『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)
社会の中の子ども
大人対子どもという対立を基調にした児童観は、児童文学に社会主義的な視点がはいりこむことによってくずれた。
児童文学の流れとして、貧しい家庭の子どもたちが主要な登場人物となるのは、例外はべつとして、一九三〇年代になってからである。そして、彼らに目を向ける推進力となったのは、共産主義あるいは社会主義思想をもつ作家たちであったといえよう。イギリスの歴史小説作家ジェフリー・トリーズは、オックスフォードのクイーンズ・カレッジ出身のエリートだったが、共産主義のプロパガンディストとしてスラム街にはいり、ソビエトのノンフィクション作家イリーンの作品に出会ったのをきっかけにして子どもの文学に手を染めはじめた。そのときの彼の児童文学観は、大人の文学に比較したとき子どもの文学は時代による価値観の変化にまったく鈍感であるから、それが是正されねばならないというものであった。その結果生まれたのが、ロビン・フッドを単なる義賊ではなく、権力に対する反抗の組織者とする『騎士たちに向ける矢』(一九三四)であった。それは、この時期のプロレタリア児童文学特有の、偏狭な善玉悪玉の対立抗争の類型を抜け出ることはできなかったが、小作料や教会の十分の一税に苦しみ反乱に加わっていく主人公の少年ディコンは、E・ネスビットの『たからさがしの子どもたち』(一九〇一)に登場するバスタブル家の子どもたちとも、ランサムの作品の主要登場人物ウォーカー家の子どもたちとも、さらには階級的偏見がないと賞賛されたケストナーの子どもたちとも、まったくちがう新しい児童像であった。トリーズはやがて初期の公式主義を清算し、イデオロギーや政治的プログラムが児童文学に生まな形で侵入することを否定するに至るが、時代に即応しつつ社会的存在としての子どもをえがく視点は鋭さを加え、イギリスの子どもたちに根強いファンをもつようになる。彼のえがく子どもたちが、もっとも読者の身近かに感じられているからであろう。
日本でトリーズにあたる文学運動を展開したのは、槇本楠郎や猪野省三であった。槇本は『プロレタリア童謡論』(一九二八)で北原白秋、三木露風、野口雨情、白鳥省吾などの童謡論を批判し、「彼等は現実の生きた子供を観てゐない。現実社会の隅々の子供をまるで観てゐないのだ。もし観てゐると云ひ得るなら、彼等は一部一階級の、しかも彼等の『可愛げな』子供をしか観てはゐないのだ。彼らの観念や概念を満足せしめる所の、即ちプチ・ブルジョア乃至プチ・ブルジョアの子供しか観ず、しかも子供と云えばそれが凡てであるかの如く考へ、またはそれをもって子供の代表者の如く考へてゐるのである。」と白秋たちの児童観を規定し、さらに言葉をついで「だが吾々は社会科学の教へるところによって、現在この社会での階級的対立をハッキリと認識し、また階級人の自覚を持つ。そしてこの社会は刻々に二つの階級に分裂し、その闘争は益々激烈に且つ尖鋭化しつつある事を意識する。と同時に子供の世界にも大なる亀裂を生じ、今やその天地はまさに二つに割けやうとしてゐる事を認識するのである。」と、子どもが階級的存在であり、階級による影響を直接受ける人間であることを主張した。
槇本の児童観及び児童文学論は、彼自身のプロレタリア童謡集『赤い旗』(一九三〇)、川崎大治との共編『小さい同志』(一九三一)ほか、いくつかの童話の理論的支柱となったが、槇本自身の警戒にもかかわらず、これらの韻文、散文はテーマのスローガン的アッピールの域を抜け出ていなかったし、むき出しの憎悪、単純な構成、平面的なキャラクターの造形等の欠点をもち、作品的には見るべきものとして残らなかった。だが、功罪ともに後の児童文学に与えた影響は大きい。プロレタリア児童文学運動は、子どもの生活の真実を、児童文学に一つ加えたといえる。千葉省三のえがいた回想と郷愁の中の子どもや、坪田譲治が把握しようと努めた理想の子どもも、真実の子どもに近づく努力であり、はっきりと進歩の軌跡の上にあった。しかし、
「――なにお! きさまのおやじは社会主義にかぶれたんだ。そのせがれが、そのおやじにかぶれるとはなにごとだ。社会主義は、村をさわがせるおにだ。おにを村から追い出すのは国家の義務だ。
――うそだ。
――なんだともう一ぺんいってみろ。この主義者づらはなんだ。
校長は、健二の鼻のあたまをひねって、ふりまわし、耳をつかんでつるしあげました。健二は、歯をくいしばってつるしあげられながら、校長の顔をにらめつけました。」(猪野省三『ドンドンやき』一九二九、三一書房版、日本児童文学大系(3))
といった文に見られる子どもの存在、つまりディケンズがはるか昔にえがいた子どもが、子ども向けの作品にあらわれた、それも偶然とか稀有の例外的に先駆的作品にではなく、文学運動の中からあらわれてきたことは、日本ではじめてであった。以後、日本の児童文学では、児童の把握において全き童心賛美や生活を無視した抽象的な子ども時代設定はなくなっていく。私は、子どもの現実を子どもの文学にもちこんで大胆にえがいたことを、プロレタリア児童文学の主張の、もっとも積極的な意味だと考えている。この、子どもにより一歩近づいた進歩が、リアリスティックな児童文学である戦後の作品群への礎石となった。
悪影響も、戦後にこだましている。子どもを階級の直接的影響下にある人間としてとらえた作品群は、読者を将来のプロレタリアの闘士にすることを窮極の目的としていたから、大人の階級的対立と闘争を子どもの生活の中に生まで持ちこんだが、対立抗争の原因や意義の説明はいっさい省略し、ブルジョアの大人と子ども、その手先とされる警官、教師などを悪玉とし、プロレタリアートを善玉としてとらえ、子どもの勝利あるいは勝利への確信を語った。彼らは、プロレタリアートの子どものために、つまり階級闘争の実態を体で知っている子どもたちのために創作したのであったから、闘争についての説明は不要だったかもしれない。しかし、説明のない卑俗な善玉悪玉の類型は、第二次世界大戦後創作されたリアリスティックな作品の基底に、民主主義勢力イコール善玉、アメリカ占領軍(後駐留軍)及びそれと結ぶ保守勢力イコール悪玉といった類型的思考を生む原因となった。そして、下層に位置する子どもの実態が、ほとんど常に闘争場裡で把握されたことは、戦後の子ども把握において、やはりほとんど常に対立抗争や批判の中でしか子どもをえがかない偏狭な文学を生む傾向を生んだ。
洋の東西を問わず、一九三〇年代にコミュニズムを基調にして創作された作品は、長い生命を保ちえないで終わり、ヒューマニスティックな、貧困への怒りや同情から創作したもの、言論弾圧をまぬがれるためにあからさまな主張をひかえたものなどが比較的に長く読まれることになったのは、児童文学を考える上でひじょうに興味深いことである。一九三七年にイギリスで発表されたイーヴ・ガーネットの『ふくろ小路一番地』、既出のケストナーの『エミールと探偵たち』(一九二八)、日本の川崎大治による『夕焼の空の下』(一九三八)『太陽をかこむ子供たち』(一九三九)などがその好例であろう。『ふくろ小路一番地』は、画学生としての作者がロンドンのスラム街で見た極貧層の人びとへの同情と、貧乏への怒りと、子どもたちへの感動をもとに創作したものであり、下層階級の生活がはじめて文学的な高みをもってえがかれたと高い評価を受けた。この作品の一大特徴は、社会正義の立場からえがかれているにもかかわらず、主人公一家の生活が政治的・経済的視点から把握され解釈されていなくて、暮しの出来事だけが人物とともにえがかれている点である。それは、反ナチの作家としてナチス抬頭期に子どものための創作をはじめたケストナーの作品に、当時のドイツの現実は表面的にはいっさい書かれず、物語が子どもの世界にのみ限られていることと呼応している。
こうした特徴は、おそらくその根底に、読者が子どもであるという配慮がある。その配慮がガーネットの場合、同情心あふれる周囲の人びとに見守られてくらす貧しい一家の、生活のディーテイルの描写となり、ケストナーの場合、この世を正す思想と行動の模索を子どもの世界だけで行なうことになった。その結果、ガーネットは、不幸な状態の子どもたちの事実を知らせ、彼らの物心両面の向上に寄与したいというモチーフをある程度実現させることができ、ケストナーは大戦中を通じて反独裁、反暴力の戦いの大きな力になることができた。その上彼らは、現在に至るまで多くの読者によろこびを与えつづけている。
すぐれた児童文学には、この<子どもへの配慮>をたくみにきかせたものが多い。メアリ・ノートンのファンタジー『床下の小人たち』の悲しさは、祖母の思い出話という形式をとることによって厳しさが和らげられているし、エリナー・エステスの代表作『モファットきょうだい』(一九四一)も、不況期の母子家庭を素材としながら、やはり回顧的なえがき方で柔らかな楽しい雰囲気をかもしだしている。
<子どもへの配慮>が生まれる原因は一、二すでにのべたが、子どもの知能・情緒の段階に対する配慮や児童観の問題ばかりでなく、もう一つ、大人である作者のモチーフにもその原因が含まれているのではないかと思う。それがあるからガーネットは不況の嵐にさらされた多くの人間が社会主義を未来の希望と考えたときに、彼女の正義感を政治的なプログラムや主張と直結させなかったのであったし、ケストナーも、物事が、現実の大人社会よりはすくなくとも理想的に解決できる子どもの社会をえがいたにちがいない。
しかし、ガーネットもケストナーも、現在からの批判をまぬがれることはできなかった。ジョン・ロウ・タウンゼンドは『ふくろ小路一番地』を一九六五年に
「わざとらしい思いやりがひじょうに強くて、感心しきれないところがある。ラグルズ夫妻は、外側から見おろされている。ラグルズという名まえや、作者が与えたごみくず集めとクリーニング屋という職業までが、この夫妻をこっけいに見えるようにしている。社会的な身分の高い人たちは、ラグルズ一家に親切すぎる。」
とのべて、この作品のプチ・ブル性を鋭く指摘した。
現在に至るまで、ケストナーほど悪評の圏外にいた児童文学作家はごくまれであるが、やはり時代であろう、猪熊葉子は、彼の『点子ちゃんとアントン』の末尾を引用しつつ、
「もしケストナーが、現実から眼をそらさず、人生の真実を凝視する作家であったら、おとなの責任をこのようにやすやすと棚上げして、地球をふたたび天国にしてくれなどと子どもたちによびかけることが、如何に非現実的な願いでしかないことを理解するにちがいない。ケストナーは結局のところ、子どもたちの夢をみたすふりをしながら、子どもの世界へ逃避してしまっているのではないか」(「児童文学とは何か」講座=日本児童文学(1)四八頁、明治書院)
と疑問を投げかけている。
こうした批評が、ある説得力をもつのは、我々の目の前にある、子どもをとりまく現実と、第二次世界大戦後の児童文学の変化が背後にあるからである。戦後ヨーロッパの児童文学作品のいくつかは、たしかにケストナーを牧歌的に思わせるし、子どもの現実をとらえようとした作品群は、ガーネットを一種のお嬢さま芸に感じさせてしまう。それでいて、ケストナーは日本ですら一向に衰えない根強い人気を維持しているし、ガーネットも相変わらず喜んで読まれている。
タウンゼンドや猪熊葉子の批評には現在がある。だが、ガーネットには労働者階級へのプチ・ブル的同情とだけでは含みきれないものがり、ケストナーには子どもの世界への逃避を超えるモチーフがある。子どもへの配慮につながる創作のモチーフが永続的な魅力を生むのであり、モチーフが、今日と子どもにかかわったときに、これからの子どもの文学が生まれるのだと思う。
テキストファイル化北原志保