『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

 フェアリー・テイルズとファンタシー

 ネスビットまで、空想の物語の発達をたどれば、どうしても、一度、いわゆるリテラリイ・フェアリー・テイルズ(literary fairy tales)とファンタシー(fantasy)のちがいをくらべてみる必要がある。というのは、二十世紀はファンタシーの隆盛期といえるからである。
 アンデルセンとネスビットには、文学として、本質的にちがったものがあるのだろうか? 整理してみよう。
 まず、すでに何度ものべたように、登場人物の描出がちがっている。アンデルセン系統の作品は、外面及び内面から立体的にえがきだされることがなく、あるいはほとんどなく、「美しい」「わるい」といった形容詞だけで性格がきめられ、筋の運びにしたがって(あるいは人物がうごいて筋が進む形で)結末にいたる。ネスビット流の作品の人物たちは、日常の法則の中で生活し、出来事との衝突を通じて行動し、その間、外からと内からと厚味をもってその姿がえがかれている。
 だから、当然、筋も構成も場面設定も複雑化し、工夫がこらされたものとなっている。マージェリー・フィッシャーというイギリスの児童文学者が「魔法や不合理なものを現実世界に持ちこんでくる物語は。ファンタシーとよぶ方がふさわしいであろう。ファンタシーは、すでに知られているものや場面をつかって、それを好みのままに改変する。すくなくとも、これが(伝統的要素を含んではいても)フェアリー・テイルズとはよべないおびただしい数の作品を区分けする一つの方法である」(Intebt upon Reading, by Margery Fishey 1964. pp. 132)といっているのは、そうした点を指摘していると考えてよいであろう。
 「すでに知られているものや場面をつかって、好みのままに改変する」部分を、もう一度説明すると、フェアリー・テイルズは、公認された魔法の世界であり、いつどこで、どのようなふしぎなことが起こっても一向にさしつかえないが、ファンタシーの世界はふしぎなこと、不合理なことが一応もっともらしく読者に説明され、それが説得力をもつように変えられているということであろう。その点は、すでに引用した『壁かけのへや』や『魔法の城』を思い出していただけばよい。
 そして、この点から、もう一つの相違点があらわれてくる。一般に、ファンタシーはフェアリー・テイルズより現実への密着度が高いということである。もちろん、あらゆる文学は現実を基礎にして生まれている。それは、昔話も、また、リテラリイ・フェアリー・テイルズも同様である。だが、アンデルセンの『雪の女王』のテーマ、理性に対する愛の勝利を、ある時代にもっともかかわりのあったテーマをすることはできない。一方、ネスビットの『魔法の城』は、
「ジェリーとジミーとキャザリーンは、イングランドの西の小さな町にある学校にいました──もちろん男の子ふたりの学校と女の子の学校は別でした。男女をいっしょに一つの学校に入れるという思慮深い習慣は、まだひろまっていなかったからですが、わたしは、いつか、その習慣がひろまってほしいと思っています。」
という時代の夏休みの男女のあそびをえがいていて、この時代をはなれては成立しえないものなのである。フェアリー・テイルズはファンタシーよりも抽象性が高い。つまり、フェアリー・テイルズは、現実を根ざしながら、時代に左右されない人間の本質・理想・生活の真理等々を抽出し、簡潔に表現することを試みたものといえるだろう。
 一方ファンタシーは、各時代の今日的諸問題にはじまる、さまざまな生きた事象を表現する一方法としてつかわれている。私が、現実への密着度が高いというのは、その意味においてである。現代的な魔法の物語の創始者であるモルスワース夫人やE・ネスビットが、一方でひじょうにリアルな物語を書いているのも、単なる偶然とは考えられない。現実により密着することで、内容的に、読者に与えるものは、どう変わったか?
 昔話にも、創作された昔話風な作品にも、笑い話やナンセンスはある。しかし、グリムの『しあわせなハンス』やイギリス昔話の『ゴタムのかしこい人たち』また『ほらふき男爵の冒険』などは、一つの話やエピソードの連続が、笑いをよび、子どもたちの心を柔軟にし、現実認識の力を増大することはあっても、『ふしぎの国のアリス』のみごとに構築されたナンセンスの世界のような対比による批判や原則の確認といった、大きく複雑な機能を果たすことはない。
 アンデルセンの『赤いくつ』に見られる罪のむくいと神のゆるしを、キングスレイの『水の子』におけるそれをくらべてみても、前者が鮮烈な赤いくつのイメージでテーマを読者にやきつけるが、罪の実体はほとんどあきらかでない。『水の子』は、大人から子どもにいたる罪とあがないが、時代に即してえがかれている。
 ファンタシーは、万事について、より具体的であり、今日的であり、迫力をもってせまってくるのだが、それだけに、昔話の簡潔さと抽象度の高さを失い、一般に神秘な不可思議がうすれているのことはいなめない。
 もっとも、リテラリイ・フェアリー・テイルズが、今日的であり、迫真的である場合もあるし、ファンタシーが、高度の抽象度をもち、神秘的である場合もある。たしかに、この二つには、さまざまなちがいがみとめられるが、根本においてちがうものではない。

 ファンタシーという言葉と明瞭な観念は、昭和三十五(一九六〇)年に中央公論社から出た『子どもと文学』(石井桃子他著、現在、福音館書店)あたりから徐々に日本にもひろまり、作品もつくられるようになった。日本の伝統的な児童文学とその空想性を批判し、ファンタシーを紹介した『子どもと文学』は、べつにフェアリー・テイルズを否定したものではなかった。だが、ファンタシーが新鮮な魅力をもつあたらしいものであり、また、従来の子どもの文学からの脱皮がはかられていた時期であったことから、フェアリー・テイルズが一時忘れられたり、一段低い古いものと見られる風潮をよんだことは事実である。これは、悲しむべきことであって、リテラリイ・フェアリー・テイルズには、それの持つ長所があり、ファンタシーには、またべつのよさがある。その点を忘れてはいけないと思う。
 ファンタシーは、すでにのべたように、主として、イギリスが中心になって育ってきた分野である。発達の過程はすでにのべたとおりだが、なぜ、イギリスに空想的な物語が発達したかについては、実際生活の几帳面さからの脱出とか、子ども時代をたいせつにするとか、さまざまな説があり、どれもみな正しいと考えられる。しかし、実証的・合理的な国民性だから、魔法を現実の中にもちこんで分析し再構築する文学を生み出したと見ることもできるのではないだろうか。そこでまず、二十世紀の空想の物語を、時代とともに歩んでいるイギリスのファンタシーからはじめよう。
テキストファイル化與口奈津江