『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)
第二章 児童像の変化
<児童文学にあらわれた児童像の意味>
『クマのプーさん』(一九二六)で日本の子どもに親しまれているA・A・ミルンは自叙伝『もはや手遅れ』(一九三一)の中で児童文学作法に触れ、子ども時代の思い出と、わが子の観察と、想像力の三つを子どもをえがく手段としてあげている。洋の東西を問わず、大人が子どもに向けて子どもをえがく場合、まず妥当な要素と考えてよいだろう。マーク・トウェインは『トム・ソーヤーの冒険』(一八七六)のまえがきに「ここに記された冒険の大部分は、実際におこったものである。そのうちの一つ、二つは、私自身が経験したことであり、そのほかは、私の学校友だちの経験である。ハック・フィンは、実際にいた人間をモデルにした。トム・ソーヤーもおなじだが、これは、ひとりの人間ではなく、私の知っている三人の少年の特徴を合わせて作りあげたもので、いわば、建築でいう、混合様式のようなものだ。」(石井桃子訳、岩波少年文庫)とのべている。
『トム・ソーヤーの冒険』の魅力が登場人物たちの子どもらしい言動にあることはいうまでもない。しかし、マーク・トウェインが、じっさいに生きていた子どもをモデルとしながら、子どもの活写以上の意味を子ども像に付加していることは、一読すればすぐにわかる。また、カルロ・コッローディの『ピノッキオの冒険』(一八八三)が、その真実な子どもらしさで世界中の子どもたちに愛されながら、作者の真意はこのなまけ者のいたずらっ子の否定にあったことはよく知られている。
わたしたちは、児童文学を読んで、その中に子どもの真実の姿を求めようとすることがある。また、「この作品には、現実の子どもが生き生きと活動している」といった書評に出会ったりする。しかし、それは、かならずしも正しくはない。いささか乱暴な言い方だが、児童文学にあらわれる児童像は、過去、あるいは今生きている子どもをえがいたものではない。大人の考える理想的子ども像、ときには理想的人間像にほかならない。だから、児童文学の発達の中で児童像の変遷をしらべることは、じっさいの子どもの変遷を知ることにはならない。それよりは、むしろ、各時代において大人が子どもをどう見ていたか、子どもに何を求めたか、子どもの地位はどうだったかをしらべることになる。もちろん、子どもの衣服や生活習慣や言語などを通じ、または読者がよろこんで読んだ本の主人公たちを通じ、ある程度は、各時代の子どもに近づくことはできるだろう。また、作者のもくろみとはべつにあらわれる子どもの素顔を発見することもあるだろう。それでも、やはり、児童文学の児童像は、大人の意識の変化を語り、子どもに対する大人の試行錯誤の跡を示していることは、おぼえておかなくてはならないと思う。
戦前の児童像
大人の文学と子どもの文学
子どもが主役として登場することは、子どもの文学にかぎったことではなく、一般文学にもある。だから、単純に一般文学と児童文学の子ども像を比較するだけでも、児童文学作家が子どもに何を語らねばならないと考えているかがよくわかる。
ローラ・インガルス・ワイルダーが開拓物語連作の第一作『大きな森の小さな家』(一九三二)につづいて『農場の少年』(一九三三)を発表した年、ジョン・スタインベックは「北アメリカ評論」に『赤い小馬』(一九三七)の最初の二編「贈りもの」「大山脈」を発表した。主人公は少年ジョーディーである。ジョーディーは父親から赤い小馬ギャビランをもらうが、この小馬は雨にぬれたのが原因で腺病にかかり、手術されたりのどを切られたりした末に山ににげて死んでしまう。これが「贈りもの」である。ジョーディーの農場の西には大きな山々が連なっている。ジョーディーは山脈の中とそのかなたに強いあこがれをもっている。ある日一人のアメリカ・メキシコ混血農民の老人が故郷の地であるジョーディーの農場へやってくるが、受け入れられず、翌朝ジョーディーの農場の老いぼれ馬を盗んで山の中に消えていく。これが「大山脈」である。
龍口直太郎は「これは無邪気(利己的な無知)から経験(愛他的な知恵)への移行−一つの現実への手引き−といってよかろう」(『赤い小馬』龍口直太郎訳 旺文社文庫、四三二頁)と定義している。死についてのイニシエーションである。
『赤い小馬』は子どもが主人公であり、大自然が舞台であるため抒情味があり、現実の酷薄な面を特に強調するところはない。だが、話の筋道で必然的にえがかれる死や、生と死のアイロニイには、子どもの文学では、特に第二次大戦前のそれではえがいていない厳しさがある。ジョーディーは、自分の小馬の手術に手をかさなくてはならない。
「ジョーディーが小馬の頭をもち上げ、喉をピンと張ってささえていると、ビリーは手さぐりで適当な場所をあちこちとさがした。ジョーディーは一度、キラキラ光るナイフの先が喉の中に消えていくときすすり泣いた。小馬は弱々しくとび退いたが、それからはげしく身をふるわしながら、じっと立っていた。血がドクドクと流れ出てきて、ナイフをつたい、ビリーの手を横切って、彼のシャツの袖の中に流れこんだ。」(旺文社文庫、四九頁)
こんな手術にもかかわらず、小馬は馬小屋を抜け出ていってしまう。
「目の下の、ホウキスゲに囲まれた狭い空地の一つに赤い小馬が横たわっていた。遠くからでも、彼の脚がゆっくりと、けいれんしながら動いているのが見えた。そして、彼のまわりには、ハゲタカが円をえがいて集まり、かならず来ると思っている死の瞬間を待ちかまえていた。/ジョーディーはとびはねるようにして前方に乗り出すと、丘を夢中でかけ降りた。ぬれた地面が彼の足音を消し、ホウキスゲが彼の姿を隠した。彼がそこに着いたときには、すべてが終わっていた。最初のハゲタカが小馬の頭にとまり、ちょうどそのくちばしをもち上げたところだったが、目の黒ずんだ液体がその先端からポタポタ滴っていた。」(同前書、五四頁)
死や別れが子どもの心の成長の節になることは、児童文学においてもしばしば見られるが、そのえがき方は、スタインベックほどではない。ワイルダーが一九三九年に発表した『シルバー・レイクの岸辺で』は、主人公ローラの父が家族を後に残して西部に出発するところからはじまっている。父親が馬車で出発したとき、ローラは自分が小さな女の子でないことに気づく。
「いま、ローラはひとりぼっちなのです。自分のことは自力でやっていかなければならないのでした。自力でやらなければならないときには、自分ひとりでやりとおす。それがひとり立ちというものなのです。ローラはまだそう大きくはないにしても、もうじき十三歳になるのでしたし、もうここにはよりかかれる人は誰もいはしないのでした。とうさんとジャックはいってしまい、かあさんは、メアリイと幼い子どもたちの世話をするにも、汽車で西部までなんとかたどりつくにも、どうしても手助けがいるのでした。」(恩地三保子訳、福音館書店、二六〜七頁)
ここで、父親とならんで名前が出ているジャックとは犬のことである。この犬はインディアン・テリタリイにいたときも、オオカミの出没するところでも、一家を守り、暮しを手助けしてくれていた犬であったが、老衰で死んでしまう。だがその描写は、
「翌朝、ローラが、ランプのともった下の部屋へおりていくと、とうさんは外仕事をしに出ていくところでした。とうさんがジャックに声をかけたのに、ジャックは動かないのです。
そこには、冷たくこわばったジャックの亡骸が、毛布の上にまるくなっているきりだったのでした。」(同前書、二五頁)
と、簡単であっけない。
『赤い小馬』もワイルダーの連作も、大不況のただ中で生まれた文学である。機械文明と大企業による生産が多くの人間を不幸にしていく過程で、新しい政治、経済形態としての社会主義が希望の星と見なされ、巨大な資本主義を生んだアメリカが改めて問い直された時期であった。『赤い小馬』には、祖父の時代まで現実であった完き自由と平等の国と、苦渋に満ちた三〇年代の現実のはざまに成長する人間の姿がある。そして、それはワイルダーの作品の背後にも存在している。
同じ状況の下で、子どもの成長の姿を追いながら、大人の小説では死やさまざまな悲惨が大胆にえがかれ、子どもの文学では、なぜそれらが避けられるか。これはもうわかりきったことであり、だれでも一、二の答えをもっていると思う。そのわかりきったことを整理することに、私は児童文学の児童像の変化のかぎがあると考えている。
対比の意識
原因の第一で根本的なことは、読者が納得するかどうかである。たとえば、善玉は必ず悪玉に勝つということがチェスタートンのいうように、「架空の人物が自由自在な役割を演じるある種の理想的世界に対する単純な要求は、立派な芸術の諸法則よりはるかに深遠で古くまたはるかに重要なもの」であるとするなら、これは人間の本能的欲求といえるものであり、善玉が勝たない作品を人間は納得しない。だが大人は、現実に悪玉がしばしば勝つことを知っているから、心中おだやかでなくても、悪玉の勝利を理解する。子ども、特に幼ない子どもはそれを理解も納得もしない。人生をはじめたばかりの子どもにとって、悪玉の勝利は生きることへの挑戦であり本能的な反発をまねくことなのである。だから、『赤い小馬』が子どもの文学であったならば、小馬ギャビランは回復するのが当然であったろうし、かりに死んでもワイルダーの犬のように死後「楽しい猟場」へ行ったといえる一種のすくいが必要だったろう。理性、感情を含めて、子どもが納得しないものを書いても意味はない。
大人の子どもに対する思いやりが苛酷な描写を避けさせる場合がある。アメリカの作家スティーブン・クレインは短編小説にしばしば子どもを登場させ、たとえば、一九〇一年の『こげ茶色の小犬』では、泥酔した父親が木賃アパートの五階の窓から少年の愛犬を投げすてて殺す場面を通じ、貧困問題を追究しているが、これは読者が大人だから書けることである。現実にこの程度の父親はいくらでもいる。しかし、情緒的に不安定で振幅の大きい子どもたちに、ことさらそうした事実をえがいてみせることは、ときとして人間や世間に対して偏った見方を植えつける場合がある。
義務感からある種の素材を扱ってはならないと考える場合もある。この場合に、もっとも強く大人の善意の押しつけがあらわれる。
そして、もっとも大きな原因を、私は大人と子どもを対比的にとらえる児童観であると考えている。
表面的に見ると、児童文学の児童観は二つの思想的な流れに支配されている。一つは一八世紀にジョン・ロックを中心に生まれた経験主義にもとづく人間観である。認識が経験によって生ずるという考えが子どもに向かうと、教育、しつけなどになってあらわれる。そしてもう一つはコールリッジやワーズワス等ロマン主義文学者がいだいた人間観である。彼らは子どもが不滅なもののもっとも近くにいる、そして大人になるにつれてそれから遠ざかると考えた。この二つの児童観はおそらく一九五〇年あたりまで児童文学に絶大な影響力をもったといえる。教訓としつけの児童文学は一八世紀はもちろんのこと、一九世紀もかなり下って一八六八年の『若草物語』(オールコット)、一八八〇年の『ハイジ』(スピリ)、一八八三年の『ピノッキオ』あたりまでその跡をたどることができる。そしてその後、直接的な教訓としつけは姿を消すが、大人が子どもに向かうとき、子どもは成長の途上にある未成熟なものという不安はいつもぬけきらないから、今も第一の流れは底流として常に存在する。
第二の流れのもっとも輝かしい実例は、マークトウェインの『トム・ソーヤーの冒険』(一八七六)と『ハックルベリ・フィンの冒険』(一八八四)であろう。この二作が子どもを通じての大人及び社会への批判であることはだれしも認めることであるが、アメリカの学者ルイス・リアリの分析は、二作のその面を適確に指摘している。彼によれば『トム・ソーヤーの冒険』は三部から成り、一章から十章までは子ども独特の遊びをえがき、十二章から二一章までは成長する子どもと彼を待ちかまえる大人の社会の対比をえがき、二一章から三三章までは子どもによる試験的な大人のまねをえがき、その三部を通じて子どもの大人に対する優越性、つまり無邪気さの卓越性を訴えているとされている。『ハックルベリ・フィンの冒険』は世の中が提供することのできる自由に満足できない少年の物語と考え、結局はデモクラシイのさけがたいジレンマをえがいていると考えているが、ハックのうそをトムとちがい、野生動物の本能に立脚した、つまり自然と結びついたものとしている。マーク・トウェインは、自然に近い子どもほど金銭欲、権勢欲、迷信、偏見、野獣性をもたない、すぐれた人間であると考え、鋭く大人と対比させた。この児童観はややセンチメンタルではあるが、『ハイジ』にも『小公子』(バーネット夫人、一八八六)にもはっきりと見られる。ハイジも小公子セドリックも無邪気な心に神が宿り、それが世の中によい影響を与えるという考えにたっている。子どもは神殿に祭られるか、神殿に近い座を占めることになったのである。
当然、一方の極に、大人と大人の社会が据えられる。トム・ソーヤーやハックの国では、北部商工業資本が南部プランターを打倒して全国を市場化し、大企業が育ち百万長者があらわれる。黄金の神の支配時代である。ホレイショ・アルジャーが『おんぼろディック』(一八六七)でえがいた底辺からの出世が可能な時代であった。
バーネット夫人の生国イギリスでも、機械文明の発達と植民地の拡大にともなう富の蓄積を背景に、若者の可能性は無限にひろがっていた。ジム・ホーキンズの『宝島』の冒険は、ひじょうに現実的なことであったわけである。子どもの理想化と現実的な可能性が一つの児童像を形成していく。いかなる困難をも克服して未来を切りひらいていくヒーローとヒロインの登場である。絶海の孤島や戦場や未開の奥地やあるいは学校・家庭で、恐怖とたたかい怯懦を排し、不正を正し虚偽の妥協にのせられずに自らの道を切りひらく子ども像は、その後の児童文学の典型的児童となっていく。
大昔から、ふしぎなことがおこる架空の世界で、ひとりの英雄が超自然な力を発揮して幸福をつかむ物語がつくられていたという事実は、困難克服型の英雄が人間の本能の結晶であることの証拠であるといえるかもしれない。しかし、ほぼ一九世紀に至るまでの児童文学には、所属する階級内での立派な人間をめざす子どもはあらわれても、一九世紀後半の困難克服型の子どもは、あまり登場していなかった。大人たちが貴族の子ども、富裕な商工業者の子ども、農民の子ども、それぞれにちがった徳目や美徳を考え、子どもと大人の可能性があまり拡大されていなかったからである。イギリスの児童文学にまつわる記録などを読むと、神についての教えを守りながらおだやかに若い一生をおえた子どもや若者たちの姿がえがかれている。困難克服型のヒーローとヒロインは、西欧的エクスパンションを背景にして生まれた、時代の産物なのである。だから、その児童像はエクスパンションが続くあいだ登場している。
一九三〇年、イギリスのアーサー・ランサムは長いジャーナリスト生活から転じて児童文学を仕事とし『ツバメ号とアマゾン号』を発表した。これは、彼の少年時代の思い出と終生の趣味であったヨットと釣りをからませて生みだしたリアリスティックな休暇の物語である。ごくささいなことにも入念な神経をゆきとどかせて描写し、子どもの遊びを迫力あるドラマにした背後には、彼の、子どもと子ども時代への理解の深さが横たわっている。ランサムは、あそびで作ったのろい人形を火の中に落としてしまったときの子どもの恐怖と不安が、真剣に人を殺そうとはかって後にそれを反省した大人の恐怖や不安と変わらない重みをもつことを知っていた。だから、ごっこ遊びにすぎない子どもどうしの海戦や平和条約や無人島生活が、『宝島』以来の冒険精神を生き生きと表現しえたのである。ランサムがなぜ休暇物語を書いたかについて、現在手にはいる唯一の研究書『アーサー・ランサム』の著者ヒュー・シェリーは、「彼(アーサー・ランサム)は七五年の大半を休暇を待ちのぞむか、休暇を楽しむか、休暇を回顧するかしてすごしてきたからである」といい、ランサムの友人であるルーパト=ハート=ディヴィスは「彼の不滅のかたみである子どものための十二冊の本を生みだしたものは、文学者と学校生徒という二つの性格の融合であります。彼は、だれにも劣らず子どもがすきでしたが、度はずれてすきだったわけではありません。十二冊の本のあのたぐいない特質は、作者がつねに子どもの部分をもっていたという事実で、かんたんに説明がつくのです。」(『シロクマ号となぞの鳥』岩波書店、四八二頁)と指摘している。
ランサムはロシア革命や中国革命の特派員として活躍する、すぐれて活動的なジャーナリストであった生活よりも、知的好奇心のままに星を観察したり、地勢を調べたり、ヨットを走らせたりするくらしをリアル・ライフと考えていた。彼が大人の生活を悪とは考えないまでも、子どもの生活の方が生きる喜び、生命の充実感を与えてくれると考えていたことはまちがいない。彼が大切にしたのは、特に休暇の中の子どもたち、つまり大人になるための努力や大人の社会が侵入してこないときの子どもたちの生活である。彼の作品の中で、子どもの思考法、行動パターン、情緒などがえがけていて、それがときには大人への批判となり、読者に人生や人間を考えさせる機能を果たすことはあっても、元来それらが彼の創作のモチーフではない。ランサムは、大人のくらしと対極にある子どものくらしの一部の輝きを追ったのである。だから彼のえがいた子どもたちの生活は、彼の属する中産階級の子どもの現実生活ですらない。
ランサムより一、二年早く、ドイツのエーリヒ・ケストナーも、子ども群像をえがいた『エーミールと探偵たち』(一九二八)を発表した。田舎町に住むエーミールがベルリンに行く途中の汽車でお金を盗まれ、泥棒の後をつけたエーミールがベルリンの子どもたちの協力で泥棒をつかまえるスリルとサスペンスと明るい笑いに満ちた物語である。
ケストナーの子ども観は、第二次大戦後の作品『動物会議』(一九四九)が、子どもが大人を教育するという着想で創作されていることに象徴的に表現されている。彼は大人よりも子どもの正義感、勇気、廉恥心、心の痛みなどを高く評価し、子どもに自分と人間の未来を賭けた作家だった。だから、ケストナーの作品の登場人物たちは、理想的な子どもたちであって現実の子どもたちではなかった。『エーミールと探偵たち』や『エーミールと三人のふたご』(一九三四)に登場する子どもたちは、多くは気のきいた才はじけた子どもたちであり、しかも事にあたってひるまない勇気や不屈の正義感を発露させている。しかし、当時すでにドイツではナチズムに心酔して街頭でテロに狂奔していた若者がいたし、ドイツの子どもの中にも、のろい子、ぐずで臆病な子もたくさんいたはずである。ケストナーは暴力をふるう若者たち及び大人へのアンチテーゼとして、また子どもに内在するすぐれたものへの触発剤として理想の子どもを登場させたわけである。植田敏郎は『児童文学の世界』(日本児童文学学会編、ほるぷ出版、一九七四)で、つぎのように述べている。
「戦前(第一次大戦前−筆者)の社会のままではもうだめである、社会悪をやっつけるべきだ、それに対して頼りになるのは少年少女以外にはない、と、ケストナーは信じたのです。『エーミールと探偵たち』では、少年少女がグループとして頭を使い、勇気をふるって、この社会悪と対決しています。ただ、社会悪がどこにあるかを示しただけではなく、その社会悪を葬るところまでいっています。これは、おそらく少年少女文学でもはじめてでしょう。」(一七一頁)
ケストナーのねらいが社会悪ばかりでなく、政治悪つまりナチズムへの戦いであったことは多くの人びとが指摘し、それが正しいことは、文学者としてのケストナーの生き方が証明している。ただ、植田のいう社会悪の葬り方は理想的な方法であって、一九三〇年代のドイツの子どもたちの具体的行動には結びつけられないものであった。現実的指針ではなく理想とする精神を伝えるところに児童文学の迂遠さがあるのであろうし、そこでとどめたところにケストナーの非凡さもあるわけだが、それは、また、大人対子どもの対比の上に児童文学を創造する児童観の限界でもある。
子どもが大人社会に呑まれてもまれる姿は、ディケンズの時代からえがかれてきた。多くの児童文学作家がそれを知らなかったわけではない。無視したわけでもないだろう。しかし、彼らが子どもの悲惨や苦しみを百年間も子どものための作品に表現しなかったのは、結局は子どもを悲惨におとしいれる現実=大人の社会への批判であり、現実をはるかにとびこえた理想郷の表現を子どもの文学に見ていたからにほかならない。一九五〇年頃までの児童文学作家にとっての子どもは、だから彼らの人生の依りどころであり、生きる希望でもあったということができる。
彼らをこそ真のユートピアンというべきではないだろうか。大人対子どもの背後には物質主義、科学万能的考え、現実的欲望充足等に対する批判がある。子どもの現状改革の具体的アプローチは、ヨーロッパの児童文学が主として中産階級のものであった意識の限界もあって、えがかれることはなかったが、近代文明社会での理想的人間の追求があった。児童文学を理想主義の文学と考える見方は、大人対子どもという対比に立つ作品から生まれている。やがて、この児童観は徐々に崩壊あるいは変貌していくのだが、そのきっかけとなったのは、児童文学作家たちが触れないでいた子どもの現実の掘りおこしである。
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