『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)

環境の表現としての神話的空想−ロイド・アリグザンダー

 アメリカの作家ロイド・アリグザンダーが、プリデイン物語シリーズの素材としてウェールズ神話・伝説を自在に使っていることはすでにのべたが、この五部作で復活する神話的世界は、その質においてアラン・ガーナーとはいささかちがっている。
 アリグザンダーは、まず神話的な世界全体を、実在の伝説では北スコットランドをさすプリデインの名でよび、このプリデインを、死の王アローンが統治するアヌーブンと、太陽の女神ドンの一族を盟主とする小国家連合の対立の中でえがいている。五部を通じての主人公タランは捨て子で、プリデインの大予言者であるダルベンにひろわれ、彼の家カー・ダルベンに住んでいる。
 主人公タランが若者となり英雄にあこがれる年頃になったとき、死の国は、頭に鹿の角をもつひとりの王に権力を約束して、ドンの王家に反乱をおこさせる。タランは、ドンの王子ギディオンや北方の小国の王で無資格の吟遊詩人フルダー・フラムと共に、角の王の進撃をくいとめようとして、逆にアヌーブンの手先の魔女アクレンに捕えられる。しかし、彼はその地下牢から古い名剣ディルンウィンと海神族の最後の王女エイロヌイを救いだし、名剣の力で角の王を滅す。これが『タランと角の王』(1964)である。
 こうして、プリデインは小康を得るのだが、アヌーブンのアローンは、死者を生きかえらせて不死身の戦士に変えられる恐ろしい魔法の釜をもっている。これがあるかぎり、いつかは死が生に勝ってしまう。そこでギディオンは魔法の釜の破壊を計画し、タランのはたらきで釜を手に入れるが、それを破壊するため一人の王子が我が身を犠牲にする悲劇がおこる。これが第二部『タランと黒い魔法の釜』(1965)である。
 この事件のとき、タランは釜に入って死んだ王子にその身分を軽蔑され、ぜひとも出生の秘密を知ろうと決心する。そんなとき、彼がアクレンの城から連れだした海神族の生きのこりの王女エイロヌイが、王女にふさわしい暮しをするため、縁戚の王家モーナの島のルーズルム王のもとへ旅立っていく。王女は、モーナ島で、昔日の権力を回復しようとしたアクレンにとらえられ、海神族の古いとりでに連れ去られ、やがてタランにたすけられるが、海神リールの魔法は永久に失われる。これが第三部『タランとリールの城』(1966)である。
 タランは、エイロヌイの失踪のとき、彼女への強い愛を自覚し、出生の秘密をさぐる旅に出るが、領主をいただかずに自治制をしく自由の民コモットたちを知り、彼らの中で暮らすうちに、政治を行なう者のとるべき態度、心すべきことを知る。そして、さまざまな技術を身につけているうちにアローンが永い争いに決着をつけるため、大軍をおこしてドンの王家の城をおそうという情報がはいる。そこで第四部『旅人タラン』(1967)はおわる。タランは自由の民から兵をつのり、戦闘に加わるが、ドンの一族はうちまかされ城は廃墟と化す。タランやギディオンは、兵を結集して逆に敵の本拠をつき、ついにアローンを滅ぼす。そして、その後、ドンの一族やダルベンは太陽の国へ帰り、プリデインは、ふつうの人間であるタランとエイロヌイをいただき新しい紀元にはいる。これが『タラン、新しい王者』(1968)であり、この巻で、この大きな規模の物語は終わる。
 この物語の興味ある特徴は、神話・伝説的魔法が、ガーナーの場合とちがい、主人公タランや副主人公エイロヌイの運命や人格形成に直接かかわっていないことである。彼らは、大古の魔法が支配する世界に住み、ときには魔法に苦しめられ、ときには助けられて危険きわまりない冒険を続ける。そして、その魔術的な出来事は、彼らの内にひそむ美質をひきだしたり、反省を与えたり、ものごとの判断を深めたり、さまざまな影響を与えはする。だが、それはなにも魔法でなくてはできないことではない。現実の日常的な出来事がじっさいに行っていることである。その点は、作者自身が第二作『タランと黒い魔法の釜』のまえがきで、
 「プリデインは、空想の国でありますが、根本的には、わたしたちのこの世界とあまりかわりはなく、ユーモアと悲嘆が、喜びと悲しみが、密接にないまざっているのです。しばしば途方にくれる豚飼育補佐タランが、くださねばならない決断や、なさねばならない選択は、わたしたち自身がこの世で経験する決断や選択より、やさしいわけではありません。空想の国にあっても、成長にはかならず苦しみがともなうものです。」(傍点は筆者)
とのべていることでもよくわかる。
 では、アリグザンダーは、なぜ神話的な神秘と魔法の世界を、若者の成長の舞台として選んだのだろう。もちろん、新しい素材に対する興味は理由の第一であろう。彼が神秘的な素材に強くひかれたことは、プリデイン物語が、『指輪物語』だけではなく、アーサー王伝説をもとにしたT・H・ホワイトの『石にささった剣』(1950)の影響をも受けていることからもうかがわれる。
 だが、より本質的な理由は、二つある。最終巻『タラン、新しい王者』のまえがきの一部分に、つぎのような説明がある。
 「忠実なガーギ(プリデイン物語中の登場人物)すら避けることのできない最終的な選択は、耐えることができないほどつらいものです。さいわい、現実の世界では、すくなくとも、物語の中ほど明白な条件づけでそれを迫られることはありません。」
これが、理由の一つと思う。
 「プリデイン」のシリーズには、第一巻と最終巻に不死身の戦士が、第二巻と最終巻にアヌーブンの狩人が登場する。不死身とは、戦いで死んだ戦士を入れると唖となってよみがえる黒い魔法の釜から生まれた、死の王の奴隷戦士である。彼らは顔色が土気色で目は石のように光がなく、動かない口許にはうすら笑いを浮かべている。剣で突きさされても、身ぶるい一つすると、ふたたび前に増した力で戦うことができる。アヌーブンの狩人とは、盟友を裏切り、死の王に血の誓いで臣従し、ひたいにまっかな烙印をおされている戦士であり、小集団で動き、一人が殺されると、その力が仲間に乗り移っていくから戦力は変わらないようになっている。
 不死身は、自らの意志に関係なく殺人機械にされる人たちを、アヌーブンの狩人は、自らえらんで殺人、暴力、恐怖、憎悪による権力獲得をめざす側につく人たちを象徴している。両者の姿かたちと性質は、殺人者の本質を強い印象とともにはっきりと読者に伝えてくれるが、殺人者のおぞましさは、神話・伝説的単純明快さと空想の物語の登場人物であることで多少やわらげられて読者に受け入れられる。それどころか、薄明の大古のうかがい知れぬ神秘にかかわるといった感じや、善玉である主人公たちの危機を高める対立者である点など、逆に読者の興味をかきたてひきつけていく。つまり耐えがたいような真実をも効果的に表現できることが、作者を神話的世界にみちびいたのだと思う。
 読者をひきつけることへの配慮は、悪の登場人物たちだけに限られてはいない。マリオン・カーがアメリカの児童文学書評誌「ホーン・ブック」(1971年10月号)にのせた「新しい神話の中の古典的英雄」が、主人公タランの魅力の一面をたくみについている。彼女はその中で、オランダの学者ヤン・デ・フリースがあげる神話・伝説的英雄の十のモチーフをあげる。それは、(1)英雄をもうける両親のこと(2)英雄誕生のこと(3)乳児である英雄の生命がおびやかされること(4)英雄の養育にまつわること(5)英雄が不死身の性質を獲得すること(6)もっとも普遍的な英雄的行為は、龍その他の怪物との戦いであること(7)英雄が、大きな危険をのりこえた後、乙女を得ること(8)英雄が死者の国へ旅すること(9)英雄は、幼児に姿を消した場合、帰還して敵にうちかつこと(10)英雄の死のこと、の十モチーフである。タランは、(5)(9)(10)のモチーフ以外は、すべてこのモチーフを満たしている。
 完成の域に達した神話が、大規模で骨太な物語性に富むこと、そして対立する登場人物たちが、簡明にえがかれ、波瀾万丈な行動をするために、読者の理解をたすけ、意味深いテーマがたくみに伝えられることは、周知のことである。アリグザンダーは、神話や伝説の長所を計算しつくして新しい創作に生かしているといえる。これも、彼が神話・伝説を用いた理由の一つである。新しい神話的空想の誕生は、文明観、人間観の変化にともなう、新たな人間把握と未来の展望へのこころみを第一の理由にあげねばならないが、アリグザンダーに見られるテーマの効果的表現と物語性の獲得も大きな理由であると思う。だから、骨太な物語性をもつことができるアレゴリー(寓意物語)も当然子どものための文学として、あたらしく登場することになる。


新しいアレゴリー=『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』

 寓意の文学が、そのたとえのおもしろさやテーマのわかりやすさのために子どもに喜ばれていることは、本来大人のものであったジョン・バニヤンの『天路歴程』(1678)以来、数々の作品が証拠だてている。アレゴリーがたとえを用いてなにかを風諭する以上、たとえ話は絵空事である。だが、『天路歴程』は、絵空事の世界をこと細かにリアスティックにえがく想像力に満ちていた。1972年にイギリスの児童文学賞カーネギー賞を受賞したリチャード・アダムズの『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』は、このイギリス的アレゴリーの伝統をはっきりと継承しながら、さらに新しい特徴を加えている。
 これは野生うさぎを登場人物とした空想のものがたりである。しかし、作者は巻頭の「謝意」の中で「うさぎとその特性についての知識は、R・M・ロックリイ氏の名著『うさぎの私生活』のおかげを蒙っている」とのべ、さらに作中にあらわれるナット・ハンガー農場は実在すると但し書きをしているように、うさぎの生態はある程度まで事実をもとにし、物語の舞台も実在する場所を利用している。
 サンドルフォードのうさぎ生息地に、ファイバーという予言能力をもつ雄うさぎがいる。彼は野原が血に染まる幻を見て兄うさぎのヘイズルに移住を提案する。兄は弟の予言力を信じて主領うさぎに移住を進言するが容れられない。そこで、ヘイズルとファイバーのほか、力の強いビグウィグなど数匹の雄うさぎが移住を開始する。彼らは、まずアウスラとよばれる幹部の阻止をはねのけ、川を泳ぎ渡って安住の地を求めてさまよう。ファイバーの予言どおり、サンドルフォードの野原はビル建設のための整地が始まり、残ったうさぎたちは絶滅させられてしまう。
 平凡なうさぎから徐々に指導者的才能を示しはじめるヘイズルにひきいられたうさぎの小集団は、ある野原で別のうさぎの集団に会い、暖く迎えられる。そこは食糧も豊かなのだが、なぜかうさぎたちは悲しげな表情をしている。やがて、それは、人間が一種の放し飼いをしているところとわかり、ヘイズル一党はうまくにげ、苦労の末にウォーターシップを発見するのである。そこを新しい生息地と定めたヘイズルは、メスなしでは将来がないことに気づき、やがて、多くのメスを収容しているエフラファ生息地の存在を知る。このエフラファのうさぎとの凄絶な戦いが、この物語の最大の興味である。
 エフラファのうさぎは、力強く大胆で知力にすぐれた英雄ウーンドウォートにひきいられている。ウーンドウォートは、うさぎの生息を人間に知られないように、外に出てえさをたべるのを朝夕ときめたり、偶然領内に入りこんだうさぎは絶対に領地から出さないように、きびしい統制をしいている。ヘイズルはエフラファの存在を知り、ビグウィグを送り込んで綱渡り的にメスを脱出させることに成功する。しかし、ウーンドウォートにウォーターシップ丘陵を突きとめられ、大攻撃を受け、ビグウィグの決死の奮闘と農場の犬の解き放し作戦で撃退するのである。
ヘイズルたちが最初に落ちつこうとした生息地は、権力に生殺与奪の権を握られた、大きな不安のある社会を意味するだろうし、エフラファははっきり全体主義国家をさしている。それに対するヘイズル一党の社会は、自由と協調と自決権のある、そして無限の可能性をもつ社会といえる。だが、彼らはただのうさぎである。この作品のところどころに挿入されているうさぎの英雄伝説の一つは、宇宙をお造りになった神フリスとうさぎの王エル=アライラーとの交渉である。神はうさぎがふえにふえて草が乏しくなったのを見て、エル=アライラーに制御を命ずるがきかれないので、他の動物たちにうさぎをたべる牙やずるがしこさを与え、そしてうさぎには、にげるはやさ、用心深さ、抜けめなさを与える。自決権をもち無限の未来をひらこうとするヘイズルたちは、抜けめなさとにげ足の速さしかもたない、敵にかこまれた弱者なのである。
 ヘイズル一党の生き方には、作者の理想とする国家、集団、個人の生き方がはっきりと語られている。そして、ふえすぎをチェックするために神が与えたバランスと、生きのびる手段についての神話には、人類のこれからの問題もまた暗示されている。
 そうしたテーマが、単なるたとえ話ではない迫真性をもって感じられるのは、事実をもとに想像力を駆使したうさぎたちの行動の詳細をきわめた描写である。ここには、『天路歴程』以来、空想を現実のようにえがくというイギリス的想像力の特質が脈々と受けつがれている。それは、また、E・ネスビットが『砂の妖精』で確立した20世紀ファンタジーの現実的空想性の手法の、さらにみがかれたものでもある。
 『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』を読むと、空想の物語がエヴリディ・マジックから抜け出した必然性を痛感する。現実への魔法の導入という手法では、ここに提出されたテーマは、とうていこれほどの現実味を帯びた迫真性をもちえなかったと思う。また、リアルな手法を用いれば、これはかなり長い、そしてかなりあくの強い政治・社会問題小説になったであろう。リアルな小説同様な現実味をもちながら、そのやりきれない影の部分をのぞいた読み物にできるところに、このアレゴリーの強味と出現の必然性がある。神話・伝説的空想世界の再生や、神話的・英雄伝説的な要素をもつ『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』のようなアレゴリーの誕生は、さまざまな意味で、もっとも今日的な現象であり、この種のファンタジーは、現実把握の可能性がひじょうに大きいといえる。
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