『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

   浜田広介―――よい子の文学

 浜田広介には『ピノッキオ』の翻訳『ひのきまる』(現在『夏の夜のゆめ――ひのきまる物語』一九四七)がある。まず、これと原作との比較から、広介の文学を見てみよう。
『ピノッキオ』が徹底した教訓主義の産物ながら、真の子どもをえがいて不滅の作品になっていることはすでにのべた。その『ピノッキオ』の子どもらしさは、物語の冒頭からはじまる。ピノッキオは、口ができたとたん生みの親をからかって笑いだし、足ができたとたん、カタカタ走ってにげだしてしまう。広介のひのきまるは、口ができてすぐ笑いだすことはないが、生みの親、きんべえさんのひげをひっぱる。
 「『いい子だよ。さあ、やめてくれ。』
『やめるから、おじいさん、ぼくを立たせてください。』
『いいとも、いいとも』
  きんべえさんは、両手をまえにだしました。手につかまらせて人形をそっと立たせて、  手をひきました。
   ふわりと立ったひのきまる。ごらんください。なんだか、すぐにたおれそう。
『こわいよう。こわいよう。』」
     (「浜田広介集」、ポプラ社、「新日本少年少女文学全集」23、93ページ)
 ひのきまるは、歩き方をおぼえ、ほえついた犬も、こわくないと知ると、そこではじめて走って出かけていく。
 外に出たピノッキオは、親を牢屋にぶちこんで、家に帰ってきて、ものいうコオロギをころし、学校へ行く途中教科書を売って人形芝居にとびこみ、きつねとねこにだまされて、といったぐあいに親や他人の忠告をきかず、わるいことばかりして、さんざんな目にあう。
 ひのきまるの方は、自分の影を他人だと思って競争しているうちに、森の中で迷子になり、きつねと出会って、わるいのらねこの宿をのぞきに行く。のらねこたちが、にわとりをねらっているのを知り、待ち伏せしてたたかうが川におちてしまう。そしてきつねにたすけられて、家に帰れと忠告され、からすのたすけできんべえさんの家までとんでいき、池におちる。きんべえさんは、たすけあげて寝かしてやり、一生けんめい看病してやる。やがて、看病づかれのうたたねの夢枕に死んだおばあさんが立つ。おじいさんがおばあさんに、ひのきまるが外にかけ出していって、くたびれきって帰ってきたことをつげると、おばあさんがたずねる。
「『どうして、そとにかけだすなんて。なにかが戸口にきましたか。』
  『犬がきました。それを見つけて、さっそくに、とことこ、そとにかけだして。』
  『わかりましたよ。人形も人間の子どもとおなじ心をもっていましょうよ。子どもは  犬がすきでしょう。犬ばかりではありません。牛でも馬でも、うさぎでも、いきもの  をめずらしがります。どこまでも、それを見ようとするのです。めずらしいもの、お  もしろいもの、それを見ようと、子どもらは、おいかけるではありませんか。』
  『なるほど、な。わたしが、子どものそのころも、そのとおり、そのとおり。』
  『木の人形も、そのとおり。』」(同前、130ページ)
 さらに、おじいさんは、ひのきまるが、きずだらけになって帰ってきたことをいって、その点だけは叱るべきでは、というと、おばあさんは、
「さあ、それは。ばかなけんかを、きっと、したとは、かぎりません。そこらをあるい ているうちに、らんぼうものが、いるのなら、おさえてやろう、よわいものをいじめた り、小さいものを泣かせたりして、はびこるものが、いるのなら、こらしてやろうと、 だれもみな、思わないではありません。おそれることなく前にでて、うけたきずなら、 どうでしょう。いさましい気もちをおこして、たたかって、ひとをたすけて、できたき ず、それをしかっていいのでしょうか。ほめては、わるいといえるでしょうか。どちら でしょうか。おじいさん。」(同前、130ページ)

 ピノッキオはいたずら、反省をなんどとなくくりかえす。ところが、ひのきまるは、たった一度犬を追って出ていくだけである。そして、それについても、ひのきまる良い子説を、二人の大人が、くどくどと説明している。『ピノッキオ』の根底には、子どもというものは、特に男の子は、反省してもすぐに忘れるバカなところがあるから、それは徹底的に直さねばならないという考えがある。広介には、子どもは善良で純な心をもっているという視点がある。結果は、『ピノッキオ』が、教育主義・教訓主義を無にするはつらつたる子ども像をえがいたのに対し、ひのきまるは悪者をこらしめ、おじいさんに感謝する、そして素直な、なにやら美徳の権化のごとき、つまらない主人公になっている。広介の子どもの文学は、はつらつとした悪童を、よい子になおし、生きた子どもをしめだしたところに成り立っている。わたしたちは、広介童話を読む場合、そのことをまず念頭におかなくてはならない。それから彼が子どもたちに伝えようとしたテーマをたしかめると、広介童話とはなにかがわかってくる。
『じぞうさまとはたおり虫』という作品がある。
「ある町はずれのお寺のうらに、ぬけ道ができていました。みちばたのやぶはしげって、つる草が、のびほうだいにのびていました。どのつるに、どの葉がついているものか、こんがらかってわかりそうもありません。(中略)ここのやぶでは、こおろぎが、ひるのあいだもないていました。けら(傍点)も、まじってないていました。夜がくると、すずむしも、まつむしも、なきだしました。」(同前、27ページ)
 このやぶに、一匹のはたおり虫がいて、そばに石地蔵が立っている。はたおり虫は人間になりたいと思っていて、とまったいもの葉にたずねると、植物も虫も冬がくれば死ぬのだといわれてびっくりする。はたおり虫はきくのである。
「『わたしどもが、いなくなっても、じぞうさまは、ここに、こうしていましょうか。』『それは、いましょう』
 そこで、はたおり虫は、
『ああ、わたくしは、この世の中からきえてしまわなければならない。人間に生まれかわることもなく、ただ、なきがらを風にふかせなければならない。せめて、この世にいられるあいだのみじかいときを、じぞうさまのおそばにいよう。おそばにおいていただこう。』」(同前、30ページ)
と思って、じぞうさまの胸にとまるのである。
 虫と地蔵との対比は、死と永遠の来世を暗示していると思われるが、運命はのがれられないとする考えは、広介の作品の主調音の一つであり、この作品のほか、『花びらのたび』『むく鳥のゆめ』など、初期の作品にくりかえしあらわれてくる。この考えにかぶさって、だから、人間は、おかれた立場で最善をつくさねばならないとするもう一つの考えがあらわされる。最善をつくすとは、たとえば、星のように明るく輝きたい街灯は、ただ、だまって光ることであり、ひとりもののおじいさんは自分が死んだあとで、人びとのためになるよう、マスを湖にはなしてやることである。
 ある環境におかれた人間が、その場で最善をつくすといえば、カミュの『ペスト』などを連想するかもしれない。だが、広介の場合はまったくちがう。はたおり虫は地蔵さまにとりつくことで、星になりたい街灯は、あらしの夜、男の子に「あの星よりも、明かるいなあ」といわれることで、おじいさんは、死後、マスの大群がもどって人びとをよろこばすことで、報いを受けている。彼の『五ひきのヤモリ』の副題どおり、「神はまことを見せたもう」のである。
 ピノッキオをひのきまるにして、そして、誠意は必ず通じると説く広介の作品ほど、親にとって安心なものはないだろう。口がきけるようになったとたん、親を笑うような子どもではなく、すなおで勇気があり、人のためを考える子どもが登場し、しかも、読者にむかって、あなたたちは生来よい子だと説明までしてくれる作品は、親の子に対する本能的な保守性の上にしっかりといかりをおろす。そして、人にはしんせつに、友には思いやりを、そして、それぞれの分に応じた人生をせいいっぱい生きよと説いたら、もう、これ以上、大人にとって安心なことはない。作者が意識したと否とにかかわらず、広介の作品は大人の子どもに対する保守的な心情の上に成り立っているのである。序で述べたイギリスの女流作家トリマー夫人が多くの支持者を得たのは、フランス革命の過激思想から子どもを守るという大目的をかかげていたからであった。ここで、広介の童話と、大正から昭和初期にかけてはげしくなった社会主義運動や社会不安とを結びつけることは図式的にすぎるだろう。また、作者自身にトリマー夫人のような意図がなかったこともたしかだろう。だが、結果的に、広介が、トリマー夫人をはじめとする十八、九世紀イギリスの教訓主義作家たちとおなじ機能を果たしたことはいなめないと思う。管忠道氏は、『日本の児童文学』の中で、
 「『ひろすけ童話』の本領は、いわゆるメルヘンの系列に属する空想童話にある。広介は、童話の創作方法においては、空想性もリアリズムの精神にもとづかねばならぬと、童話のリアリティー確立のために一貫した態度をとりつづけてきた。そこに、日本の近代童話としての達成が認められるのである。しかし、前節にも述べたように昭和の初年以降、児童文壇の問題意識は、現実的な作風のリアリズム童話に向けられだして、これが、いわば主流を占めるようになってきた。そうなると、リアリズムの精神に立つとは いっても空想的な作風の「ひろすけ童話」は、傍流的な存在に位置づけられねばならぬ わけで、ジャーナリズムの上では広汎な影響をもちながらも、児童文壇の趨勢において は、いきおい『孤高の童話文学』にならざるをえなかったわけである。」(『日本の児童 文学』、241ページ)
といっている。
 程度はさまざまであるが、一九三〇年代にリアリズムをめざした作家たちは、世界史的にみて、社会意識にめざめていた。日本ではこの時期のリアリズムの作家たちの多くが弾圧され、転向するか沈黙するかするのだが、そうした流れから孤高をたもったのは広介がメルヘン系列の作風だっただけとは考えられない。やはり、当時のジャーナリズムや家庭に入りこめるライセンス=保守性をもっていたのである。
テキストファイル化渡辺みどり