『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

Z 異種類の空想物語

アメリカの空想物語

 アメリカの空想的な物語も、他の国ぐに同様に神話・伝説・昔話の子ども向き再話から、創作された昔話風な作品へという過程を、はじめはたどった。ワシントン・アーヴィング(一七八三〜一八五九)の『スケッチブック』(一八二〇)中に収められた『リップ・ヴァン・ウィンクル』と『スリーピイ・ホロウの伝説』は、今も世界中に名高い。つづいては、ナサニエル・ホーソン(一八〇四〜一八六四)のギリシャ神話を自由に再話した『ワンダー・ブック』(一八五二)と『タングルウット物語』(一八五三)があらわれた。そして、一八八〇年には、ジョエル・チャンドラー・ハリス(一八四八〜一九〇九)の不滅の傑作『リーマスじいや物語』が生まれてくる。『ウサギどん、キツネどん』で日本でも有名なこの本は、ジョージア州の大農場にはたらく黒人たちの昔話をひとりの老黒人が語るという形式で、黒人の昔話を再話したものだが、各エピソードのおもしろさと意味深さに加えて、語り手リーマスじいやが個性ゆたかにえがかれている、じつに魅力ある物語である。
 こうした昔話のすぐれた再話の後には、当然、昔話を骨子としたリテラリイ・フェアリー・テイルズがあらわれる。日本では、『ロビンフッドのゆかいな冒険』(一八八三)で子どもたちに親しまれているハワード・パイル(一八五三〜一九一一)は、はじめ、昔話の再話をしていたが、やがて、それによって、昔話のモチーフ・人物・表現法・思考法などを身につけ、『塩とコショウ=子どものための調味料』(一八八六)と『ふしぎな時計』(一八八八)の2冊を創作した。これは、彼の創作であるにかかわらず、稠密で論理的なプロットで話をすすめ、簡潔な表現で人物をえがきハピーエンドによってテーマを訴える昔話そのもののように感じられる。

ところが、アメリカの空想物語は、メルヘンから(あるいは、フェアリー・テイルズから)リテラリイ・フェアリー・テイルズへ、そして、ファンタシーへという過程をたどらず、現在に至るまで、ほぼ、リテラリイ・フェアリー・テイルズのままでいる。その理由は、大きくはアメリカ人の体質からくるのだろうが、直接的には、アメリカの児童文学の体質によるものと思う。十九世紀の傑作であるマーク・トウェイン(一八三五〜一九一〇)の『トム・ソーヤの冒険』(一八七六)『ハックルベリ・フィンの冒険』(一八八四)やルイザ・メイ・オールコット(一八三二〜一八八八)の『四人の少女』(一八六八)などが、その体質をよく語ってくれる。
 『トム・ソーヤの冒険』と『ハックルベリ・フィンの冒険』には、当時のアメリカ社会や人間に対する強い批判がある。形式化した宗教、保守的で因循な社会への批判、特に『ハックルベリ・フィンの冒険』には、人間の獣性や憎悪のおそろしさなどに対する痛烈な批判がある。『四人の少女』にも、真の精神の自由と独立を訴える意志が見られる。そして、これらの作品では、そういった大きくて重要な作者の思想が、子どもの心理や行動を追う面白い物語の中で伝えられているのである。写実的な物語は、現在にいたるまで、ほぼ、その伝統をついでいる。つまり、アメリカの児童文学は、作者の思想を明瞭に直接的に表現し、しかもそれを興味ある物語にする伝統をもっている。だから、別世界を構築することによって、寓意として、あるいは比喩として作者の思想を子どもに伝える必要がない。空想物語で直接的な表現をするには、単純明快な昔話風の形式の方が、複雑功緻なファンタシーよりふさわしい。アメリカにファンタシー系列の作品がすくないのは、想像力の欠如ではなく、気質的なものなのである。ヒュー・ロフティング(一八八六〜一九四七)の「ドリトル先生」シリーズが好評であろう。動物語を解する偉大な獣医ジョン・ドリトル先生のかずかずのふしぎな冒険を語る十二巻は、つぎのようにはじまっている。

 「むかし、むかし、そのむかし――といっても、じつは私のおじいさんが、まだ子どもだったころのこと、一人のお医者さんが住んでおりました。そのお医者さんの名前は、ドリトル――医学博士、ジョン・ドリトルといいました。医学博士というのは、ちゃんとしたお医者さんのことですから、とてもいろんなことを知っているということです。
 この先生の家は、『沼のほとりのパドルビー』という小さな町にありました。その町の人たちは、年よりでも子どもでも、だれでもみんな、先生の顔を知っておりました。先生が、シルクハットをかぶって通りをゆくと、みんな目ひき袖ひき、『ああ、あそこに、お医者さんが歩いてなさる。ありゃ、えらい先生だ。』というのがおきまりでした。」(『ドリトル先生アフリカゆき』井伏鱒二訳、岩波書店、九ページ)
 これでドリトル先生がいつごろ、どこに住んでいて、何をしていたかが明らかとなる。ドリトル先生の世界は、一種の魔法の世界である。先生とオウムは、はじめから自由に会話し、やがて先生はオウムのポリネシアを通じて、あらゆる生きものの言葉に通じるようになる。人間の医者をやめて獣医になった先生のところへ、ある日ツバメがやってきて、アフリカ大陸でサルの間に伝染病がはやっているから、至急来てくれとたのむ。
 「『わしは、アフリカへゆきたい。ことに、こう寒さがきびしくってはね。しかし、おそらく、切符を買う金がないだろう。チーチー、貯金箱を持ってきなさい。』
 そこで、サルは立っていって、たんすの上の棚から、貯金箱をとってきました。
 貯金箱には、何にもはいってませんでした。――ただの一ペニーも
 『たしか、二ペンスは残っていると思っていたが。』と先生はいいました。
 『残っておりました。』とフクロがいいました。
 『でも、アナグマの子に歯が生えるとき、先生はその二ペンスで、ガラガラを買っておやりになりました。』
 『そうだったかな?』と先生はいいました。
 『やれやれ、お金というものは、まったくやっかいなものだ!でも、まあいいだろう。海岸に出かけてみたら、アフリカゆきの船くらい、借りられるだろう。わしは、船乗りをひとり知っておるからな。以前その男は、はしかの赤ん坊を、わしにみせにきた。――その赤ん坊は全快したのだ。あの男が、わしに船を貸してくれるかもしれぬ。』
  そこで、つぎの朝早く、先生は海岸へ出かけました。そして、帰ってくると、万事うまくいって、船乗りが、帆船を貸してくれることになった、と、動物たちに話しました。」(同前、三六〜三七ページ)
  こうして、難問題もあっさり片づき、ドリトル先生は、家族の動物や鳥たちをつれてアフリカへ行き、行きも帰りも、いくつかの危険に会いながら、アフリカ旅行をぶじに終えるのである。
 この魔法のような物語には、しかし昔話のような魔法はない。それでも動物たちの援助は、アラビアン・ナイトの魔神の援助に匹敵する魔法である。だから、ドリトル先生の物語は、魔法が生きている架空の世界で、主人公が超人的な活躍をして幸運をつかむメルヘンの世界なのでる。生命に対する尊敬・慈悲心・協調の精神など、この作品が提出するものもひじょうに明快であって、あいまいさをのこさない。そして、具体的であり、実際的である。
 この具体性・実際性は、若いアメリカ児童文学がつねに子どもと国の成長に必要なものを与えなければならなかったところから生まれたのだが、アメリカの空想物語の大きな流れを生む一要素にもなっている。現実をうつし、現実について語るのに空想をかならずしも必要とせず、空想物語も具体的なテーマを読者に語るとなると、もっともふさわしいのは未来の空想である。

 ウィリアム・ペン・デュポア(一九一六〜)の『二十一の気球』(一九四七)がその好例であろう。これは、奇妙でたのしい空想物語である。大学を定年退職した数学教授シャーマンは、シカゴから気球旅行に出かける。ところがその教授が三週間後、なんと二十一個の気球とともに反対側の大西洋を漂流している。人びとは理由を知りたがるが、教授はシカゴのアメリカ西部探検家協会以外では話さないという。人々の好奇心は高まり、ついに大統領専用列車がさしまわせれる。そして、探検家協会で教授が語ったのは、爆発によってなくなったクラカトア島にあったふしぎな国の話である。
 以前、一人の水夫がクラカトア島に漂着したところ、そこにダイアモンドが山ほどあるのを発見し、アメリカへもどって、二十家族をえらんで島へかえり、一種の理想郷をつくった。二十家族はそれぞれレストランを経営していて、毎日べつべつのレストランへみんなでたべにいく。その上、生活は万事機械をとり入れ自動的になっている。ヨットをのりまわし、空へは気球であがってたのしむ。こんな理想郷へ、シャーマン教授は落っこちて、そこでの生活をたのしむが、やがて、島の爆発とともに、全員気球でにげ、シャーマン教授だけが最後に大西洋へ不時着水したというわけである。
 クラカトア島の理想郷は、機械化という点で、今の日本などによく似ている。生活のオートメ化やレジャーの形など、まるでそっくりである。つまり、『二十一の気球』は、ごく近い未来の予言であったわけである。
 現在アメリカでは、オートメ化されすぎた文明そのものの弊害と反省がおこり、それは、理念ではなく日常生活に及んでいるが、この作品の中では、
 「機械的な進歩はですな、ふしぎなことに、上品なものをゆっくりたのしむきもちをわすれさせていくようです。この美しい島の上で、平和とひまのあるこの島の上で、どうして、あなたがたの生活の一部分でもスピードアップしなければ、いかんのですか。」(渡辺茂男訳、講談社、「少年少女世界文学全集」17、七八ページ)
といった批判的な見解をも含んでいる。
 蒸気、電気などど、機械をつないでなにかを創造することは、健康な欲求であり、子どもたちの知識欲・好奇心を刺激する。だが、機械文明の害もまた考慮に入れなくてはならない。この作品には、そうした深い思慮にもとづく未来への志向がある。また、随所にちりばめられたウイットに富む笑いも、はつらつとした若い精神を感じさせる。アメリカ西部探検家協会は、シャーマン教授歓迎のためにドーム型の屋根にたくさんの気球をとりつける。すると屋根は、インディアン部落へとんでいって、部落のまん中へおりる。
 「ここでインディアンたちは、いったいなにをしたと思う。
  おそれおののいて、テントにもぐりこんだろうか。
  いやいや。
  では、たたかいのさけび声をあげたろうか。
  いやいや。
  魔法つかいをよびにやったのだろうか。
  いやいや。
 インディアンたちは、感心したようにまるやねをみつめていたが、やがて、ひとりがいった。
 「あっはっは。とんまな白人ども、探検家協会に、なんと、とほうもない気球をつけたものだ。
 ・・・・・・』」(同前、二五ページ)

 全体に、アメリカの空想物語は、神秘性もなく深遠な哲学性もなく、また精密な描写に裏づけられた別世界性もない。だから、一般に、例えばイギリスのファンタシーが果たす役割を他の分野の作品にゆだね、ファンタシーとは、いささかべつの機能を、つまり未来への想像力の開発、フェアリー・テイルズの型のもつ明快さを利しての強い風刺などを、になったのである。
 子どもの想像力をはぐくむ方法はたくさんにある。それは、かならずしも、手でふれられるような、目に見えるような世界をつくる想像力の所産=ファンタシーでなくてもよい。子どもの創造性につながるものであるかぎり、粗大であってもさしつかえない。
 空想物語だけを比較すると、アメリカはイギリスに、たしかにおとって見える。だが、アメリカ児童文学の一分野として見ると、空想物語がリテラリイ・フェアリー・テイルズのままであったのは自由な発言のゆるされた健全な社会が原因なのである。言葉をかえていえば、アメリカは、ファンタシーを必要としなかったのである。
 だが、政治・社会状勢の変化にともない、アメリカにも本格的なファンタシーがあらわれはじめる。キャロル・ケンダルの『ガミッジの聖杯』(一九五九)や、ロイド・アリグザンダーの『プレイデン』の物語五部作などがそれにあたる。
 『ガミッジの聖杯』は暗示するところの深い物語である。あるところに七つの谷間があり、そこにミニピンという小人族がすんでいる。彼らはキノコ人に追われて山にかこまれた七つの谷ににげこんだのだが、平和な年月がたつうちに、キノコ人の恐怖を忘れ去り、閉鎖された社会で、保守的なくらしをつづける。だから、奇妙な歌をつくってあちこちさまよい歩くガミー、はでな赤い服を着るカーリイ・グリーン、キノコ人の来襲を予言して武器をととのえることを提唱するウォルター伯爵などは、じゃまなので追放してしまう。ところが、キノコ人は山をこえてあらわれるのである。
 こうしたファンタシーの含む意味は、さまざまに解することができる。一般的に、人間は日常性の中に埋没してはならない、たえず曇りない目で周囲を見るべきであるといっているようでもあり、一九五八年という時点で考えれば、共産陣営の不意打ちにそなえようと警告しているとも考えられ、一方、アメリカ国内の保守層に対する痛烈な批判とも受けとれる。いずれにしても、この文学が時代色をつよくもっていることはまちがいない。そして、作品全体は、ルイスやトーキンと同様な想像力によって創られた空想の別世界なのである。

 『予言の書』(一九六四)にはじまり、『大王タラン』(一九六八)に終わるアリグザンダーの五部作も、やはり空想の世界の一大年代記であり、その意味では『ナルニア国』物語に匹敵する作品である。これは、ウェールズの伝記をもとにしてつくりだしたプレイデンという国が舞台になっている。この国は多くの小国に分かれ、それらを統べる大王がいる。そして、この国にとなりあって死の王アローンが支配する国がある。この国には、死者に不死の生を与えて兵士とする黒い大釜がある。この死の国は、プレイデンをのみこもうと常にねらっているが、そのおさえとして、常夏の国(天国にあたる)から来た人びとがプレイデンを守っている。
 こうした設定で、アリグザンダーは五冊の長い物語で、善と悪、正と邪、死と生のたたかいをえがいている。
 ケンダルもアリグザンダーも、ともに架空の国をつくり、その世界をこまかく目に見えるようにえがいて、イギリス流の伝統をふむファンタシーを生んだ。両者とも、空想の世界のたのしさを根底にもって書いているが、読者に伝えようとするものは、現実から直接とりだし、それを分析し再構成して語っている。
 それは、一面アメリカの児童文学の進歩であるといえるだろう。なぜなら、アメリカにはほとんどなかった分野の作品を生みだしたからである。その上、お手本がイギリスにあるとはいえ、やはり、アメリカ本来のややきめの荒い、しかしストーリーだけで読者をひっぱっていく手法を用いて、アメリカの独自性をたもちつづけている。
 だが、一面、これは、アメリカの悲劇といえるだろう。なぜなら、こうしたファンタシーの誕生は、アメリカ本来の空想的な物語がもっていたテーマの直接性・単一性・明快性を失わせることになるからである。アメリカのリテラリイ・フェアリー・テイルズは、発言の自由・健全な批判精神・国民共通の理想などから生まれる単純明快さをもっていた。それが失われることは、精神の基盤が失われることにほかならない。つまり、ファンタシーの誕生は、大げさにいえば、現代アメリカの苦悩の象徴ともいえるのである。
テキストファイル化八木のり子