『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

『水の子』と「アリス」
陸の子のためのおとぎばなし

 アンデルセンの最初の童話集から二十八年後、空想が生む児童文学に、また新しいタイプの作品が生まれた。チャールズ・キングスレイ(一八一九〜一八七五)の『水の子』である。「陸の子のためのおとぎばなし」と副題のついたこの本は、すでに歴史のほこりをかぶって忘れられ、読んでいる人も少ないと思われるので、あらすじを紹介しておこう。
 
 むかし、トムという孤児の煙突小僧がいた。グライムズという親方になぐられたり、こずかれたりしながら、毎日煙突を掃除してはたらき、ひまなときには、近所の子どもたちとあそんでいた。
 ある日、近くのお屋敷から仕事を頼まれたトムは、古い屋敷の煙突にもぐりこむが、入りくんだ煙突の迷路でまいごになり、おじょうさんのエリの部屋にまよい出て、どろぼうとまちがえられ追いかけられる。トムは逃げたが、川にはまってしまう。川の中で、トムは、首のところにエラのついた水の子にかわり、水の中でくらすことになる。
 トムは、生まれついてから、しつけなどされたことがなかったから、してよいこととわるいことがわからない。奇妙なものを見ればからかうし、かくれているものは、ほじくり出したがる。そんなふうなくらしをしていた。
 ある日、大雷雨があって川が増水したとき、トムは、カワウソやウナギなどにさそわれて海にくだる。そして、ザラガニと友だちになり、ザラガニがわなにかかったのをたすける。すると、今まで見えなかった水の子の群れが見えるようになり、トムは彼らの仲間になっていっしょにくらすようになる。
 水の子の家には、二人の女神がおとずれてくる。一人はビダンバイアズユディド(Bedonebyasyoudid)で、これはむくいの女神、もう一人はドゥアズユードビダンバイ(Doasyouwouldbedoneby)で、親切の女神である。トムは、イソギンチャクに石をたべさせたむくいに、むくいの女神から石をたべさせられ、お菓子をぬすみぐいして、体中にとげをはやさせられてしまう。
 トムは、とげをとってもらいたいとむくいの女神にたのむ。すると女神は、かつてトムの出現におどろいたお屋敷のおじょうさんエリを紹介してくれる。エリの指導のおかげでトムのとげはとれる。しかし、トムは、エリが日曜ごとに帰っていく美しい宮殿に行きたくてしかたがない。そこで、どうしたら行けるかときく。こたえは、まず、行きたくないところに行かなくてはならないとのことである。トムの行きたくないところーーーそれは、死んだ親方グライムズのいるところである。トムは、決心をして、グライムズ親方のいる
「世界のはてのそのかなた」へ行く。
 「紙くずの国」「悪漢の国」「うわさの国」「ばかもの島」など、さまざまなところを通って、精神病院のような建物にたどりつく。グライムズ親方は、そこの煙突のてっぺんにつめこまれていて、パイプに火がつかないことと、ビールがのめないことをぐちっている。手が煙突の中なので、どうしようもないのである。
 トムは、かわいそうに思い、そこにあらわれたむくいの女神に助けてやってくれとたのむ。グライムズも、母親のことを思い出して改心し、エトナ火山の掃除人にしてもらう。
トムは目的を果たし、ふたたびエリに会って、日曜ごとに美しい宮殿に行く。
あらすじでもわかるかと思うが、これは全体がまったくの教訓物語である。作者チャールズ・キングスレイは、十九世紀前半のイギリスをおおった社会不安を解決するには、キリスト教を土台に、一種の家父長的社会をつくるべきだと考えていた社会改良家であった。また、宗教家としては、当時話題のまとだったダーウィンの進化論ととりくみ、進化論が神の存在を否定しないことを立証しようとしていた。『水の子』は、だから、思想家、宗教家であった作家が、子どもにその思想を伝えようとした努力の結晶である。そのためか、この物語は、驚くほどにおしゃべりである。
 トムがあやまって川におち、気持ちのよいねむりににおちたところで、作者は、それを水の精がねかしつけたのだと説明する。そして、すぐにつづけて、「水の精なんかいない、といってしまう人もある。詰込屋のおじさんは、その『談話集』の中で、水の精はいないということを子どもたちに教えている。きっとあのおじさんたちの育ったアメリカのボストンという町にはいないのだろう。あの町はがんこな人ばかりで、人と話をするのにも、何かといえば机をたたいて、やかましいことはこの上ない。それでも、あの連中は、毎日そんなことをして暮らしている所を見れば、それで満足しているのかも知れない。また、おだて屋のおばさんは、その『政治経済論』の中で、水の精はいないといった。なるほど、政治経済などというむずかしいものの中にはいないだろう。しかし、私たちは、世の中
が広いものだということを忘れてはならない。まったく、広くってこそ結構だ。それでないと、めかし屋の着物と、やかまし屋の議論のために、つぶされて死ぬ人ができるかもしれない。広ければこそ、水の精もいるのだ。人間にはみえない。人間は見当ちがいの方ばかり探しているからだ。」(阿部知二訳、岩波少年文庫、六〇〜六一ページ)というおしゃべりが、筋とは関係なくあらわれる。彼はここで、理知のはたらきの中では、精などは考えられないが、信仰や想像の中には精は存在することをいい、最後には、神の存在にまで子どもをみちびこうとしているのであろう。それと同時に、キングスレイは、アメリカ人の悪口もいっている。もっとも、このたぐいの悪口は、アメリカ人に対してだけではない。
「何分、意地悪の本場のアイルランドのカニだけはある。ベルファストの入江の入口のマギー島沖で育ったというカニなのだ。」(同前、一七三ページ)とか、「イングランドやスコットランドのように、つまり正直は最善の政略なり、などというふうがわりなことわざをもっている国はみんな栄えるのだが、このデンスの生まれたアイルランドの国はどうして栄えないのだろうかーーー全くふしぎではあるまいか。」など、アイルランドに対する悪口がしばしばみられる。
むろん、それには作者なりの理由はあるのだろうが、この物語では、理由の説明がないから、アメリカに対しては、文化的な蔑視や独立以来の仲の悪さから、そして、アイルランドには、カトリックに対する敵意からの感情的発言ぐらいにしかうけとれない。もっとも、中には、現代にも通ずるするどい批判もある。
 「むくいの女神は大勢の医者を呼び出した。子どもにむやみに薬を飲ませたからだ。ーーーこの医者たちはたいていは老人だった。若い医者にはそんなばかなことをする者はない。とはいうものの、医者の中には若くてもむちゃなのがいるものだ。赤ン坊のお腹も、スコットランドてきだん兵のお腹も同じだと思っているようなものがいる。ーーーおばさんはみんなを一列に並ばせた。みんなは、最早どんな目にあうかわかっていると見えて、すっかりしょげてしまっている。
 まず、みんな歯を抜かれてしまい、それから体中の血をしぼられてしまい、それから、かんこう、ヤラッパ、塩、センナ、イオウ、糖水ーーーいろんな薬を詰めこまれた。その苦しそうな顔ったらなかった。次にカラシ水でつくった嘔薬をのまされて、たらいはくれないのだ。こんなことを何度となくくり返しているうちに昼になった。」(同前、一九二ページ)

以下、子どもの足を小さくしようとした貴婦人、不注意な子守り、子どもに対してよくない先生などが呼び出され、相応の罰を受ける。
 とにかく、こうした作者の意見など、現在の子どもの文学の常識からいえば、まったく不必要なものなのである。ときに、子どもに対してすぐれた理解を見せた一流の文化人だったキングスレイですら、子どもの文学のふさわしい姿をとらえることができなかった。そして、正しいことをのべるかぎり、子どもはそれをきくべきであり、当然理解されると考えていた。これが、十九世紀もなかばをすぎ、グリムやアンデルセンが出現した後の子どものための文学の一般的な姿だったのである。そして、この教訓臭は、ヨーロッパを通じて、十九世紀のおわりまでつづく。
 だが、彼の教訓には、すでにのべたように、ときに子どもへの接近がみられ、子どもに語りかける態度にも、ピューリタン時代の作家や十八世紀の女流たちのような高飛車なところがない。子どもを、対等にあつかおうとしているところがある。大げさにいえば、大人が子どもを理解する過渡的段階が見られる。
 童話の歴史からいっても、この作品は過渡期的である。だいたい、この物語は、はじめきわめて写実的にはじまるのだが、じつは、フェアリーテイルなのである。主人公トムは、煙突小僧から水の子へ、そして、川から海へ、海から世界のはてのかなたへとうごきまわるのだが、それは、ほとんどの場合、トムの意志ではない。つまり、トムは物語の発展に影響を与える意志をもたない。そして、トムの旅する世界が、リアルな部分を多くふくみながら、やはりフェアリー・テイルズの世界である。具体的なイメージはついにうかばないが、水の精がいる。ビダンバイアズユディドと、ドウアズユードビダンバイの二人の女神は、善の魔女と考えてよいだろう。トムは、トム・ヒッカスリフトのように力づよい勇者でもなく、白馬にまたがる王子でもないが、世界の果てをこえる旅をする。
 しかし、新しさも、忘れてはならない。川の中の描写、海辺の描写等、この物語には、みずみずしい魅力的な小世界がいたるところにあって、昔話やアンデルセンとは、またちがった感じを与えることもたしかなのである。そして、主人公である水の子というアイディア。下敷きには、人魚、水の精、あるいはギリシア神話のポセイドンなど、神話、伝説、昔話の登場人物がまるでないとはいえないだろう。しかし、作者がこのアイディアをえたのは、ダーウィンの生物進化論をキリスト教的宇宙観にのみこもうとする、あるいは、両者を妥協させようとする努力の中からであることはまちがいない。だから、
 「水の子がいないなんて、大まちがいなのだ。昔の賢人たちがいったではないか。ーーー陸上のものはみんな水の中にその分身をもっていると。それはどの点まで本当か知らないが、他のいろいろの話を信ずるくらいなら、この話も信じなくてはなるまい。陸の上に子どもがいる。それでは、水の中だっていそうなものだ。水ネズミ、水バエ、水コオロギ、水ガニ、水ガメ、水サソリ、水のトラ、水ブタ、水の犬やネコ、ーーー海のシシ、海のクマ、海のウマ、海のゾウ、海のハツカネズミ、海のかみそりやペンや扇、ーーーそれから草や木には、水草、水のキンポウゲ、水のノコギリ草、なんだってみんなあるではないか。」(同前、七五ページ)

 屁理屈一歩手前のように、これでもかこれでもかとならべたてて、水の子の可能性を主張している。水の子は、彼が動植物学の知識や進化学説への興味あるいは反感から、生みだした空想なのである。つまり、神話・伝説・昔話を想像力のスプリングボードとしたのではなく、当時もっとも影響の大きかった科学上の学説を触媒としている。その意味でフェアリー・テイルズとは、異質な想像力の世界だということができる。『水の子』が英語でファンタシーfantasyとよばれる、近代的な空想の物語の源とよばれるのも、そこに原因があるだろうと思われる。
 『水の子』は、子どものための文学の歴史上、興味深い作品だが、現在、子どもに読ませる必要はないし、よほどたくみにちぢめて小学校低学年向きにでもしないかぎり、子どもも読まないだろう。そして、そのようにちぢめた本など、まったく無意味である。むしろ、それから二年後に出た『ふしぎの国のアリス』の方が、言葉の障害をこえて、はるかに日本の子どもにはおもしろいはずである。
テキストファイル化山児明代