『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)
変わりのない子どもたちーアメリカの場合
私たちはふだん、さまざまな見聞を通じ、イギリスは保守的な国で、アメリカは進歩発達の激しい国という固定した考えをもっている。だが、戦後から今日に至るアメリカ児童文学の児童像をざっと見たかぎりでは、むしろアメリカ児童文学の保守性を強く感じる。児童像が多少の変化はしめしながら、一九世紀以来決定的には変わっていないからである。
第二次世界大戦後しばらく目立ったのは、過去あるいは現在の、アメリカ各地を舞台にした作品であった。戦前、絵本でよい仕事をしていたロイス・レンスキーは、南北戦争後のフロリダを舞台に、開拓者の新旧交替のさまを『いちごつみの少女』(一九四六)にまとめて、ニューベリー賞を受賞した。ラザフォード・モンゴメリも『キルディー小屋のアライグマ』(一九四九)でカリフォルニア沿岸山岳地帯を使って、アメリカの一地方を活写し、賞こそ逸したが、ニューベリー賞次点を得ている。そしておなじ次点作『黄色い老犬』(一九五六)によって、作者フレッド・ギブソンは、一八六〇年代のテキサス州をえがいてみせた。めずらしいところでは、ニューメキシコ州がほとんどはじめて『やっとミゲルの番です』(一九五三、ジョゼフ・クルムゴールド)で子どもの文学の舞台に登場している。
アメリカの地方ものが、歴史的な過去をも含めてどっと出版された背景には、戦争後の人心が求める安らぎの場としての故国への回帰があるであろう。また、戦争によって国中の力が一つにまとまって機能したことから生じたアメリカ再認識の心情もはたらいていたにちがいない。そしてその心情は、民主主義のとりでとして自由世界を守り抜いた誇りと重なり、アメリカの偉大さを子どもに伝えたい心情につながっていったと思われる。なぜなら、これらの作品にはほとんど、アメリカ民主主義精神と、それを育ててきた人びとの生き方がえがかれているからである。
『キルディー小屋のアライグマ』は、動物好きのやもめの老人と少年少女の心の交流をあつかっていて、主義や思想にもっとも縁遠い種類の作品だが、それでも、
「ジェロームが百エーカーの山を買うまでは、イッピー一家はその山を自分の土地のように思って猟をしたり、わなをかけたりしたものだが、ジェロームが越してきてからは猟犬は家につなぎ、猟にはめったに出なくなった。よい隣人というものは他人のおせっかいをやいたり、呼ばれもしないのに他人の土地にはいったりしないもんさ、というのがジョブの考えだった。」(松永ふみ子訳、学習研究社版、三〇頁)
というアメリカ人の生き方の基本に触れている一節がある。『いちごつみの少女』は、この生き方の原則を理解しない隣人に手をやき、おだやかな交際を望みながらも、無法には妥協しない篤実な開拓一家の暮しがストーリーになっている。他人の権利を侵さないかぎりでの完全な自由、権利と自由の侵害との果敢な戦いが、『やっとミゲルの番です』の中で、徴兵がとりやめになるためには、
「世界中の情勢をよくすることで、英国や、ロシアや、中国と話をするよりほかはないんだ。そして、欧州にも、アジアにも、世界中のどこにもごたごたがなくて、軍隊なんか要らないようにしなければいけない。」(宇野輝雄訳、朋文社版、二六二頁、絶版)といった発言に通じている。(この作品のこうした言葉について、戦後のアジア地域でのアメリカ軍を侵略軍と規定する側から、アメリカ軍の本質をあやまり伝えるという批判が今もあるが、アメリカの児童文学界全体の考え方はこの作者に近いので、この作品だけを批判することはあたらない。)
こうした考えを基礎にしているから、登場する主要な子どもたちも素朴で積極的で勤勉で正義感が強い。『キルディー小屋のアライグマ』のエマルーはけんか相手とはとことん対決し、ペットのアライグマを殺した犬を猟銃で打とうとまでする反面、生きものを愛し好奇心旺盛である。『黄色い老犬』のトラヴィスは、父の留守を守り、熊や狼とすら身をもって戦い、最愛の生命の恩人の犬が狂犬病になったために殺さなければならないつらい思いまでしながら大人になっていく。五〇年代の主人公たちは苦難にめげず、民主主義理念の敵とは徹底的に戦う勇気をもち、しかも愛他心をもち、各自が自立して未来にのぞむ人間として登場している。その姿は、はっきりと、三〇年代のワイルダーが創造した子どもたち、また、キャロル・ブリンクが『風の子キャディ』(一九三五)でえがいた西部のキャディ・ウッドローンと濃い血のつながりをもっている。つまり、第二次大戦を経過しても、児童像は少しも変化していないのである。というより、特徴的なものがさらに強くなっている。つまり、正邪善悪の判断がいっそう明瞭になり、主人公たちは自らの判断に迷うことがないのである。『若草物語』の少女たちは日常生活次元ではあったが、ともかく自ら選択し判断した。「ハックルベリ・フィン」の善悪の判断の苦悩は有名である。しかし、二〇世紀以後、アメリカの児童文学の子供たちは、二者択一という心の苦悩を失ってしまっていた。これは、アメリカ人の心の底にある考え、つまりアメリカ民主主義が最高最良の政治理念であり、アメリカが理想的な国であるという考えにもとづいている。大人の文学の世界では、各時代、各時期に病根が指摘され鋭い批判があった。だが、子どもの文学には、批判のかなたの<あらまほしきもの>を志向する性質がある。いわは、たてまえの文学であって本音のそれではない。アメリカでは、そのたてまえが第二次大戦の勝利で歴史的にも承認されたわけである。だから、伝統的な児童像と、戦前までの判断の基準がそのまま通用するのも当然であったわけである。
この自信に満ちた行動的な児童像も、政治社会状況の変化や児童文学そのものにある進歩発展の道すじに従って徐々に変化する。なによりもまず、子どもの内面のこまやかな理解とその表現を、アメリカの児童文学は獲得した。一九五九年、山や動物にくわしいジーン・ジョージは、『わたしひとりの山』という作品で、都会をのがれ、ただひとり山中で原始的な生活を送る若者を一人称体で物語化した。都会と自然との対比もさることながら、一人の若者の孤独な暮しを、行動と独白と日記で綴った手法には、今までにない新鮮なデリカシイがあった。この傾向が一九六六年イリーン・ハントの、七歳から一七歳頃までに及ぶ少女の心の成長の物語『たゆまぬ道』、カニグズバーグの現代家出物語『クローディアの秘密』(一九六八)、ベッツイ・ベイアズの『白鳥の夏』(一九七〇)などにつながる。それぞれに、微妙にゆれ動く成長期の少女像がたんねんに浮き彫りされているが、年代が新しい順に日常的・瑣末的になり、活力と『若草物語』風な大目的を失っている。とくに子どもから青春期にはいろうとする一夏の、少女のあせり、不安などをえがいた『白鳥の夏』は、はっきりアメリカ児童文学の想像力の沈滞を示す矮小化した作品であり、主人公の形象に新しさがまったく欠けていた。
一九五八年の『からすが池の魔女』(E・G・スピア作)と一九六四年の『闘牛の影』(ヴォイチェコフスカ作)も変化を示す作品である。児童文学が確立して以来、主人公が精神的・思想的に少数派であり、圧倒的な多数派と対立する作品は、アメリカでは原則的になかったといってよい。なぜなら、主人公たちは、アメリカ民主主義精神の体現者か、そうでないときには学び手であり、未来の担い手であったから、多数派が当然だったわけである。『闘牛の影』では、たったひとりの男の子が町全体の親切と期待に抗して、自己の希望をつらぬこうとする。ともに良心と正義が少数派になった時期のアメリカをたしかにうつしているが、守勢の民主主義を、個人の良心と意志で守りぬく姿が現われたところに、大きな意義がある。だれもが承認する理念としての民主主義思想を、生活の場で個人が模索し確認しなおす姿勢がはっきりと見てとれるからである。
以上のような微妙な変化は認められるが、それは三〇年代の、そして五〇年代の児童像の根本的な変化ではない。六〇年代と七〇年代の子どもたちは、遊び、学び、労働し、戦うことがそのままアメリカの理想につながる幸福な時代を生きていないにしても、人間の基本的権利を侵さず侵されず、不正に対しては一歩もしりぞかずに戦い、自他を共に愛し、生活を拡大していくといったアメリカの生き方の根本はすこしも変わらずに受けついでいる。
根本の不変が、アメリカの児童文学の一大特徴といってよいかもしれない。同一言語のイギリスで、一般文学としか思えない作品が児童文学として登場しても、ドイツやフランスが高度に哲学的・抽象的な子どものための文学を生んでも、この国ばかりは、常に単純明快な作品だけを創造しつづけている。使用される語彙は読者の年齢を考慮してわかりやすく、文章も短い。筋は必要以上に決して複雑でなく、構成は序破急のバランスがとれている。そして、テーマは大人にも子どもにもほぼ全的に把握が可能である。
アメリカは、当初ヨーロッパの圧倒的影響下にありながら、みずからの必要から生み出した政治理想をもって国をつくった。そして、それ以後たえずヨーロッパと自国との対比の上に独自の文化、文明をきずきあげてきた。児童文学も例外ではなく、それは教育と歩調をあわせて、体験的に独自のものを創造した。だから、アメリカにおける「児童文学とは何か」は、実験と比較の積み重ねの上に生みだされた一つの結論である。そして、その根本的理念は、独立戦争、南北戦争、第一次・第二次世界大戦で正当性を確認されたものである。冷戦、ベトナム戦争、人種問題、企業支配等は、その根本をゆるがしたが、それが児童文学に本質的な変化を生むとは思えない。児童文学を支える思想は、理想の国づくりが理想的に進んだ時代に確立し、以後それがアメリカのたてまえになっているからであり、アメリカには今も正しい方向への復元力があるからである。アメリカで児童文学と児童像が変わるのは、政治形態が変わるとき以外にないと思われる。
テキストファイル化小澤直子