日本の童話
巌谷小波とお伽ばなし
個体発生は系統発生をくりかえすという定理は、子どものための文学の世界にもあてはまるらしい。神話・伝説・昔話の子ども向け再話からリテラリイ・フェアリー・テイルズへ、そしてファンタシーやリアリスティックな小説へという発達のパターンは、近代化されて今日まで一〇〇年ほどの歴史しかもたない日本にもあてはまる。ヨーロッパ各国が、二〇〇年以上かけて発達させたものを、八〇年間に消化したのが日本の子どものための文学なのである。だから、日本の子どものための文学も、神話・伝説・昔話の再話にはじまり、そのにない手が巌谷小波(一八七〇〜一九三三)である。小波の略伝をみると、最初は硯友社の作家として出発したが、『こがね丸』(明治二四、一八九一)の成功から子どもの文学に転じ、博文館の「少年世界」「少女世界」「幼年世界」「幼年画報」の主筆として数々の「お伽噺」を発表し、明治期児童文学の主流を形成したとある。彼ののこした他の仕事には、「日本昔噺」「日本お伽噺」「世界お伽噺」シリーズの刊行がある。この小波の業績を、鳥越信氏は『日本児童文学案内』(理論社)で三つに分けている。第一は、『こがね丸』による児童文学の創始者という歴史的な評価、第二は、小波式おとぎかなづかいとよぱれる表音かなづかいを提唱した日本語改革面での業績、第三は国民童話、つまり日本の神話・伝説・昔話の再編成面での仕事である。だが、現在、小波が作品としてのこしたものは、ほとんど子どもに読まれることがない。そこに、日本の児童文学の一つの問題があると思う。
小波は、伝説や昔話については、ゆたかな知識と正しい認識をもっていたと思う。それは、彼の発言の随所に見ることができる。『世界お伽噺』第一巻「世界の始」(明治三二、一八九九)にのった『世界お伽噺』発刊の辞に、彼は、「一体お伽噺には、種々な種類がありまして、独逸語で云いますと、メエルヘン(奇異な話を小説的に書いた物)ファーベル(教訓の意を寓した比喩談)ザアゲ(古来の云い伝え)エルツェールング(歴史的の物語)の種に成り、そして其中のザアゲが、フォルクスザアゲ(民間の口碑)ヘルデンザアゲ(勇士の口碑)と、こう二つに別れて居ります。
日本にはまだ適当な訳語がありませんから、通例は只お伽噺と云って居りますが、其中に自ら種類があります。彼の『少年世界』の巻頭に、私の始終書いて居りますのが、まづメエルヘンに属するもの。又それに教訓の意味を含ませた、『新伊蘇保物語』の様なのが、即ちファーベル又『日本昔噺』は大低ザアゲを集めたので、『舌切雀』、『桃太郎』の類を、所謂フォルクスザアゲと云い、『八頭大蛇』、『羅生門』などは、立派なヘルデンザアゲです。それから『日本お伽噺』に成ると、ヘルデンザアゲ四分に、エルツェールング六分で、只『姨捨』と『羽衣』とが、フォルクスザアゲに成って居ります。」(「日本児童文学大系」(1)、三一書房、一九五五年、三四八〜三四九ページより)
また、武島羽衣の「消極的用意にのみ駆られて、積極的有益の廉」がないという批判に対し「消極的用意とは、悪い事をせぬよう、害を与えぬようとの事。又積極的有益とは善い事をするよう、益を得るようとの事に候乎。成る程従来の拙作物中には、比較的前者が多きよう覚え候。然しファペルならばいざ知らず、メルヘンとしては、必ずしも道徳的倫理的の加味を要せず、寧ろ無意味非寓意の中に、更に大なる点可有之と存じ、所謂印象明瞭よりは、神韻朦朧たるを可とするが、申さば小生の主義に御座候。」(同前、三一書房版、三四四ページ)と答えている。
小波は、伝承文学について、その分類と各自の特色を知り、それぞれが読者に果たすべき役割を正しく理解していたということができるだろう。しかし、こうした認識と実作の間にはかなりなひらきがある。小波は、グリム童話集の成立も、アンデルセン童話集の書かれた理由も当然知っていた。そして、彼の再話も、内容においてはややちがうにしても、グリム同様に民族意識のたかまりの中から生まれたものであった。しかし、小波は、グリムのように、直接、昔話の語り手からきいて再話したのではなく、江戸時代の説話の本を原本として、子ども向きにかきなおした。だから、素朴な真実よりは、潤色され、時代のモラルに色づけされ、さらに明治期の風潮をも加味した教訓臭のつよいものとなりがちであった。『かちかち山たぬきの記念碑』『桃次郎』『新猿蟹物語』といった昔話の後日物語も、仇討とはりきったたぬきの子どもたちが「今度かちかち山に記念碑を立て、菩提を弔ってやりたいのだが、なんと仲間に成てわ呉れまいか。」(「小波お伽全集」11巻、千里閣、一九三○、三一四ページ)といううさぎの言葉を立ちぎきして、うさぎの義心にうたれ、うさぎの前に頭をさげたり、猿をこらしめた力二が慢心して罰をうけたりしている。小波の、伝承文学への理解の深さと作品とのギャップは、菅忠道氏の、次のような評価がほぼ的を射たものであろう。
「小波は、世界の童話を移植するのにも、それから学びとるのにも、『教訓性』や『娯楽性』を主として、『文学性』には目をつぷった。それを、日本の現実からやむを得ないことと、観じていた。はじめ、小波は、おとぎ話はうそを教えるからいけないといった教育界の素朴な合理主義とも戦った。そして、おとぎぱなしは、教訓性によって校門をくぐることができるようになった。だが、それは、国家による国民教化の指導方針と手を握ることによって合法性を得たといえるわけである。」(『日本の児童文学』、大月書店、六三ページ)
この直接的な教訓性と、固定した文体とへの批判が大正期のあたらしい子どものための作品群を生んでいく。そして、それらは、はやくいえぱ小波型の伝承文学の再話への反発から、教訓臭はいうまでもなく、娯楽性、つまり筋のおもしろさ、ユーモアなどをも排除してしまう。そして、そこに、日本の児童文学の不幸が生まれる。つまり、〈文学性〉なるものの追究のために、本来、文学性の一つであるべきストーリーが忘れられがちになっていくのである。小波は、世界の児童文学史の中から、役割の共通した人物をもとめるなら、グリムに匹敵すると思う。問題は、彼が伝承文学の本質に迫る努力を怠ったところにある。グリムは民衆の創造したものをできるかぎりそこなわないように記録することで、アンデルセンから今日に至るまでの多くの作家に、創作の契機を与えたり、素材を提供したりしているが、小波の場合は、日本民族の遺産を、次代の児童文学作家たちにわたしそこねてしまったのである。もっとも、それは、封建的な人間関係や社会制度を温存しながら近代をねじこもうとしたところから生まれた民族意識と、富国強兵策の間に生まれた再話であってみれぱ、いたしかたないことだったであろう。
テキストファイル化小田 美也子