『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

「 神の子といたずらっ子

『北風のうしろの国』

 キャロルと同時代のイギリスで、もう一人、注目すべき作家は、ジョージ・マクドナルド(一八二四〜一九〇五)であろう。この作家は、児童文学史ではよくとりあげられる作家だが、主要な作品が現在子どもの手にはいらないため、日本ではほとんど知られていないので、略歴を紹介しておこう。
 彼は、スコットランドの織物職人の六人息子の一人として生まれたというから、育ちはわるい方だったと考えられる。アバディーン大学卒業後、聖職につく決意をかため、神学をおさめてから、サセックスの教会牧師に任命されたが、大胆で新鮮な宗教観のために、信者と意見があわず、三年でやめたという。貧乏に苦しみながら、一八五五年に詩劇を発表して文筆に手を染め、一八五八年の『妖精のロマンス=妖精国の冒険』という大人向きの小説で成功を収めた。子どものための作品は、一八六七年の『妖精とのおつきあい』が最初で、これには『かるい王女』『巨人の心臓』『黄金のかぎ』といったリテラリイ・フェアリー・テイルズが収められていた。
 一八六八年から約二年間『北風のうしろの国』を雑誌に連載し、これと、やはり雑誌連載の『おひめさまと小鬼』『おひめさまとカーディー少年』が、彼の子どもの本の代表作となった。一生胸をわずらったマクドナルドは、後年はほどんどイタリアでくらしたという。
 『おひめさまと小鬼』『おひめさまとカーディー少年』は、ともに、むかしむかし、ある国にお城があって、お姫さまがいてという、昔話の素材をかりて、カーディーという鉱夫の少年が、お姫さまを守って、気味わるい山の小鬼たちとたたかう話である。テーマの善と悪とのたたかい、空想上の人物たちがつくりだす、もう一つの世界の神秘な雰囲気などは、今日本の子どもたちによろこんで読まれているC.S.ルイスの『ナルニア国物語』などの先駆者として興味深い。
 マクドナルドの作品の大きな特徴は、その神秘な雰囲気にあるといわれているが、それは、彼の代表作『北風のうしろの国』にもよくあらわれている。これは、ふしぎな幻想性と手堅い写実性が入りまじった、分類のむずかしい物語である。

 話は、あるお屋敷の馬丁小屋からはじまる。馬丁小屋には、馬丁夫婦と息子ダイヤモンドが住んでいる。馬丁小屋は、うすい板でかこっただけの粗末なものだから、風がはいりこむので、穴をコルクでふたしてある。ある晩、そのコルクがポンとはずれ、つぎの晩そこから北風がはいってくる。そして、それから、北風とダイヤモンドの旅がはじまる。
 ダイヤモンドは、北風とともに、夜のロンドンに出て、道路掃除の女の子をたすけたり、あらしの夜、北風が船を沈めるというとき、途中までいっしょにいったりした末、ついに北風の体をつきぬけて、北風のうしろの国に達する。この国について、マクドナルドは、デュランテというイタリアの詩人の見聞、キルミニーという農家のむすめの体験、それからダイヤモンドの体験の三つにわけて語る。
 たぶん、ダンテをもじったのであろうデュランテによると、その国の大地は、よいかおりに満ち、たえず、つよすぎも弱すぎもしない風が、木の葉を一方に向けるが、小鳥たちをさわがせない程度に吹いている。川は、赤や黄の花が咲きみだれる草原を流れ、ときはいつも五月のようであるという。
 少女キルミニーによれば、そこは、雨も風もなく、また太陽も月も星もない。しかし世界全体は、純な光にみちていて、夜がない。罪は入りこんだことがなく、愛がみちているのだという。
 主人公ダイヤモンドによれば、その国には、太陽がなく、国そのものについている光であかるいという。川は、みじかい草の上を流れていて、耳にきこえるの川の歌は、人の心に歌をきざみつける。
 その国にいると、心はしずかに落ち着き、しんぼうづよく、そしてみちたりた気持ちでいられる。たんに幸福である以上の感じにつつまれる。まずいことは一つもおきないが、さりとて、万事がうまくいっているのではない。いつかは、万事がうまくいくようになっている国だという。
 北国のうしろの国にいると、愛する者の安否が気にかかる。そこで、ダイヤモンドは、現世に帰ってくるのだが、それ以後、ダイヤモンドに会った人たちは、なんとなく、ダイヤモンドを信じ、彼の行なうことに力をかしてしまい、神の子といわれるようになっていく。

 キリスト教について知識のうすいわたしには、この国が、いわゆる天国であるのか、永遠の至福の国を待つまでの国なのかわからないが、とにかく、神の国であることはまちがいない。ダイヤモンドが北風のうしろの国をたずねている間、現世では、生死の境をさまよう大病の最中になっている。だから、ダイヤモンドは、病気中に神の国に行き、神の国を現世にもたらして、まわりを幸福にしていくわけで、その意味では、この作品は、『水の子』とおなじく、キリスト教の真髄を子どもたちに説いている物語といえる。その点では、やはり時代の大勢に沿った教訓の物語なのである。
 だが、この作品には、子どもの本の発達の上で見のがせない点が二つある。一つは主人公、一つは構成である。
 主人公ダイヤモンドは、物語のはじめから無垢の魂の持主として登場するが、やがて彼は、人びとによい影響を与え、世の中を変える力をもつ人間になっていく。北風との会話、日常生活での行動など、作者が子どもの心をよく知っていたことがうかがえるリアリティをもつが、やはりダイヤモンドは、現実の子どもではなく、理想の子どもなのである。そして、この理想の子どもは、十九世紀の子どもの文学によくあらわれる。リアルな作品ではあるが、一八八〇年にスイスで出版されたヨハンナ・スピリの『ハイジ』や一八八六年にアメリカで生まれたバーネット夫人の『小公子』などの主人公が好例であろう。ダイヤモンドも、ハイジも、『小公子』のセドリックも、無垢の魂の結晶ゆえに周囲の人びとに好影響を与え、すべてがよい結果になる。こうした主人公は、大人の願望の結晶である。子どものための文学の主人公たちは、昔話的な類型から、美徳の具象化とでもよべる理想化された子ども像へと移行したのである。
 『北風のうしろの国』の構成を見ると、空想的な部分と、写実的な部分とが入りまじっている。ダイヤモンドは、北風の背にのって天空高く駆けめぐるけれど、それは、彼の夢や病中のうわごととしてあつかわれ、現実生活では、お屋敷破産後、父親がはじめた辻馬車を手伝ったり、ロンドンのスラムをたずねたりしている。写実的な部分は、当時のロンドン風俗絵巻の観さえある。日常生活と空想との混合や融合は、モルスワーク夫人からイーディス・ネスピットと受けつがれて、今日にまで及んでいる大きな流れをつくっている。『水の子』は、空想の独創性によって、空想の物語の変化をうながしたが、質的にアンデルセンの系統に属するマクドナルドは、空想物語の作法の面で、やはり変化を促進したといえる。『北風のうしろの国』が、はたして今日の日本の子どもに楽しめるかどうかは、その内容から見て疑問はあるが、これが『ふしぎの国のアリス』と同様、子どものための空想の物語の上で重要な作品であることはまちがいない。
テキストファイル化四村 記久子