父と息子が、五月のある日、美しい小山のふもとにすわって景色をながめているうちに、羊の群れが農場へ帰っていく。ところが、野イバラの茂みが、羊の毛をすこしずつひっかけてとってしまう。それを見た息子は、野イバラは、なんの役にもたたないから、あすの朝来て切りとってしまおうという。父は手伝うことを承知して、朝息子とともに野イバラの茂みまで行ってみる。すると、たくさんの小鳥たちが野イバラにひっかかった羊毛を、巣にはこんでいる。それを見て息子は、この世にむだなものはないこと、神のつくりたまうたものに、無意味なものはないことを知る。
イギリスのトーマス・デイもまたルソーの心酔者である。彼は『サンドフォードとマートン物語』(一七八三〜一七八九、三巻)を発表し、素朴で人工的なものにそこなわれていないサンドフォードと金持ちの息子で環境にそこなわれているマートンが、ルソー流の教育者の下でいっしょにくらす話を発表した。
ルソー主義者というより、教訓主義的な時代風潮にのった作家・教育者のトリマー夫人(一七四一〜一八一〇)は、たとえばロビンソン・クルーソーを、親の忠告を無視する子どもをつくり、放浪や冒険をたきつけるものと考え、シンデレラは、うらやみ、しっと、虚栄心、義母義姉への偏見などを、子どもの心にうえつける悪い物語として排斥し、徹底した教訓物語を書いた。中でも、もっとも有名なのは、後に『コマドリ物語』と改題してよまれた『たとえ話=動物のあつかい方について子どもを教育することを目的とした本』(一七八六)である。題でもわかるとおり、これは、人間の家の近くに巣を作ったコマドリ一家の生活と人間一家の生活を中心に、さまざまな出来事から子どもに教訓を与えたものであった。
「けさは、ぼく、ずいぶん大きいパンをいただかなくてはなりませんね。」
と、彼はいった。
「毎日くるスズメやヒワのほかに、コマドリが二羽きてますもの。」
「はい、フレデリック、これがあなたのパンですよ。」と、ベンソン夫人はこたえた。
「でも、あなたの下宿人さんたちが、この頃のようにふえつづけるのでしたら、下宿人さんたちのためになにかほかの食べものを用意しなくてはいけませんね。小鳥たちのために、わざとパンをちぎってやるのはよいことではありません。パンのたりない子どもはたくさんいます。あげるのでしたら、そちらが先です。あなたは、小鳥たちにあげるために、まずしいおなかのすいた小さな子にパンをあげなくていいと思いますか、フレデリック?」
「いいえ」
と、フレデリックはいった。
「その子がパンを食べていないなら、ぼく、じぶんのパンをあげますよ。でも、小鳥のたべものは、どこで手に入れたらいいかしらね?……」
というぐあいに、物語の筋の運びの最中、会話の中、行動中、いたるところにいかにも母親ごのみの教訓がたっぷりつめこまれている、じつにいやらしい本であった。皮肉なのは、後にこの本はもっと短くなって、子どもたちにも読まれたが、それは主として、コマドリが擬人化されたという想像力のはたらきによる点であって、教訓によるのではなかった。
知識重視も、妖精を敵視した。アメリカ人サミュエル・グッドリッチ(一七九三〜一八六〇)は少年時代に古い民話、とくに『赤ずきん』のオオカミのふるまいをおそろしく思い、つよいショックをうけ、それがうそと知ってさらに驚いたといわれる。後年、彼は、子どもには真実あるいは事実が必用であって、フィクションはまったく不必要と確信し、ピーター・パーリーの名で、想像力の産物である妖精や巨人などを追いはらい、歴史・博物学・地理・伝記などを子どもにあたえようと、多くの本を発表した。
こうした風潮の結果、イギリスでは〈夫人博物館〉という雑誌の一八三一年八月号に、無名で、
「『巨人殺しのジャック』、『赤ずきん』などという、くだらない作品の時代は終わった。今、子どもの心は、もっと有効で、ききめ十分なたべものによって、栄養を与えられている。」
という記事がのる時期になった。この記事が出る五十年ほど前に、エリナー・フェン(一八一三死亡)という女流作家のかいた作品『理性的なあそび』(一七八三?)などが、知識偏重なるものの一端を示してくれる。作品中、姉と弟が、地理学の箱というあそびをするところがある。
スプライトリー坊や「ぼく、地理学の箱ってはじめてだなあ。ねえ、どうやって使うの?」
スプライトリー嬢「このカードね。一枚に一つ、国の名が書いてあるの。あそび方は、手を箱に入れて、なんでもいいから一枚カードをとるの―どのカードとった?」
スプライトリー坊や「スペインだ!」
スプライトリー嬢「それじゃ、あなたは、スペインの気候、風土や現状をいわなくちゃいけないの。この国がスペインからどんな物資を輸入しているか、この国がスペインになにを供給しているか。」
スプライトリー坊や「とってもゆかいなあそびだねえ!」
しかし、これはなにも、十七世紀末から十八世紀、十九世紀のヨーロッパにかぎられた現象ではない。日本でも、「詩をつくるより田をつくれ」は長い間民間の日常生活の中に生きていたし、八十余年の児童文学の歴史の中にも、数多く、実例を見出だすことができる。たとえば、一九〇七年(明治四〇年)六月の雑誌「少年世界」増刊〈お伽共通会〉に、「お伽噺の利益及び其弊害」と題し、東京高等師範学校教授、森岡常蔵が教育的価値として、
一 愉快に知識を増し且つ広げる。
二 言語が豊富となり且つ其使用に習熟する。
三 道徳上、審美上の修養を得る。
四 それが思考行動の上に大なる影響を及ぼす。
五 補習、自修の精神を刺激する。
六 閑暇の時を愉快に有益に使用し得る。
一方その弊害としては、
一 想像をのみ鼓舞して、他の心力の発達を妨げる。
二 真面目な業を厭う。
三 学校の課業やその教科書に対する趣味を失う。
四 運動を怠って健康上の損耗を来す。
五 特に視力を弱める等はその弊の大なる者であろう。
(「児童文学大系」(1)三七八〜三七九ページ、三一書房、一九五五年)
ことを指摘し、はっきりと想像の問題に対し、警告を発している。森岡常蔵は、同じ文章中で、お伽噺は「長い説明や複雑な形容をさけ、明白、簡単に、自然的に、且つ活気あるように書く」ことがのぞましいといった適切な意見をのべているが、彼のお伽噺に対する長短の見解は、すべて学校教育上のプラスとマイナスから割りだされている上に、基本的に知識の増大と道徳の注入を第一義としている。そして、この考えは、一九四五年まで、日本の大人の、子どもへの一般的態度だったということができる。
宗教・道徳・知識のほかに、もう一つ子どもの本、特に想像力のつよい作品群を圧迫したのが政治である。子どもの本が、為政者たちの利益のために利用され、意に沿わぬものは弾圧されることは、戦時中、児童文学が統制され、軍国主義謳歌にかりたてられ、すぐれた作品をほとんど生まなかったことでもよくわかるが、想像力の所産である空想的な作品がもっとも強力に圧迫されたのは、初期のソビエト・ロシアであろう。ソビエトの児童文学者・児童文学研究者コルネイ・チェコフスキー(一八八一〜一九六九)は、その著『二歳から五歳まで』の中で、その間の事情を語っている。
一九二九年、彼はクリミヤの保養地で子どもたちに大よろこびされながら、『ほら男爵の冒険』を読んでやっていた。すると、一人の婦人と若い男が血相変えて本をとりあげ、
「『なんの権利があって、あなたはうちのこどもたちに、こんなつまらないものを読んできかせるんですか?』
二人は先生口調で、ソヴエトの児童図書は空想や作り話ならぬ、一〇〇パーセント現実的な事実を語るものでなければならないと、わたしに言いきかせるのでした。」(チュコフスキー、樹下節訳、理論社、二二二ページ)
大人は、子どものための文学、特に空想的な内容の文学を考えるとき、ひじょうに長い間、以上のようなさまざまな偏見から、子どもがのぞんでいたものを取り上げたり、ゆがめたりしてきたことを忘れてはならない。大人のひとりよがりのために、楽しくて、ほんとうに心のかてとなるものを奪われた子どもが、大人になって、つぎの子どもに同じことをしてきた。その試行錯誤の果てに、今日の子どもの文学があることを、よくよくおぼえておく必用がある。そして、子どもの文学に対する大人の圧迫は、今も過去のものとはいえない。現在の大人が、宗教や道徳や知識偏重や公式的なイデオロギーで、たとえ子どもの文学をしばることをやめているとしても、べつの偏見で、真に子どもの求めている文学を圧迫していることは、十分に考えられる。大人は、子どもの文学について、つねに謙虚でなくてはならない。
テキストファイル化鶴田かず美