『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)

閉じこめられた魔法


 20世紀的な空想である日常生活の中の魔法は、モルズワース夫人の傑作『カッコウ時計』(1877)『壁かけのへや』(1879)あたりからはじまったとされている。モルズワース夫人の作品と、彼女のすぐ後につづくE・ネスビットの作品にこの分野が生まれた原因と、この分野の特質のかぎがあると思う。
 モルズワース夫人とネスビットは、共に大人向きの小説を書き、子どものための文学でも、空想だけでなく写実的な作品をも創作している。モルズワース夫人は、ギャスケルの日常生活的リアリズム作品『クランフォード』の影響を受けた小説を4点発表した後に、友人のすすめで子どもの文学に転じ、2作めの『幼児キャロッツ』(1876)で注目を集めた。その後も『クリスマスの子ども=少年時代のスケッチ』(1880)『ハーミイ=幼女の物語』(1881)その他数多くの作品を発表した。ここに上げた題名だけで推測がつくように、彼女がえがいたのは日常生活の中の子どもたちである。
 この時代は、父親は仕事で外に、母親はしきたりの社交に身を入れる生活が常識であって、子どもは最上階の子どもべやでくらす習慣が生まれていた。だから、彼女がえがいた子どもは、主に子どもべやの子どもであった。いきおい、観察はこまやかになり、子ども独特の思考や感じ方がていねいに把握された。児童文学のリアリズムの大きな前進といえる。
 当然、彼女は、子どもの空想に突きあたりそれを作品化した。ロジャ・ランスリン・グリーンは、評伝『モルズワース夫人』(1900)で

 「モルズワース夫人は・・・『カッコウ時計』の作者としてもっともよく知られているが、この本は彼女の他の作品以上に、完全に子どもの心の中にはいりこんでいて、大人はさほどに思わないが、子どもにはそっくりそのまま受け入れられている。ジョージ・マクドナルドは、ありふれた家から、思いがけない出口を経て四次元への道をつけたといえる。モルズワース夫人は、霧につつまれたこの魂の領域=マクドナルドのみつけた新王国にはあまり深く入りこまなかった。しかし、その新王国を、ふつうの子どもたちのすぐそばに近づけた。」
 とのべている。

 子どもべやでみつけた空想は、たしかに子どもの内面の把握の深まりを示す。と同時に、神話・伝説などのような想像力の所産の縮小であり、子どもの愛玩物化であることもまちがいない。『カッコウ時計』のグリゼルダは、二人の老嬢が何十年間も毎日寸分ちがわない生活を送る家にくらして息がつまりそうになり、妖精化したカッコウ時計のカッコウに連れられて、「おじぎをする中国人」の国、ちょうちょうの国、月の裏側などを訪れる。『壁かけのへや』のジャンヌとヒューは、月光のおかげで魔法を帯びた壁かけの国に入っていく。ともに不思議は、子どもべやの中でおこる。かつて人間が想像した超自然な出来事や超能力は、人間の宇宙観の表現であり、科学の代替物であり、哲学であった。キリスト教の伝播により、神話・伝説の神や妖精たちは、神の敵となったが、それでもまだ人間に害をなす恐ろしいもの、力あるものであった。それが、モルズワース夫人に至って、子どもべやにとじこめられ、無害で楽しいものに変質したのである。
 この事実の背後には、人間の力に対する自信がある。蒸気機関その他の発明による産業革命と富の増大、生物進化論による神学的宇宙観の動揺等は、19世紀後半のヨーロッパ人に絶対者への疑問をいだかせ、現世的幸福を追求させる傾向を生んだ。また、妖精、別世界などは、想像による妄想、実在しないたわごととなって、まったく無力なものと化した。世界を変え、幸福を保障するものは、人間の力となったわけである。魔法は、だから、排斥するには及ばない、アニミスティックな段階にある子どもにふさわしい遊びの素材となり、楽しさを味わわせ、詩的なものや美や象徴的な意味を伝達するにふさわしいものと見なされるに至った。つまり20世紀的空想であるエヴリディ・マジックは、人間の力への絶対の確信を基礎に生まれたといえる。それは、この分野の確立者E・ネスビットの作品ではっきりと確かめられる。1902年に出版されて彼女の地位を不動のものとした『砂の妖精』は、太陽が出ている間だけ魔法が使える砂の妖精に、5人の子どもが願いをかなえてもらうという筋である。子どもたちの願いとは、絵に出てくる子どものように美しくなりたい、金貨がたくさんほしい、つばさが生えたら空をとびたい、お城の王子王女になりたいといった、ごく常識的でいかにもふつうの子どもがもつであろう願いである。それが妖精によってかなえられる。つまり、人間のふつうの欲望のために魔法が使われているわけである。魔法は欲望充足の道具にしかすぎなくなっている。そして子どもたちは、結局こうした願いがおろかなことをさとり、妖精と別れる。彼らの生活はすこしのゆるぎもなく続く。魔法は生活への一時の味つけなのである。モルズワース夫人の作品もネスビットのものも、まったくかげりがなく明るく楽しい。それは、現実を肯定し、作者が現状と未来に確信をもっているところから生まれている。この現状肯定は、ビクトリア後期とそれに続くエドワード時代という平穏無事な繁栄期だからもてたともいえる。
 第一次世界大戦によってベル・エポックは消しとんでしまったが、それでも1926年の『クマのプーさん』(A・A・ミルン)には暗さはないし、激動期の1934年に生まれた『風にのってきたメアリー・ポピンズ』(パメラ・トラバース)にもネスビットとひびき合う明るさと生活への確固とした自信がうかがえる。さらに第二次世界大戦直後、メアリ・ノートンが発表した『魔法のベッド南の島へ』(1945)にも暗さがない。それどころか、勉強して魔女になる着想やベッドにのって空間を旅する着想には、暗さを吹きとばす力強い開放感さえあった。これは、この分野の明るさが単に時代の繁栄ではなく、むしろ積極的に明るさを獲得していく姿勢の上に発展してきたことを示している。
 証拠はイギリスだけではなく、日本にもある。1959年(昭和34)佐藤暁が『だれも知らない小さな国』を、いぬいとみこが『木かげの家の小人たち』を発表した。太平洋戦争に突入しようとしている頃の小学生が、とある丘の下を流れる小川で小人を見かけ、敗戦の荒廃のただ中でそのことを思いだして、いくつかの困難の末に小人に再会し、小人の国の発展に力をかしていくという佐藤の作品には、獲得、創造、拡大、伸長等の欲求を充たしうながすものにあふれ、読者にスリリングなよろこびを与える。それは、佐藤が終戦直後に青年時代をすごしていることや、創作活動が児童文学の大きな変化発展期にあたっていたことなどと直接つながっているだろう。
 いぬいの『木かげの家の小人たち』は、小人の運命を中心に、太平洋戦争中「非国民」として監獄につながれた英文学者の一家をえがいているから、『砂の妖精』のような明るさはぜんぜん感じられない。戦後の建設を象徴的にえがいた佐藤の作品のようないちずな未来への展望もない。満州事変、日華事変、太平洋戦争を子どもとして体験した人間が、中産階級確立期のイギリス人のように楽天的ではありえない。しかし、いぬいは、物語の最後で、イギリスへ帰る小人の老夫婦とはべつに、彼らの息子と娘である若い二人の小人を、日本の、それも人知れぬ本べやの天井近くにではなく、大自然の中にのこしている。これは、太平洋戦争の加害者であった日本にも、平和世界招来のための努力が戦争中から消えずにあったこと、そしてこれ以後もその努力を続けることの宣言であった。そして、小人を、人目につかない片すみから太陽と風の中に解放したことは、再生日本を象徴していた。いぬいの作品の底にも、絶望や疑惑の陰がまったくない。試練を超える人間の力への信頼があり、未来への確信がやはりあったのである。
 しかし、二つの世界大戦と50年代の東西冷戦、水爆開発、人種差別問題などは、科学の開く未来だけがけっして楽天的ではないことや、物質文明と精神文化が跛行している現実をはっきりと示した。エヴリディ・マジックの物語を生みそだてた精神的基礎が変容し解体しはじめたのである。だから、第二次大戦直後に、魔法のベッドを南の島や過去の国へゆかいに飛ばすことができたメアリ・ノートンも1952年の『床下の小人たち』以後、小人の暮しぶりをえがくことを通じて、改めて人間及び人間の社会とはなにかを問い直さなくてはならなかった。
 エヴリディ・マジックがその立脚点をまったく失うに至るのは、1960年代の代表作の一つ『グリーン・ノウの魔女』(ルーシイ・ボストン、1964)である。この作品は、900年間川の中州にたっているグリーン・ノウという屋敷でおこる気味わるい事件を物語っている。昔この屋敷に家庭教師として宿泊していた呪術の大家が残した本を買いとりに、ひとりの女性があらわれる。その女性の悪い魔術と、グリーン・ノウの持主の老婦人及び養子との戦いは、悪魔と神の戦いを象徴している。悪い魔術が生むうじむし、猫、へび等のわざわいは暗い悪の力であり、それらを打ち破り、魔女の名をあかしてついに退散させる力は、いわば神のわざである。
 この物語を読むと、魔力がすでに人間の下位にないことがよくわかる。強大な黒い魔法の脅威にさらされた人間は、それに立ち向かうために、古い鏡、いにしえの賢人の言葉などを必要とする。黒い魔法もそれに対抗する善の力も、人間の二面の象徴と考えれば、この作品では、人間が二つに分離して争っていると見ることができる。いずれにしても、この作品中の人間は、人間の力と未来への絶対的確信をもたず、未来は暗黒になる可能性をはらみ、その脅威を除去するには、はるかな過去から積み上げられた英知を賢明にわがものとして生きねばならぬことを自覚している。
 かつて、エヴリディ・マジックは、迷信と無知と因習から人間を解放した科学的思考を土台にして、子どもの内面の理解を進め、子どもをお説教やおしつけから解放した輝かしい文学であった。しかし、機械文明のあけぼのに人間がもっていた自信は、現在深刻な反省を迫られている。その反省とともに、復活してきたのが、神話・伝説的空想の物語群だといえるのではないだろうか。神秘なものの復活は、人間の可能性への新しい模索のはじまりなのである。
テキストファイル化上久保一志